第二話「発酵魔法、初めてのパン」
グスタフの小屋を出て、村の中心部へと向かう。
ベルガルド村は、想像以上に貧しかった。
家々は木と藁で作られた粗末なもので、道は泥だらけ。すれ違う村人たちは皆、痩せこけて疲れた顔をしている。子供たちでさえ、笑顔が少ない。
「これが、辺境の現実か……」
前世で見たヨーロッパの田舎町とは、まるで違う。
ここには、絵本のような牧歌的な風景はない。ただ、生きるのに精一杯の人々がいるだけだ。
「おい、ケン。ついたぞ」
グスタフが指差したのは、村の中央にある石造りの建物。共同炉があるパン焼き場だ。
中に入ると、むっとした熱気と、かすかに焦げた匂いが鼻をつく。
「ここで村人がパンを焼くんだ。順番制でな。今日は誰も使ってないから、好きに使っていいぞ」
「ありがとうございます!」
石窯を見る。かなり古いが、しっかりとした作りだ。これなら十分使える。
「さて、材料は……」
グスタフが木箱から取り出したのは、粗挽きの小麦粉と、岩塩のかたまり、そして水。
「これだけだ。贅沢は言えねえぞ」
「十分です。あとは――」
俺は深呼吸する。
発酵魔法。まだ一度も使ったことがない。本当に使えるのか?
だが、脳内に流れ込んできた知識は確かだ。
「やってみるしかないな」
まず、小麦粉をボウルに入れる。水を加え、塩を溶かす。
そして、こねる。
前世で母に教わった記憶が蘇る。力を入れすぎず、優しく、リズミカルに。生地に空気を含ませるイメージで――
「ふむ、手際がいいな」
グスタフが感心したように呟く。
「母に習ったんです。昔、少しだけ」
十分ほどこねると、生地がまとまってくる。
さあ、ここからが本番だ。
「発酵魔法――【イースト・ブルーム】」
掌を生地にかざす。
瞬間、青白い光が生地を包んだ。
何かが生まれる感覚。微細な生命が、無数に湧き上がる――酵母だ。
「な、なんだこれは……!」
グスタフが目を見開く。
生地が、ゆっくりと膨らみ始めた。
ふわり、ふわり。まるで呼吸しているかのように。
「これが、発酵……」
俺自身も、その光景に見入ってしまう。
発酵魔法は、ただ酵母を生み出すだけじゃない。最適な温度に保ち、活性を最大化し、発酵時間を大幅に短縮する。
普通なら数時間かかる一次発酵が、わずか十分で完了した。
「信じられん……パンがこんなに膨らむなんて……」
「まだ終わりじゃないです。ここからが勝負」
生地を分割し、丸める。そして二次発酵。
再び魔法をかけると、生地はさらに大きく、柔らかく膨らんでいく。
よし、いい感じだ。
「石窯、温めておいてもらえますか?」
「お、おう……」
グスタフが慌てて薪をくべる。
しばらくして、窯の温度が上がったのを確認し、生地を中に入れる。
「あとは、焼き上がりを待つだけ――」
その時だった。
「あの、すみません! 今日、共同炉を使わせて――」
扉が開き、一人の少女が駆け込んできた。
年は十七、八くらいか。栗色の髪を後ろで結び、エプロン姿。活発そうな雰囲気だが、どこか育ちの良さを感じさせる。
「あ、グスタフさん! 今日は猟に出てないんですか?」
「おう、リーゼ。今日はこいつの手伝いでな」
リーゼ――村長の娘だと、グスタフが小声で教えてくれた。
「こいつ?」
リーゼが俺を見る。その瞳は、好奇心に満ちている。
「初めまして。ケン・サトウです。旅の者で――」
「わあ、黒い髪! 珍しい! 東方の人?」
「え、ええ、まあ……」
「それで、何してるんですか? パン焼いてるの?」
「ああ、この若造が変なパンを作るって聞かなくてな。まあ、見てろよ」
その瞬間。
石窯から、芳醇な香りが漂い始めた。
「――!」
リーゼが、動きを止める。
「この、香り……」
小麦が焼ける香ばしさ。バターを使ってないのに、どこか甘く、温かい。
それは、この世界の誰も知らない、本物のパンの香りだった。
「できた……!」
石窯を開ける。
そこには、黄金色に輝く、ふっくらとしたパンが並んでいた。
「嘘……」
リーゼが息を呑む。
「こんなパン、見たことない……」
「さあ、冷める前にどうぞ」
一つ取り出し、手で割る。
湯気が立ち上る。中はふわふわで、柔らかい。
「食べてみてください」
リーゼに差し出すと、彼女は恐る恐る受け取った。
そして、小さく齧る。
――沈黙。
彼女の目が、大きく見開かれた。
「……美味しい」
小さな声。
「美味しい、美味しい……!」
涙が、頬を伝う。
「こんなに、柔らかくて、温かくて……パンって、こんなに美味しいものだったの……?」
彼女は両手でパンを包み込み、まるで宝物を抱くように。
「あたし、十八年生きてきて、こんなパン、一度も食べたことなかった……」
グスタフも、無言でパンを頬張っていた。
その目には、明らかな驚きと、そして――懐かしむような光。
「……昔、まだ王都に住んでた頃、一度だけ食ったパンの味に似てる。いや、それ以上だ」
「グスタフさん、王都に?」
「昔の話だ。忘れろ」
そっけなく言うが、その表情は柔らかい。
「ケン、お前……本当に、凄いパンを作るんだな」
「いえ、まだまだです。もっと美味しくできるはず」
俺は残りのパンを見つめる。
確かに、前世の記憶と比べれば、まだ改良の余地がある。材料も道具も限られているし。
でも――
「喜んでもらえて、良かった」
それだけで、十分だった。
誰かが笑顔になる。それが、こんなにも嬉しいことだなんて。
ブラック企業で忘れていた感覚が、胸の中で温かく広がっていく。
「ねえ、ケン!」
リーゼが顔を上げた。その目は、キラキラと輝いている。
「このパン、村のみんなに食べさせてあげたい! いいよね?」
「もちろん。そのために作ったんですから」
「やった! じゃあ、あたしも手伝う! 材料集めるから!」
リーゼは勢いよく駆け出していく。
その後ろ姿を見ながら、グスタフが肩を竦めた。
「あいつ、村長の娘なのに、すぐ暴走するからな。まあ、悪い子じゃないんだが」
「いい人ですね」
「ああ。この村で一番、心が綺麗な子だ」
グスタフは、少しだけ寂しそうに笑った。
「だからこそ、心配なんだがな……」
「え?」
「いや、何でもない。それより、ケン。お前、本当にこの村でパン屋をやるつもりか?」
「はい」
「……この村は貧しい。誰も金なんて持ってない。パンを売っても、儲けなんて出ないぞ」
「大丈夫です。最初は無料でもいい。まずは、みんなに美味しいパンを知ってもらうことが大事です」
「無料? お前、商売する気あるのか?」
「ありますよ。でも、急ぐ必要はない。信頼を積み重ねて、少しずつ広げていけばいい」
前世の経営知識が、自然と口をつく。
ブランディング。口コミマーケティング。顧客満足度の最大化。
そういった知識が、今ならちゃんと活かせる気がする。
「変な奴だな、お前」
「よく言われます」
二人で笑う。
その時、石窯の中で何かが弾ける音がした。
まだ中に、パンが残っている。
「さあ、もっと焼きましょう。この村の人たち全員に、食べてもらいたいから」
「……ま、手伝ってやるか。暇だしな」
こうして、俺たちは日が暮れるまで、パンを焼き続けた。
小さなパン焼き場に、香ばしい香りが満ちていく。
それは、ベルガルド村に訪れた、小さな奇跡の始まりだった。
夕暮れ時。
村の中央広場に、人が集まっていた。
「なんだ、この香りは……?」
「リーゼお嬢が、何か配ってるって」
村人たちが、好奇心と警戒心を混ぜた表情で集まってくる。
「はい、どうぞ! 新しいパンです!」
リーゼが、バスケットからパンを配っていく。
最初は疑わしげだった村人たちも、一口食べると――
「――!」
「これは……!」
「なんて、柔らかいんだ……」
驚きの声。感動の涙。笑顔。
それが、広場に広がっていく。
「美味い……本当に美味い……」
「こんなパン、生まれて初めてだ……」
「神様が作ったパンみたいだ……」
老人が、涙を流しながらパンを頬張っている。
子供たちが、目を輝かせて笑っている。
母親が、幼い子にパンを分け与えている。
その光景を、俺は遠くから見ていた。
「……これだ」
胸が熱くなる。
「これが、俺のやりたかったことだ」
誰かを幸せにすること。
笑顔を作ること。
それが、生きる意味だったんだ。
「ケン!」
リーゼが駆け寄ってきた。
「見て、見て! みんな、すっごく喜んでる!」
「ああ、見てるよ」
「これ、毎日作れないの? お願い! みんな、きっと待ってる!」
その真剣な瞳を見て、俺は頷いた。
「わかった。毎日焼こう。この村のために」
「本当!? やった!」
リーゼが飛び跳ねる。
その無邪気な笑顔が、夕日に照らされて輝いていた。
ああ、この世界に来て良かった。
心からそう思えた瞬間だった。
だが、俺はまだ知らない。
この小さな成功が、やがて大きな波紋を呼ぶことを。
村の外から、様々な思惑が近づいてくることを。
そして――リーゼの背負う、重い運命のことを。




