第3話
今日は授業が午後からということもあり、午前の間に藤井さんの大学へと赴いた。
この間はたまたま出くわす形で会うことができたけれど、毎回そううまくはいかない。
彼女の学部も時間割も知らなければ、このキャンパスの見取り図だって分からない。
何だか敵陣のような気の抜けなさがあった。
闇雲に捜し回ってもらちが明かないため、ひとまず学生課に立ち寄ってみる。
「すみませんが、個人情報なので……」
せめて学部さえ分かれば、とささやかな期待を込めて尋ねてみたものの、いとも簡単に打ち砕かれた。
担当者の男性は困ったような表情を浮かべるけれど、そのスタンスは固く一貫しており、どんなに食い下がろうと徹底して教えてくれなかった。
当然と言えば当然だ。
学生のプライバシーを守る義務を全うしているだけ。
それでも、どうしたって落胆ともどかしさを禁じ得ない。
うなだれながら学生課を出たとき、ふいに声をかけられた。
「あの……」
どこか遠慮がちなその声に顔を上げると、見知らぬ女子学生が立っていた。
「由乃なら、もう辞めましたよ」
馴染みのない響きに一瞬戸惑ってから、それが藤井さんの下の名前だったことに思い至る。
そんな一拍を経てから驚愕が降ってきた。
「辞めた……!?」
「はい、就職決まったから。由乃から聞いてないですか? あれ、知り合いなんじゃ……?」
そう言われて思い出した。
確かに藤井さん自身、大学を辞めて就職することになったと語っていた。
だけど、まさかこんなタイミングでいなくなってしまうなんて。
「その就職先とか聞いてないですか? 家の住所とか!」
思わずまくし立てるような勢いで尋ねると、彼女は気圧されたのか、どこか引きつった笑みで首を傾げる。
「さ、さあ? これ以上は分かりません。ごめんなさい」
後半は目も合わせることなく言いきると、会釈を残して駆けていってしまった。
不審がられたかもしれない。
いまのはきっと藤井さんの友だちなのだろう。
彼女も学生課から出てきたようだったから、わたしが藤井さんについて問い合わせているのを偶然聞いて、好意で教えてくれたのだと思う。
何だか悪いことをしてしまった。
(でも、どうしよう。これじゃ藤井さんに会えない)
真相へと近づくための、唯一にして最大の活路だと思ったのにあっけなく空振った。
あの様子では藤井さんの友人から連絡先を聞くことも難しいし、サイコメトリングしようにも藤井さんの持ちものなんて残っていないだろう。
彼女がやってのけたみたいに、地道にSNSの海から見つけ出すしかないだろうか。
あるいは同級生だった西垣くんならコンタクトを取れるかもしれない。
そんなことを考えながら、藤井さんの大学をあとに学校へと向かった。
「あ、紗良ちゃん」
講義室を目指す途中の階段で、西垣くんに声をかけられる。
挨拶を交わすなり、わたしは藤井さんのことを彼にも伝えた。
「このタイミングで辞めたって……逃げたんじゃないの?」
あからさまに怪訝な様子で眉を寄せる。
いっそう疑惑を深めたみたいだ。
「西垣くんがそう思うってことは、とっくに警察も怪しんでるよね」
「だろうね。何にしても、藤井さんの行方探すのは警察に任せるしかないか」
「それなんだけど、西垣くんは藤井さんの連絡先とか知らない?」
「あー……うん、ちょっと前から消えてた。ブロックされてると思う」
苦い表情で言う。
いわく、メッセージアプリから何度かメッセージを送ってみたものの、返信はおろか既読すら一向につかないらしい。
SNSに至ってはアカウントごと削除されていると言う。
「そっか……」
一筋縄ではいかない現実にため息がこぼれた。
藤井さんに会うことさえできれば、一気に真相に近づけるのに。
扉が見えていても、その取っ手に手が届かないようなもどかしさを覚える。
完全に端緒を見失ってしまった。
講義を終えて大学をあとにすると、西垣くんと一緒に莉久の病院へ行くことにした。
依然として眠り続ける彼は口をつぐんだまま。
だから、せめてわたしが真実を見つけて無念を晴らしたいという思いが強まっていた。
そうすれば、莉久も意識を取り戻して還ってきてくれるかもしれない。
100年の眠りから、王子さまがお姫さまをキスで目覚めさせたみたいに。
院内の廊下を進み、エレベーターに乗り込む。
ふたりになると、おもむろに西垣くんが口を開いた。
「無理してない?」
ひときわ優しい声色を受けて「えっ?」と思わず聞き返す。
「だって通い詰めなんでしょ。その上、学校とバイトも……紗良ちゃんまで倒れちゃうよ」
「あ……ううん、大丈夫。莉久が目を覚ましたとき、そばにいたいから」
そして、思いきり抱き締めたい。
失った“当たり前”を取り戻して、こんな日々を遠い過去にするために。
「ありがとう、心配してくれて」
そんなやり取りを経て病室へたどり着くと、西垣くんが取っ手を掴んだ。
そのまま横に引いた彼ははたと動きを止める。
どうしたんだろう。
肩越しに室内を覗くと、薄暗い中で何かが動くのを捉えた。
「莉久……!?」
はっとして病室へ飛び込んだ。
彼の意識が戻ったのかと、ついに起きてくれたのかと心臓が高鳴る。
だけど、目に入ってきたのは信じられない光景だった。
「藤井さん?」
うごめいた人影の正体は彼女だった。
眠る莉久の首に両手をかけたまま、わたしたちを見つめて呆然と硬直している。
その瞳はおののきと動揺で揺らいでいた。
「何、を────」
しているのか。するつもりだったのか。
想像することさえ恐ろしくて、驚愕と衝撃に支配された脳は完全に思考停止状態だった。
混乱が突き抜け、言葉を失って動けないでいるうちに再び藤井さんが動く。
「……っ」
弾かれたように床を蹴り、わたしや西垣くんを押しのけて病室を飛び出していった。
「おい、待てよ!」
ひと足先に衝撃から立ち直った西垣くんが、慌ててそのあとを追う。
わたしも気づいたら走り出していた。
突き飛ばされた勢いで壁に打ちつけた背中の痛みも一切感じないまま。
廊下に出たはいいものの、左右を見回してもどちらの姿もない。
どこへ行ってしまったんだろう。
そう思ったとき、悲鳴にも似た甲高い声が響いてくる。
「いや! 離して!」
藤井さんだ、と思った頃には再び駆け出し、角を曲がっていた。
警備員に取り押さえられて暴れる彼女と、それを慎重に眺めている西垣くんが目に入る。
「西垣くん!」
「あ、ああ……」
ふと我に返った様子だった。
ただ事じゃない事態を察したのか、彼が示したのか分からないけれど、警備員が先んじて動いてくれたのだろう。
近くで待機していたらしい警察もすぐに駆けつけ、間もなく藤井さんは大人しくなった。
抵抗を諦めたように見えるものの、その表情は強張ったまま。
うつむきながら連行されていく背中を認め、わたしは慌てて踏み出した。
「待って……」
吸い寄せられるように手を伸ばす。
触れなきゃ────その一心に突き動かされていた。
行方を晦ませたと思っていた彼女がまさかここに現れるなんて思わなかったけれど、恐らくこれが最後の機会だ。
いまを逃して藤井さんが捕まりでもしたら、きっと二度と会えない。
真実が分からなくなる。
「待って、藤井さん!」
「紗良ちゃん」
半ば取り乱しながら駆け寄ろうとしたものの、西垣くんに行く手を阻まれた。
その間にも彼女はどんどん遠ざかっていく。
「待ってよ!」
彼を押しのけて行こうとしたのに、逆に上腕を掴まれる。
その肩越しに見送るほかなく、あまりのもどかしさに唇を噛んだ。
やがて彼女が見えなくなると、恨めしさからつい西垣くんを睨めつける。
「何で止めるの」
「そっちこそどうしたんだよ。なに焦ってんの?」
戸惑いをあらわに手がほどかれる。
「だって……!」
「冷静になれって。あいつ、莉久の首絞めようとしてたんだぞ。ほかに凶器でも隠し持ってたらどうする? 自棄になって、紗良ちゃんに襲いかかってたかも」
返す言葉もなくて、きつく口を結んだ。
彼が心配してくれていることは承知しているし、その危機感は正しいと分かっている。
だけど、それでもどうしたってやりきれない。
真相へたどり着く最大のチャンスだったのに、みすみす棒に振った気分だった。
そこで、はたと思い出したかのように心臓が冷える。
息をのんできびすを返した。
「莉久……っ」
彼は無事だろうか。
心の中を直接かき回されるような憂いが膨張していく中、病室へ帰り着くと駆け込んだ。
状態を確かめてくれていたのだろう看護師さんがひとり、ベッドの傍らに立っている。
わたしに気がつくと、聴診器を外しつつ微笑んだ。
「大丈夫ですよ、脈拍も正常です。大事に至る前に気づいてくれたお陰で間に合いました」
それを聞いた途端、強張りがほどけて膝から崩れ落ちそうになった。
たたらを踏んで「よかった」と深く安堵の息をつく。
本当によかった。
何事もなく、無事でいてくれて。
────看護師さんが出ていくと、病室には莉久とわたし、西垣くんが残った。
窓際に立っていた彼が訝しげにこちらを向く。
「……ねぇ、さっきはどうしたの?」
藤井さんに触れようと躍起になっていたことを、改めて疑問に思った様子だ。
わたしは莉久に目をやったまま膝の上で拳を作る。
油断していた。
真犯人が明確な悪意や殺意を蓄えていながら仕損じたことを思えば、莉久の居場所を特定し次第、とどめを刺しにくるリスクはずっとあったはずなのに。
だけど、少なくとも今回のことに関しては藤井さんの意思ではないだろう。
「わたし、やっぱり藤井さんが真犯人とは思えないの」
「え?」
「藤井さんが庇ってる、免許証の持ち主が黒幕。その人に脅されて従ってるなら、このまま警察に連れて行かれても、代わりに罪を被るか黙秘し続けるんじゃないかな。でも、それじゃ解決しないから……」
それこそ、莉久が目覚めてくれない限りは。
そう思ったとき、西垣くんがベッドの反対側に回り込んだ。
柵に手を置いて不可解そうな眼差しを向けてくる。
「言いたいことは分かるけど……説明になってないって。藤井さんに何しようとしてたわけ?」
「それは────」
どう説明するべきか瞬間的に思考を巡らせたとき、着地する前にノックの音が響いた。
扉の方を向くと、遠慮がちにスライドして正木さんが姿を現す。
「……少し、いいですか」
3人でラウンジへと移るも、正木さんは険しい面持ちで立ったままだった。
おもむろにわたしたちに向かって頭を下げる。
「今回のこと……病室に藤井由乃の侵入を許したのは我々の失態です。本当に申し訳ない」
突然の謝罪に驚いて、思わず西垣くんと顔を見合わせる。
彼はそろそろと顔をもたげ、言葉を繋いだ。
「それでも、最悪の展開を未然に防いでくれたことに感謝しています」
とても手放しで喜べる状況ではないものの、そればかりは幸いと言えた。
本当は怒るべきなのかもしれないけれど、何だか気が抜けてそんな気にはなれない。
正木さんの誠意を素直に汲むことにした。
「……藤井さん、どうなるんですか? 最初に莉久を襲ったのも彼女だったってこと?」
西垣くんが不機嫌そうに尋ねる。
彼としては、莉久の安全をおろそかにした警察に憤りつつも、どうにか抑え込んだ結果なのだろう。
「いえ。我々の見立てでは、藤井はあくまで協力者といったところです。主犯は別にいて、彼女は利用されたに過ぎないでしょう」
「そいつは?」
「藤井の周辺を当たれば絞れるかと。おふたりも、何か気になることがあれば教えてください。どんな些細なことでも」
腰を下ろした正木さんは、言いながら前のめりになった。
その双眸が鋭い眼光を帯びる。
「……あの」
気づいたときには、口をついていた。
「免許証のことは調べてますか?」
「……免許証、ですか」
「はい。藤井さんが莉久の家から持って帰ったものなんですけど……たぶん、彼女のじゃないです。莉久のものでもないと思う」
もしあれが莉久のものだったとしたら、わざわざ藤井さんに回収させる意味も必要もないだろう。
そう言うと、正木さんは真剣な表情で手帳を取り出した。
何やら書き込んだかと思えば、ぱらぱらとページをめくって内容を検めている。
そのとき、ふいに左腕を掴まれた。
もの言いたげな様子の西垣くんと目が合うと、咎めるような眼差しを寄越される。
「……何で言うんだよ」
「だって────」
「なぜ」
抗議の小声とわたしの反駁は、正木さんの声に遮られた。
ふたりして顔を上げる。
「いままで、そのことを黙っていたんですか?」
「あ……その、大した情報じゃないかなって。ね?」
「あ、ああ。うん……」
警察に告げるのを西垣くんに反対されていたこともあって、何となく彼を窺ってしまった。
先ほど非難した通り、なぜかやっぱり納得いかないみたいで眉根を寄せている。
だけど、正木さんの反応からして、きっとわたしたちは間違っていた。
例の免許証のことを、警察はまだ掴んでいなかったのだろう。
黙っていたことで、結果として捜査を遅らせてしまっていたかもしれない。
「それだけですか?」
正木さんの声がいっそう鋭くなり、つい怯んだように戸惑ってしまう。
何も悪いことなんてしていないのに、どうしてこういうときって後ろめたさを感じるんだろう。
けれど、その目が捉えていたのは、わたしではなく西垣くんだった。
「……何で、俺に聞くんですか」
彼は目だけを動かして、一見毅然と聞き返す。
膝の上できつく握り締めた両手に内心の動揺が現れていたものの、正木さんの位置からは見えないだろう。
それでも見抜いているかもしれないけれど。
「いえ、別に」
正木さんは事件当初のような、うわべだけの笑みを微かにたたえる。
真意をすべて覆い隠しながら、手帳を閉じて立ち上がった。
「ともかく、藤井の身柄を押さえたことで解決に一歩近づいたと言えるでしょう。免許証の件も詳しく詰めてみます」
「お願いします」
思わず腰を浮かせかけると、正木さんはしっかりと頷いてくれる。
「ええ、お任せください」
◇
今日は朝から、西垣くんの姿が見えなかった。
ここのところ遅刻することなく授業に出ていたのに、時間になっても講義室に現れなかったのだ。
結局そのまま昼休みを迎えたものの、やはり彼が来ている気配はなかった。
(どうしたんだろう)
病院で様子がおかしかったのと関係しているんだろうか。
あのとき、あからさまに不自然な態度に様変わりした彼は何かに焦っているようだった。
そんなに免許証のことを証言して欲しくなかったのだろうか。
学食で昼食をとりながら、西垣くんに思いを馳せる。
思考がぐるぐる巡って、だんだん淘汰されるみたいに澄んでいく。
────思えば、おかしなところが少なくなかったかもしれない。
今日は休んでいるものの、急にまじめに学校へ来るようになったり、例の免許証のことを証言するのに消極的だったりしたこともそうだ。
それに、バイクのことだって妙だった。
あれ、と思う。
そういえば、西垣くんがバイクに乗らなくなったのは事件後からじゃなかっただろうか。
どうしてだろう。
乗りたくない、もしくは乗れない理由がある?
そこまで考えてはっとした。
点と点が線で繋がったかのようなひらめきが降ってくる。
(免許証……!)
免許証をなくしたせいで、乗ろうにも叶わないのかもしれない。
『気分転換だって。それに夜道は危ないからさ。ちゃんと紗良ちゃんのこと送り届けないと、俺が莉久に怒られるし』
『何それ』
あんなのはでまかせで、だからこそその話題を振ったときに様子がちがっていたんだ。
それに、藤井さんが莉久の家から持っていった免許証は確かに“男の人”のものだった。
『そいつが莉久の家に来て、忘れていったか落としていったか……みたいな感じか』
西垣くんならありうる。西垣くんのものだとしたら、まったく現実的だ。
驚くほど辻褄が合っていた。
けれど、ふと莉久のスマホをサイコメトリングした折の記憶が蘇ってくる。
彼は誰かとぶつかったみたいだった。
そのとき、地面に散らばった荷物の中に例の免許証があったかもしれない。
その相手が西垣くんだったのだろうか。
そのときは急いでいたとか何らかの理由があって立ち去ったものの、莉久に免許証を拾われたことにあとから気がついた?
犯行後だったら、身が擦り切れるような危機感を覚えたはずだ。
そんなものが莉久の家にあったら真っ先に疑われる。
だから、藤井さんを使って回収しようとした。
彼女と高校時代から交流があった西垣くんは、たとえば彼女の弱みを握っていて、それを出しに脅して利用したのかもしれない。
藤井さん自身が語っていた万引きの件は、十分その材料になるだろう。
彼女を脅迫している時点で、主導権は真犯人の方にある。
思い返してみれば当初、西垣くんはしつこいほど藤井さんを疑っていた。
もしかすると、印象操作やミスリードしたい目的があったのかもしれない。
藤井さんを犯人に仕立てあげれば、自分は逃げおおせるから。
(じゃあ、西垣くんが……)
今日来ていないのは、まさか逃げたせい?
正木さんの追及に焦燥を煽られて怯んだとか────。
「二見さん」
憶測が深みに入り込んだとき、ふいに名前を呼ばれた。
学食は喧騒にあふれているはずなのに、その声は不思議とはっきり聞き分けられた。
「正木さん……」
スーツ姿の彼は、ここにいると先生みたい。
まさか刑事だなんて周囲の誰も思わないだろう。
会釈しつつ歩み寄ってくると、空いていた向かい側の椅子に腰を下ろした。
おもむろに懐から警察手帳を取り出し、テーブルの上に置く。
「あの……?」
「今日ここへ来たのは、刑事としてではなく個人的な判断です。いまからする話も埋め合わせで、ただの自己満足だと思って聞いてください」
妙な前置きをされて、何だか身構えてしまいながら続きを待った。
彼は真剣な表情で言葉を繋ぐ。
「現在、高原さんを刺殺しようとした容疑者として、西垣翔太に嫌疑が向けられています」
「えっ」
心臓が音を立てた。
まさか、警察も同じ見解だとは思わなかった。
「実はですね、事件前に高原さんとの間にトラブルがあったみたいなんですよ。詳細はまだ言えませんが。それと、目撃情報が上がってきたんです」
「もしかして、あの日……?」
「ええ。事件当日、現場付近で自宅と反対方向へ向かう西垣の姿が目撃されていました」
瞬きも呼吸も忘れたまま、正木さんの話に引き込まれる。
思わぬ事実に肌が粟立った。
「それから、藤井が興味深い証言をしまして」
「どんな?」
「事件後、西垣が何度か藤井に接触を試みていたそうなんですよ。理由については、彼女は“分からない”と言ってましたが」
「…………」
それを聞いたとき、ふと胸の内に一滴の黒い雫が滴ってきた。
真っ白な表面に浮かび上がる染み。
それは、事実を“真実”として鵜呑みにしようとしていたわたしの目を覚まさせた。
しなっていた理性が首をもたげてきて、ブレーキをかける。
広がる染みの正体は、違和感と言ってもよかった。
「とにかく、西垣には任意で同行を求めて、今朝から署で話を聞いているところです」
だから、今日は学校へ来ていなかったんだと腑に落ちる。
逃げたわけではなかった。
「ここまでの証言と目撃情報からして、西垣はかなり黒い。偽証も明らかになったことですし、間もなく犯人として逮捕されるかと思います。なので────」
そこでふいに言葉が切られたかと思うと、彼は再び懐へ手を入れた。
その手にはスマホがあって、取り出されたお陰でそれが振動していることにわたしも気がつく。
素早く立ち上がると「ちょっと失礼」と耳に当てながら離れていった。
思わず深く息をつくと、わたしは複雑な心境で目を落とす。
正木さんはきっと、彼なりの誠意で捜査状況を打ち明けてくれたのだろう。
最初に言っていた通り、事情を鑑みて、刑事としてではなくいち個人としてわたしに向き合ってくれた。
埋め合わせというのも、藤井さんを病室へ立ち入らせて莉久を危険に晒してしまった、その失態に対してなのだろう。
本来なら、犯人が特定されて逮捕間近だなんてこの上なく喜ばしい状況だ。
最初からその結果を目指してきたはずで、願ってもみない展開。
だけど、色々な意味で釈然としない。
そのせいで途中から感情が置き去りになっていた。
まさか西垣くんが莉久を殺そうとするなんて────とか、そんな衝撃にも至らないのは、そもそもその結論が腑に落ちないからだ。
彼こそが真犯人だったんじゃないか、というのはわたし自身が考えた可能性でもある。
だけど、正木さんの話と併せると確信が乏しくなった。
染みを、違和感を無視できない。
眉根に力を込めたとき、通話を終えた正木さんが戻ってきた。
ため息混じりに再び椅子に座る。
「……先ほど、西垣を一旦帰したそうです。ただ、容疑については終始否認していたとか。偽証の理由も“疑われたくなかったから”だそうで」
疑われたくなかったから、たとえば“その日はずっと家にいた”だとか適当に嘘をついたのかもしれない。
けれど、目撃証言が上がったことで破綻した。
その結果、墓穴を掘ってかえって疑惑を深めてしまったのではないだろうか。
確かに怪しいところが少なくないと思う。
だけど、そもそも通報者は西垣くん本人だった。
結果的にとはいえ、言わば莉久の命の恩人。
疑われたくないがために偽証までしたのに、彼が犯人だとしたら通報なんてするだろうか。
それに、元より顔見知りである以上、莉久との繋がりも明白だ。
それなら、わざわざ免許証を回収させる意味もないような気がする。
先ほど正木さんが言っていたことも、不自然と言わざるを得ない。
もともと藤井さんと共犯関係にあったのなら、事件後から接触を試みるなんて妙だ。
────抱いた違和感を裏づけるような反証が、あとからあとから湧いてくる。
やっぱり納得できない。
西垣くんはきっと、犯人じゃない。
「厄介ですが、ここまで来たら今度は任意じゃなく引っ張ることになるかも……」
「あの、すみません! わたし、失礼します」
トレーを持って慌てて立ち上がる。
戸惑ったような正木さんの声にも振り返ることなく学食を出た。
西垣くんは犯人じゃない。
そう思っても、いまはまだ憶測や直感といった不確かないち意見でしかない。
警察全体の見解が正木さんの言葉通りなら、その一員である彼に伝えても意味がないだろう。
少なくとも、現状の流れを覆すには事実である前提が必要だ。
つまり、西垣くんが犯人ではないという確証が。
わたしにはそれを得る手段がある。
彼本人の言葉にも、客観的な推測にも頼らず、ただ事実だけを知る唯一の方法。
心臓が早鐘を打つのを感じながら、てのひらを見つめた。
“記憶”は思い出すたびに歪んでいくもの。
だけど、眠っているそれは嘘をつかない。
頭の中に、ものに、宿った思念の欠片をかき集めれば自ずと真実は明らかになる。
西垣くんには忘れられてしまうとしても、このまま真相が歪曲していくよりましだ。
もう、賭けるしかない。
固く意を決すると、彼に電話をかけた。
「もしもし。西垣くん、いまから会える?」
◇
一度、自宅へ戻ってから来ると言う彼を、正門付近のベンチで待っていることにした。
電話越しにも疲弊しているのが分かるほどの空元気だったけれど、ひとまず会えそうでよかった。
そのとき、ふいにスマホが震える。
画面には見慣れない電話番号が表示されていた。
一瞬、訝しんだもののすぐに思い至る。
これは確か病院の番号だ。
以前、莉久のお見舞いに行ったときに連絡先を伝えたのだった。
もしかして、ついに彼が目を覚ましたのだろうか。
とっさにそうよぎり、心臓をどきどき高鳴らせながら応答する。
「もしもし」
『二見さんですか。すみません、至急お伝えしたいことが……』
「どうしたんですか?」
電話口の向こうは慌ただしく、看護師と思しき女性の声も切迫していた。
莉久が目覚めたような喜ばしい雰囲気はなく、殺伐とした不穏な予感が渦巻く。
『高原さんの容体が急変しました』
病院に駆けつけると、莉久の病室の前でひとりの看護師さんが待っていた。
恐らく電話をくれたのは彼女だ。
「あの、莉久は……!?」
「いま先生が診てます。落ち着いて、ここで待っていてください」
いまにも飛び込む勢いだったけれど、両肩を掴んで制されたことで諦めるほかなかった。
心臓が暴れたまま、呼吸が整わないまま、みるみる指先が体温を失っていく。
何があったんだろう。
どうして急にこんなことに?
ぐるぐる不安が巡っては、目眩を覚えてその場にしゃがみ込む。
看護師さんが支えてくれても、あえなく身体が沈んだ。
(お願い……。お願い、無事でいて)
きつく両手を握り締めて必死に祈る。
────永遠のような時間を経て、ほどなく病室の扉が開いた。
「先生! 莉久は……」
思わず縋るように駆け寄ると、白衣をまとう先生は柔らかく笑んだ。
「大丈夫です、状態は安定しました。ひとまず心配いりません」
張り詰めた状況を抜け出したようで、深々と安堵の息をつく。
緩やかに身体の強張りがほどけていった。
「何があったんですか? どうして急にこんな……」
もしや、藤井さんが仕損じたことで今度こそ真犯人が出張ってきたのではないだろうか。
自らの手で莉久の息の根を止めようと、点滴に妙な薬剤でも混入させたとか────なんて恐ろしい想像は、先生が即座に否定してくれた。
「正直、そう深刻になるほど珍しいことではありません。生理的変動による一時的な急変です。軽度なもので早く処置できたので、後遺症などの心配も無用です」
ただでさえ冷静さを失っている頭では、言っていることの半分も理解できなかったけれど、とにかく問題はなさそうでほっとした。
要するに、体内の水分や電解質のバランス、血圧なんかの調整に失敗し、身体の循環機能が一時的に乱れたということだそうだ。
迅速な対応を施してくれたお陰で事なきを得た。少なくとも今回は。
何度もお礼を告げてから、病室に足を踏み入れる。
眠る莉久の顔色は当初のようにどこか青白く、まだ呼吸が浅いのか息遣いまで聞こえた。
じわ、とひとりでに涙が滲む。
ほっとしたやら恐ろしいやら、このわずかな間で揺さぶられた心が随分とすり減った。
傍らの椅子に力なくへたり込むと、いまにもあふれそうな涙を拭う。
「……っ」
莉久のことはもちろん常に心配だった。
毎日、寝ても醒めても心の底から案じ続けていた。
けれど、どこか油断していたのだと思い知らされる。
そのうち当たり前に目覚めるものだとばかり────そう信じたいがために高を括っていたんだ。
凄惨な事件に巻き込まれても、命だけは助かったという事実に甘えていたのかもしれない。
いまになって初めて危機感や絶望を抱いた。
突然、莉久が襲われて日常が一変したように、本当にいつ何がどうなってもおかしくないのだ。
明日があるとは限らない。
そんな当たり前の前提を忘れていた。
“平穏”に縋ってあぐらをかいていたのだと自覚する。
いつ終わるとも知れない、幻想でしかなかったのに。
「……ごめん。ごめんね、莉久」
心から告げると、涙が頬を伝って落ちた。
「これからはもう離れないから。莉久が目を覚ますまで、わたしがそばにいる」
片時も離れることなく見守っていたい。
────そう思う傍ら、ひときわ冷静な自分が“でも”と唱える。
でも、そもそも彼が目を覚ますこと自体、確約された希望じゃない。
無秩序な現実にただ身を委ねることの脆さを思い知ったところだった。
もし、このまま莉久が目を覚まさなかったら。
そんな可能性は考えたくもないけれど、莉久のためにできるのはやっぱり、彼をこんな目に遭わせた犯人に正当な裁きを下すことだけなのではないだろうか。
突如としてわたしたちの時間を奪った犯人には、相応の報いを受けさせないとわたしとしても気が済まない。
────たぶん、そんなんじゃいつまでも真相になんてたどり着けないんじゃないかな。
────俺は本気で犯人見つけたいと思ってるから。
以前、西垣くんに投げかけられた言葉が耳の奥でこだました。
「…………」
本当はとっくに分かっている。わたしがやるべきこと、言わば課せられた使命。
あとはただ、気持ちに折り合いをつけて受け入れるだけだということも。
だけど、簡単に割り切れるわけがなかった。
莉久に忘れられたくない。
ふたりの時間や関係を終わらせたくない。
そう思ってしまう。
残酷な別れを強いられる謂れなんてないはずだ。
ぎゅう、とてのひらを握り締める。
葛藤と躊躇ごと握り潰してしまえたらいいのに。
そのときだった。
ふいに、扉の向こう側が騒々しくなる。
揉めるような声が聞こえてきて、訝しく思いながら立ち上がる。
およそ病院という場所に似つかわしくない怒声につい警戒心を募らせつつ、そっと隙間を開けて覗いてみる。
「何でだよ。会わせろよ!」
「いまは無理です。お引き取りください」
病室の前でそんな押し問答を繰り広げているのは、なんと西垣くんだった。
藤井さんの一件を受けて、莉久の警護に当たってくれているのであろう警察官に制されている。
「西垣くん!」
驚き混じりに扉を開けると、苛立っていた様子の彼が我に返ったのが見て取れた。
むきになっていたことを恥じたのか、ばつが悪そうにくしゃりと髪をかき混ぜる。
「……ちょっと、話せる?」
そう声をかけて歩み寄ると、こちらを向いた彼からこくりと頷きが返ってくる。
わたしは警察官に会釈しつつ、西垣くんを伴ってラウンジへ向かった。
「あのさ、俺……本当にやってないんだよ」
椅子に腰を下ろすなり、彼は身を乗り出す。
「莉久を殺そうとかマジでありえない。だって親友なんだよ? 俺にとってどれだけ大きい存在か────」
「分かってる。分かってるから、確かめさせて」
必死に訴えかけるのを宥めるように告げると、目を瞬かせる西垣くん。
一拍置いて戸惑いをあらわにした。
「確かめる……?」
「西垣くんが持ってるもの出して。その鞄の中身も」
空いた椅子に乗せられていた通学用のリュックを指す。
彼自身に触れる前に、持ちものからサイコメトリングしておきたい。
それで事実を掴めれば、わざわざ忘却という代償を負うまでもない。
「……いいよ、見られて困るもんなんてないし。凶器でも出てくれば御の字だろうけどさ」
彼はそう言って、おざなりにリュックを卓上に置いた。
「ありがと。でも、そんなこと思ってないって」
あからさまに意地悪な言葉を受けて肩をすくめるも、西垣くんは信じていないようだった。
実際、そういう意味で持ちものを調べたいわけではないのだけれど、彼の置かれた状況を鑑みれば、そうとしか受け取れないだろう。
ファスナーを開けると、中身をテーブルの上に並べていく。
教材、ペンケース、財布、鍵など、さして特異なものも怪しいものもない。
それから思い出したように「あ、これも」とスマホが置かれた。
「ね、ほら。これで安心?」
そんな声を耳に、スマホを手に取ってみる。
あの日の記憶が眠っているのなら、わたしに見せて欲しい。
そう期待を込めると、果たして指先が痺れた。
頭の中に映像が流れ込んでくる。
────手元のスマホのロック画面表示。
日付は事件当日、時刻は“18:12”となっている。
蛍光灯が灯る一室で、数人が談笑していた。
そんな中、テーブルに広げていたパソコンを閉じた西垣くんが立ち上がる。
彼は室内にいた面々に声をかけてからドアを開けた。
どうやら、いまのはスタッフルームだったみたいだ。
恐らく彼のバイト先である古着屋だろう。
そこで、ふっと意識が現実へ引き戻される。
「……何してんの?」
怪訝そうな眼差しを注がれていることに気づいたものの、見て見ぬふりをした。
あれこれ説明する前に、続いて鍵に触れてみる。
────アパートと思しき玄関先。
ドアを開けた西垣くんがシューズボックスの上に鍵を置いた。
その傍らにあるデジタル時計は“18:23”を示している。
彼の家だ、と思い至ると同時に一瞬ノイズが走り、西垣くんが再び玄関に現れる。
靴を引っかけて鍵を掴むと、慌ただしく家を出ていった。
時刻は“18:47”となっている。
そこでヴィジョンが途切れ、わたしは小さく息をついた。
(……いまのって、さっきの続き?)
あの事件の日、バイトから帰宅した西垣くんの一連の行動を垣間見たことになる。
鍵を戻すと彼に向き直った。
「ねぇ、警察には何て証言してたの? 嘘がバレたって話だったけど」
「……知ってたんだ。正木さんから聞いたのか」
「いいから教えて」
西垣くんは背もたれに体重を預け、重たげに口を開く。
「バイトから帰ってからはずっと家にいた、って。莉久を見つけたのはコンビニに行こうとしたときにたまたまだ、って……」
やっぱりそうだったんだ。
ひとえに疑われたくないがために、適当なでまかせを口にした。
ただ、目撃されたのは自宅ともコンビニとも別方向だったのだろう。
「それ、ぜんぶ嘘なんだよね? 本当は何してたの?」
「……忘れもの、取りに行ってた」
目を伏せたまま端的に答える。
眉を寄せつつ「忘れもの?」と聞き返すと、彼はおもむろにペンケースを引き寄せる。
中からUSBメモリを取り出した。
「これ。次の日がレポートの締め切りだったけど、まだ半分も書けてなくて」
ふと、先ほど読み取ったヴィジョンがよぎる。
「そっか、バイトの休憩中にも書いてたんだね。それでUSBメモリをそこに忘れてきた」
「そう……。結局終わんなくて、徹夜でやるしかないって思って。けど、帰ってからUSBメモリがないことに気づいたんだ」
慌ただしく家から出ていったのは、だからだと腑に落ちた。
「ちょっと借りていい?」
彼の手からUSBメモリを取ると、指先に電流のような衝撃が訪れる。
脳裏にヴィジョンが流れ込んできた。
────暗い部屋。
輪郭だけの世界を、ものの濃淡が立体的に形作っている。
恐らく先ほども見た古着屋のスタッフルームだ。
室内も店内も明かりが消えていて、足元もおぼつかない中で数人の人影が忙しなくうごめいていた。
ほかの従業員だろう。
そんな中、スマホのライトを頼りに西垣くんが歩き回っている。
テーブルの下を覗き込んだとき、ちょうどUSBメモリが照らし出された。
それを回収すると、最初と同様にすれ違ったほかの従業員に挨拶を交わし、店を出ていった。
そこで残像が潰えて、現実へ立ち返ってくる。
慎重に西垣くんを見やった。
「あの日、停電でもあったの?」
そう尋ねると、驚いたように目を見張る。
「何で知ってんの? それも正木さんから?」
「ううん、そういうわけじゃないけど……。どうして停電してたの?」
「あー、何か店のブレーカーが落ちたらしい。古い建物だし、原因は色々考えられるだろうなって感じ」
西垣くんは苦い顔で腕を組んだ。
停電自体に誰かの作為的なものは感じられない。
「バイト先と西垣くんの家ってどれくらいの距離?」
「歩いて10分くらいかな」
「バイト先から莉久の発見された現場までは?」
「えーっと、どうだろ……。20分とかそれくらいじゃない?」
無意識にかかとを浮かせながら、立て続けに質問を投げかける。
「じゃあ、USBメモリを取ってお店を出るまでの時間は?」
「んー、普通は5分もかからないと思うけど。店の中は停電でバタバタしてたし暗くて探すの手間取ったから、そのときはもっと長くなったと思う。……え、てか何これ? 取り調べ?」
西垣くんが茶化すように笑った。
最初の時点でわたしが全面的に疑いを向けたり非難したりしなかったことで、精神的に余裕が出てきたのだろう。
一方のわたしには、それに乗るゆとりなんてなかった。
「わたしは本当のことを知りたいだけだよ」
「……うん、ごめん。俺ももう嘘つかないから」
一瞬肩をすくめ、それから気を引き締めるように背筋を伸ばした。
確かに、ここまで来ていまさら誤魔化すようなこともないはず。
ヴィジョンから読み取った情報と併せ、妥当性の高い推測を構築していく────。
犯行推定時刻は18時半から19時半の間という話だった。
西垣くんがバイトを上がって最初にお店を出たのは18時12分。
残像の中で見えたから間違いない。
それから現場へ向かったのだとしたら、確かに時間に矛盾はない。
けれど、先ほど見た記憶からしても彼自身の発言からしても、忘れものを取りにいったという話は事実。
「忘れものを取りにいってたってこと、警察には言わなかったの?」
「もちろん言ったよ! 言ったけど、信じてもらえなかったんだよ」
勢いよく反駁したものの、だんだん萎んでいってうつむいた。
防犯カメラとかは、と言いかけてはたとひらめく。
(……停電)
不運にもちょうどそのタイミングと重なってしまったせいで、裏が取れないんだ。
その場にはほかの従業員もいたけれど、復旧作業に追われていた様子だった。
暗くてよく見えない中、交わした言葉が挨拶だけなら、記憶に残らなかったのも頷ける。
だから、第三者の証言も期待できない。
一度、嘘の証言をしていた手前、はじめから疑ってかかられるのは仕方がないと言えた。
色々な理由が重なって立証できないでいるのだろう。
つまり、客観的な事実として彼を守ってくれるアリバイがない。
だけど、見た以上わたしには信じられる。
忘れものを取りに家を出た時刻は18時47分。
約10分後に停電中のバイト先へ到着した。
それから再びお店を出たのは、少なくとも19時過ぎだろう。
通報は19時半頃だった。
そこから現場へ向かったとしたら、着いてすぐ犯行に及んで、間を置くことなく通報したことになる。
それは現実的にありえない。
(時間的に、西垣くんに犯行は無理だ)
また、立証できないことを理由に忘れもの云々の証言を無視して、18時12分にバイト先を出たとする。
そこから犯行に及んだとしたら、そのあとなぜわざわざ通報しに現場へ戻ったのか説明がつかない。
たとえば“罪悪感に苛まれたから”とかだとしたら、そもそも自首しているはず。
やっぱり、彼は犯人ではない。
「じゃあ……莉久とのトラブルっていうのは?」
それを受け、西垣くんの瞳が揺らぐ。
言葉を探すように視線を彷徨わせ、ややあって紡いだ。
「俺さ、ここのところずっと……何て言うか態度悪かったじゃん。莉久にも紗良ちゃんにも散々迷惑かけて」
「あ……それは、そう、だね」
そんなことないよ、とはさすがに言えず、正直に頷くと彼は微妙な調子で苦笑する。
「そのことを莉久に注意されたんだよ。酔ってふらふら遊んでばっかいた俺に、本気で怒ってくれた」
わたしの知る範囲だけでも、確かに彼は近頃かなり堕落していたと思う。
周囲が呆れたり敬遠したりする中、莉久だけは見放すことなく真剣に向き合おうとしていたんだ。
いかにも莉久らしい。
「でも、俺……マジで余裕なくて。彼女と別れたばっかだったし、学校とかバイト先でいろんなミスが重なってもういっぱいいっぱいでさ。自暴自棄になってたんだよな」
「そうだったんだ」
「だからひねくれて、あいつの言葉まともに取り合わなかった。それどころか、勝手にムカついて喧嘩になってさ」
何となく想像や理解の及ぶ話だ。
人望が厚く優等生の莉久は、わたしからしても基本的に何事もうまくいっているように見えた。
そんな彼が投げかけた言葉の数々は、心配であれ優しさであれ、どん底にいた西垣くんにはストレートに響くものではなかったのだろう。
瞬間的に劣等感を覚え、嫌味なんかを返したことで口論に発展したのかもしれない。
「酔いが覚めて、だんだん冷静になってきて後悔したんだ。あいつにまで愛想尽かされたら何も残らないって気づいて。……ここまで俺のこと考えてくれてる友だち、ほかにいない」
「だから────“親友”なんだね」
「うん。少なくとも俺はそう思ってる」
莉久のことだから、きっと彼も同じだろう。
西垣くんを簡単に見放したり諦めたりしない。
「だから、謝りにいこうとしたんだ。あの夜、直接言わなきゃと思って、あいつの家に行こうとしてたんだけど」
「……もしかして、そのときに莉久を見つけた?」
はっと思い至って尋ねると、果たして首肯が返ってくる。
USBメモリを回収したあと、その足で莉久の家へ行こうとした。
恐らく目撃証言というのはこのタイミングなのだろう。
だから、自宅と反対方向へ向かう西垣くんの姿が目撃されていたんだ。
その道中で、倒れている莉久を発見して通報した。
そういうことなら辻褄が合う。
事件後、打って変わって真面目で方正になったのは、莉久との間でそんなやり取りがあったからだったのかもしれない。
こうなったからこそ、いっそう彼に言われたことが響いて心を入れ替えた。
莉久が目を覚ましたとき、がっかりさせないように。
「じゃあ、藤井さんとのことは? 西垣くんが会いたがってたみたいなこと聞いたけど」
「それは……紗良ちゃんに免許証のこと聞いたから」
彼はどこか言いづらそうに答える。
「どういうこと?」
「実は、俺もちょうど免許証なくしてて。もしかしたら、藤井さんが回収したやつが俺のかもって思ったから」
「そうだったんだ……。じゃあバイクに乗らなくなってたのも、本当はそれが理由なんだね」
「うん……乗れなかったんだよ」
“免許不携帯”という違反そのものより、それが露呈してからの追及を恐れたんじゃないだろうか。
下手に捕まると、莉久の事件との関連を見出して詮索されかねない。
疑われたくない、という気持ちがずっと根底にあったから、悪目立ちするような行動を控えていたのだろう。
ふらふらと遊び歩いていた彼が、それこそ落とすか忘れるかで紛失した免許証を、莉久が拾っている可能性は確かにあった。
それが藤井さんの手に渡ったことで、彼女に追い詰められるか脅されるかという事態を危惧した西垣くんは、だから藤井さんに直接、免許証のことを確かめようとしたんだ。
だけど、彼女が回収した免許証は西垣くんのものではなかったはず。
彼が真相を突き止めるべく躍起になっていたのは“莉久のため”という思いと、自分自身の潔白を証明するためという理由があったのだろう。
「でも、誓って俺じゃないから。莉久を襲ったのも、藤井さんが庇ってる相手も」
「……そうだね、西垣くんはちがう。わたしは信じるよ」
迷いなく頷いてみせると、彼は一瞬、呆気に取られたようだった。
信じるにしてもわたしがここまで潔いとは思わなかったみたい。
「そう……そうだよ、ちがうんだよ。俺がやるわけない」
何度も頷きながら強く繰り返し、ふいに力が抜けたみたいに背もたれに沈んだ。
うつむいて深く息を吸うと、噛み締めるように言う。
「……ありがとう、信じてくれて」
実のところ、かなり追い詰められて焦っていたんじゃないだろうか。
本来頼れるはずの警察に一様に疑惑を向けられ、無実を証す根拠も自分の中にしかなくて。
ふと、正木さんの言葉が頭をよぎる。
─────ここまでの証言と目撃情報からして、西垣はかなり黒い。偽証も明らかになったことですし、間もなく犯人として逮捕されるかと思います。
このまま彼が捕まってしまえば、藤井さんともども“身代わり”にされる。
真犯人が逃げおおせる。
もう、あとがないんだ。
莉久が目覚める希望を諦めたくはないけれど、悠長に待っている余裕はない。
思わずきつく両手を握り締めたとき、西垣くんが顔を上げた。
「でもさ、何で? 何で俺の言うこと信じてくれたの?」
彼にしてみれば当然の疑問だろう。
願ってもみないけれど、同時に不思議でもあるはず。
「確かに言葉だけだったら迷ってたかもしれない。でも、わたし……」
一度、口をつぐむと目を落とした。
西垣くんこそ信じてくれるだろうか。いや、信じてもらうしかない。
テーブルの上で手を組み、意を決して顔をもたげた。
「実は、事件のあとから不思議な能力を使えるようになったの」
思わぬ言葉だったようで、彼は困惑気味に目を瞬かせる。
「不思議な能力?」
「うん。触れたものからヴィジョンを見る……“サイコメトリー”ってやつ」
突拍子もない話をしている自覚はあったものの、紛れもない事実なのだから仕方がない。
衝撃を受けた様子でほうけていた西垣くんは、卓上に並んだ私物とわたしの間で視線を行き来させ、ようやく我に返った。
「じゃあ、さっき触れてたのは……」
「そう、情報を読み取った。それで確信できたの。西垣くんは犯人じゃない、って」
マジかよ、と掠れた声で呟くと、じっとわたしを見つめてくる。
やっぱり信じがたいだろうけれど、衝撃を受けつつも即座に笑い飛ばすことなく取り合ってくれた。
「え、でも……じゃあ、莉久に触れればいいんじゃないの? 人に触れても読み取れるんだろ? そしたら犯人分かるじゃん」
案の定と言うべきか、投げかけられたのは真っ当な提案だった。
眉を下げつつ肩をすくめる。
「そうなんだけど……人に対してサイコメトリングするには代償が必要で」
「何それ。どんな?」
「相手の中にある、わたしにまつわる記憶が消える」
西垣くんが動きを止めた。
さすがに予想外だったのか、口を開けたまま押し黙っている。
「厳密には“記憶”って言うより、それこそ“残留思念”なんだと思う。触れた相手のわたしに対する想いとか思い入れとか感情とか……そういうのがぜんぶ消えて忘れられる」
「そんなの……惨すぎるだろ」
やがてぽつりとこぼされたひとことは虚空に溶けた。
改めて言葉にしてみると、自分でも苦しくなってくる。
だけど、割り切れなくても覚悟を決めるしかないような状況に置かれているのは確かだった。
このままだと西垣くんが捕まってしまう。
それは彼の人生が狂うだけでなく、真相が闇へ葬られることを意味していた。
「警察もあてにできないんだもんな。莉久が目覚める可能性に賭けて、暢気に構えてる余裕はない」
「そう……。だからわたし、莉久に触れようと思う」
西垣くんと顔を合わせた時点で、そう言おうと決めていた。
きっと、それ以外に真実へたどり着く方法はないから。
「え、ちょっと待って。嘘だよな? そんなことしたら莉久に……」
「忘れられちゃうね。でも、わたしはぜんぶ覚えてるから。絶対忘れない」
「だけどさ、そんなのって……あんまりじゃん」
「そうだね、本当に。救いようがない。それでもわたしは決めたの。自分じゃなくて莉久のことを一番に考えたい。いままで、ずっと莉久がそうしてくれてたみたいに」
代償と天秤にかければ、迷うまでもなく切り捨てるべき選択肢。
だけど、すべてを知るために芽生えた能力なのだとしたら────。
迷いも葛藤もわたしのわがままでしかない。
真相を明らかにするべきだ。
莉久の無念を晴らすためにも、彼にとって大切な親友である西垣くんを救うためにも。
わたしという存在が莉久の中から消えるのは、必ずしも不幸とは言えないかもしれない。
根本から抹消されるなら、最初からなかったことになるのなら、未練も絶望も生まれないから。
わたしたちが出会っていなかった、あの頃へ戻るだけだ。
「でも……!」
何度目かの“でも”を繰り返した西垣くんは、けれど先を続けられないで苦しげに口を結ぶ。
さすがにこれ以上何を言ったところで、わたしの決断は覆らないと察したみたいだ。
不安や不満の滲む表情でうつむく彼に、思わず小さく笑った。
「ありがとう。西垣くんがそこまで思ってくれてるだけで、何か救われた」
「紗良ちゃん……」
思い返してみても、彼はこれまで莉久やわたしのことを心から思いやってくれていたような気がする。
弱いばかりに自分本位な嘘をついたりもしたけれど、その思いやりには一時も偽りなんてなかった。
「ひとつだけ、お願いがあるんだけど」
そう切り出すと、西垣くんが前傾姿勢になる。
「なに?」
「莉久が目覚めたとき、わたしを忘れてたら……そのまま何も言わないで欲しい。わたしのことは何も」
無用な混乱を煽るような真似をして、莉久に負担をかけたくない。
事件が解決して、彼が目を覚まして、同じ世界で息をする、それだけでいい。
それだけで十分、幸せだと気がついた。
「…………分かった」
葛藤するような沈黙を経てから頷いてくれる。
いまにも暴れ出しそうな感情に蓋をして目を背けていた。彼もわたしも。
小さく息をつくと、背もたれにもたれかかる。
ひとりでに疑問が口をついた。
「何で……わたし、最初に“恋人”だって言えなかったんだろう」
────おふたりは高原さんとどういったご関係で?
正木さんにそう問われたとき、とっさに同級生だと答えていた。
訂正する機会は何度もあったのに、タイミングを逸したふりをして結局いままで言い直さなかった。
「……俺と同じじゃない? 疑われるかも、って無意識のうちに考えて誤魔化したみたいな」
「そう、なのかな」
きっと、そうじゃなくて単に自信がなかったんだと思う。
胸を張って堂々と恋人だと名乗れるほど、莉久のことをちゃんと理解できているのかどうか。
『えー、じゃあ莉久はその能力欲しくない?』
『うーん、欲しいとは思わないかな。悪いことばっかでもないんだろうけどさ』
何度も目にしてきたあの曖昧な笑顔を見るたび、距離を感じて不安を覚えた。
見ないふりをしてきたけれど、心のどこかでわたしは気づいていたんだ。
莉久はきっと、わたしに何か隠しごとをしている。
そんな直感はあの表情を目の当たりにするほど強まっていって、けれど、踏み込む勇気はなくて。
鈍感なふりをし続けることでどうにか不安を打ち消してきた。
「いま同じこと聞かれたら、何て答える?」
西垣くんの言葉に顔を上げた。
いまなら、考えるまでもない。
「わたしは────」
◇
静かに扉を閉め、茜さす病室で莉久とふたりきりになる。
西垣くんはひと目会って安堵したのか、わたしに気を遣ってかすぐに帰っていった。
莉久のトートバッグから小さな紙袋を取り出す。
箱を開けると、薬指にそっと指輪をはめてみた。
カーテンの隙間から射し込む斜陽を弾き、きらりと光る。
その眩しさが目に染みた。
「どう? 似合って、る?」
右手を掲げて首を傾げるけれど、莉久の瞳に映ることも褒めてくれることもなかった。
固く目を閉じたまま深い眠りについている。
分かっていても、どうしたって胸が詰まる。
こんな悲しい現実にもいつか慣れたりするのだろうか。
力なく腕を下ろすと、指輪をはめたまま椅子に座った。
目を落とし、ぎゅう、と右手を握り締める。
触れたら、すべてが消える。ふたりで紡いできた時間のすべてが。
わたしの心にだけ残ったまま。
「……やだ……」
思わずこぼれた本音とともに、涙がひと粒落ちていった。
くずおれるように身を折って叫ぶ。
「嫌だよ……!」
自分の選択を受け入れるために端へ端へと追いやっていた感情が爆発した。
身体が震えて息の仕方も思い出せなくなる。
嫌だ。嫌に決まっている。
このまま莉久とお別れだなんて。
頭の片隅にも残らないなんて。
────これ、きみの?
出会ってからいままで、交わしてきた言葉や笑顔や温もりが走馬灯のように頭を駆け巡った。
耳の奥で鳴り止まない、彼の穏やかな声。
炭酸みたいに爽やかな笑顔と、照れたときの控えめな笑みと、どこか手の届かないようなやわくて遠い微笑。
記憶の中の彼はいつだって笑っていた。
優しくて、ひと想いで、誰かの幸せを自分のことみたいに喜ぶ────そんな莉久が大好きだった。
ずっと彼のそばにいたかった。
本当はこのまま、終わりを知らないわたしたちでいたかったのに。
「……っ」
ふ、とややあって目を開ける。
薬指に煌めく指輪が視界に飛び込んできた。
「莉久……」
意識はまだないはずなのに、不思議とあたたかく微笑んでいるように見える。
わたしが落ち込んだときは、決まってそんな表情で“大丈夫だよ”と繰り返しながら頭を撫でてくれた。
その感覚が蘇ったからか、いつの間にか息ができるようになっていた。
涙がおさまり、震えも止まる。
目のふちに涙の粒が散って、視界はいっそう眩しいほどの黄金色に染まっていた。
じっと焼きつけるように彼を見つめる。
「好きだよ。大好き」
わたしの想いは変わらない。
だからこそ、今日の決断を後悔することはきっとないだろう。
莉久がわたしのことを忘れても、無事に目を覚ましてくれたらそれでいい。
もう二度と「紗良」と呼んでもらえなくても。会えなくても。
この世界から彼が消えても。
ひと筋、未練がましく伝い落ちた涙を拭う。
「莉久に出会えてよかった……。一緒に過ごせて、本当に幸せだったよ」
声が震えてしまい、唇を噛んだ。
一度深く息をつき、するりと薬指の指輪を外す。
ベッドの上の彼の手を取ると、てのひらにそれを載せて両手で包み込んだ。
わたしのよく知っている、あたたかい莉久の体温。
「いままでありがとう。……さよなら」
精一杯、彼のように笑ってみせる。
そっと目を閉じたわたしの脳裏を、鮮やかなヴィジョンが貫いた。
◆
遠くに何か音が聞こえた。
夢と現実の狭間を揺蕩っていた意識がだんだんと浮かび上がってくる。
『……の殺人未遂事件で、男が逮捕されました。逮捕されたのは……』
ぼんやり耳の表面を撫でていた音は、テレビから響く無機質な女性アナウンサーの声だった。
逮捕されたという男の名前を聞いたとき、何となく覚えがあるような気がした。
(何だっけ……。ていうか、何してたんだっけ)
やけに息苦しさを感じて顔に手をやると、硬い感触があった。
口元を覆っていた酸素マスクを外し、深く息をつく。
気だるい身体を起こしてあたりを見回した。
「ここは……」
白色の清潔な明るい空間。光が眩しい。
どうやら俺は病室のベッドの上にいるようだった。
そこでようやく、自分の身に起きたことを思い出す。
はっと息をのんだとき、ずき、と胸から腹にかけて鈍い痛みが走った。
とっさに手で押さえる。
「……っ」
まだ傷は全然癒えていないけれど、こうして無事だったことに我ながら驚いてしまう。
あのとき、意識が遠のく中で痛みすら感じなくなって、さすがに死を覚悟した。
それだけに、実はいま死後の世界にいるんじゃないかと一瞬よぎったが、響いて止まない激痛がリアリティを訴えている。
『……は、警察の調べに対し“殺すつもりで刺した”などと供述し、容疑を認めているということです。警察はさらに余罪についても捜査を進めています』
流れっぱなしになっていたニュースの方へ意識が向く。
ずきずき、じくじく、刺された傷が疼いた。
『また、今回の刺傷事件で、意識不明となっていた男子大学生の病室に無断で侵入し、殺害を試みたとして現行犯逮捕された藤井由乃容疑者とは、共犯関係にあったと見られています。藤井容疑者は自身の犯行について“間違いありません”と容疑を認めている一方で、共犯関係については否認しているということです』
見知った名前が淡々と読み上げられ、衝撃に打ちのめされる。
(由乃……?)
彼女とは別れたきり連絡も取っていなかった。
しかし、最近になってSNSを特定されただけでなく監視してくるようになって、不気味さというか軽い恐怖を覚えていたところだった。
親友である翔太には、誤魔化しきれずに相談していたほど。
昏睡状態にある間に、まさか殺されそうになっていたなんて。
だけど、どういうことなんだろう。
いまさらストーカーと化したというのもおかしな話だし、恨まれるような覚えもない。
それに、そもそも最初に俺を刺したのは────報道の通り若い男だった。
頭の中に墨汁みたいな暗闇がぶちまけられる。
あの夜、路地裏に引きずり込まれ、抵抗する間もなく突き立てられたナイフ。
黒いレインコートのようなものをまとった彼の顔が、テレビに映し出された男の顔と重なる。
表示された名前にもまた既視感があった。
知り合いなんかじゃないけれど、確かに覚えがある。
(……そうだ、思い出した)
はたとひらめいた瞬間、病室の扉がノックされる。
返事を待たずしてスライドしたかと思うと、スーツ姿の男性と制服姿の警察官が目に入った。
俺を認めて一瞬動きを止めたスーツの彼は、ぎょっとした様子で踏み込んだもののすぐに振り返った。
警察官に「目覚ました、すぐに伝えろ」と素早く指示して扉を閉める。
「あ、あの……」
「高原さん! いやぁ、よかった。本当によかったです」
俺の戸惑いに構わず歩み寄ってきて言った。
くしゃりと顔を歪ませて笑う彼は、実際心から安堵しているみたいに見えた。
大げさなようにも思えてきょとんとしてしまうと、思い出したかのように懐に手を入れる。
「申し遅れました。わたし、警視庁捜査一課の正木といいます。今回の刺傷事件を担当しておりまして」
「刑事さん……?」
初めて目にする警察手帳に釘づけになっていると、頷いた彼はにこやかに言葉を繋いだ。
「少し、お話しませんか」
俺が目を覚ましたことで院内は慌ただしくなり、先に検査なんかを済ませることになった。
数週間意識が戻らず、一時は急変して危うい状態になりかけたと聞いて驚いた。
自分としては、休日にぐっすり眠って昼過ぎに起きた程度の感覚だったのに。
何だか身体に力が入らず、うまく歩けないでふらつきながらも病室へ戻る。
最初に出てから1時間くらい経ってしまっていた。
廊下の角を曲がると、扉の前に立つ正木さんが目に入る。
俺に気づいて近づいてきた。
「お戻りですか。お疲れさまです」
「どうも……ありがとうございます。すいません、待たせちゃって」
苦く笑いながら取っ手を引くと、即座に「いえいえ」とかぶりを振られる。
「とんでもない。いま優先すべきは高原さんの体調ですからね。検査、どうでした?」
「まだぜんぶの結果は出てないんですけど、たぶん問題ないだろうって」
「それはよかった。何よりですね」
布団がめくれたままのベッドに腰を下ろすと、正木さんは椅子に座った。
やけに静けさを感じて、いつの間にかテレビが消えていることに気がつく。
「先ほど報道番組が流れてましたけど、ご覧になってました?」
さすがは刑事と言うべきなのか、何の番組だったかやその内容まで目ざとく把握していたようだ。
「はい。……俺の事件のことですよね、あれ」
「ええ、そうです。恥ずかしながら当初は手がかりがまるでなく難航していましたが、ようやく逮捕にこぎつけました」
唯一情報を握っている俺が口を封じられていたせいで、紆余曲折を経る羽目になったことだろう。
それこそが犯人の目的だったのかもしれないが。
「あの、俺……事件前にあいつと会いました」
事件前夜、バイト帰りだった。
曲がり角にさしかかったとき、ふいに飛び出してきた誰かとぶつかった。
それが、逮捕されたあの男だった。
かなりの勢いで弾き飛ばされるような形になり、お互い地面に倒れ込んだ。
あたりに荷物が散らばったかと思うと、はらりと目の前に一万円札が降ってくる。
痛みも衝撃も忘れて怪訝に思った。
その瞬間、目にも留まらない速さでお金を引っ掴んだ彼は、慌てて立ち上がるときびすを返した。
夜の住宅街を疾走し、瞬く間に見えなくなってしまう。
「そのときに、彼の免許証を拾ったんですね?」
確かめるような正木さんの言葉に何度も頷く。
「そうです。追いかけようにも見失って……。あとで警察に届けようと思って一旦持ち帰りました」
ただ、そのときは何か大事な予定が待っていて、浮かれていたせいで“あとで”をますます先延ばしにしてしまった。
免許証を落として困っているだろう、と思いつつもあと回しにしてしまうほどの“大事な予定”が何だったのか、不思議と思い出せないが。
そういうことでしたか、と神妙に頷いた正木さんは真面目なトーンで続ける。
「実はですね……あの男、そのとき強盗に入った帰りだったみたいなんですよ。高原さんとぶつかって、顔を見られたことに焦った。それだけじゃなく免許証まで拾われたことにあとから気づいて、正気を失ったんでしょうね」
「それで、俺を……?」
「ええ。高原さんを尾行し、口封じのために手をかけたと自供しました」
背筋がぞくりと冷えて凍りついた。
そんな理不尽かつ身勝手な理由で自分が殺されようとしていた事実に。
平凡でありきたりな自分が、まさか突如として舞台の中央に押し出されるなんて信じられなかった。
誰かに殺意を向けられるなんて夢にも思わなかった。
こういう事件に巻き込まれるのは、特別な何かがある人たちばかりだと思っていた。
悪いことなんてしていなくても、不条理に標的にされることがある。
なんて救いようのない現実だろう。
怒ればいいのか悲しめばいいのか、分からなくて呆然としてしまった。
「……彼は藤井と恋人関係にありました。ただ、対等ではなかったようで、藤井は頻繁に暴力を振るわれていたそうです。金を無心されることもあったとか。主従関係といった方が正しいかもしれません」
彼女がそんな目に遭っていることも、露ほども知らなかった。
俺を監視していたのはストーカー目的ではなかったのかもしれない。
本意かどうかは分からないが、あの男に俺の素性と現状を教えたのは彼女だろう。
それでも、犯行の一端を担っていたことに腹を立てるより同情が勝った。
ろくでもない男に散々利用され、人生を壊された彼女に。
恐れるのではなく話を聞いていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
「それで、彼はあなたの自宅から免許証を回収するよう藤井に命じていたそうですよ。ですが、いまも藤井は男の関与を否定し続けています。よっぽど報復が怖いのか、あるいはいびつながら愛があるのかもしれません」
どちらもありえそうな話だった。
もともと相手に依存する傾向が強い上、内気で臆病な性格だからそこにつけ込まれたのかもしれない。
「……あの、ちなみにどうやって犯人を突き止めたんですか? さっきは手がかりがなかったって」
「ああ、それがですね……犯人の顔を知っているという女性が現れたんですよ。現れたというか、どういうわけか突然そう言い出したんですが」
「え?」
どういうことなんだろう。
困惑を隠せず聞き返すと、正木さんも眉を寄せる。
「当初は彼女も犯人のことを知りえない様子でしたが、急に“思い出した”と犯人について語り始めたんです。“見た”とも言ってましたね」
「目撃者だったんですか?」
「いえ。その時間、彼女にはアリバイがあります。バイト先にいる姿が防犯カメラに残ってますし、同僚の従業員たちもそう証言している。事件とは関係ないところで犯人の顔を見たことがあって、何らかのきっかけによって犯人だと確信したんじゃないでしょうか」
そういうことなのだろうか。
とにもかくにも彼女のお陰で犯人が特定され、逮捕に至ったことは間違いない。
もの言えぬ俺に代わって解決に導いてくれたそのひとには、ありがたい思いが募るばかりだ。
「その女性っていうのは……」
「すみません。本人から身元を明かしたくないと強く言われてまして、詳しくは……。でも、ここだけの話、愛の力ってやつですね」
正木さんは突如として茶目っ気のある笑みをたたえた。
にやりと笑いかけられても、思い当たる節はない。
「愛?」
「彼女、当初お話を伺ったときはあなたの同級生だと名乗ってましたけど、実際のところは恋人でしょう? 病室にも頻繁に出入りしてましたし」
小突くように詰め寄られるものの、ただただ困惑してしまう。
何のことだかまるでぴんと来なかった。
「ま、待ってください。俺にそんな人はいないですよ」
「またまた……。ふたりしてそう照れることないじゃないですか」
さっきまで頼もしい刑事だったはずの正木さんが、世話焼きな親戚のようになってしまった。
照れるも何も、そもそも何を言っているのか分からないというのに。
同級生だと名乗っていたのなら、俺の知り合いなんだろうか。
「ともかく、本当によかったです。事件も無事解決した上、高原さんが目を覚ましてくれて」
おもむろに彼が立ち上がった。
噛み締めるようにそう言われ、自然と背筋が伸びる。
「ありがとうございました。色々、お世話になったみたいで」
「いえいえ、それが我々の仕事ですから。それに、わたしひとりの力じゃありません」
単なる謙遜というわけではなさそうだった。
どことなく悔しげにも見える苦い表情で目を伏せる。
「……実に情けない話ですが、犯人逮捕に至る前に我々は失態を犯しました。誤認逮捕直前で、彼女が決定的な証言をしてくれなければ今頃取り返しのつかないことになっていた」
どうやら、捜査は実際に紆余曲折の中で迷走しかけていたようだ。
そのことを包み隠さず省みるなんて意外に感じられるが、正木さんの熱意ある正直な姿が胸に響いた。
「信じることを忘れてはいけませんね。刑事として、出直して精進しなければ……」
彼はしみじみとそう言うと顔をもたげる。
凛々しくも穏やかな笑みが浮かんでいた。
「改めて、高原さんがご回復されて何よりです。本当によかった。今後のことは引き続き我々がサポートしますのでご安心を」
「あ……ありがとうございます」
「まだ痛むでしょうから、どうか無理せずお大事になさってくださいね。それでは」
正木さんが病室をあとにしてから、ほどなく扉が叩かれた。
その控えめなノックに応じると、顔を覗かせたのは翔太だった。
「……よ」
「おー」
挨拶とも呼べないぎこちない言葉を交わし、おずおずと病室へ入ってくる彼を眺める。
「病院から連絡もらってさ。おまえが目覚ましたって」
俺の反応を窺っている素振りがあって、最後に会った日のことを気にしているのだとひと目で分かった。
扉を閉めたものの、そこで立ち止まったまま近づいてこようとしない。
「うん。色々心配かけてごめん」
「いや、そんなの当たり前だろ。だって────」
翔太はそこで言葉を切った。
続きをためらうように口をつぐみ、ばつが悪そうに視線を彷徨わせる。
「……親友、だから?」
代わりに言ってみせると、はっと顔を上げた。
こくこくと何度も頷いて嬉しそうに頬を綻ばせる。
「そう、そうだよ! 親友だからな」
「……くさい。何か恥ずかしいからやっぱりいまのなしで」
ふ、と思わず笑って言うと、彼は「おい、何でだよ」と不服そうに返しながらも同じように笑っていた。
ベッドの方へ歩み寄ってきて椅子に腰を下ろす。
「いやー、本当によかった。マジで。眠ってるおまえの顔見て、もう一生このままなんじゃないかって何回思ったことか」
「大げさだって。そんな簡単に死なないよ、俺は。大事な人たち残して死ねない」
何気なく言ったものの、なぜかふいに翔太が動きを止めた。
曖昧な笑みを口元に残したまま目を落としている。
「どうかした?」
「その、さ……“大事な人たち”って」
どことなく緊張を滲ませた声色で切り出される。
「彼女のことも含まれてる?」
じっとこちらを窺う眼差しはどこか祈るようでもあった。
神妙な間が落ちてきて戸惑う。
「彼女、って?」
「……あ、いや」
気圧されたようにしばらく言葉を失っていた様子の翔太は、我に返ると眉根に力を込めた。
後頭部を掻きつつ小さく呟く。
「マジなんだ」
何やら衝撃を受けているみたいだが、いったい何の話だろう。
彼は深々と息をつくと唇を噛んだ。
「莉久の意識が戻ったのは何よりだけど……こうなると紗良ちゃんが不憫だな」
「え?」
「あー、もう少し待ってたら────なんてのは結果論か。お陰で俺も救われたわけだし、紗良ちゃんが真相を突き止めたからこそ莉久が目覚めたのかもしれないし」
俺に言っているというよりは完全にひとりごとだった。
返事も反応も求めることなく、かぶりを振って顔をもたげる。
「ごめん、いまの忘れて! 俺のエゴで台無しにするとこだった」
不思議に思いながらも頷くことしかできなかったが、それでよかったのか翔太も頷き返してくれた。
にしても、と話題を変える。
「大変だったなぁ。俺、危うく逮捕されそうだったんだよ」
思いもよらない言葉に驚いて、思わず身を乗り出す。
「えっ!? 何で?」
「何かいろんな不運が重なった感じで疑われる羽目になってさ。でも、正木さん……って分かる?」
「あ、さっき病室で話した。刑事さんでしょ?」
「そうそう。あの人、真犯人が捕まってからわざわざ俺に謝罪しにきてくれたんだよ。誠心誠意、頭下げてさ」
またしても驚愕してしまうけれど、何だかものすごく納得のいく話でもあった。
病室で悔いていた通り、矜恃を捨てて懺悔するなんていかにも誠実なあの人らしい。
それでこそ威信が伴うというものだろう。
「最初は無神経で嫌な人だと思ってたけど、最後までひたむきに向き合ってくれてたんだなーって……」
そこで翔太は口をつぐみ、沈黙が落ちた。
一拍置いて立ち上がると、勢いよく頭を下げる。
「ごめん!」
突然のことに「え?」と困惑しながら目を瞬かせた。
「俺、本当にどうかしてた。みんなに迷惑ばっかかけて……。おまえに言われて気がついたし、今回のことを通して何か叱られた気分になった。反省して心入れ替えなきゃって思ったよ」
「翔太……」
「ごめん。これだけはどうしても直接言いたくて」
まっすぐ素直に打ち明けられた胸中に、図らずも心が震える。
確かに自分本位な言動が目立っていた近頃、さすがに目に余って彼を咎めた。
これ以上、自堕落な生活と振る舞いで自身の価値を貶めて欲しくなかったし、以前の明朗な彼に戻って欲しいと願ってのことだった。
言わば、それだって俺のエゴだ。
“関係ない”と突き放されればそれまでで、実際のところ最初はそうして聞く耳を持ってくれなかった。
放っておけなかったけれどどうしようもなくて、悲しみさえ覚えたほど。
だけど、そんなふうに思い直して受け止めてくれていたなんて。
「……よかった。俺も安心した」
ふと頬を緩めると、肩の力が抜ける。
ややあって彼もほっとしたように表情を和らげた。
「莉久だけは、どんなときもずっと信じてくれてたよな」
「当たり前じゃん」
「親友だから?」
「……うるさい」
つい笑ってしまいながら小突くと、彼もまたおかしそうに笑う。
また、こんなふうに笑い合えてよかった。
何だか浄化されたような清々しい心地がして、目の前が光でふちどられていく。
こんなに眩しかったっけ。こんなに鮮やかだったっけ。
だけど、それでいて何かが欠けているような空白の感覚がある。
────何だろう。
何か大事なことを忘れているような、曖昧な直感が根を張り始めていた。
それから数日後、検査結果と傷の経過も問題ないということで無事退院する運びとなった。
誰が持ってきてくれたのか、着替えの入った紙袋を備えつけの棚から取り出す。
お陰で助かったものだ。
搬送時に持っていたトートバッグと一緒に、一旦ベッドの上に置いた。
荷物をまとめ、忘れものがないか確かめるべくバッグを開けたとき、ふと小さな紙袋が目に留まる。
「これ……」
確か事件の日、アクセサリーショップに寄って購入したものだ。
誰かへの誕生日プレゼントとして買ったはずだが、肝心の相手のことを覚えていなかった。
おかしい。
ふたりで過ごそうと言ったのは俺なのに、どうして何も思い出せないんだろう。
あれはいったい、誰だったっけ?
ゆっくりと手を伸ばし、紙袋から小箱を取り出す。
蓋を開けると、指輪がきらりと輝きを放った。
そのとき、ふいに指先が痺れた。
滞留する疑問や違和感を喰らい尽くすように、頭の中にヴィジョンがなだれ込んでくる。
『誕生日、ふたりで過ごそうよ』
そう言ったとき、彼女は瞳をきらめかせた。
『ケーキとプレゼントと花束と……あとお酒か。とにかく色々買って会いにいくから、紗良は家で待ってて』
『いいの? そこまでしてもらっちゃって』
『当たり前じゃん。特別な日だよ? 誕生日くらい、誰よりも一番幸せでいて欲しいから』
照れくさいながらも思いの丈を告げると、彼女は嬉しそうに表情を緩めて微笑む。
ほんのり色づいた頬に心が締めつけられ、見ているだけで満たされた。
『……どうしよう。もう既に幸せかも』
『俺も』
────覚えている。
右手に残った感触も温もりも。繋ぐたびに募る愛しさも。
残像にノイズが走ったかと思うと、広がる光景が移り変わった。
この病室で、眠っている俺と傍らに佇む彼女。
『どう? 似合って、る?』
掲げられた薬指にはこの指輪が光っている。
直接贈ることは叶わなかったが、彼女は気づいてくれていた。届いていた。
それでも、昏睡状態の俺は何も答えてあげられない。
あふれる涙を拭ってやることも、大丈夫だと言ってやることも、頭を撫でてやることもできなかった。
彼女のむき出しの感情は虚空で跳ね返り、落ちて溶けていくだけ。
『好きだよ。大好き』
どんな言葉も想いも、一方的で宙ぶらりんなものになってしまっていた。
────……さよなら。
最後にそう告げて、そっと指輪を握らせる。
彼女が俺の手を包み込んだと同時に、俺の中からその存在が剥がれ落ちていったんだ。
はっと目を開けると、意識が現実へ引き戻される。
心臓が早鐘を打ち、直接揺さぶられているかのような衝撃に貫かれた。
「……紗良」
確かめるようにその名前を呟く。
いまのいままで、忘れていたなんて信じられない。
あんなにも愛しくてかけがえのない彼女のことを。
ふいに耳の奥で正木さんの言葉が響く。
────ああ、それがですね……犯人の顔を知っているという女性が現れたんですよ。現れたというか、どういうわけか突然そう言い出したんですが。
────当初は彼女も犯人のことを知りえない様子でしたが、急に“思い出した”と犯人について語り始めたんです。“見た”とも言ってましたね。
指輪を持つ手が震えた。
にわかには信じがたいことだが、考えられる可能性はひとつだけ。
「まさか、紗良も……?」
いつからそうだったのかは分からないものの、サイコメトリングで犯人を突き止めたにちがいない。
俺に宿っていた残留思念を読み取ったのだ。
“見た”とはそういうことなんだろう。
俺と同じ、サイコメトリー能力で。
すっかり体温を失った右手を見つめ、きつく握り締める。
震えは増す一方だ。
(……久しぶりだ、この感覚)
この能力を最後に使ったのは去年のことだった。
大学のエレベーターホールの床に鍵が落ちているのをたまたま見つけ、触れたとき。
浮かんだヴィジョンの中に紗良を見た。
大して捜すまでもなく、近くの講義室で彼女を見つけて声をかけた。
────これ、きみの?
かなり焦った様子で鍵を探していたらしい紗良だったが、それを受けて心底ほっとしたのが見て取れた。
何度も繰り返し礼を告げて表情を綻ばせる。
同じ学部の同級生程度の印象しかなかったが、こうして話したのをきっかけに関わるようになった。
いつしかお互い惹かれるようになって、付き合うまでにそう時間はかからなかった。
彼女の誕生日、思わぬ事態に巻き込まれたせいで、果たされなかった約束が宙に浮いたまま終わりを迎えようとしている。
紗良は途方もない代償も厭わず、真相を明らかにすることを選んだ。
黙って去ったのは優しさだ。
彼女にまつわる一切の記憶を失った俺を、混乱や自責、申し訳なく思う負担から逃がしてくれるためだろう。
きゅ、と胸が締めつけられた。
強くて前向きで、誰かのために一生懸命になれる心優しい紗良が好きだった。
いや、いまだって────。
そのとき、いつかふたりで映画を観にいったときの会話が蘇ってきた。
『あの主人公の能力、実際にあったら便利だろうなぁ。触れるだけで情報を読み取れるなんて』
『そんないいもんかな? そう都合よくはいかないと思うけど』
純粋に羨ましがる彼女に、実態を知っている俺は思わず反駁してしまった。
『えー、じゃあ莉久はその能力欲しくない?』
『うーん、欲しいとは思わないかな。悪いことばっかでもないんだろうけどさ』
この手にある能力は、自ら望んで得たわけじゃない。
けれど、紗良と出会えたことだけは幸運以外の何ものでもなかった。
この力があってよかった、とそのとき初めて思えた。
『紗良は欲しいんだ?』
『欲しい! そしたらなくしものしても困らないし』
彼女の答えはいまも同じなんだろうか。
だけど、少なくともいまなら俺にも分かる。
この能力があるお陰で、彼女を捜すことができるから。
剥がれ落ちた欠片をかき集めると、手の中で淡く光ったような気がした。
(……会いたい)
会って話したい。
伝えなきゃならない言葉がある。
小箱の蓋を閉めると、中におさまっている指輪を強く握り締めた。
きびすを返し、病室を飛び出していく。
何度でも見つけ出してみせる。
────たとえ、この世界からきみが消えても。
【完】