第2話
昼休みの学食は多くの学生でごった返していて、賑やかな喧騒が空気を揺らしていた。
2限が空きコマだったお陰で難なく座席を確保できたわたしは、券売機に列ができる前に食券を買って、早めの昼食をとっているところだった。
いつもは感じない、心細さにも似た居心地の悪さを覚えながら。
莉久がいないだけで景色は褪せるし、時間の流れも遅くて味気ない。
寂しい。
会いたいけれど、いまの彼に会ってもいっそう苦しくなってしまうだろう。
(でも、莉久に触れれば……)
突如として芽生えたこのサイコメトリー能力を使えば、彼の身に何が起きたのかを知ることができるはず。
だけど、その可能性がぶら下がってきたことでかえって臆病になってしまっていた。
(……怖い)
何であれ“知る”ことには少なからず勇気がいる。
見たくない事実に晒される覚悟が必要だ。
『ううん、ちょっとびっくりしたっていうか。そんな話、いままで莉久から聞いたことなかったから』
西垣くんから聞いた元カノの話とか、あんなふうにふいにわたしの知らない莉久を見ることになるかもしれない。
よくも悪くも、知らない一面と向き合うことに何だか臆してしまい、気が引けていた。
そんなことを考えながら伸びかけのラーメンをすすったとき、テーブルにトレーが置かれた。
突然現れた大盛りのご飯や唐揚げに目を奪われていると、聞き知った声が降ってくる。
「……ここ、いい?」
見上げた先にいたのは西垣くんだった。
「あ、うん。どうぞ」
自分のトレーを少し手前に寄せつつ言うと、彼は空いていた向かい側の椅子に腰を下ろす。
置き場のない荷物を預かり、長いソファー状になっているこちら側にわたしのものとまとめて置いておいた。
混んでいるときはこうして相席することも珍しくないのだけれど、西垣くんがここを選んだのは、わたしと知り合いだからというだけではなさそうだった。
少し離れたところで彼の友人たちがテーブルを囲んでいて、4人がけのそこはまだ席が空いているから。
つい窺うように見つめると、彼がぽつりと切り出す。
「……あのさ、昨日はごめん」
そう言われて、すぐに思い当たる節があった。
『紗良ちゃんは……ちがうよな?』
無遠慮にわたしを疑ったあの発言や態度のことだ。
いつになく控えめな様子なのは、無神経だったといくらか反省して、悪びれているからかもしれない。
たったひとことだけで、その出来事を指していることやそんな機微にまで気づいてしまったわたしもまた、少なからず気にしていたのだと自覚する。
「大丈夫、もういいから」
ほんのり頬を緩めながら言うと、西垣くんも気が抜けたみたいだった。
ほっとしたように強張りをほどいたのが見て取れる。
それから、ふと表情を引き締めた。
「一応言っとくけど、俺もちがうから。警察にもそう言ったし……」
「うん、疑ってないよ」
思わず小さく笑ってしまう。
彼はきまりが悪そうに目を落としつつも、口の中で「ありがと」と呟いた。
とっさに“疑っていない”と言ってしまったものの、実際のところわたしが西垣くんをどう思っているのかは自分でも分からなかった。
最初に莉久を発見して通報したのは彼だし、莉久の件に対して終始動揺しているように見える。
きっとわたしと似たような立場にあるのだと思うと、いまのところ心証は悪くないし、疑惑も湧いてこない。
犯人を、真相を知りたい気持ちは同じだろうから。
「……そういえばわたしね、昨日会ったよ。莉久の元カノの藤井さん」
箸を動かしていた西垣くんの手がぴたりと止まる。
驚いたように顔をもたげた。
「マジで? 何で?」
「偶然会ったの、莉久の家の前で」
「え、何であの子がそんなとこに……。やっぱつきまとってたのかな。あ、莉久がいない間に勝手に家に入り込もうとしてたとか!」
眉をひそめたかと思うと苦い顔になり、そしてはっと思いついたように目を見張る西垣くん。
しかもその憶測はあながち間違っていないどころか、ある意味合っている。
「う、ん。まあ、そう……なんだけど。どうしても莉久の家に行かなきゃいけない理由があったみたいで」
万引きの常習犯だった、とか、彼女が省みて精算しようとしている過去については伏せておくことにした。
「何それ」
「なんていうか……忘れもの? を、取りにきてたみたいな」
曖昧に伝えると、西垣くんはますます怪訝そうな表情をたたえる。
「それで? まさか家に上げたりしてないよね」
「した」
こればかりは事実だし、誤魔化すことなく端的に答える。
目を瞬かせた彼は、衝撃と呆れ混じりに「嘘だろ」とこぼした。
音を立てて箸を置き、前のめりになる。
「あの子、莉久のストーカーだって言わなかったっけ? しかも犯人の可能性が高いって話もしたよな。なに考えてんの? それでもし紗良ちゃんに何かあったら……」
その勢いに気圧されていると、ふいに我に返った様子で彼は言葉を切った。
「ごめん。責めてるわけじゃなくてさ……あ、いやそうなんだけど」
言葉尻が萎んでいくものの、西垣くんは正直にわたしを非難した。
びっくりした。まさかそんなふうに怒られるとは思わなくて。
それほど心配してくれるなんて意外だった。
「……ごめん、わたしこそ。確かに軽率だったよね」
藤井さんの言うことを迂闊にまるごと信じてしまったのは確かだ。
昨日、莉久の家でふたりきりになったとき、彼女がわたしに手をかけようとしていた可能性だってあったのに。
けれど、それを踏まえても昨日抱いた彼女に対する直感が間違いだったという確信は得られない。
「西垣くんが藤井さんを疑ってるのは分かるよ。でも、わたしはちがうと思う」
その考えにもまた確信が持てないで、声の芯が揺らいでしまうけれどはっきりと告げた。
「ちがう、って犯人じゃないってこと?」
「うん。もう莉久には未練とかもないって言ってたし、詳しくは話せないけど、藤井さんの事情聞いたら納得できたっていうか。ストーカーは誤解だったって」
「……それ、信じるの?」
ひときわ懐疑的な声色と眼差しを向けられる。
西垣くんは淡々と言葉を繋いだ。
「俺はやっぱり、その話聞いても藤井さんが怪しいって思うよ。莉久に執着してたことは事実だし」
「それは……」
「しかもさ、人を丸め込むための事情なんていくらでも作れると思わない? 紗良ちゃんは、藤井さんの言動で“おかしい”って感じることなかったの?」
見透かされたようで心臓がどきりとする。
家に招き入れてからの、一連の不可解な行動が自然と蘇ってきた。
「……正直、不自然なところはあったと思う。一緒に上がったんだけど、藤井さん、テーブルで免許証見つけるなり取って帰っちゃって」
「免許? 藤井さんの?」
「そう言ってた、けど……。うん、とにかく違和感はあったかな。忘れものも今度でいいって、何か逃げるみたいに」
伏せておきたかったであろう事情を一から十まで語って、そこまでして彼の家に上がり込んだというのに、目的のリップを回収せずに帰ってしまうなんてやっぱりおかしい。
次の機会を待つ余裕があるようには見えなかったのに。
「何で莉久の家に藤井さんの免許証があるんだよ」
「分かんないけど」
「変だな、やっぱり。見るからに怪しい」
眉をひそめた彼は腕を組み、片手を顎に当てた。
「藤井さんが犯人だとすると、莉久のこと諦めきれずに逆恨みして刺したか。……それか、痴話喧嘩かも。もしかしたらふたりの関係はまだ────」
「西垣くん」
聞くに堪えず遮ると、こと、と箸を置く。
呆れたように彼を見やった。
「本当に無神経だね。それ、わたしだけじゃなくて莉久にも藤井さんにも失礼だよ」
気色ばみはしても、わざわざ声を荒げたりしなかったのは、あくまで西垣くんには悪気がないということが分かったからだ。
きっと、彼は彼なりに推理しているのだろう。
目指すところはわたしと同じはず。
「ごめん。いや、分かってんだけど……だからって遠慮してたら何も分かんないままだし」
案の定申し訳なさそうに苦い顔をしたものの、そのスタンスを譲りはしなかった。
「解せないんだよ。藤井さんは嘘ついてると思う。事件に関わってる。そう思ったらさ、やっぱふたりの間で何かあったって考えるのが自然じゃない?」
「…………」
「だって、藤井さんの免許証を莉久が持ってるなんてどう考えてもおかしいじゃん」
「でも」
とっさに言い返したけれど、その先は続かなかった。
頭の中がまっさらになって言葉を見失う。
仮に藤井さんが犯人なのだとしたら、彼女から聞いたすべては嘘だったんだろうか。
あんな作り話が即座に思い浮かぶ?
だけど、莉久の家に上がり込むための口実だったとしたら?
あの様子からして、目的は免許証を回収することだったにちがいない。
「でも、わたしは……莉久を信じたいから」
うつむいてしまったけれど、どうにか告げた。
藤井さんに疑惑を向けるにしても、その思いだけは手放しちゃいけない気がする。
そうじゃないと、道を見失う。
「気持ちは分かるし、俺もそうだけど。たぶん、そんなんじゃいつまでも真相になんてたどり着けないんじゃないかな」
「なに、を……」
戸惑って視線を上げると、冷徹な西垣くんの眼差しとぶつかる。
割り切ったように感じられた。
先ほど言っていた通り、先入観を捨てて他人の事情に遠慮なく土足で踏み込むこと。
誰かを傷つけてでも、真実を掴み取るつもりでいる。
「冷たいって思った? でも、ごめん。俺は本気で犯人見つけたいと思ってるから」
これほど強い覚悟を持っていたなんて知らなかった。
わたしより遥かに貪欲な姿勢に圧倒されてしまう。
だからこそ、残酷なまでに冷静でいられるのかもしれない。
(莉久のために……?)
ふと、西垣くんがわたしの目を覗き込んだ。
労りつつも窺うような鋭い色を帯びている。
「紗良ちゃんも同じだったら、もう1回莉久の部屋見てみなよ」
どくん、とどうしてか心臓が重たく沈んだ。
藤井さんの言っていたリップが実際に見つかれば、西垣くんの推測は間違っていると判断できる。
可能性の域を出ないとはいえ、ほとんど確信していいだろう。
仮に莉久がリップの存在に気づいていたとしても、彼なら勝手に処分してしまうというようなことは恐らくない。
だけど、そうじゃなかったら。
見つからなかったら、藤井さんが嘘をついていたことになる。
その場合、彼女は何を隠したかったんだろう。
本当に事件に関わっていると言うのだろうか。
授業が終わると、大学からそのまま莉久の家へ向かった。
結局、サイコメトリーなんて突飛な能力の話は、西垣くんには伏せておいた。
まだ半信半疑だし、正直に伝えたとして信じてくれるとは思えない。
鍵を開けて上がったはいいものの、何となくそこから動けなかった。
勝手に部屋の中を探るなんてやっぱり莉久に悪いし、あまりに非常識だ。
そう思うからこそ、ここに入った時点で罪悪感に足を掴まれていた。
けれど、西垣くんに言わせれば、それじゃだめだといったところなんだろう。
真相を知りたい気持ちは同じだと思っていた。
だけど、彼は想定以上に本気だった。
覚悟なんてないまま流されるだけのわたしより何倍も必死で、莉久を想う情の深さが負けているんじゃないかと不安になる。
罪悪感や常識を優先するなんて、わたしの想いが足りないのかもしれない。
(……わたしだって同じだよ)
莉久が大切なのも、犯人を突き止めたいのも、何があったのか知りたいという思いも。
だから、少なくともいまは一旦割り切ろう。
躊躇に折り合いをつけると、靴を脱いで上がった。
────けれど、結果としてリップは見つからなかった。
そう広い部屋ではないし、探す場所も限られている上にものが少ないから、見落としているとは考えにくい。
だけど、たとえば収納をひっくり返してみても、ソファーやベッドの下を覗いてみても、どこにもなかった。
(藤井さんの言葉は、本当に嘘だった……?)
落胆と疲労感から力が抜けてしまう。
愕然と放心している部分も少なくなくて、床にへたり込んだままうなだれる。
散らかしてしまったものたちが嘲笑うようにわたしを取り囲んでいた。
だけど、逆に言うと、これだけ探ってみても特に怪しいと感じるようなものは出てこなかった。
触れてみても、あのハンカチみたいに何かヴィジョンが浮かんでくるようなこともない。
あれはたまたま見た幻で、サイコメトリーなんてやっぱり思いちがいだったのだろうか。
何だか分からないことだらけで、戸惑いが肌を逆撫でていく。
────藤井さんは嘘ついてると思う。
西垣くんの言葉が蘇ると、心臓をつままれたような気分になった。
嘘をつくということは、隠したいことがあるのだろう。
何かを隠している。
藤井さんが、なのだろうか。あるいは莉久が?
彼の部屋をほぼ完全に元に戻してから、わたしは病院へ向かった。
もはや習慣になりつつあって、無意識のうちにも莉久の病室へたどり着けるようになっていた。
薄暗い空間も、いまはかえって落ち着くように思える。
気を散らす思考が凪いでいくから。
「ごめん、勝手に部屋荒らしちゃって」
聞こえているのかどうか定かではないけれど、口にしないと気が済まなかった。
穏やかで優しい莉久でもさすがに怒るだろうか。
だけど、そんな様子は一向に想像できない。
「……あのね」
傍らの椅子に腰を下ろし、てのひらを見下ろす。
「わたし、あの映画の主人公と同じになっちゃったかもしれない。……突拍子もない話だけど、莉久なら信じてくれる?」
じっと窺ってみても、やはりと言うべきか反応はない。
(分からないことばっかりだし、まだ半分も信じられないけど……)
サイコメトリングなんて幻想かもしれない。
それでも、この際試してみる価値はある。
緊張と期待で鼓動が速まるのを感じながら、そっと立ち上がった。
ゆっくり慎重に莉久へ手を伸ばしていく────。
そのとき、ふいに扉がノックされた。
返事を待たずして開かれると、伸びる光の先にいたのは正木さんだった。
突然のことに驚いて身を硬くしてしまう。
わたしに気がついた彼は「おや」とでも言いたげに瞳をひらめかせる。
それから、すぐに眉を寄せた。
「何してるんです?」
「……いえ、別に」
莉久に向けていた手をさっと軌道修正し、布団をかけ直すふりをする。
もしかして、まさかだけれど、わたしが彼の首を絞めようとしていたように見えただろうか。
さすがに心外だ。
最初の印象がよくなかったせいか、正木さんに対しては過剰に警戒心が働いていた。
それを煽るような言動をあえてとっているのではないかと思えるほど、意図せず気持ちが尖る。
「今日もお見舞いですか。二見さん、高原さんと随分親しかったんですね」
含みのあるようなもの言いに顔を上げると、相変わらず温度のない笑みが返ってきた。
「だってそうでしょ。ただの同級生って言うには熱心だから」
「……だめですか?」
「いえいえ、とんでもない。よっぽど人望が厚いんでしょうね。聞き込みしててもね、彼を悪く言う人は本当にいないんですよ」
そのことには驚かない。
むしろ当たり前だと反射的に思ったほど、莉久は誰に対しても人当たりがよくて優しい。
他人と比べたりひけらかしたりするものではないけれど、それでも自慢の彼氏だと胸を張って言える。
「……少し、出ましょうか」
温和な態度で控えめに促される。
それが“雑談”に代わる誘い文句だと察しつつ、捜査への協力を惜しむ理由はないので素直に従った。
廊下の突き当たりにあるラウンジへ出ると、その一席でテーブルを囲む。
大きな窓から採光した、明るくひらけた空間だった。
「大丈夫ですか」
思わぬひとこと目に、驚いて「え」と掠れた声がこぼれる。
前回から一転して同情的な眼差し。
まさか心配されるなんて思わなかった。
「……大丈夫です。わたしなら全然」
平気じゃなくても、そう聞かれると不思議と強がってしまう。
だけど、いくらか気力を取り戻したのも事実だった。
それはよかった、と大して思っていないような調子で正木さんが相槌を打つ。
「今日はですね、高原さんについて聞かせて欲しいなと思いまして。交友関係がどうだとか、何かトラブルはなかったかとか、二見さんから見た率直な印象を教えてください」
言いながら黒い手帳を取り出し、無駄のない動きでペンを構える。
もはや事情聴取であることを誤魔化す気もないみたい。
「交友関係、は……そこまで知り尽くしてるわけじゃないので有益なことは言えないんですけど。普段、学校ではわたしや西垣くんと過ごすのがほとんどでした。でも、ほかの友だちとも挨拶したりしてたから顔は広いと思います」
一緒にいるときでも、彼に声をかけたり手を振ったりする人たちを複数目にしてきた。
普段からつるむほどじゃないけれど、それなりに友好的な関係を保っているような友人はわたしにもいる。
だけど、だからこそ関係の深さは一見して分からない。莉久の場合は尚さら。
「なるほど、人間関係は概ね良好ですか。じゃあトラブルなんかの話は……」
「聞いたことないです。莉久とは喧嘩になったこともないし、そもそも誰かと対立することが想像できないっていうか」
言ってから、あ、と思った。
同級生の体を貫くには少し不自然な、近しい関係をほのめかす言い方をしてしまった。
いや、そもそも恋人であることはただ何となく言いそびれただけであって、何か意図があって隠したわけじゃないからいいのだけれど。
追及されたら話そうと思ったものの、正木さんは気にとめることなく「そうですか」と頷いた。
「でも、だとすると謎なんですよねぇ」
「謎?」
「ええ。強い怨恨や殺意を感じさせる犯行で、財布や貴重品が盗られてないことからして強盗目的でもない。なら、普通に考えて彼を恨んでる人物が犯人ってことになる。でも、現実にはみんな高原さんを慕ってるんですよ」
そうは言っても、犯人があえて莉久を恨んでいたなんて口にするはずがないだろう。
きっと正木さんも承知の上なのだろうけれど。
「じゃあ、通り魔とか……?」
「可能性は否定できません。その線でも捜査を進めています」
もしそうなのだとしたら、なんて不条理なんだろう。
いっそうやるせない思いが強まる。
「いずれにしても、命だけでも助かったのは奇跡だと思います。それくらい執拗に刺されてたので」
ぞっと肌が粟立ち、いまになって怯んでしまう。
何かひとつでも噛み合わなければ、彼はもうこの世にいなかったかもしれないんだ。
刺された位置がほんのわずかにでもずれていたら。
西垣くんによる発見が一歩でも遅れていたら。
ここでもまた、そんな偶然が重なって奇跡を生み出しているみたいだった。
けれど、莉久がこんな目に遭ったことは必然なわけがない。
「……発見場所って、確か大通りの近くだったんですよね。防犯カメラとかなかったんですか?」
「そうなんですがね、現場は人通りの少ない裏路地だったので、カメラや目撃情報があてにならないんです」
「そんな……」
「高原さんの姿が最後に確認されたのは18時半頃、場所は現場付近のアクセサリーショップです。店員に話を聞いたところ、ひとりで来店して女性用のアクセサリーを購入していったそうですが、恐らく誰かへの贈りものでしょうね」
どきりとした。
心当たりがある上に、誰か、の部分で正木さんが意味ありげな視線を寄越したからだ。
だけど、本来の関係について補足することも失念するほど、わたしは感情を揺さぶるような衝撃に明け暮れていた。
(プレゼント……)
わたしを想って選んだそれを持って、会いにきてくれようとしていたところを襲われたんだ。
不意を突くような形なら、呼び出しに応じたとかいうわけでもなく、ずっとつけ狙われていたのかもしれない。
同時にひとつ腑に落ちた。
最初にアリバイを尋ねられたとき、18時半から19時半という時間を提示されたのはそういうことだったんだ。
アクセサリーショップを出て通報が入るまでのその空白の時間で、莉久は犯人の魔の手にかかった。
(……そういえば)
はたと思い至る。
あの日、莉久から届いていたメッセージはどのタイミングで送られてきたものだったんだろう。
慌ただしくスマホを取り出してトーク画面を開いてみる。
【いまから行くね。20時半には着くと思う!】
その送信時間は“18:32”となっていた。
わたしの返信には当然ながら既読がついていない。
その時点では既に、搬送された病院で応急処置の真っ只中だっただろう。
正木さんの話とあわせると、これは恐らくアクセサリーショップを出たときに送られてきたものだと思う。
そこからわたしの家の方へ来るには、電車とバスで1時間弱。
その中途で夕食の食材や惣菜なんかを買おうと考えていたのだとしたら、確かに多めに見積もってもだいたい20時半くらいにはなるだろう。
「……どうかされました?」
「あ、いえ」
不思議そうな正木さんに、誤魔化すように笑い返すとスマホをしまう。
彼の目をはばかる余裕も損なっていた。
ふと冷静になってここまでの話を踏まえると、目の前に絶望という名の壁が立ちはだかっていることに気がついた。
「あの、つまり……手がかりがないってことですか?」
「はい、とは言いたくないんですが、実際認めざるを得ません。現状はどんな可能性も“ない”とは言いきれない」
正木さんは悔しげに眉を寄せる。
少し意外な姿だった。
熱心な印象は当初から変わりないけれど、はじめは何だか形式的で、淡々と業務をこなしているだけのように見えた。
だからこそ、その無神経さにも腹が立った。
だけど、実のところは誰よりひたむきに事件に向き合ってくれているのかもしれない。
彼の態度が軟化したのは、わたしへの嫌疑が晴れたからなのだろうか。
あるいは刑事としてではなく、正木さん自身の意思かもしれないけれど。
「誰が怪しい、とかは……」
思わずそう尋ねてしまったのは、藤井さんのことが頭をよぎったからだった。
万引きのことはともかく、一連の不可解な言動を流すことはできない。
警察がどこまで掴んでいるのか、彼女のことを疑っているのかどうか気になった。
「捜査上のことなので詳しくはお話しできませんが、現段階では何とも。容疑者が複数いるとしか」
それにしたって、今日は惜しみなく情報を共有してくれたように思う。
けれど、微妙な心境には陥ってしまう。
やっぱりその中にはわたしもまだ含まれているような気がしたから。
そもそもわたしが莉久に手をかけるわけがない、という自分の中での前提はこの際置いておく。
それでも、わたしはその時間、バイト先である洋食屋で働いていたし、それは店内のカメラ映像だったり同僚や店長の証言だったりで裏が取れているはず。
帰途についた時間帯も、バスに乗ったときに使った交通系ICの記録が裏づけている。
だけど、そんなアリバイは、あくまで実行犯ではないという証明にしかならないんだろう。
そして、藤井さんもまた言うまでもなく容疑者に含まれている。
正木さんの口ぶりからして、少なくともまったく犯人に見当がつかないというほどの状態ではないことを悟った。
いずれにしても、わたしが莉久に触れれば真相が判明する可能性は大いに期待できる。
というか、それに懸けたい。
「あ、どうか気を悪くしないでくださいね。疑うのが仕事なんです」
「……分かってます。すみません」
期せずして投げかけられたフォローによって、わたしの直感は肯定された。
目を伏せたまま立ち上がると「失礼します」と背を向ける。
「二見さん」
思いがけず呼び止められ、足を止めて振り向く。
「犯人を見つけ出し、事件を解決したいと我々は考えています。高原さんのためにも……。その気持ちは二見さんと同じです」
はっとするほど真剣な眼差しで、正木さんは静かに言ってのけた。
溶けない雪のように積もって響く。
敵じゃない、と言われているような気がした。
莉久の病室へ戻る途中、廊下を歩く小さな人影を見つけた。
みおちゃんだ、と気づいて歩み寄ろうとしたものの、何だか様子がおかしい。
うつむきがちに少しふらついていて、おぼつかない不安定な足取りだった。
「みおちゃん、どうしたの?」
慌てて声をかけると、はっと顔を上げる。
おねえちゃん、と呟いた彼女は真っ青な顔色で、目には涙を溜めていた。
「ママが……。ママ、が……」
言い終わらないうちにみるみる涙があふれ出し、声が嗚咽に変わる。
突然のことにうろたえてしまいながらも、そっと肩に手を添えた。
「何があったの?」
その瞬間、てのひらに痺れたような衝撃が走る。
────病室のベッドに横たわる女の人。
苦しそうに顔を歪めて胸元を押さえる彼女の元へ、扉からなだれ込んできた医師や看護師が駆け寄る。
そのまま廊下を慌ただしく運ばれていく様子が、怒涛の勢いで頭の中に流れ込んできた。
(……いまの、みおちゃんのお母さん?)
すっかり取り乱して泣き喚く彼女を、動揺を禁じ得ないまま見つめる。
急に発作か何かを起こして、緊急手術にでもなったのだろうか。
あんな状況に晒されたら、みおちゃんがパニックを起こすのも無理はなかった。
「だ、大丈夫。大丈夫だよ」
なるべく明るく励ましながら震える肩をさする。
莉久がいてくれたら、と幻影に縋ってみても、わたしにはこんなことしか言えない。
「お母さんの病室行こっか。もう戻ってきてるかもしれないし、きっとお父さんも心配してるよ」
依然として涙はおさまっていないものの、いくらか落ち着きを取り戻したみおちゃんは力なく頷く。
手を差し出してみると、おずおずとてのひらが重なった。
繋ぐというよりは、指先を掴むような握り方だったけれど、歩き出すとしっかりついてきてくれた。
前回の記憶を頼りに病室を探すと、扉の前に父親の姿があった。
「みお」
彼女は呼ばれるより先に駆け出し、ぎゅう、と力の限り彼に抱きつく。
よっぽど不安で心細かったみたい。
「ママは……?」
「心配ないよ。いまは寝てるけど、起きたらきっと元気になってる」
どうやら、幸いにも切迫した状況は既に脱した模様だ。
頭を撫でてもらったみおちゃんは、その言葉や温もりに心底ほっとしたのかまた泣き出してしまった。
だけど、その顔にはだんだん色が戻りつつある。
「あの、すみません。今回もまたご迷惑を……」
「いえいえ、全然。大事なくてよかったです」
申し訳なさそうに頭を下げる彼にそう返しつつ、みおちゃんに笑いかける。
「よかったね、みおちゃん」
けれど、彼女はさっと彼の陰に隠れてしまった。
じっと窺うようだった瞳に警戒の色が宿る。
「おねえちゃん、だれ……?」
戸惑っているうちにこぼされたひとことは、いっそう衝撃的なものだった。
「え?」
嘘や冗談を言っているわけではなさそうだ。
彼女の態度に一切の隙がなくなり、言葉通り初対面の相手に人見知りしているような雰囲気がある。
「なに言ってるんだよ、みお。ここまで連れてきてもらったんでしょ? ほら、この前も迷子だったところを助けてくれたお姉さんだよ」
困惑をあらわに苦笑する彼がそう言っても、みおちゃんはふるふると首を横に振った。
「知らない。さっき初めて会ったんだもん」
莉久の病室へ戻ると、扉を閉めた瞬間から一歩も動けなくなった。
衝撃が尾を引いたまま、そしてそこから少しも立ち直れないまま、呆然としてしまう。
『おねえちゃん、だれ……?』
信じがたいみおちゃんの言葉は、けれど、ひどく取り乱していたことで頭が混乱状態にあったとかそういうわけではないのだろう。
今日最初に顔を合わせた段階では、確かにわたしのことを認識していたから。
「どういうこと……?」
直感を否定したくて、あえて口に出して考えてみるけれど、ほかの可能性なんてまったく浮かんでこない。
彼女はわたしのことを、唐突に忘れてしまったみたいだった。
結局、その場はみおちゃんの父親がおさめてくれたけれど、彼自身も思わぬ事態に戸惑いをあらわにしていた。
それでひとまずこうして別れてきたわけだけれど、半分は逃げてきたも同然だった。
思い当たる節はひとつだけ。
慎重に自分のてのひらを見つめる。
(まさか、このせい?)
みおちゃんに触れたとき、その母親の身に起きた出来事を読み取った。
もしかすると、そのサイコメトリングのせいでこうなってしまったのかもしれない。
たとえば、この能力を使って情報を読み取る代わりに、相手から自分にまつわる一切の記憶が消えてしまうのだとしたら────。
そこまで考えて、思わずあとずさった。
莉久を見つめたまま強く手首を握り締める。
(無理だ)
弾かれたようにきびすを返すと、病室を飛び出した。
このサイコメトリー能力が本物なら、莉久に触れれば一連の真相を掴めると思っていた。
原理は分からないけれど、そのために芽生えた“希望”だとさえ思っていたのに。
「……っ」
両手も呼吸も震えてしまう。
真実が記憶と引き換えだなんて、そんな果てしない代償は絶望でしかない。
その記憶にはわたしたちのすべてが詰まっている。
紡いできた時間も想いも、一瞬で水の泡だ。
(莉久。わたし、どうしたらいい……?)
ふいに自分の手が、禍々しい未知の何かに変貌してしまったような恐怖心を覚えた。
急速に不安感に飲み込まれながら、一度でも、冗談でもこの能力が欲しいと望んだことを後悔する。
莉久に忘れられてしまうなら、真相を掴んだって意味がない。
半ば自棄になっているのかもしれないけれど、とてもそう思わずにはいられなかった。
◇
講義室に入ると、後方の席に西垣くんの姿を見つけた。
突っ伏すような姿勢でスマホをいじっていて、いまは友だちと連れ立っている様子もない。
ひとりならちょうどいい。
「おはよう」
そう声をかけると、顔をもたげた彼が「おー」と声を上げる。
「おはよ。莉久のお見舞い行った?」
「うん、もう毎日。……家にも行ったよ」
そう答えながら隣の席に腰を下ろす。
彼がついていた肘を下ろし、少し前のめりになったのを視界の端で捉える。
「西垣くんに言われた通り部屋を調べてみたけど、藤井さんの言う“忘れもの”はどこにもなかった」
「へぇ、じゃあやっぱ嘘ついてたんだ」
さして驚いた様子もなく、彼は結論を口にする。
「そもそも、莉久の家じゃなくて別の場所にあるのを思いちがいしてるって可能性ももちろんあるけど……」
「だとしても、嘘ってのは確かだろ。免許だけ取って帰ったんでしょ? 不自然だし説明がつかないじゃん」
それに対しては同感だし反論の余地もない。
自ずと落ちた沈黙を周囲の喧騒が埋める中、おもむろに西垣くんが口を開く。
「警察はそのこと?」
たぶん、ととっさに答えかけたものの、すんでのところで口をつぐむ。
正木さんたちもきっと掴んでいるだろう、と何となく高を括っていたけれど、実際にはどうなんだろう。
そうでもないのかもしれない、とふいに思った。
手がかりが乏しいという話でもあったし、惜しげもなくわたしに色々教えてくれたのが、少しでも情報を求めていたからだったとしたら。
「……分かんない。やっぱり言っておいた方がいいよね」
「いや」
やけに慎重な、そして真剣な声色で“否”を示される。
思わぬ反応だった。
つい戸惑いを隠せないでいると、そんなわたしの視線に気がついた西垣くんは繕うようにちょっと笑った。
「怪しいは怪しいけど、大した情報じゃないと思うし。余計なこと言って捜査に支障が出ても困るじゃん」
藤井さんや免許証に関する情報は、捜査の邪魔になったり推理を濁したりするようなノイズになりうるだろうか。
何となく腑に落ちない。
「警察も藤井さんのことはとっくに睨んでるでしょ。言ったってどうせ、その疑いを補強する程度にしかならないって」
「そう、かな?」
「そうだよ。とりあえず様子見た方がいい」
証言することに何だか否定的な西垣くんに気圧され、わたしは「分かった」と頷く。
事件の全貌を暴くことに対して、意欲的かつ一辺倒な姿を実際目の当たりにした以上、何だか彼の意見には説得力があった。
だけど、頭の中は常に疑問や疑念で満たされており、無数の“可能性”が幾重にも絡まり合っている。
そのひとつひとつをほどいていくのは、とても現実的じゃない。
「莉久が目覚めてくれたら、ぜんぶ分かるのに……」
あるいは、サイコメトリーにあれほど残酷な代償がなければ。
気が遠くなるような思いでぽつりとこぼすと、西垣くんは姿勢を戻して目を伏せる。
背もたれに体重を預けながら、ややあって答えた。
「……そうだな」
ふと、窺うようにその横顔を眺めてみる。
睫毛の落とす影が、意外と繊細な彼の一面を物語っているみたいだった。
「西垣くん」
ゆっくりとこちらを向いた彼に切り出す。
「あのさ、藤井さんの大学って分かる?」
◇
授業が終わってから、西垣くんとともにひと駅向こうにある大学へ赴いた。
場所だけ聞ければひとりで行こうと思っていたのだけれど、彼が「俺も行く」と強く主張したため一緒に向かうことにした。
ちょうど昼の時間帯とあってか、キャンパス内は行き交う人で賑わっている。
ふと、近くの棟から出てきた人影を認めてはっとした。
黒髪にメガネ姿、紛れもなく藤井さんだ。
「いた」
反射的に駆け出すと、彼女の前に飛び出す。
驚いた様子で目を見張ったものの、わたしを見て「あ」という顔をした。
意外だけれどどうやら覚えているみたいだ。
もしかして、サイコメトリングの対象が“人”ではなく“もの”なら、記憶は消えないのだろうか。
「ちょっと、紗良ちゃん。置いてくなよな」
「あ、ごめんごめん」
追いついて文句を垂れた西垣くんに慌てて謝っておく。
彼を認めた藤井さんは、ますます驚いたような表情を浮かべた。
「西垣くん……」
「久しぶりだね、藤井さん。元気そうで何より」
あれだけ疑っていたにも関わらず、表面上はかなり友好的な態度を装っている。
彼の性格からして、会うなり疑念をぶつけて責め立てるのではないか、とはらはらしていただけに少し気が抜けた。
そのためについてきたのかと思ったけれど、ちがうのだろうか。
「西垣くんも」
藤井さんは困ったように笑いながらそう返す。
彼女たちと莉久が高校時代の同級生であることは、それぞれの話から察しがついていた。
そういう繋がりがあるのなら、莉久が西垣くんにストーカー的な一件について相談していたことも納得できる。
事実かどうかは別として。
「あの……ところで、何しにここへ? まさかわたしに会いに?」
「“まさか”ってことはないでしょ。ほかに理由があると思う?」
ふいに、西垣くんの言葉の端々に棘が潜んできた。
彼としては、やっぱり疑わしい藤井さんを糾弾したい意図があるのかもしれない。
だけど、わたしが彼女に会いにきた目的は別のところにある。
バッグから例のハンカチを取り出した。
それを目にした彼女は、はっとして目を瞬かせる。
「それ……」
「やっぱり藤井さんのだよね。今日はこれを返しにきたの」
そう言って差し出すと、ほっと息をついたのが見て取れた。
受け取ろうと彼女が触れた瞬間を見計らい、わたしは力を入れて阻む。
「ねぇ、誰かに脅されてるの?」
藤井さんから目を離さないまま尋ねると、弾かれたように顔を上げた。
驚愕に見張った瞳が揺れている。
明らかに動揺していた。
最初にこのハンカチに触れたとき、見えたのは怯える藤井さんのヴィジョンだった。
だからこそ“もしや”と何となく引っ提げていた推測をぶつけたのだけれど、いまの彼女の反応でほとんど確信に変わった。
「どうして……」
「あのとき。免許証の写真、見えたのは一瞬だったけど男の人だったと思う」
直接は答えないまま、ずっとはびこっていた違和感を口にする。
それもあって、あくまで自分のものだと言い張ることが腑に落ちなかった。
だけど、彼女が誰かに脅されているのだとすれば頷ける。
ハンカチから読み取った情報とあわせて考えると、相手はその免許証の持ち主ではないだろうか。
「男?」
驚いたように呟いた西垣くんが、素早く藤井さんに迫る。
「なあ、それ俺にも見せて」
「えっ? いや、でも……」
「いいから! 頼む」
案の定、藤井さんは逡巡して渋ったものの、彼の勢いに圧されたのか観念したようだった。
諦めからかため息をつき、バッグの中から財布を取り出す。
そこから抜き出した免許証を西垣くんに差し出した。
「これ……」
半ばふんだくるように手に取った彼は、一見して眉を寄せる。
わたしも覗き込んでみると、それは目当ての代物ではなく藤井さん自身のものだった。
「ちがうって。だから、これじゃなくて」
「ううん、これしかない。高原くんの家から持って帰ってきたのは、正真正銘わたしの免許証だよ」
「でも────」
「貸して」
苛立ちをあらわにする西垣くんの手から免許証を取り、両手で包むように持ってみる。
わたしが藤井さんに会いにきた理由はこれだった。
あのハンカチみたいに、何か彼女の持ちものに触れれば見えてくる情報があるのではないかと期待していた。
そうすれば、きっと藤井さんのついた嘘が分かる。
隠したかった秘密が見えてくる。
いまだって本当のことを言っているのか、聞くより“見る”方が早い。
どんなもっともらしい主張を並べ立てようと、この能力の前では無意味な妄言でしかなくなる。
そんな期待半分、緊張半分でどきどきしていたけれど、いくら待ってみてもヴィジョンは浮かんでこない。
(あれ……?)
触れ直してみたり裏返してみたりと色々試してみたものの、サイコメトリングができそうな手応えはなかった。
いつでも発動できるというわけじゃないのだろうか。
ものによっては、無効だったりもするのかもしれない。
「何してんの? 紗良ちゃん」
西垣くんの声で我に返ると、ふたりに怪訝な眼差しを向けられていることに気がついた。
傍から見たら当然のリアクションだろう。
「な、何でもない。ごめんね」
適当に誤魔化しつつ、免許証とハンカチを藤井さんに返した。
あのとき、莉久の家から回収したものがこれだという言い分には納得できないけれど、残念ながらそれを覆すほどの根拠も提示できない。
西垣くんも同じだったのか、不服そうな表情で後頭部を掻いている。
ひどくもどかしそうだった。
一方、藤井さんは落ち着いた雰囲気でこちらに向き直る。
釈然としないわたしは、危うい局面を乗り切って安堵しているんじゃないか、なんてひねくれた見方をしてしまう。
「ハンカチ、ありがとう。……彼の家にあるリップのことだけど、あれはもう大丈夫だから忘れてください。では」
軽く会釈を残し、藤井さんはそそくさと背を向けた。
さっと風が起きてその髪がなびく。
思わず、半歩踏み出していた。
「待って。だけど……」
「お願い! もう関わらないで」
突然張られた声にびっくりして、金縛りにでも遭ったみたいに動けなくなる。
遠ざかっていく彼女をただ見送ることしかできない。
周りの学生たちが何事かと振り返ってこちらを眺めていた。
お陰で我に返っても、好奇の目が居心地悪くて追いかけられなかった。
「見た?」
大学を出て駅へと向かう道中、わたしはおもむろに尋ねる。
「ん? 何を?」
「藤井さんの首。……痣があった」
素早くきびすを返した折、髪で隠れていたその首が瞬間的にあらわになった。
そこに、赤紫色っぽい痣が見えたのだ。
「マジで? 俺は分かんなかった」
「一瞬だったもんね。DVか、それか親からって可能性もあるのかな……」
場所が場所なだけに自ら怪我をするとは考えにくいし、誰かに脅されている可能性が真実味を帯びてきた。
以前見たヴィジョンで、頬をハンカチで押さえていたのは、泣いていたかあるいは腫れた部分を冷やしていたのかもしれない。
「紗良ちゃんがさっき言ってたこと、例の免許証が男のやつだったとかってのが本当なら、何となく藤井さんの意図が分かってきた気がする」
「うん。あの反応からしても嘘ついてるのは間違いないだろうし、たぶんそれは誰かを庇ってるからなんだろうね」
藤井さんの本意なのか、暴力を以て無理やり従わされているのかは分からないけれど。
ともかく、彼女を脅しているのと免許証の持ち主は同一人物だろう。
「でも、何でそれが莉久の家にあったんだろう?」
いずれにしてもその点が不可解だ。
彼の知り合いか、少なくとも関係がある人物ではあるのだろう。
莉久の手元にあるということは、面識がないとおかしいはずだから。
「そいつが莉久の家に来て、忘れていったか落としていったか……みたいな感じか」
西垣くんの言葉は的を射ていると思う。
それが最も現実的で妥当な可能性だった。
「でも、女の子に暴力振るって従わせるようなやつ、莉久の友だちにいるか?」
「確かにそれは思うけど……親しい人とも限らないし」
とにもかくにも、話していてもこれ以上は憶測の域を出ない。
わたしは一旦足を止め、西垣くんに向き直る。
「とりあえず、今日も病院行こうと思う。西垣くんは?」
「あー、俺も行く。バイト終わってからになるけど」
都合のいい巡り合わせだった。
それまでの間に、今度は莉久の持ちものからサイコメトリングしてみよう。
藤井さんの例によって、あくまでものが対象なら記憶に影響はないと判明したし、彼自身に触れられなくても得られる情報はあるはずだ。
そのことに気づけたのは幸いで、大いに希望となり得る。
「じゃあ、またあとで」
◇
一度帰って昼食を済ませてから病院へ向かった。
正木さんや警察の姿がないことを確かめると、静かに莉久の病室へ入る。
どことなく緊張していた。
この能力自体が本物だと分かったいま、よくも悪くも何らかの結果を得られるだろうという、確かな手応えがあるから。
事件に関するものか、あるいはそうでないものかもしれないけれど、莉久の中で沈んでいる真実の欠片を拾えるはず。
ベッドの上の彼を何となく見つめてから、備えつけの棚の方へ足を向けた。
そこには普段、莉久が通学に使っているトートバッグが置かれている。
搬送されたとき、現場から回収されたものだろう。
「……ごめん、ちょっと借りるね」
そう断ってから、中身を取り出して並べた。
教材やペンケースといった学校関連のもの、財布、スマホ、それから小さな紙袋。
白地にショップ名が印字されていて、正木さんの言っていたアクセサリーショップのものだと分かった。
(これ、もしかしてわたしに……?)
つい手を伸ばしかけ、思い直して止まる。
ほんの直感に過ぎないけれど、何となく触れるのはあとに回した方がいいような気がした。
事件当日のものだから、鍵を握っている可能性が高い。
そんな考えから、まずはスマホを手に取った。
試しに電源ボタンを押してみるけれどバッテリーは切れている。
(でも、中身以外から知れることがあるはず)
そのための力だと言うのなら、可能な限りぜんぶ知りたい。
そう願ったとき、ふいに静電気が起きたみたいにてのひらが痺れた。
意識を裂くようにヴィジョンが流れ込んでくる。
────夜の住宅街。
どん、と衝撃を受けたかと思うと莉久が倒れ込んだ。
その勢いで持ちものが地面に散らばる。
誰かとぶつかったか、突き飛ばされたような感じだった。
ふっとランプが消えたみたいに映像が途切れる。
スマホから読み取れるのはここまでらしい。
(いまのは……事件のあった日なのかな?)
前後の文脈が分からず、どう受け取るべきか迷ってしまう。
重要な情報ではあるのだろうけれど。
そんなことを考えながら、教材や財布などほかのものにも触れてみたけれど、何かを読み取れそうな気配はなかった。
藤井さんの免許証に触れたときと同じだ。
最後に残った紙袋を手に取る。
中には小さな箱が入っていた。
そっと慎重に、壊れものを扱うみたいな手つきで取り出してみる。
リボンのついたレザー調の箱を開けると、中には指輪が鎮座していた。
華奢なハートの横にダイヤモンドに似た小粒の石が煌めく、ピンクゴールドのリング。
曲線がフェミニンな印象で、控えめながら存在感のある代物だった。
きゅ、と胸が締めつけられる。
ひとえにわたしを想って選んでくれたことを含めて愛しくて、彼を振り返ると歩み寄った。
「ありがとう……。ありがとう、莉久。嬉しいよ、すごく」
噛み締めるように心から告げる。
喉の奥で涙の気配がして、慌てて唇を噛むと笑ってみせた。
ぎこちないことを自覚しながら、一度深く息を吸って天井を仰ぐ。
そっと箱の蓋を閉め、目を閉じる。
思わず両手に力を込めながら、祈るように胸に近づけた。
(お願い、教えて。何があったのか……)
手の内でひらめいた光が、そのまま頭の中を照らすような幻を見た。
明瞭な輪郭にふちどられた、鮮やかな光景がぶちまけられる。
────紙袋を提げた莉久が、日の暮れた街中を歩いていく。
漂い始めた夜の暗さをかき分けるような軽い足取りだった。
角を曲がると、ひとけのない通りに出る。
そのとき、ふいに真横から誰かの手が伸びてきた。
口元を塞ぎ、肩を掴むような形で強引に引っ張られた莉久は、きっと突然のことに理解も追いつかないで混乱したことだろう。
瞬く間に路地裏へ連れ込まれたかと思うと、目の前に鋭いナイフの切っ先が迫っていた。
息をのむ隙もなく刃が身体に沈み、彼はそのまま膝を折る。
抱えていた花束やケーキ、指輪の紙袋が地面に落ちた。
相手は黒いレインコートのようなものをまとい、フードを目深に被っている。
あたりが暗いこともあって顔は見えない。
莉久が刺された腹部を押さえてうずくまると、仰向けに転がされる。
相手が馬乗りになった。
何度も何度も、ナイフを突き立てられるうちにだんだん莉久の呼吸と動きが鈍くなっていく。
相手もそのことに気がついたのか、ややあってふらりと立ち上がると、逃げるように駆けていった。
地面にはみるみる血溜まりが広がり、彼の腕や服にも傷から流れる血の筋が垂れる。
確かにケーキは衝撃で崩れ、花びらが赤く染まった花束も踏みつけられてぐしゃぐしゃだった。
残された莉久はきっと意識が朦朧としていて微動だにしない。というか、できないまま。
そのとき、色を失った唇が微かに動いたのが分かった────。
「……っ」
目眩を覚えながら、わたしは肩で息をした。
無意識に呼吸を止めていて、酸素の薄さを感じるとともにふいに息を吹き返した気分だった。
いつの間にか手から離れていた指輪の箱が床を転がる。
自分を抱き締めるみたいな形で強く上腕を握り締めた。
ひどく寒気がするのに嫌な汗が滲んでいて、全身の震えが止まらない。
指輪から見えてきたヴィジョンは、まさに決定的瞬間だった。
だけど、実際に残酷で凄惨なそのときの状況を目の当たりにしても、分かったことなんて無に等しい。
ただただショックを受けて、精神をすり減らし、感情を揺さぶられただけだ。
莉久はどんなに怖かっただろう。痛かっただろう。苦しかっただろう……。
想像の域を超えたことで、冷たい涙があふれていく。
「莉久……っ」
意識を失う寸前、彼が何かを呟いたのが見えた。
願望でも希望的観測でもなく、たぶん“さら”とわたしの名前を呼んだ。
それでいまになって気づいたけれど、ヴィジョンにはどれも音がない。
あくまでも見ることができるだけだった。
「何で。何でこんなことに……」
結局、振り出しに戻ったような気がする。
どうして彼があんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
そう嘆かずにはいられない。
だけど、それ以上に「無事でよかった」という実感が染みるほど強く湧いた。
正木さんが“奇跡”と称したのにも納得がいくような顛末だったから。
思わず抱き締めようと彼に手を伸ばしかけて、慌てて止まった。
依然震えたままの両手をきつく握り締める。
迂闊に触れることもできない。
ふとした拍子に、意図せずサイコメトリングが発動してしまったら、と思うと怖い以上にもどかしかった。
たたらを踏むと、力が抜けてその場にへたり込む。
ベッドの柵にしがみついたまま、こらえきれずに声を上げて泣いた。
どれくらいの時間が経ったんだろう。
気がつくと、わたしは椅子に腰を下ろした状態でベッドに伏せたまま眠ってしまっていた。
いつ、どうやって座ったのかも記憶にない。
それくらい途方もない衝撃に打ちひしがれて、動揺していたみたい。
いまだって平気になったわけじゃないけれど、ひとしきり泣いたことで少しだけ気が休まった。
こうして目が覚めて、同じ世界に莉久がいることに心からほっとする。
「……よかった、本当に。生きててくれて」
それだけで希望になる。
カーテンの隙間から、ひと筋の柔らかい光が射し込んでいた。
昼下がりの陽射しがいつの間にか夕日へと移り変わっていたみたいだ。
(喉、渇いた)
あれだけ泣けば当然かもしれない。
自販機か売店にでも行ってこようと、そっと立ち上がった。
転がっていた指輪の箱を拾い上げ、広げっぱなしになっていた彼の持ちものとともにバッグにしまっておく。
歩き出した足は、まだ夢の中にいるみたいにふわふわしている。
泣いて、眠って、瞬きは重いけれど気分は晴れていた。
弱い気持ちが涙で洗い流されたのかもしれない。
あんな無情なヴィジョンを見たからこそ、いっそうすべてを知りたい意志が強くなった。
真相を掴むための覚悟がようやく決まった気がする。
意気込むような凜とした思いで扉を開けると、廊下に設置された長椅子に見知った姿があった。
ちょうど顔を上げた彼と目が合う。
「西垣くん」
「……よ」
軽い調子で片手を上げているけれど、どことなく窺うような気配があった。
いつからいたのか分からないけれど、もしかすると、気を遣ってわたしが出てくるまで待っていてくれたのかもしれない。
荷物を持って立ち上がった彼は、何だか遠慮がちに歩み寄ってきた。
「その、俺……本当ごめん」
「え?」
謝られるような覚えがなくて、戸惑ってしまう。
西垣くんはばつが悪そうに微妙な顔をした。
「ほら、最初さ、紗良ちゃんのことちょっと疑ったじゃん。ほんの一瞬でもそう思ったことが、何かすごい申し訳なくて」
そのことを未だに気にしていたなんて意外で、一拍のちに気づいたら笑っていた。
いや、いまのいままで意識の内にはなくて、病室で莉久といるわたしを見て思い出しただけかもしれないけれど。
「いいってば、もう。無理もないっていうか、西垣くんにしてみれば当たり前だったと思うし」
そう言うと少し気が抜けたのか、ややあって彼も表情を緩めた。
「あ、どうぞ」
病室の方を示して譲る。
わたしも外で待っていようかと思ったけれど、西垣くんは「紗良ちゃんも」とさも当然のように促した。
中に入ると、彼はベッドの傍らにある椅子に腰を下ろした。
扉を閉めてから、少し離れた位置に立っていることに決めたわたしは彼らをそれぞれ眺める。
「今日はどんな感じ?」
莉久に目をやったまま尋ねたから、彼に声をかけているのかと思った。
けれど、西垣くんはそれからふとこちらを向く。
「あ……特には」
「変わらず、か。よくも悪くも」
目を戻しつつ呟いたきり、しばらく口を開かなかった。
莉久を見つめるその横顔は、険しいようにも憂うようにも見える。
いずれにしても、明るくてお調子者といったような普段の西垣くんからはほど遠い。
「ごめんな、莉久」
ふいにこぼされた声は少し掠れていたものの、はっきりとわたしの耳にも届いた。
思わずはっとすると、西垣くんはうつむきがちに言葉を繋ぐ。
「まさか、こんなことになるなんて……」
病室を出ると、帰路につくためふたりで廊下を歩いていく。
途中、すれ違った人や看護師さんを目にする傍らで、何となくみおちゃんのことが意識の真ん中に浮かび上がってきた。
そういえば今日は見ていない。
それは、彼女がわたしを忘れてしまったからなんだろうか。
とんだあと出しの、そして救いようのない代償だと改めて思う。
この力を利用して知れたことも少なくないけれど。
「ねぇ、さっき何を謝ってたの?」
ふと思い出して、気づいたら口をついていた。
病室で彼が口にした謝罪の言葉が何だか引っかかっている。
「え? いや、別に……」
あからさまに誤魔化すような返答だったけれど、それ以上食い下がってもまともに答えてくれそうな気配はなかった。
ひと目でそれが分かるほど、いま西垣くんが画した壁は厚い。
そのうちに病院を出ると、沈みかけの日であたりは薄暗い色に染まっていた。
駐車場へとさしかかるも、彼が足を止めることはなかった。
普段からバイクに乗ることが多いから、ここへもそれで来たのかと思ったのだけれど。
「あれ、西垣くんもバスで来たの?」
「うん、まあ。たまにはね」
「ていうか、最近乗ってないんじゃない?」
そう思ったのは、彼のSNSでバイクに関する投稿が減ったような気がしたからだ。
いままでは頻繁にツーリングに行っていたみたいだし、学校にバイクで来ることもあったのに、思えば近頃はめっきり見なくなった。
「気分転換だって。それに夜道は危ないからさ。ちゃんと紗良ちゃんのこと送り届けないと、俺が莉久に怒られるし」
「何それ」
思わずくすりと笑うと、西垣くんも冗談めかした様子で笑った。
いつもみたいに調子がいいけれど、笑顔の影にどことなく垣間見えるわずかな焦り。
気づいてしまったそんな違和感を無視できるほど、鈍感にはなれなかった。
◇
宣言通り、西垣くんはわざわざ家の前までわたしを送ってくれた。
思いのほか律儀な一面を知って正直見直した。
適当に夕食を作ろうと、冷蔵庫の中を物色する。
その傍らで、莉久の持ちものからサイコメトリングした残像について思い返していた。
(スマホと指輪以外からは、何のヴィジョンも浮かんでこなかった)
読み取れるものとそうでないもののちがいは何だろう、と考えてみると、そう時間をかけることなく自ずとひらめくものがあった。
触れた対象に“思念”が残っていないとだめなんだろう。
いわゆる残留思念というそれがなければ、ただの空っぽな無機物でしかないから、触れたところで意味がない。
だから、藤井さんの免許証なんかからも何も読み取れなかった。
それから、この力を発動するにはもうひとつ条件があることに気がついた。
それは、わたしが“知りたい”と望むこと。
サイコメトリングできたときは、例に漏れずそうだった。
仮に残留思念があったとしても、その意思がなければヴィジョンは浮かんでこない。
そういう意味では、任意で発動できるということになるから、人に対して能力を使ったところで暴発する可能性は低い。
そこまで考えたとき、ふと昼間の出来事が蘇ってくる。
頭の中で藤井さんが叫んだ。
『お願い! もう関わらないで』
金切り声にも似た懸命な拒絶を受け、かえってどうしても放っておけなくなってきた。
当初彼女に向けていた疑惑は、突飛なものではなかったのだと思い知る。
誰かに脅されているのだとしたら────彼女が実行犯だとしても、免許証の本来の持ち主が黒幕だとしても、藤井さんなら何らかの事情を知っているにちがいない。
あくまでしらを切り通すつもりなら、わたしも覚悟を決めるしかない。
忘れられても構わないと割り切り、彼女自身にサイコメトリーを使うほかないだろう。
(明日、もう一度会いにいこう)