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この世界からきみが消えても  作者: 花乃衣 桃々
◆第1章 ちぎれた約束
1/3

第1話


【いまから行くね。20時半には着くと思う!】


 そんな文言の下には、くまのキャラクターがケーキを持っているスタンプまで添えられていた。

 莉久(りく)からのメッセージに思わず小さく笑いながら、ありがとう、と指先で紡いでいく。


 ────今日、わたしは20歳の誕生日を迎えた。

 付き合ってもうすぐ1年が経つけれど、こういうまめでひと想いなところは全然変わらない。


『ケーキとプレゼントと花束と……あとお酒か。とにかく色々買って会いにいくから、紗良(さら)は家で待ってて』


 そう言ってくれた莉久の、わたしより嬉しそうな笑顔を思い出してつい表情が緩む。


【待ってるね】


 そう返してから何気なく窓の外に目をやると、見慣れた景色が広がっていた。

 いつの間にか最寄りのバス停に到着していることに気づき、はっと立ち上がると慌てて降りた。


 遠ざかっていくエンジン音を耳に荷物を持ち直す。

 時刻は20時8分。

 莉久が来るまでに着替えたり片付けたりと準備したいし、早く帰らないと。


 そう思って歩き出したとき、スマホが震えた。


 莉久からかと思ったものの、画面には“西垣(にしがき)くん”の表示。


 彼の親友であり悪い人ではないのだけれど、最近は少し困った存在だった。

 何かと他人をあてにすることが増え、わたしにもその余波が及んでいるのだ。


 今回は何の用だろう。

 またレジュメを見せて欲しいだとか課題を手伝って欲しいだとか、そういうお願いだろうか。


 思わず苦い気持ちになりながらも応答して耳に当てる。


『もしもし……!』


「あ、西垣くん。悪いんだけど、今日は……」


『大変なことになった』


 あまりに切羽詰まったような声色を受け、足が止まった。


 差し迫っているのはいつものように課題の期限というわけでもないようで「え?」と返した声が緊張感を帯びる。


『莉久が────』




     ◇




 病院にたどり着くまで、西垣くんの言葉がずっと頭の中で渦巻いていた。

 渦巻きすぎてぐちゃぐちゃに溶けて、理解できないまま焦燥感だけに突き動かされている。


 掴んだ取っ手を引くと、ガラ、と病室の扉がスライドする。

 その先に真っ白なベッドが見えた。

 横たわる莉久の顔色も蒼白で、固く目を閉じたまま動かない。


「りく……?」


 こぼれた声は音にならず、掠れて消えた。

 息が苦しいのは駆けてきたせいだけじゃない。


「莉久……っ」


 涙が滲んだ。

 浅い呼吸を繰り返しながら、震える手でベッド柵を握り締める。


 莉久が刺されて病院に運ばれた────という到底信じがたい西垣くんの言葉が、いまになってじわじわと浸透してきた。


 血の気を失った肌を見れば、尋常ではない事態に巻き込まれているのは明白だった。


 いったい何があったんだろう。

 冷えた汗で寒気がして、肌が(あわ)立つ。


 そのとき、病室の扉がノックされた。

 応答を待たない形式的なそれとともに開かれると、スーツ姿の男の人がふたり立っていた。


 わたしを認めるなり一瞬目を見交わし、ひとりが苦笑混じりに歩み出てくる。


「あ……っと、すみませんがちょっとご退室願えますか」


 40代前後と思しき彼は、笑みをたたえてはいるものの有無を言わせない圧がある。

 戸惑っているうちに、促されるままに廊下へと連れ出されていた。


「我々もね、ついさっき通報者の方からお話を聞いたばっかりで。予断(よだん)を許さない状況なので、ひとまず今日のところは面会謝絶ということで」


「通報者の方からって……。あの、もしかして刑事さんなんですか?」


「ええ、そうです。あなたは────」


「紗良ちゃん」


 ふいに声をかけられた。

 振り向くと、警察に付き添われている西垣くんの姿があった。


「西垣くん……!」


 思わず駆け寄ると、喉のあたりに詰まっていた呼吸が通り抜けていく。

 縮んだ心臓が元に戻って、少しだけ全身の強張りもほどけた。


「では、失礼します」


 刑事や警察はそれぞれ義務的な会釈を残してきびすを返していく。

 どことなく現実感が追いつかない光景の中、縋るように西垣くんを見つめた。


「ねぇ、何があったの? 莉久が刺されたって、何で……」


「俺もまだよく分かってないんだけど、俺が見つけたときにはもう意識もなくて血まみれで……」


 苦しげに眉を寄せる彼の言葉にはっとする。


「じゃあ“通報者”って西垣くんのことなの?」


 そう尋ねると、こくりと小さく頷いた。

 第一発見者も彼ということになる。


 衝撃を受けてしまい、強い喉の渇きを覚えながら意を決して口を開く。


「詳しく教えて。莉久はどこで、どんなふうに……」


 彼の口にした“血まみれ”という言葉に引っ張られ、残酷な想像がよぎって言葉が途切れてしまう。

 動揺や混乱を隠せないわたしに、西垣くんは静かに答えた。


「大通りを曲がったところに古着屋あるだろ? 俺のバイト先の。その近くの路地裏。最初に足が見えて、近づいたら……倒れてたのが莉久だったんだ」


「うそ……」


「服とか地面とか真っ赤で、傷なんかもう分かんないくらい。大急ぎで救急車呼んだから、何とか命に別状はないって。でも」


 一度、言葉を切った西垣くんがうつむく。


「目覚める保証はないって。いつどうなってもおかしくないって話だった」


 愕然(がくぜん)と足元が揺らぎ、目眩を覚えた。

 酸素の薄さを感じながら、受け止めきれない現実の波に飲み込まれる。


「そんな」


 理解も感情もとても追いつかない。

 信じられないのに、先ほど病室で見た莉久の姿がわたしの意識を捉えて離さない。


「犯人は?」


「まだ捕まってない。事件性があるって方向で捜査するみたいだけど、それ以上は」


 強い恐怖と、怒りや悲しみを混ぜたような暗色が心を染めていく。

 濁って重く沈んでいく。


「……会いにいくって言ってたのに」


 この状況をまるごと拒絶したくてそう口にしてみたけれど、逆効果だった。

 喉の奥が締めつけられてゆらりと視界が揺らめく。


 慌てて指先で拭うものの、きっと西垣くんには気づかれてしまっただろう。

 少しの間、口をつぐんでいた彼はやがて控えめに切り出す。


「あのさ……実は、倒れてる莉久のそばに花束とケーキが落ちてた。花は折れてケーキもぐちゃぐちゃに崩れちゃってたけど、もしかして今日って────」


「誕生日。……わたしの」


 そう答えると、彼は瞳を揺らがせた。

 言葉を探すような間があってから、見つからなかったのか控えめに目を落とす。


「やっぱそっか」


 わたしも顔を上げられないまま「うん」と頷いて返した。


「災難、どころじゃないよね。誕生日にこんなの」


「誕生日じゃなくてもだよ。何でこんなことに……。どうして莉久が?」


 答えなんて分かるはずもなければ、西垣くんが持ち合わせているわけもないのに、どうしたってそうぶつけないと耐えられなかった。


 どうして、莉久がそんな目に遭わなきゃならなかったのだろう。

 いったい彼の身に何があったというのだろう。




     ◇




 部屋の中を青白い朝の色が満たしていた。

 結局一睡もできないで、ソファーで横になっているうちに夜が明けたみたいだ。


 西垣くんからも病院からも連絡はなく、依然として莉久は昏睡(こんすい)状態にある。


 気力は湧かないものの、ひとりでいると悪い想像ばかりが膨らんでいくから学校へ行くことにした。


『続いてのニュースです』


 支度を整えていると、何となくつけていたテレビから無機質なアナウンサーの声が流れてくる。


『昨日午後7時半頃、路上に人が倒れていると通報が入りました。病院へ搬送されたのは20代の男子大学生で、胸や腹部などに刃物で刺されたような傷があり、血を流して倒れていたということです』


 はっと顔を上げて、画面に釘づけになる。


(莉久の……)


 そこには西垣くんが言っていた通りの現場が映し出されており、規制線が張られて警察が出入りしていた。


 画面越しだというのにそのものものしさに圧倒され、思わず両手を握り締める。


『刺された男子大学生は現在も意識不明の重体で、警察は殺人未遂事件として逃げた犯人の行方を追うとともに調べを進めています』


 莉久の事件に関するニュースはそこで終わってしまい、何事もなかったかのように次の話題へ移っていく。


 何だか他人事みたいで、実感が逃げていった。

 悪い夢に放り込まれたみたいに現実感が乏しく、追いつかないどころか霞んでしまう。


 いつものように学校へ行けば、いつものように莉久に会えるような気がした。




 講義室へ入ると、人の姿はまばらだった。

 適当な席に座って荷物を下ろしたとき、ふと横に気配が現れる。


「……おはよ」


「西垣くん」


 意外な姿に驚いてしまう。

 最近は遅刻やサボりが目立っていて、莉久やわたしに資料なんかを頼ることが多かった。


「おはよう。珍しいね、朝から来るなんて」


「まあね。……何かひとりでいるの怖くて」


 苦く言った彼の言葉を受け、病室で見た莉久の様子や今朝のニュースのことが脳裏(のうり)に浮かんだ。

 遠ざかっていたリアリティというものが、ひたひたと寄ってきて背中に張りつく。


「朝ね、ニュースでやってた。莉久のこと」


「あ……俺も見た、それ。まだ犯人捕まってないんだな」


 胸やお腹を刺された、と報道されていたことを思い出し、血まみれで倒れる彼を想像して身体の芯が強張る。

 無意識のうちにきつく拳を作っていた。


「……犯人、誰なんだろう。莉久が誰かに恨まれるなんて思えないのに」


 不安定ながらわずかに声色が尖ったのを自覚する。


 許せない、という気持ちがいっそう強くなった。

 誰より優しい莉久をあんな目に遭わせて、わたしたちの時間を奪った犯人が。


 西垣くんは口をつぐんで目を落とした。

 何かを迷うような、思うところがありそうな態度。

 尋ねる前に口を開く。


「あのさ。俺もそう思ってずっと考えてたんだけど、実は心当たりがあって」


「え?」


 驚いて顔を上げると、彼の真剣な眼差しとぶつかる。


「犯人、に?」


「そう。言いづらいんだけど……あいつの元カノが怪しいんじゃないかって思ってる」


 “元カノ”という響きに心臓が音を立てた。


 出会う前の莉久のことをわたしは知りえない。

 自分の知らないところで流れた時間があって、好きになった人がいる。


 そんな当たり前のことに図らずも動揺してしまった。


 莉久と仲のいい西垣くんが疑うほどの理由や繋がりがある、という事実の方に、たぶん衝撃を受けたのだと思う。


「別れるときも相当ごねたみたいだし、しばらくはしつこくつきまとわれたらしいよ。つい最近も、SNSのアカウント特定されたって言ってた」


「莉久が……そう言ってたの?」


「ああ、すげー執着だよな」


 眉をひそめ、非難気味に言う西垣くん。

 わたしは言葉を失っていた。


(そんなこと、まったく知らなかった)


 莉久と付き合っていた人がそれほど執念深かったということも、莉久を忘れるどころか未だに求めているということも。


 一歩間違えればストーカーだ。

 もしかするといまもつきまとわれていて、莉久はずっと悩んでいたのかもしれない。


「……あ、ごめん。やっぱ紗良ちゃんには伝えるべきじゃなかった」


 黙り込むわたしを見て慌てる西垣くんに、ゆるりと首を横に振る。


「ううん、ちょっとびっくりしたっていうか。そんな話、いままで莉久から聞いたことなかったから」


 言いながら寂しい気持ちになって、ついうつむいてしまう。


「悩んでたなら言ってくれればよかったのに」


「……言えなかったんじゃないかな。特に紗良ちゃんには」


 控えめながらしっかりと西垣くんが言葉を繋ぐ。


「心配かけたくないし、不安にさせたくないって思ったんだと思う。あいつのことだし」


 確かに莉久なら、気を遣って言い出せなかった可能性はある。わたしを信用していないわけではなく。

 負担だなんて思うはずがないのに。


 本当にいつだってひとを優先して、相手の気持ちに寄り添ってくれる。

 わたしのことを大事に考えてくれている。

 そんな莉久の優しさに改めて気がついた。


「でも、よかったよな。命だけでも助かって」


 一拍置いて噛み締めるように言った西垣くん。

 だけど、すぐには頷くことができなかった。


「わたしは……“よかった”なんて思えない」


「えっ?」


「だって、このまま目覚めなかったら────」


 震えた声が詰まって最後まで言えなかった。

 きつく唇を噛み締める。


 このまま目覚めなかったら。

 二度と彼の目に映ることもなく、名前を呼んでくれることもない。

 言葉を交わすことも、想いを伝え合うこともできないのだ。


 それでも、生き延びてくれたという事実を(よすが)にすれば前を向けるのだろうか。

 いったい、死とどっちが残酷なんだろう。




     ◇




 今日は午前で終わりということもあり、大学をあとにすると西垣くんとともに病院へ向かった。


 昨日のように追い返されて会えない可能性はあるけれど、このまま帰っても息苦しいだけだ。

 動かずにはいられなかった。


 廊下を歩いていると、莉久の病室の手前に人影がふたつ見えた。

 スーツ姿の男の人と警察官が何やら話している。


 前者には見覚えがあった。

 昨日、病室へ来た刑事さんだ。


 彼の方もわたしたちの気配に気づいたのか、こちらを向くと「あ」という顔をした。

 警察官との話を切り上げて歩み寄ってくる。


「どうも。お見舞いですか」


 昨晩のように、一見親しげながら線を引くような態度だった。

 笑みを浮かべてはいるものの、端々まで観察されているような居心地の悪さを覚える。


「そんなところです。莉久、まだ目覚めないんですか?」


「ええ、そうみたいですね」


 西垣くんにそう返した彼は「ああ」と思い出したように声を上げる。


「申し遅れました。わたし、今回の事件を担当している正木(まさき)といいます」


 取り出した警察手帳を提示しながら、朗々と名乗った。


 ドラマや映画でしか見たことのない代物に思わず釘づけになる。

 本物の刑事。本物の事件。その渦中(かちゅう)に放り込まれた。

 フィクションじゃないんだ、と現実の重みがのしかかってくる。


「せっかくなので、少しお話しませんか?」


「え……」


 警戒心を全面に押し出した声がこぼれてしまった。

 けれど、想定通りの反応なのか正木さんは動じることなくにっこりと微笑む。


「そう身構えないでください。ほんの雑談です」


 彼に促され、ふたりして廊下の端の長椅子に腰を下ろす。

 そばへ座った正木さんと緩やかに向かい合う形になった。


「おふたりは高原(たかはら)さんとどういったご関係で?」


「莉久とは友だちです。高校のときからずっと」


 西垣くんの(よど)みない答えを、正木さんはいつの間にか手にしていた手帳にメモしていく。

 雑談と言いながら事情聴取の一環なのだろう。


 彼の鋭い眼差しがわたしに向けられた。


「わたしは……同級生です。学部が同じで」


「同級生、ですか」


 何となく怯んでしまい、恋人だとはっきり答えられなかった。

 それさえ見透かしたみたいに意味ありげに繰り返され、気後れしつつも小さく頷く。


 西垣くんが窺うようにわたしを見たものの、わざわざ訂正したり補足したりすることはなかった。


「ちなみにお名前は?」


二見(ふたみ)です。二見紗良」


「二見さんね。一応伺いますが、おふたりは昨日の18時半から19時半の間、どこで何してました?」


 思わず西垣くんと顔を見合わせた。


 “一応”なんて濁しているけれど、きっと一番知りたい本題なのだろう。

 正木さんの双眸(そうぼう)がいっそう鋭くぎらついたように見えた。


「それって、アリバイってやつですか? 昨日も聞きましたよね」


「ええ、西垣さんには確かに伺いましたね。でももう一度教えてくれませんか」


 物腰柔らかなのにどこか圧を感じる。

 西垣くんは「何で」と率直に苛立ちをあらわにした。


「それが我々の仕事なんですよ。同じことを何度も聞いて、綻びが出てこないか見極める。高原さんのためにも協力してくれると嬉しいんですが」


 正木さんはあくまで穏やかに淡々と返す。

 笑いかけられた西垣くんは、けれど不満気に眉をひそめた。


「俺らのことも疑ってるってことですか?」


 その言葉に顔を上げると、正木さんは困ったような顔をする。

 (つくろ)うことのない正直な反応は、ある意味で誠実と言えるのかもしれない。


「……高原さんですが、何度も刃物で刺されてて犯人からは明確な殺意を感じるんです。実はですね、殺人事件の90パーセント以上が顔見知りによる犯行なんですよ。まあ、今回は幸いにも未遂ですが」


 彼はわたしたちそれぞれと同じだけ目を合わせながら言葉を繋ぐ。


「ともかく、だからこそこうしてあなた方にお話を聞いてるわけです。参考人、あるいは容疑者として」


 遠慮のないもの言いだった。

 熱心ながら無神経とも言えるその姿勢に衝撃を受けてしまう。


「何だよ、それ……」


 たまらずそうこぼした西垣くんの声を耳に、気づけばわたしは立ち上がっていた。


「帰ります」


 彼らの顔も見ないまま、きびすを返して病室から遠ざかっていった。

 ぎゅう、と握り締めた手に力が込もる。


 ただ莉久が心配で会いにきただけだったのに、正木さんには、殺し損ねた相手にとどめを刺しにきたとでも疑われているのだろうか。

 なんて不条理な懐疑(かいぎ)なんだろう。


「紗良ちゃん!」


 慌てて追ってきた様子の西垣くんが、隣に並んで歩き出した。

 彼も雑談もとい事情聴取を切り上げてきたらしい。


「……莉久に会わなくていいの?」


 一度振り返ってからそう尋ねられ、ゆるりと首を横に振る。


「病室行ったってどうせ会えないよ。警察もいるし」


 そういう言動を正木さんがどう解釈するのか、先ほどのやり取りを思えばよくない方向であることは明白に思えた。

 一挙手一投足を睨んでいるはずだ。


「何か……嫌になってくるね」


 事件を解決して欲しい、とは確かに思う。

 莉久をこんな目に遭わせた犯人が誰なのか、その目的が何なのか、知りたい。


 そのためにああいうフラットな目が必要なのかもしれないけれど。

 だからって、簡単に割り切ったり開き直ったりできるほど強くはなれない。


「でもさ、紗良ちゃんが顔見せてあげれば莉久も目覚ますかもしれないし」


「それなら昨日の時点でそうなってるよ」


 励ましてくれる西垣くんに、すげない態度を自覚しつつもそう返してしまう。

 感情の整理がつかないせいで、気持ちの半分がふてくされていた。


「……じゃあ、また」


 困ったように口をつぐんだ彼に背を向けると、ほどなくして呼び止められる。


「紗良ちゃんは……ちがうよな?」


 みなまで言われなくても、何を尋ねているのか察しがついた。

 振り向いて彼の顔を見やり、正解だったのだと悟る。


「……わたしが刺したって言いたいの? 莉久を、殺そうと?」


 衝撃の中に動揺が混ざって不安定な声色になった。

 だけど、西垣くんは真剣な眼差しを突き刺したまま無言で続きを待っている。


 殺人事件の90パーセント以上が顔見知りによる犯行。

 そんな正木さんの言葉に引っ張られているのかもしれない。

 中でも恋人や友人は筆頭候補になるだろうから。


 ひとの気持ちを顧みない、懐疑的な正木さんの双眸(そうぼう)と重なって、後発的に怒りが湧いてきた。

 顔は熱いのに手足の先が冷たく硬直していくような錯覚を覚える。


「ふざけないで」


 強気に返したかったのに、言い終わらないうちに泣きそうになって声が震えてしまう。

 素早くきびすを返すと、滲んだ涙を指先で拭って病院をあとにした。




 家に帰り着くと、玄関のドアを閉めた瞬間に限界を迎えた。

 (せき)を切ったように涙があふれ出す。


 ずるずると背中を滑らせてうずくまる。

 悲しいのか腹立たしいのか、あるいは両方なのか分からないまま(むせ)び泣いた。


 唐突に莉久との時間を奪われたわたしは、彼自身と同じく被害者という立場にあるはずだった。

 言いがかりにも似た疑惑を向けられる筋合いなんてない。


 それでも、犯人にたどり着くためには、真相を紐解くためには必要なことだと受け入れるしかないのだろうか。


(どうしてこんなことになっちゃったの……)


 何度目か分からない、そして答えの出ない問いを繰り返す────。


『誕生日、ふたりで過ごそうよ』


 一昨日の朝だった。

 顔を合わせるなりそう言ってくれた莉久は、無邪気な笑顔をたたえていた。


『ケーキとプレゼントと花束と……あとお酒か。とにかく色々買って会いにいくから、紗良は家で待ってて』


『いいの? そこまでしてもらっちゃって』


『当たり前じゃん。特別な日だよ? 誕生日くらい、誰よりも一番幸せでいて欲しいから』


 照れくさそうにはにかむ表情に心がくすぐったくなる。

 花びらみたいに想いが積もっていく。

 莉久の隣は、いつもあたたかくて心地いい。


『……どうしよう。もう既に幸せかも』


 隠しきれずについ本音をこぼすと、ふと彼は優しく笑った。

 次の瞬間には左手が握られていて、繋いだ手から温もりが溶け合う。


『俺も』


 そのとき見た笑顔が蘇ってくると、病室での青白い肌や目を閉じたままの姿に濃く塗り潰された。

 いっそう鮮やかなインパクトが脳を揺さぶる。


 莉久の体温も思い出せないくらい、心細くて恐ろしかった。


 本当だったら、今頃ふたりしてこの部屋で目を覚ましていたかもしれない。

 学校をサボって、遅めの朝食をとって、残りのケーキを一緒に食べて────誕生日の余韻に浸りながら、この幸せがこれからも続くよう願ったりして。


 きっと、莉久がいてくれるだけでこの世界の誰よりも一番満たされていた。

 幸せだと思えた。特別な日じゃなくても。


「莉久……」


 その名前を呟いたとき、西垣くんの言葉がよぎった。


『でも、よかったよな。命だけでも助かって』


 そうだ、と思い直す。

 彼が生きていてくれたことを喜ぶべきだ。


 その瞳に映らなくても、言葉を交わせなくても、この世界にいてくれるだけで救いになる。

 永遠の別れが訪れたわけじゃない。

 わたしたちは同じ時間を歩んでいる。


(……会いたい)


 思い立てば顔を見ることだって、触れることだってできる。


 いままでの“当たり前”が奇跡だったことを思い知らされた。

 失ってから気づく、とはこういうことなんだろう。


 叶うなら、会って聞きたかった。

 いったい何があったのか。


(話せなくても、やっぱり顔だけでも見にいこう)


 正木さんや警察にまた制されたとしても、事情を話せば分かってくれるかもしれない。

 それに、無用な疑いをかけられたって堂々と突き返せばいいんだ。


 濡れた頬を拭い、痺れるほど沈んでいた身体を持ち上げて立った。


 ドアを押し開けると、朝よりも眩しい光に包まれる。

 少し日が高くなっていた。




 病院へ戻る前に彼の家へ寄ることにした。

 いつ目を覚ましてもいいように着替えを取りに向かう。


 白い外壁の北欧風のアパート、その1階の角が莉久の部屋。

 お互いにひとり暮らしで、たびたびそれぞれの家を行き来することがあったから、ここへ来るのにも慣れている。


 預かっていた鍵を取り出しつつ顔を上げたとき、ふとアパートの前に人影を認める。


(誰だろう?)


 メガネをかけた、肩くらいの長さの黒髪をそなえる女性。

 一心に見つめる先にあるのは莉久の部屋のドアだろうか。


 視線に気づいたのか、ふいに彼女がこちらを向いた。

 見覚えはなかったものの、目が合った瞬間に直感的な予感が降ってくる。


(もしかして、西垣くんが言ってた莉久の……)


 元カノ。

 そうよぎってどきりとする。


「あの」


 どうしようか決めかねているうちに、彼女の方から声をかけてきた。

 意思によらず、反射的に警戒心が芽生える。


「もしかして莉久くん……あ、いえ、高原くんの彼女さんですか?」


「そう、ですけど」


 だったら何なのだろう。

 直球な問いかけに対し、怪訝(けげん)な心持ちが全面的に声に乗ってしまう。


 どうして分かったんだろう。

 わたしと同じく、勘が働いたのだろうか。


 あるいは、西垣くんがほのめかしたようなストーカー紛いの行為が事実なら、わたしのことまで調べ上げていたのかもしれない。


 それこそ彼の推測が正しければ、逆恨みの対象には莉久だけじゃなくわたしも含まれている可能性が高い。


 今度はわたしが刺されるんじゃ、なんて内心ぞっと焦ったけれど、予想に反して彼女は大人しいままだった。

 小さく「やっぱり」と呟いたきり、うつむいて動かない。


「…………」


 何だか居心地の悪い、気まずい沈黙だった。


 声をかけてきたということは話があるのではないかと思って待ってみたものの、一向に口を開く気配はない。


 ただ、だんまりを決め込んでいるというよりは、何か言いたげながらその糸口を掴めないでいるように見えた。

 忙しない瞬きと視線は、迷っているようにも窺える。


「あの、失礼ですけど……前に莉久と付き合ってた方、ですよね」


 たまらず確かめるように言うと、そっと顔をもたげた彼女が頷く。


「そうです。……高原くんから聞いてました?」


「あ、いえ。莉久からは何も……」


「そっか、そうだよね」


 眉を下げて淡く笑った。

 その真意や本心がまるで見えなくて、ますます訝しむ気持ちが膨らんでいく。


「あの……どうしてここに?」


 彼に会いにきたとでも言うのだろうか。

 だとしたら、彼女は莉久の状態もその身に起きたことも知らない?


「えっと。それは、その……」


 言い淀む彼女は、言葉を探すようにまたしても視線を彷徨わせる。


 どことなくいづらそうではあるものの、自分から切り上げないところが引っかかった。

 何か言いたいことや話したいことがあるのかもしれない。


「よかったら」


 半ば口をつくような形で声をかけると、メガネの奥で伏せられていた彼女の睫毛が持ち上がる。


「少し、話しませんか」




 近場のカフェに場所を移し、テーブルを挟んで向かい合う。


 アンティークな雰囲気に統一された店内には、昼前でありながらちらほらと客の姿があった。

 吊るされたドライフラワーや照明がシャビーシックな(おもむき)を増している。


 それぞれに注文した飲みものが運ばれてきて、わたしはアイスティーのストローに口をつけた。

 同じようにカフェオレを含んだ彼女は、いくらか落ち着いたようで静かに話し始める。


「あ……わたし、藤井(ふじい)っていいます。藤井由乃(ゆの)。さっきも少し言ったんですけど、高原くんとは前に付き合ってました」


 そういえば名前を聞いていなかった、という認識は、後半の言葉のインパクトに攫われていった。

 理解していたはずだったのに、改めて言われると何だか複雑な心境に陥る。


 藤井さんに嫉妬しているのだとしても、わたしと関わる以前の莉久が垣間見えて寂しいのだとしても、何だか彼女と顔を突き合わせていることそのものが妙だった。

 イレギュラーな感じがする。


 図らずも黙り込んでしまうと、彼女は慌てたように続けた。


「でも心配しないでください。もうとっくに別れてますし、未練とかそういうのはないですから! いま付き合ってる人もいるし」


「……そう、なんですか?」


 意外に思ったのは、西垣くんの言葉があったからだった。


 彼いわく、莉久の元カノである藤井さんは、別れるときも別れてからも執念深く莉久に迫っていたという。


 それ自体は誤解だったのか、あるいは彼女がいま嘘をついているだけなのか、いずれにしても事前に漠然と思い浮かべていた人物像が揺らいだ。

 目の前にいる彼女は、西垣くんの言っていたような印象とは随分ちがっている。


「だけど、じゃあどうして莉久の家に?」


「ちょっと……用があって」


「でも、莉久はいま────」


「分かってます、入院してるんですよね? 事件に巻き込まれて」


 戸惑ってしまい、目を(しばたた)かせる。

 それを知っていながら、彼の家へ何をしに来たんだろう。


 そのこと自体は報道で知ったのか、そうじゃないなら彼女もまた警察から事情聴取を受けたのかもしれない。


 藤井さんは顔を伏せたまま再びカフェオレに口をつけた。

 つ、とコップの表面を雫が伝い落ちていく。


 一拍の沈黙を経て、意を決したように切り出した。


「あの……実はわたし、罪を犯したんです」


 思わず聞き返した声は上ずってしまった。

 驚愕と困惑に包まれながら彼女を見返す。


 まさか、自白だろうか。

 西垣くんの睨んだ通り、莉久に手をかけようとしたのはほかでもない藤井さんだった?


 そんなわたしの考えは全面的に顔に出ていたようで、彼女はすぐさま首と手を振る。


「と言っても、高原くんの一件とは無関係です! もう1年以上前の話だし……」


「……何をしたんですか?」


 そう尋ねると、藤井さんの瞳が揺れる。

 とはいえ告白した時点で打ち明ける覚悟を決めていたのか、ほどなく観念して口を開いた。


「万引きの常習犯だったんです」


「万引き?」


「大学受験のストレスで手を出してから、何かあるたびに繰り返すようになって。欲しくもないものでも、盗むと気が紛れるからやめられなくて……。何度も後悔したけど、気づいたらもう自分ではどうしようもなくなってました」


 深刻な面持ちに気圧(けお)され、口をつぐんでただ聞いていることしかできなかった。


 けれど、もともと理解や共感を求めてはいないようで、彼女は滔々(とうとう)と続ける。


 衝撃的な話だけれど、わたしの問いかけと、あるいは莉久の一件とどんな関係があるんだろう。


「捨てるに捨てられない盗品がどんどん溜まっていって。なのに、結局また同じことをしてしまう。その頃でした。わたしと高原くんが付き合ってたのは」


 彼の名前が出てどきりとした。

 当たり前かもしれないけれど、莉久からそんな話は聞いたことがない。


「わたしからは言い出せなかったけど、高原くんに気づかれたみたいで、何度も説得されたんです。お店に謝罪して、商品を返しにいくかちゃんと買い取ろうって。俺もついていくから、って」


 実際にそんな状況に置かれたら、彼はきっと迷わずそう言うんだろう。

 容易く想像がつくほど、実に莉久らしい言葉だった。


「でもわたしは……そんなこと怖くてできなかった。バレたら人生が終わる。だから、ひとりで行くって断って」


 藤井さんは一度言葉を切ってうつむく。


 一時的とはいえストレスを忘れることができたから、スリルに伴う瞬間的な高揚感の(とりこ)になったんだ。


 それでもきっと、長いこと罪悪感や自己嫌悪を引きずって(さいな)まれてきたのだろう。

 莉久の言葉が正しいと分かっていたからこそ、盗品を売ることも捨てることもできずに。


「……結局、いまもそのまま?」


 窺うように尋ねるも、彼女は首を横に振った。


「わたし、大学辞めて就職することになったんです」


「えっ?」


「学費とか生活費とか(まかな)えなくなって……。だから、これをきっかけに後ろめたい過去を精算しようと覚悟決めたんです。溜まってた盗品をぜんぶ、お店に返しにいくことにしました」


 唐突に話が飛んだような気がしたものの、内実(ないじつ)ちゃんと繋がっていた。

 背筋を伸ばした藤井さんは、けれど、またすぐに目を落とす。


「でも……お店側のデータと照らし合わせても、いくつか足りないことが分かって」


「それは、藤井さんが盗んだものとは限らないんじゃ?」


 思わずそう言うと、彼女は再び首を横に振る。


「わたしです。ものに心当たりがあったから」


「何だったんですか?」


「化粧品……リップです。それが数本」


 そういうことなら、確かに断言したことにも納得がいく。

 藤井さんは言葉を繋いだ。


「家じゅう探したけど見つからなかった。だから、もしかしたら前に高原くんの家で落として忘れてきたのかもって」


 ありえない話ではないと思う。


 莉久の家に目星をつけたのは、万引きを繰り返していた時期と交際のタイミングが重なっていることからして不自然じゃない。

 藤井さんがいままで気づかなかったのも、盗品そのものに意味があるわけではないから頓着(とんちゃく)していなかったせいだろう。


 たとえばソファーや棚の下なんかに転がり込んでいたら、動かさない限り莉久も気づかないと思う。

 いまでもそこに放置されている可能性はあった。


「まだあるならどうしても返して欲しくて、高原くんにお願いする隙を窺ってたんです。メッセージアプリのアカウントは連絡取れなくなってたから、勝手にSNSのアカウント調べたりもして」


「それでコンタクト取ってたんですか?」


「いえ……その前に今回の事件が起きてしまって」


 理解はできたものの、そう簡単に納得のいく話ではなかった。

 結局のところ最初の疑問は解消されていない。


「それなら、何のために莉久の家に……」


「入れないって分かってたけど。もし警察とかが来て、捜査なんかでそのリップが見つかったらわたしが疑われるかもしれないと思ったから」


 つまり、鍵を破って不法侵入をしてでも回収して、我が身を守りたかったということだろう。

 その方が色々と問題があるような気がするけれど。


 確かに、少し調べるだけでそのリップが盗品であることはきっと掴まれてしまう。

 当時のメッセージのやり取りなんかが残っていれば一目瞭然だし、履歴を消したとしても手遅れだ。


 万引きのことを莉久が知っていたと言うのなら、就職という転機に際して、過去の過ちをバラされるのを恐れて殺そうとした、という動機になりうる────かもしれない。


「考えすぎだと思いますけど……」


「そんなの分からないでしょ。顔見知りってだけで疑われるんですよ」


 感情の込もった彼女の反駁(はんばく)には、何も言い返せなかった。

 わたしも同じ理由で懐疑(かいぎ)を向けられたということもあり、説得力がある。


「分かりました。じゃあ、いまからもう一度行きましょう」


 そう言うと、藤井さんははっとしたように顔をもたげる。

 わたしの言葉が相当意外だったみたい。


「いいの……?」


「わたしに打ち明けてくれたってことは、信じてみてもいいのかなって」


 口封じが目的だったなら、わざわざわたしにまで洗いざらいさらけ出す必要なんてないと思う。

 隠しておきたい過去が明るみに出るリスクを高めるだけだ。


 だからこそ、藤井さんは犯人じゃないのではないか。

 そんな考えが強まっていた。


「ありがとう」


 彼女は心の底からほっとしたように息をつき、泣きそうな表情をたたえる。

 何だか大げさにも思える反応だけれど、それほどまでに思い詰めていたのかもしれない。


 当初の警戒心が緩んで、肩をすくめつつ小さく笑い返した。




 莉久のアパートへ戻ってくると、今度こそ鍵を使ってドアを開ける。

 部屋からは慣れ親しんだ彼のにおいがして、最初よりいくらか平静を取り戻すことができた。


「どうぞ」


 振り返って促すと、どことなく緊張気味な様子で藤井さんは頭を下げる。

 おずおずと玄関に足を踏み入れて「お邪魔します」と呟いた。


 ────彼女の万引きという“罪”に関しては、彼女自身に落とし前を委ねるべきだと思った。


 自身の過ちを反省して、いまからでも(しか)るべき判断をとった藤井さんを、無関係なわたしが警察に突き出すことなんてできない。


 だからこそ、盗品を回収したいというその意思を()んで尊重することにした。


 莉久の部屋はオーソドックスな1Kの間取りで、玄関から伸びた廊下に沿ってキッチンがある。

 突き当たりのドアを開けると、リビングや寝室を兼ねた洋室が広がっていた。


 彼は比較的几帳面な性格で、いつ来ても部屋が散らかっているということはない。

 今日も例に漏れることなく綺麗に片付いていた。


 たとえばここで争ったような形跡だとか、誰かに荒らされた様子だとか、トラブルがあったような痕跡はない。


 けれど、ひとつだけいつもとちがう点があった。


「ん……?」


 ソファーの前に置かれたローテーブルの上に、カードのようなものが置かれている。

 顔写真付きのそれは運転免許証だった。


「あ!」


 あれ、と思っているうちに藤井さんが声を上げる。

 目にも留まらない速さで踏み出して、奪うようにその免許証を手に取った。


 突然のことに呆気(あっけ)にとられていると、はたと我に返った彼女が誤魔化すように肩をすくめる。


「これ、わたしの……。なくしたと思ってたけど高原くんが拾ってくれてたんだ」


「え? でも、それ────」


 思わず手を伸ばすも、それを避けるべく藤井さんがあとずさった。

 免許証をしっかりと両手で握り締めながら。


「あ、ごめんなさい。写りが悪いからあんまり見せたくなくて」


 ひと息で言いきって、持っていたショルダーバッグにねじ込む。

 素早くきびすを返すと、逃げるように廊下へと出ていってしまった。


「ま、待って。リップは……?」


 それが本題であり本命のはずだ。

 思わず背中に投げかけると、ぴたりと足を止めた。


「探さなくていいんですか?」


「いいです、やっぱり今度で。じゃあ」


 困惑したまま尋ねるものの、半分だけ振り向くに留まった彼女は、早口で切り上げて玄関の取っ手に手をかける。


 今度は止まることなく家を出ていってしまい、慌てたような足音はすぐに遠ざかって聞こえなくなった。


 戸惑いに明け暮れるわたしは、つい呆然と立ち尽くしてしまう。


 どうしたんだろう。

 何だか急に様子がおかしくなった。


 あそこまで深刻に思い(わずら)っていたというのに、今度でいい、だなんて妙だ。

 それこそいつ捜査の手が及ぶか分からない以上、その“今度”がある保証はないのに。


 不思議に思って首を傾げつつも、ひとまずさておくことにする。

 当初の予定通り莉久の着替えを準備すると、紙袋にまとめて家を出た。


 鍵をかけようとしたとき、ふと足元に何かが見えた。

 小花柄の水色のハンカチ。


(何だろう?)


 来たときにはなかったはずだから、もしかすると藤井さんが帰り際に落としていったのかもしれない。


 そう思って拾い上げようと触れた瞬間、指先に衝撃が走った。

 電流が流れたように痺れる。


「なに……!?」


 頭の中にノイズ混じりの不鮮明な映像が流れ込んでくる。


 ────涙ぐんで何かに怯える藤井さん。

 そんな彼女が誰かと話している様子。相手の顔は(もや)がかかったようにぼやけて見えない。

 それから、彼女が自身の頬をこのハンカチで押さえている様子。


 弾かれたように手を引っ込めた。

 映像はそこで途切れ、指先の痺れもほどなくおさまっていく。


(なに、いまの……)


 断片的なつぎはぎの記憶とも言える。


 少なくともそんな場面をわたし自身は知らないし、想像のしようもない。

 だとしたら何だったんだろう。どういうことだろう。

 何が起こったのかすらよく分からない。


 慌てて立ち上がって見回してみるけれど、藤井さんの姿はもうどこにもない。


「……っ」


 わけが分からなくて、動揺から心臓が早鐘(はやがね)を打つ。

 何となくためらいながらもハンカチを手に取ると、逃げるように病院へ向かった。




 莉久の病室に面した廊下へ出ても、そこに警察官の姿はなかった。

 正木さんをはじめ刑事たちもいない。


 無意識のうちに構えていた身体から少し力が抜ける。

 取っ手を掴むと、そっとスライドさせて扉を開けた。


 カーテンの引かれた室内は薄暗く、時間も判然(はんぜん)としないような空間になっていた。

 扉を開けたことで、ものの輪郭をふちどっていた影が隙間へと逃げていく。

 けれど、閉めるとまたあらゆるものを暗く覆った。


「……莉久」


 近づいて呼びかけてみるものの、返事も反応もない。

 分かっていても悲しくなるほど冷たい沈黙だった。


 (かげ)るその顔には色がないように見えて、言い知れない不安が込み上げてくる。

 たまらずカーテンを少し開けると、()せた空間に射した光で彩りが戻った。


 彼は相変わらず蒼白に近かったものの、ちゃんと生身(なまみ)の顔色をしている。

 そのことにほっとして、だけど、少なからず落ち込んだ。

 生きているということが、当たり前の前提ではなくなってしまったから。


「着替え、持ってきたの。適当にしまっとくね」


 紙袋を掲げつつ言うと、ベッドの横にある備えつけの棚を開けた。

 病院側で用意してくれているものと混ざらないよう、袋のままそこに入れておく。


 それから傍らの椅子を引き寄せると、そっと腰を下ろした。


 扉の向こう側にしか音のない、静かな病室。

 じっと見つめていると我を見失いそうになるほど、深く眠る彼の姿がじりじりと心を焼いていく。


「ねぇ、莉久。誕生日……終わっちゃったよ」


 目を閉じたままの表情は寝顔ともちがって見えて、何だか知らない人みたい。


「本当ならふたりで過ごすはずだったのに、何でこんなところにいるんだろう」


 彼は答えてくれない。教えてくれない。

 特別な一日の思い出になるはずだった昨日をぶち壊した、その出来事の一切を。


「……わたしね、何もいらなかった。ケーキもプレゼントも花束も。莉久がいてくれるだけでよかったのに」


 思わずそうこぼすと熱と力が込もり、真っ白な布団にしわが寄った。

 ぎゅう、と握り締めるほど線が濃くなるけれど、滲んだ涙でぼやけて薄まる。


 もう泣きたくなんてなかった。

 何もかもを受け入れて、悲観することになりそうで。


 唇を噛み締めたそのとき、ガラ、という音とともにささやかな光が射し込んでくる。


 反射的に顔を上げると、戸枠のところに女の子が立っていた。

 まだ小学校にも上がっていないくらいと見受けられる小さな子だ。


(誰だろう……?)


 女の子は、病室にいるわたしとベッドの上の莉久を見比べ、びっくりしたような表情で固まっている。

 わたしは立ち上がると、扉を閉めることもできないで立ち尽くす彼女に歩み寄った。


「どうしたの?」


 屈んで目線を合わせようとするも、反対に女の子はうつむいてしまう。

 自信なさげな、不安そうな様子だった。

 小さな両手でスカートの裾を握り締めている。


「ママ、は……」


 消え入りそうなほどの声だったけれど、確かにそう言ったのが耳に届いた。


「お母さん? ここに入院してるの?」


 そう尋ねると、女の子はこくりと頷く。

 察するに母親の病室と間違えてしまい、焦りと動揺で萎縮(いしゅく)しているのだろう。


「もしかして、お母さんの病室分かんなくなっちゃった?」


 こく、と再び小さな頷きが返ってくる。

 推測にたがわず迷子のようだった。


「大丈夫だよ。わたしと一緒に探そっか」


 手を差し伸べながら笑いかけていて、ごく自然と笑えたことに内心驚いた。

 思いのほか理性はまともに息をしており、感情に押し流されることなく現実を見ているのかもしれない。


 女の子の手が重なると、しっかりと頷き返して病室を出る。


「名前、なんていうの?」


「……みお」


 初めて意思の伴う眼差しが返ってきたけれど、ゆらゆら不安気に揺れていた。

 みおちゃん、と繰り返してみると彼女はもう一度頷く。


 ぎゅ、と繋いだ手に力が込められた。

 縋るような気配を感じて、いっそう柔らかく微笑みかける。


「大丈夫、すぐ会えるからね。お母さんの名前はなんていうの?」


「えっと……」


 みおちゃんから聞いた名前を頼りに、各病室横に掲げられたネームプレートを確かめていく。

 色もデザインも一律の扉が並んでいては、小さな子が迷子になるのも無理のない話かもしれなかった。


 あたりを見回しながら、ゆっくりとした歩調で進んでいく。

 ふと、みおちゃんが口を開いた。


「……おねえちゃんは、パパが入院してるの?」


「え?」


 一瞬きょとんとしてしまってから、ああ、と思い至る。

 病室で眠っていた莉久の姿を見て、男の人だからパパなのではないか、と考えたのだろう。


「ううん、パパじゃないよ。でも……大事な人、かな」


 幼い子の手前、余計な心配をかけないよう空元気で適当に誤魔化すこともできた。

 けれど、気づけば素直にそう答えていた。

 純真な眼差しに感化されたのかもしれない。


「そうなんだ。早くなおるといいね」


「うん……ありがとう」


 舌足らずながらまっすぐで優しいみおちゃんの言葉は、だからこそ余裕を失った心に染みた。


 思えば、この悲劇とも言える事態に巻き込まれてから、ただ寄り添ってくれるような言葉をもらったのは初めてかもしれない。


「あのね、ママはね────」


「みお!」


 ふいに背後から慌てたような声がして、ふたりして振り返る。

 若い男の人の姿を認めると、みおちゃんが「パパ」と呼んだ。

 するりと手をほどいて駆け寄っていく。


 みおちゃんを抱きとめた彼の目がこちらに向いて、わたしはとっさに会釈を返した。


「すみません。みおちゃん、迷っちゃったみたいで」


「あ、とんでもない。こちらこそすみません、迷惑おかけして……。ありがとうございました」


 父親と思しき彼は、頭を下げると「ほら、みおも」と促す。

 みおちゃんは彼の手を握ったまま、明朗(めいろう)な笑顔を咲かせた。


「ありがとう、おねえちゃん。またね!」


 ほっとしたのかすっかり元気を取り戻し、小さな手を一生懸命振ってくれる。


「うん、またね」


 わたしも笑顔と一緒に手を振り返すと、彼にもう一度会釈をしてきびすを返した。


 みおちゃんの無邪気な言動に浄化されたような、期せずして救われたような、どことなく清々しい心持ちで莉久の病室へ戻る。


 ────日暮れ前まで彼に付き添って、病院を出た。


 眩しいほどの夕日が景色をオレンジ色に染める中、帰りのバスに揺られる。

 もう少しすると夜の藍色に押されて、跡形もなく飲み込まれていくんだろう。


 ふと、みおちゃんに思いを()せると、莉久と過ごしたいつかのことが蘇ってきた。


 あたたかい春の日だった。

 咲き誇る桜が見頃だからと彼に誘われて、ふたりで近場の公園に出かけたことがある。


 花逍遥(はなしょうよう)にそぞろ歩いていると、目の前を駆けていった子どもがふいに転んだ。

 あ、と思って半歩踏み出した頃には、莉久がその男の子の傍らに屈み込んでいた。


『大丈夫?』


 声を上げて泣き喚く男の子の背をさすりながら、お父さんとお母さんは? とか、立てる? とか、穏やかに声をかける莉久。

 彼がすべてに首を横に振ったのを確かめると、その正面に屈み直した。


『よし、じゃあ乗って。そこの水道で傷洗いにいこう』


『痛いからやだ!』


『洗わないとばい菌が入ってもっと痛くなるぞ』


 男の子は観念したのか、顔を歪めながらも莉久の背中にもたれかかるようにして乗った。

 背負って立ち上がったのを見ると、わたしは足元に残された荷物を拾ってついていく。


 明るく励ます言葉と笑顔を目の当たりに、思わず頬を綻ばせていた。

 好きだなぁ、なんて改めて実感して嬉しくなる。

 莉久と出会えたこと、心を通わせたこと、この気持ちに気づけたこと────。


 きっとみおちゃんに対しては、そんな莉久を想像して接していた部分があったと思う。

 彼だったら、あんなふうに話すだろうから。


 莉久は優しい。

 そんな彼が刺されるなんて、誰かに恨まれていたなんてやっぱり信じられない。


(西垣くんは藤井さんが怪しいって言ってたけど……)


 彼女と話した限り、莉久への未練や執着といったものは感じられなかった。


 西垣くんの示唆(しさ)したような、ストーカー気質で、嫉妬や逆恨みが高じて犯行に及ぶひととはやはり思えない。

 大人しくて、どちらかと言えば臆病な性格に見えた。


(……そういえば)


 ふと思い出して、バッグの中からハンカチを取り出す。

 “あれ”は何だったんだろう。


 あのとき、ハンカチに触れた瞬間、記憶のようなものが頭に浮かんだのだ。


 不可解で衝撃的な出来事だったのに、何だか意識から抜け落ちていた。

 ふいに我に返った気分だ。


(まさか、藤井さんの記憶が宿ってたとかじゃないよね?)


 そんなの現実味がないし、万が一そうだとして、どうして触れて読み取ることができると言うのだろう。


 そう思うのに、なぜか心がざわざわと騒ぎ始めていた。


(……あれ、何だっけ? 何か聞いたことあったような)


 記憶をたどるまでもなく、自ずと耳の奥にわたしたちの会話が響く。


『面白かったね、あの映画』


『ね。よかった、俺が観たくて誘ったから退屈してないか不安だったけど』


 莉久とある映画を観にいって、近くのファミレスで遅めの昼食をとっていたときのこと。

 客の姿は少なく、映画の余韻(よいん)もあってゆったりとした時間に浸っていた。


 眉を下げて笑う彼に「ううん」と首を横に振る。


『自分では選ばないジャンルだから新鮮だったよ。わたし、ああいうの結構好きかも』


『本当? 何か嬉しいな、それ』


 言葉通り嬉しそうにはにかんだ莉久に笑い返す。

 こういう素直なところが愛らしくて、心がくすぐったくなる。


 作品の内容は、特殊能力を持つ警察官の主人公がそれを使って難事件に立ち向かう、というものだった。

 サスペンスものでありながら、相棒との絆が試されるハートフルな側面もあって、気づいたら夢中になっていた。


『あの主人公の能力、実際にあったら便利だろうなぁ。触れるだけで情報を読み取れるなんて』


 しみじみとわたしは言う。


『知りたいことぜんぶ分かるんだもんね。嘘とか秘密とかも通用しないし、未解決事件なんてなくなりそう』


『そんないいもんかな? そう都合よくはいかないと思うけど』


 はしゃぐわたしに対して莉久は苦笑していた。


 確かに、あの主人公も周りの人物に能力を信じてもらえなかったり、知りたくないことまで見えてきたりして苦悩してはいたけれど。


『えー、じゃあ莉久はその能力欲しくない?』


『うーん、欲しいとは思わないかな。悪いことばっかでもないんだろうけどさ』


 困ったような笑みのまま肩をすくめる。

 何だか曖昧で、納得も反発もできなかった。


 だけど、彼はたまにそういうやわい笑い方をするときがあった。

 決して冷たくはないのに、やんわりと距離を感じさせる。


 壁とはいかないまでも、何か透明な幕のようなもので隔たれている気分になる。

 見えない以上、こじ開けようもない。


 ふぅーん、と相づちを打ちながらフォークにパスタを巻きつけると、おもむろに彼が言葉を繋ぐ。


『紗良は欲しいんだ?』


『欲しい! そしたらなくしものしても困らないし』


『そういう使い方か』


 ふっと笑った莉久はいつも通りで、(かげ)りが晴れていた。

 穏やかな調子で続ける。


『でも、それだと俺たちいまこうして一緒にいなかったかも』


 あ、と思わず声が出た。

 きっと、いや、絶対にそうだ。


 わたしたちが話すようになったきっかけは、わたしがなくした鍵を莉久が見つけてくれたことだった。


 ────これ、きみの?


 血の気が引くほどの思いで講義室や教室を探し回っていたとき、そう声をかけてくれたのが最初の会話。

 もし、わたしにそんな能力があったら、彼と話すこともなかったはずだ。


『そうだね、確かに。同じ学部ってだけで、他人のままだったかもしれない』


『そう考えると不思議だよね。奇跡って案外、偶然の積み重ねだったりして』


 それなら、わたしたちが一緒にいるのは必然と言えるのかもしれない。

 数多(あまた)の分岐点で、偶然同じ方向を向いてきた奇跡のお陰でいまがあるのなら。


『じゃあ、いまが一番だね。やっぱり欲しくなくなっちゃった。あの能力……なんて言ったっけ?』


 ────“サイコメトリー”。


 記憶の中の莉久の声が、先ほど抱いた疑問に対する答えとして降ってくる。


(そうだ、サイコメトリー……)


 物体に宿る“残留思念(ざんりゅうしねん)”というものを、触れることで残像(ヴィジョン)として読み取る能力。


 あのとき観た映画の主人公は、確かそんなふうに説明していた。

 想いや記憶、思考、感情、そんなものが残留思念に含まれるという。


 つまり、このハンカチには実際に藤井さんの記憶や感情が宿っていて、触れたわたしの頭の中にそのヴィジョンが浮かんできたのだと考えられる。


(……ううん。まさか、そんなはずない)


 わたしにはサイコメトリー能力なんて特別な力はないのだから。

 ありえない、と思う反面、それ以外に説明がつかないのも事実。


 あのとき浮かんだ記憶の残像が脳裏をちらつき、ちぐはぐに乱反射する。


(だけど……)


 はやるように心臓が早鐘(はやがね)を打って、ハンカチを持つ手に力が込もった。


 もし、この能力が本物だとしたら────。

 莉久に触れれば、事の真相が分かるんじゃないだろうか。


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