第三十五話 リリィ視点 幸せの果ては
それぞれの家族とのやり取りは、おおむね予想通りにことがすすんだ。と言うと傲慢に聞こえるかもしれない。特にエレナのお家は前から少々特殊な立ち位置にいて、今回もこちらから謝罪に行く立場なのだから。とはいえ、私が生まれるよりずっと前から王家への忠誠を違えたことのない家だ。申し訳ないくらい向こうから頭を下げているので、お互いなんとか丸く収めるということに感情的にはともかく、頷いてくれるだろうとは思っていた。
エレナが空気を読まず私を見つめて来たり、エレナが感謝を言い出したりと、読めないところはもちろんあったけれど、逆にそのおかげで空気はかなり良かったと思う。誰も私たちの不幸を望んでいるわけではないのだから、誤解の余地がなかったのはよかった。
そうして急ぎ片づけたい懸念点はおおむね解消された。他にもないではないけれど、早急に全てとはいかない。今できることは終えたので、ひとまずはこれにて枕を高くして眠ることができる。
ということで、私は目先のエレナとの旅行に集中することができた。
エレナは海をことさら楽しみにしていたようで、私もそれは同じだった。魔王が現れるまでは私は毎年旅行をしていたけれど、それも全て限られた範囲の話だった。十二分に恵まれていた自覚もあったし、さらにその外に行こうなんて考えたこともなかった。
見たことのない景色には私も胸を高鳴らせていた。そして杞憂から解放されたこともあってか、海はとても美しかった。
どこまでも続くような水平線も、透けるような青空も、どこまでも広がっているようで、世界の広さと同時に、人の自由さと言うのを感じられた。私は今、自由を得ているのだと、言葉ではなく実感する。
青空を通り過ぎるように、羽を広げた鳥が飛んでいる。王都では見ないこんなに背の高い建物から見てもわかるほど大きな帆船がいくつも海を渡っている。その遠い景色はエレナを思わせた。エレナのどこまでも自由で、眩しいくらいなのに目が離せなくなって、ずっと見ていたくなる。そんな、素敵な景色だった。
そうして景色に感動しながらも横を見ると、機嫌がよさそうにエレナはいつでも私を見てくれている。
エレナは遠くではなく、いつでも私の手が届く場所に、触れ合える距離にいる。それを実感する旅行だった。エレナはいつも堂々としていて、気負うことなく私と距離をつめてきた。
恥ずかしいけれど、来たこともなく私を知る人がほぼいない開放的なこの地の雰囲気にあてられて、私もずいぶん釣られてはしゃいでしまった気がする。
そして、極めつけには、エレナと口づけを交わす仲になった。あのタイミングを逃してしまえば、一生口づけもない夫婦となる可能性すらあり得たので、後悔はない。ないけど、エレナは少しばかり調子に乗りすぎな気がする。
あんなにキスをして、飽きないのか。少しは飽きてほしい。私はいつまでもなれる気配がなくて、旅が終わってもいまだにドキドキしてしまうので。私から促したようなものなので、もう少し減らしてほしいなんてことはとても言えないけれど。
だけど仕方なかったのだ。じっと見つめてくるエレナを見ているとドキドキと胸が高鳴って、どうしようもないくらい他の何も見えなくなって、私とエレナしかこの世界にいないような、他のことを考えられない状態になってしまっていたのだ。
そんな状態で理性がうまく機能するはずもなく、ついつい、もう一歩進んで、口づけをしたいとはしたないことを思ってしまうのも仕方ないことだ。
私がそう感じる以上、エレナも同じことを考えている、ということまでは見つめあっていると思考がまわらないのだけど、さすがに何度も繰り返されると、何かしら言いたいことがあるのだと察するものがある。
だからって私から言うのもはしたないとは思うのだけど、エレナがタイミングを見ていたなんてあまりに可愛らしことを言うから、可愛すぎて、私は今すぐキスをしたくてたまらなくて、急かす様にせがんでしまった。
思い出しても、恥ずかしい。いえ、まあ、私の方が年上なのだから、たまにはそうやってリードしてもいいとは思うのだけど。他ならぬエレナが喜んで幸せそうにしてくれているのだから、悪いことは何もないし、むしろそうすべきと言う理屈もあるのだけど。
それはそれとして、やっぱりものすごく恥ずかしい。
なのに、エレナときたら平然としている。いえ、平然は言い過ぎにしても、余裕たっぷりだ。私ばかり恥ずかしがっている。
なので以前から計画していたエレナのお誕生日祭で驚かせるだけではなく、エレナにも恥ずかしがってもらおうと積極的にエレナにちょっかいをかけた。
エレナは二人きりだとあんなにぐいぐい来るくせに、使用人がいると大したことがないことでも気にしているようだったので、私の急遽追加した計画も大成功した。
最初から予定していた指輪もちゃんと喜んでくれた。もっとも、ダイヤモンド、永遠の絆。そういう意味だってちゃんと言っているのに。私がエレナから永遠に愛されたいと願っているからそれを選んだのだ、というのが伝わっている気はしないけれど。恥ずかしいから、伝わってなくてもいいのだけど。
まあとにかくそうしてエレナのお誕生日のお祝いは大成功したのだけど、エレナときたら短いお祭りの間にすっかりなれてしまったようで、使用人がいても気にしないようになってしまった。それ自体は貴族として普通のことなので構わないのだけど、ついには使用人の前で口づけてきてしまった。
明らかにやりすぎなのに、エレナときたらきょとんとして不思議そうな顔すらしていて、まったく憎らしいほど可愛い人だ。
そんな風にして、時間が過ぎていった。エレナと一緒にいると、驚くほど速く時間が過ぎていく気がする。ただ黙って刺繍をしているだけでも、ふと一息つくときに傍にエレナがいる。それだけで全く気持ちが違う。日々が彩られたようだ。
こんな風にずっと一緒にいられたらいい。そうは思う。だけど、ふとした時に思ってしまう。いつまでこんな生活を続けていけるだろうか、と。
今のエレナの気持ちは疑いようがない。これだけはっきりと示されて、熱いほどの気持ちを肌で感じているのだから。
だけど、その気持ちが永遠の保証はない。いつか、つまらない私に気づいて飽きてしまうかもしれない。そうでなくても、熱い気持ちなんてずっと続くものでもない。恋人になり、家族にも話を通したうえでの婚姻状態なのだから、それを解消する気はない。
結婚まではエレナになんら責任はないとはいえ、その後、私と恋人になったのはエレナの意志なのだから、その責任はとってもらう。だけど、それは気持ちをつなぎとめるものではない。
こんなのは、馬鹿な考えだ。そんなことを言えば、何もできなくなる。結婚する人なんていなくなるだろう。そもそも死ぬまでこんな風に愛されたいなんて言うのは贅沢が過ぎるというものだ。今、エレナを独り占めしている。エレナが私を求めてくれている。それだけで、私の人生を捧げるくらいの価値は優にあるというのに。
エレナがあんまりに愛おしくて、可愛らしくて、素敵な人だから。この幸せに終わりが来てほしくなくて、このまま時がとまってほしいと、そんな無茶を願ってしまう。
エレナの傍にいられて、幸せだ。だからこそ、この幸せの果てがどうなるのか、わからないことが不安になる。今まで私の人生になかったほどの、言葉に尽くせないほどの幸福だからこそ、いつかのことを不安に思ってしまう。
馬鹿な話だ。そう思うのに、幸せであればあるほど、ふとした時に、エレナと離れる短い時間に、そんな不安を抱いてしまうのだ。
この憂いも、いつかなくなるのだろうか。人をこんなにも好きになったのは初めてで、自分の感情なのにちっとも制御できる気がしない。こんなに気持ちがあがったりさがったりと乱高下を繰り返してしまうなんて。
結婚するまではこんな気持ちとは無縁でいられた。淑女らしく感情を見せない微笑みを絶やさないでいることも得意だった。将来一人で静かに暮らすのだとして、何も問題がないと思ってすらいた。でも今は、こう思う。あの頃の私は諦めていただけだ、と。
感情を抑えるのが得意だったのではなく、単にそれほど大きな感情がなかったのだ。制御できないほどの気持ちがなかった。ただそれだけなのだ。
「はぁ……」
なんて風に、ため息をついてしまうのも、エレナのせいだ。夜になり、入浴してあとは眠るだけなのに、今日は珍しくエレナが遅い。そのせいで一人寝室でもんもんと無駄なことばかり考えてしまう。
こんなことを考えたって仕方がない。私にできるのはせいぜいエレナの気持ちを引き留めるためにできるだけのことをするくらいだ。一人でただ漫然と待っているから、思考が変になってしまうのだ。
「お待たせー」
「……ふぅ。今日はずいぶん遅かったのね」
と脳内でそんな風に結論付けてこれ以上の思考をとめようと試みたところで、ようやくエレナがやってきた。寝室のドアを遠慮なく開けて、にこやかな笑顔だ。お風呂上りでほんのり赤らんだ満足げなエレナを見ていると、愛おしさと共にほんのり責める気持ちも湧いてくる。
もちろん、エレナには何の非もない。私が勝手に不安になって、勝手に気落ちしているのだ。だからその気持ちは仕舞い込んで、私はそう問いかける。
「ふふふ。なんでだと思う?」
「? なにかあったかしら?」
得意げに胸をはるエレナに、純粋な疑問が浮かぶとともに、私の中で渦巻いていたもやもやした思いがおさまっていく。エレナが傍にいれば、こんな気持ちは湧いてくる隙もない。そのいつもの様子にほっとしながら、内心を気取られないようにゆっくりと首を傾げて見せる。
「んふふ。じゃあ、ヒントね」
「!」
エレナは可愛らしい笑顔を浮かべながら、そう言って私の隣に座ると、ぎゅっと私を抱きしめた。エレナの胸元に顔をうずめるような形だ。薄い夜着なので、胸当てをつけていてもエレナの柔らかさがわかるし、その先の鼓動が聞こえそうだ。だけどそれ以上に自分の鼓動がうるさくて、全然頭が回らない。
「どう? わかる? いつもと違うでしょ?」
「え、ええ、そうね……」
この状態で間違い探しを!? お、落ち着くのよ私。こんな状態と言うことは、視覚情報ではない。もちろん夜着でのこの姿勢になれているわけがないので、その柔らかさということもないだろう。
目以外の五感で、と考えたところで、ふんわりと甘い匂いが鼻先をくすぐった。なんとか思考をまわしだしたことで、嗅覚がもどってきたらしい。普段エレナはもう少し爽やかな匂いを好んでいる。いつもの違いと言えばこれしかないだろう。いや、もちろんエレナの匂いを普段からこっそり嗅いでいるなんてことはないのだけど。
「匂い、よね?」
「せーかい。この間街に出た時に、私、香油買ってたでしょ? それが届いたから、さっそく使ってみたんだ」
「そうなの。それで遅かったのかしら?」
「うん、ちょっと匂いの加減とかわからないのと、入る前にどれにするか悩んでて。そんなに待たせてた? ごめんごめん」
「そ、そう謝ることはないけれど」
私の答えに抱きしめるのをやめて顔をあわせ、にぱっと笑うエレナはそう言って笑いながら軽く謝ってきた。
別に、待ち合わせをしていたわけでもないし、実際に長時間というわけではない。せいぜい十五分少々というところだろう。私が勝手に、首を長くして待っていただけだ。なので謝らせるのも申し訳ない。ほんとうに、エレナの前では、全然感情がコントロールできない。
「気に入ったのがあって、よかったわね?」
「私は、と言うより、リリィは? 気に入った?」
「え? そうね。いい匂いだと思うわ」
「いつもの匂いよりいい?」
「……私の好みに合わせることはないのよ? 自分のことなのだし」
「えー、そんなつれないこと言わないでよ。リリィが好きな匂いになって、もっとリリィに私のこと好きでいてもらいたいだけなんだから」
「……」
本当に、この人は。エレナが向けてくれている愛情に私がこの上ない幸せを感じているというのに、エレナはあっさりと、もっと好かれたいと言う。もうエレナは私にとって、この世界で誰よりも一番なのに。他の何かと比べることすらおこがましいほど、エレナしか見えていないのに。
なのにもっと、私に好かれようとするなんて。可愛すぎる。愛おしさがあふれて、私は熱が上がってしまったかのように頭がぼうっとしてしまう。
「馬鹿ね。……何をつけていたって、あなたはいつでもいい匂いをしているのよ」
「え? そ、そうなの?」
「そうよ。本当にあなたは、わかってないわね」
「まあそれは、匂いって同じ香油でも人によって変わるから、自分ではよくわからないし? でもその、いい匂いと思ってもらえてるならよかったよ」
「もう、本当に、馬鹿なんだから」
エレナへの思いがあふれて私なりにそのまま気持ちを伝えたつもりだったのに、まだまだ全然伝わっていないらしい。苦笑してしまうけれど、だけど、そんなエレナだから余計に、愛おしくてたまらない。
私はそっとエレナの手を取って持ち上げる。鼻先に近づけて、手の甲から手のひらまでその匂いをかぐ。しっとりしたエレナの手触りはもちろん、まだはっきりした甘さの香りの奥にあるエレナのいつもの匂いを感じて、くらくらしそうだ。
そんな自分の理性の揺らぎをごまかすように、そっとエレナのその手のひらにキスをしてから、両手で抱きしめる。
「大好きなエレナの匂いだから、どんな匂いでもいい匂いに決まっているでしょう? 私がどれだけあなたを好きか、本当に、全然わかってないわね」
何をつけていても、いい匂いに決まっている。香油の奥にある、エレナ本来の匂いがいい匂いなんだから。エレナのことが好きすぎて、どんなエレナも大好きで、エレナからする匂いはなんだって好きになるに決まっているのに。
「リリィ」
エレナへの愛おしさと共に答えを教えてあげると、エレナはどこかはっとしたように私の手を握りかえしながら私の名前を呼んで、残った片手を私の腰に回して抱き寄せ、やや性急に口づけた。
こうして私はエレナの匂いに包まれながら、もやもやした気持ちもとっくに消え去って何の憂いもなく、心地よい幸福と共に今夜も眠りにつくのだった。




