涙
職場は移動により、実家から通える距離の支社勤務になっていた。
あの日のことを私は思い出して眠れぬ夜を過ごしていた。
「詩織ちゃん、今日はごめんね。呼びだして……。」
「いいえ、お元気そうで……。」
「ありがとう。あのね、実はもう一人来るのよ。」
「どなたですか?」
「私の夫なの。」
「……あの……ご夫婦のお時間に…お邪魔ではありませんか?」
「そんなこと無いわよ。夫が貴女に会いたい!って言ったんだから……。」
「そうなんですか……?」
「もうすぐ来るから……先に頂きましょう。」
「いいんですか? お待ちしなくて……。」
「いいのよ。先に始めててって言われてるから…。」
「そうなんですね。」
「何にする?」
「揚げ出し豆腐で!」
「じゃあ、私もそれにするわ。それと、ビールでいいかな?」
「はい!」
先輩と二人で食べ始めると、先輩のご主人様が来られた。
「待たせたね。」
「あなた! 遅いわよ。」
「初めまして。私は…。」
「知ってるよ。詩織ちゃん、だね。」
「はい。」
「今日はね……。」
「話は後で! 先ずは座ってよ。」
「そうだね。」
「美味しいわよ。揚げ出し豆腐!」
「そう? じゃあ、俺もそれで!」
食べて暫くすると……。
「詩織ちゃん、経理畑なんだよね。」
「はい。」
「入社以来……。」
「はい。」
「実はね、君に俺達と一緒に来て貰いたいんだ。」
「?」
「俺達夫婦は会社を辞めて、起業することになったんだ。」
「それは……おめでとうございます。」
「ありがとう。」
「それでね、君をヘッドハンティング!って訳なんだ。」
「勿論、今の会社の方がお給料はいいわ。
先も分からないと言ったら、その通りなのよ。
でもね、詩織ちゃんが何か今の生活に感じていたなら……
職場を変えるのも手だし……。」
「どうかな? 少しだけでも考えて貰えるかな?
因みに会社の早期退職者対象の起業を希望して会社からもOK出たんだ。」
「希望して……承諾されたら支援を受けることも可能という……。」
「そう! その制度を利用するんだ。」
「この制度、今年が最後なのよ。」
「そうですね。」
「だから、考えて欲しいんだよ。」
「……お話、ありがとうございます。」
「じゃあ!」
「でも、申し訳ありません。」
「駄目なの?」
「すみません。先輩……。」
「何か……理由があったら教えてよ。」
「……理由……。
実は、父は祖父の代からの小さな会社を経営してたんです。
でも、知人の連帯保証人になって……その方が逃げて……。
借金が大きくて……廃業しました。
その時に、私は結婚のための資金を……父に全て渡しました。
お付き合いしている方には何も言わずに別れました。
借金が残っていて大きかったからです。
それから、両親は母の実家近くに引っ越して勤め始めました。
私は両親とは別にアパートに住むようになって、仕送りをしました。
やっと借金が全額返済したのですが……。
両親が相次いで亡くなりました。
私は……今の会社を辞めたら……貯金は無いので困るのです。
私の老後のために少しでも貯金したいのです。
だから、辞めることは考えられません。
………すみません。」
「………ごめんなさい。知らなかったことばかりで……。
……頑張ったのね。今まで……。」
「貯金か………。欲しいよね。当たり前だ。
分かった。今は諦める。
……今は無理でも……先になって退職したいと思ったら……
俺達に声を掛けてくれるかな?」
「……ありがとうございます。」
「本当にいい子だな。」
「そうでしょ。」
「あいつが言ってた通りだ。」
「あいつ?」
「知ってると思うわ。同期でしょ。」
「同期?」
「悠真……真瀬悠馬だよ。」
「………ゆうま………。」
「どうしたんだ?」
「どうしたの?」
「すみません。帰ります。本当にすみません。」
「詩織ちゃん……具合悪くなったのね。
送っていくわ。」
「いいえ! 大丈夫ですから……お二人でゆっくり過ごされてください。」
「詩織ちゃん、心配だわ。」
「大丈夫です。ほんとに大丈夫……失礼します。」
帰りながら涙が出て来た。
顔を人に見られないように伏せて歩いた。
⦅あぁ……あの日も……泣いてばかりだった……。⦆
そして、今夜も私は涙で枕を濡らしていた。




