【002】ただいま
清々しい気持ちだった。
アリシアが深呼吸をすると、自然の香りがした。草のにおいだ。空気のにおい。ありのままの、人の手が入っていないにおい。
(……ただいま)
ここがずっとアリシアの場所だった。
裏には小川があり、夏になるとそこに足を浸して涼んだりした。
皮膚に傷がつくと痛いのだと学んだのもそこだ。
視界の端に、壁に立て掛けてある箒が映る。これが掃除用具だと知ったのは割と後になってからで、しばらくは鞭のようなものだと思っていたっけと懐かしく思う。
当然、当時は鞭の存在も知らなかったので、暴力を振るうものだと認識していたという話だが。
柄の部分で思い切り頭を殴られると、目の奥に火花が飛び散るのだ。首や顎も痛い。背中を打ちつけると呼吸もままならなくなる。
反撃したことはない。
そんなことをすれば、倍以上になって返ってきたことだろう。
だから、やり返そうと思ったのは今回が初めてだった。権力者を味方につけてちょっと痛いところを突いてみたら、この家の持ち主はあっさりすべてを失ってしまった。
あんな人間たちに支配されていたのかと思うと、失望する。それぐらい、一切手応えがなかったのだ。本当に、一切。
けれど、今、アリシアは穏やかな気持ちだった。
自分を貶めた奴らを懲らしめることができたから。自分が生まれてきた意味はなんだったのだろう? という疑問に対する答えはきっとない。
同じ境遇にあっても、努力して、その意味を見出せる人はいるに違いない。だが、自分にはできなかった。それがすべてなのである。
その責任まで誰かに押しつけるつもりはない。
もし自分でなければ、誰か――そう、例えば婚約者ぐらいとはうまくやれたのではないかと思うのだ。自分でさえなければ。
まあ、こんなことは後でならいくらでも言える。
あのまま恨みを押し殺し、レイノルドと共に過ごせば、人間らしいまともな生活を送ることもできたかもしれないが――アリシアはすでに選んだ。
未練はない。
(ああ、気持ちいい……)
板の隙間から風が吹き込んできて、柔らかく頬を撫でる。
長く住んでいた小屋の壁に寄り掛かるようにして座り込み、アリシアは静かな気持ちで目蓋を下ろした。
一方、その頃。
バーナム公爵邸では騒ぎが起きていた。
「お前はそのまま行かせてしまったのか?」
父公爵が険しい表情を浮かべて訊ねる。
「引き止めては……いけないような気がして」
「『引き止めるのが怖い』の間違いだろう、それは」
息子の気持ちをよく理解する父に指摘され、レイノルドは重く溜め息を吐いた。
「……そうですね」
間違っていない。
彼女の去り際に名前を呼んだが、それで引き止められるとは思っていなかった。
ただ怖かった。
彼女にとって、自分が何者でもないと突きつけられるのが。
――だって、愛してしまった。
愛してしまったのだ。
いつの間にか。
それが本来の彼女ではなかったと言われても、もう遅い。彼女の存在そのものを愛しく感じていた。
「アリシアちゃん……」
父フィリップの横で静かに聞いていた母ヴェロニカが、心配げに眉尻を下げる。
二人ともアリシアとは面識がある。
婚約者として紹介したそのときから、二人はアリシアのことをいたく気に入っていた。美しく、教養があり、礼儀正しいので当然の結果だろう。
だが、その教養の裏に何が隠されていたかなど、知る由もなかった。
公爵家後嗣の婚約者として、契約を結ぶ前にある程度の調査は入るわけだが、生家で隔離されるように過ごし、酷い扱いを受けているらしいことはわかっても、あの小屋で受けた仕打ちの詳細までは調べようがない。
なにしろ目撃者がいないので。
これについて、他に重大な罪を犯したアリシアの家族に尋問したところ、具体的なことはほとんど出てこなかったという。というのも、日常的に嫌がらせをしすぎて、覚えていないというのだ。
「ちょっと叩いたことはあったかもしれないわ」「小突いてやったぐらいよ」「床に突き倒したらしばらく起き上がらなかったことはあった」と、まあ、こんな調子で、本人たちにも深刻な暴行を加えているという自覚はまるでなかった。
そこに、あれだ。
生々しく語られたアリシアの感情。
何も言えなかった。
言うべきでないとも思った。
ただ、自分も憎まれていたのだと理解した。
当然だとも。
彼女の境遇を思えば、自分が無自覚に発した言葉がどれほど酷いものだったのかわかる。
知らなかったのだから仕方ないだろうと開き直ることはできなかった。知っていようが知っていまいが、彼女の心は傷付き、壊れてしまった。
ほかでもない自分がそうしたのだと思うと、絶望した。
「これで終わりか」
短く、フィリップが息子に問い掛ける。
「でも、あなた。……レイとの婚約は終わりでもいいけれど……」
ヴェロニカが言いたいことを理解し、レイノルドは頷いた。
「――アリシアを捜します」




