爆走する車輪
線路の上を独り爆走しながら、車輪は思う。自分の最期はどんなものだろう。レールが果てまで真っ直ぐに続いているなら、いつか自分が折れて倒れ込み、ガランガランと拙い音を立てて、無情にもある係員に収集されるに違いない。しかしここは、踏切の多い、都心から少しだけ離れた住宅地である。周囲には人の暮らしが息づき、日常が脈打っている。
毎日走り続けた経験はこう言う。この先一キロもないところに、確かに踏切がある。
車輪は思案する。自分がその踏切を通過する時、果たして踏切は閉まるだろうか。それとも開いたままなのか。閉まればまだしも、もしも開いた線路に踏み込んだ人々の足を次々と踏み倒してゆくようなことがあれば、無機質な車輪であってもそれは許されない大罪である。車輪生を踏みにじる悪行であり、全く不名誉なことだった。
たとえ閉まったとしても、どんな顔でその場を駆け抜ければ良いものか。結局のところ、辱めを受けながら通り過ぎるか、そこで果てるか、そのどちらかの道しかない。通行人は異様な光景に驚くか、あざ笑うのか、それとも興味もくれぬのか。
車輪は重い思考に沈みながら、鉄が軋む音を聞いていた。乾いた音が、軸に刻まれてゆくのを感じ取る。これ以上、速くもならず、重くもならず、そんな自分に圧し掛かるこの重責の正体は一体何であろうか。周囲の景色が目まぐるしく変化してゆく。屋根に罹ったたなびくブルーシート、小さな公園で寄りかかる電線の数々、今も渦巻く黒い雲。あの軽やかな存在には、私は決してなれなかった。あの無邪気な気持ちに共感することもできなかった。あの伸びやかな環境に、私は足を踏み入れることも許されなかった。
だが、ふと車輪は気づいた。自分は、ただの金属の塊に過ぎない。感情もなければ、意志もない。ただ、決められた道を走り続けるだけの存在。それなのに、なぜこんな考えが頭をよぎるのだ。なぜ、自分の最期を恐れるのだ。まるで、自分が自分のために生きているかのような錯覚に囚われている。
やがて、踏切が視界に入ってきた。警報が鳴る気配はなく、遮断機も降りる気配がない。仕組みは分からぬ、だがあれが降りなければ、あれは私の存在など物とも思わなかったというのと同じなのだ。車輪はその異常な光景を目に焼き付けるように見つめた。もので無しが通る。人で無しであることは、とうの昔から知っている。もので無しが、危険な速度でここを通る。ここで人々は道を譲らなければならぬ。さもなくば、私は血塗られた冴えない刃と同じ運命となる。人は、もので無しのために命を失う。
その時、車輪はある奇妙な感情に包まれた。もし自分が、道を誤ることなく、何の障害もなく通り抜けることができたとして、それは果たして自分にとっての利なのか、それとも害なのか。踏み倒すことなく進むことが正しいのだとしても、何かを犠牲にしてまで走り続けることに、本当に意味があるのだろうか。
車輪がその問いに答える間もなく、踏切は完全に無視を決め込んでいた。車輪は無言のまま、その瞬間を迎える。轟音とともに、線路を駆け抜ける。ただ前へ、ただ無心に。
人は、いなかった。
その瞬間、車輪は悟った。最期がどんな形で訪れようとも、車輪には一つの使命がある。それは、止まることなく走り続けること。ただそれだけが、車輪に与えられた唯一の運命なのだと。どれほど重い思いを抱えようとも、どれほど多くの踏切を越えようとも、車輪はその道を進むしかない。
それが車輪生であり、同時に死でもあるのだ。行け、息絶えるまで、力強く、そして誇り高く。
自分に与えられたこの道を、最後まで走り抜けるのだ。それが、車輪として生まれた者の宿命なのだから。
この車輪は間もなく、暗黒の雲からかすかに見えた雷に打たれ、真っ直ぐな線路の上で力尽きたという。