71 ヴェーラー
「あの娘、あまりにも無礼ではありませんか?」
もう一人、気配を消して隠れていた男が、ローディアの背後に現れた。
ローディアはこちらにも気づいていたが、騎士の男は気づいていなかったようだ。それほど実力のある者をレナに付けていなかったのだろう。怪しげな真似をしないか、見張らせていたのだろうが。
「ローディア様?」
「ただの平民です。気にすることはありません。それよりも、なにかありましたか?」
「ヴェーラーがお呼びです」
ローディアは目をすがめる。毎日一度は顔を見せに行っているのに、呼び出しとなると、そろそろ覚悟が必要なのだと言われている気がした。
「すぐに参ります」
冷えた廊下を歩いて、警備の濃い場所へと移動する。扉の前の兵士が頷いてノックをすると、チリンとベルの音が届いた。扉が開かれて、ローディアはその中に入っていく。
天蓋のあるベッドに横たわっているのは、老年の男だ。ゆっくりと瞼を開けて、ローディアを見遣ってから瞼を一度だけ下げる。近寄れの意味に、ローディアはベッドの側まで寄って膝を突いた。
「まだ、薬の出所はわからないか?」
「申し訳ありません」
声はかすれて聞きにくい。そのため耳をそばだてなければならなかった。
ひゅーひゅーと濁った音も聞こえる。呼吸は浅く、息苦しそうだった。
「そなたが大神官になる前に、なんとか終えたいものだったが」
その言葉を聞いて、ローディアはなんとも言えない気持ちになった。
次期大神官。それは、現在の大神官が、ヴェーラーとして立つということ。
ヴェーラーがしわだらけの指を震えながら差し出した。その指が届くように、頭を下げると、冷えきった指が額に触れる。
「そなたを次期大神官に命じる」
「謹んでお受けいたします」
額に光が当たり、かすかに温もりを感じた。
ヴェーラーは疲れ切ったのか瞼を下ろして、ゆっくりと呼吸をした。先ほどよりもずっと深く、長い、けれど静かな呼吸を。
まるで、永遠の眠りにつくように。
「ヴェーラーの体調が思わしくないようだな」
部屋から出て廊下を歩いていれば、向こうから近づいてくる人の良さそうな男が、落胆したように息を吐いて問いかけてきた。
「なにかお言葉を?」
「いいえ。部屋に参りましたが、すぐに眠りにつかれました」
「そうか。覚悟はしておいた方が良いのかもしれないな」
男はそう言って、眉尻を下げて残念そうに肩を下ろすと、ヴェーラーの部屋の前へ進んだ。兵士が同じようにノックをし、扉を開ける。
なにが、覚悟なのか。
内心喜びに溢れていて、それが漏れないように静かにしているだけだろう。
大神官、ルーロフ。次期ヴェーラーとなる男。
ルーロフを大神官として命じたのは現ヴェーラーではなく、前ヴェーラーである。息を引き取った後、遺書に記されていた。現ヴェーラーは当時大神官で、前ヴェーラーが突然死去したため、繰り上がりでヴェーラーとなった。
そこに問題はない。問題は、ルーロフだけだ。神官としてそこまで目立った功績も残していなかったのに、なぜか大神官に命じられる。当時大神官だった現ヴェーラーは訝しんだが、遺書に残されていたのならば従うしかない。大神官になってからも、特段おかしなことはない。大人しすぎるほど静かなだけで。
一つだけ。たった一つ。大神官になれるほど、癒しの力は強くないことが問題だった。
あれならば、フェルナン・アシャールの方が余程力があるだろう。
「様子は?」
警備がされた扉を過ぎ、螺旋階段を長く歩いた頂上の部屋に入り込むと、控えていた女がスッと立ち上がった。
「一度目を覚まされましたが、また眠りにつかれました。特に問題はありません」
特に問題はない。これ以上良くなることも、悪くなることもない。
美しかった銀髪はくすんだ灰色になり、目の下に深いしわが刻まれている。鍛えられた体は筋肉が落ち、老人のように細く痩せ細っていた。
聖女から魅了を受けて、正体を失った若き王、エルランド。若い頃の美貌は見る影もなく、今は眠っているだけに過ぎない、生きる屍のようだった。
一時期は昏睡状態が続き、長い間目が覚めなかった。その後意識を取り戻しても、正気を失ったまま。ヴェーラーの癒しの甲斐なく、今でも自分が何者かわかっていない。結局、会話もままならない状態で、ずっと。
「哀れだな」
国の衰退を招いたエルランドは、人々に忘れられたまま、長くこの場所に閉じ込められている。聖女の魅了の力が強かったせいだと長年言われてきたが、同じ症状を持った者がインテラル領で見つかった。
インテラル領主。彼は長い間、怪しげな薬を摂取し続けていたという。
薬の出所は未だわかっていないが、その症状と、エルランドとの症状は酷似していた。
それは、聖女に魅了された者たち、ほとんどの者に通じること。
「今さら、薬のせいだとして、なにか変わるわけではないが」
しかし、それに神官が関わっている可能性が出てきた。
インテラル領で使われた薬が、もしエルランドや、他の魅了された者たちにも使われていたとなれば、話は違う。
ヴェーラーが聖女出現を予言した。そして実際に聖女は現れた。なんの力を持っているのかわからない状態で、そのうち魅了の力を持っているのではないかと囁かれた。だが、今ではその力が本当にあったのか、ヴェーラーは疑い続けている。自らが聖女と指名しておきながら。
インテラル領主の事件が起きたのは僥倖だった。長きにわたり、魅了ではないかもしれないと口にしていたヴェーラーの言葉を立証できるかもしれなかった。
だが、もう時間がない。
ヴェーラーは万能ではない。その上、次期ヴェーラーはルーロフだ。
「ふ、あれがヴェーラーとは、世も末だな」
あの男が異世界人の出現を予言するのは無理だろう。
現在のヴェーラーですら、聖女しか予言できていない。その上、聖女という称号を与えたが、魅了の力などなく、なんの力もない女性の可能性もあった。異世界人で、特異な能力を持たない者は今までいない。異世界人であれば、必ずなんらかの力を持っていたからだ。
思い浮かぶ顔は、平民にしては妙な度胸のある少女。
レナは魔法すら使えない。自分の身を守ることができないため、神官からリリックを与えられている。できることは、料理くらいか。王子の舌を満足させることができる腕。
気になることをあげるとすれば、多くのことに疑問を持っていること。知識欲が強いのか、この国についてや、異世界人ばかりを気にして、調べ物をする。
今回は、王族についてだった。なぜ、王族を調べようと思ったのだろう。
「王族の成り立ちから、系譜か。系譜を確認する意味はなんだ?」
インテラル領の平民ながら、グロージャン家の次男と懇意にしている。グロージャン家と言えば、当主の弟が聖女の護衛をしていた。その関わりで親しくしているのかと思い、グロージャン家の話を出したが、それは知らなかったようだ。
聖女の側に残っていた者たちの多くは死んでいる。聖女を嫌がって辞めた者もいたようだが、生き残った者は少ない。多くの者たちに非難され、殺されたり自害したりしたからだ。その中で一番非難を浴びたのが、護衛騎士だった。
当時グロージャン家の次男だったその男は、護衛騎士を担っていたが、聖女が断罪された時、城を去っていた。既に護衛騎士を辞していたからだ。聖女を守る気力がなくなったと言って、批判を受けながらもグロージャン家に戻っていた。しかし、当時の当主に縁を切られ、家を出たまま。今は郊外でひっそり生きているという。
レナは、異世界人のことを調べているが、関係者に関わろうとはしていない。
ただの興味か、それとも。
「うう、う」
ベッドで眠りながら、エルランドは時折唸り声を出す。眉をしかめて、顔を歪める。まだ、悪夢を見ているからだ。
聖女が断罪され、エルランドは倒れた。その時の衝撃で永遠に眠り続けるかと思われるほど、長い間意識を失っていた。
聖女の美しさに目を奪われたのは本当なのだろう。
ローディアは、一度だけ聖女に会ったことがあった。
聖女のために作られた、美しい庭園で一人、静かに景色を眺めていた。
金の長い髪を背中に流し、長いまつ毛を伏せてから、幼いローディアに気づいた。儚げな女性。
『迷子かしら?』
美しい姿に似合うドレスを着ていたが、輝くような装飾は着けていなかった。幼児の視線に合わせるために座り込み、柔らかに微笑む。
『僕、お名前はなんて言うのかしら?』
伸ばされた手に、宝石のついた指輪はない。貴族の母親のように、肌に擦れば傷付くような指輪をしていない。抱き抱えられても、嫌な匂いがしない。吹きかけられた香水に鼻が痛くなることもない。心落ち着くような歌声を披露して、安堵させるようにゆっくり体を揺らす。
ただそれだけなのに、心が安らぐのを感じた。
あれが魅了だったのか?
自分の記憶は古く、幼い子供であったため記憶は曖昧だ。
けれど、今でも良く覚えている。淡褐色の瞳が美しく、その色に吸い込まれそうになった。
それを魅了と言うならば、聖女の力は安らぎを与えるものだ。
だが、それを確かめる術は、もうない。




