57−3 雪の中
「……ナ。レナ!」
遠くから聞こえる声が誰のものなのか。気づくのに少しだけ時間がかかった。
白の世界の中に、黒髪の男が見える。青白い顔で玲那の名前を呼ぶのは、
「フェルナン、さん」
フェルナンを呼べば、フェルナンは顔を歪めた。苦しそうな、泣きそうな、嫌悪と安堵がごちゃ混ぜになったような、複雑な表情。
「……大丈夫か?」
「……大丈夫、です」
頭が痛い。ぼんやりとしたまま起き上がり、周囲を見回せば、そこは真っ白な世界だった。
白銀に囲まれたその場所で、地面には雪はなく、乾いた草を踏み付けている。フェルナンが溶かしたのだろう。辺りは雪景色だ。吹雪いているのか、木々もなにも見えないほど白い。けれど雪は落ちて来ず、なにかに守られているみたいに、玲那とフェルナンを避けて雪が降っていた。
「祈祷師のお祈りですか?」
「ただの結界だ。気分は? しばらく気を失っていた」
「大丈夫です。すみません。フェルナンさんが助けてくれたんですね。ありがとうございます」
フェルナンは小さく息を吐いて、力を抜いたように隣に座った。
落ち着いて、周囲を見回す。不思議な光景だ。球状にガラスがはってあるように、雪が入ってこない。窓から外を眺めているかのように、雪どころか寒さも入ってこない。暑くも寒くもない空間で、足元の地面にも雪がなく、乾いた草が座るのに丁度よくしなだれている。乾かしてくれたのか、座っていても不快ではない。
目が覚めないため、待っていたのだろうか。申し訳ない。もう大丈夫だと立とうとすれば、フェルナンが玲那の腕を引っ張った。
「ホロリードに放り投げられて、崖下に落ちたんだ。この吹雪では方向がわからない。魔物もいる。動かない方がいい。すぐに暗くなるから、明日まで待つ」
「ひえ。申し訳ありません」
そういえば、雷の音が聞こえた気がした。ピングレンが鳴いて雷が鳴り、雨ではなく雪が降り出したのだろう。オクタヴィアンたちも建物に戻ったはずだと言われて、しゅんと肩を下ろす。どうやら足手まといになってしまったようだ。
最初から足手まといだったけれども。
カバンは離さなかったか、斜めがけカバンも腕にかけていたカバンも無事だ。中を確認する。全ての荷物が落ちていったわけではなかったようだ。植物などを包むための布や、ちょっとした保存食は入っている。斜めにかけていたカバンは入口を紐でしばっておいたので、中身は無事だ。財布も落ちていない。
飛ばされてもカバンは無くさなかったことに安堵する。
頭の上にリリも戻っていた。飛ばされてリリも驚いたに違いない。
「あの時、なにか投げただろう。なにを投げたんだ?」
「激辛睡眠薬です」
「……は?」
「暴漢退治用のお薬で、お粉を吸い込むと激痛にくしゃみとよだれが止まらなくなり、咳をすればさらに吸い込み、おねむになるという」
「そんなものを投げたのか? バカなのか??」
「人間には効いたんですけど、あの木のお化けには即効性なかったですね」
至極真剣な顔でバカかと問われて、言い訳を述べてみる。
激辛成分はあの木のお化けにも効いたはずだ。睡眠薬は効かなかったかもしれないが、目に当たったおかげで、激痛が走ったに違いない。眠ってくれれば楽勝だったのに。巨大な魔物相手では、量が少なすぎたのだろう。
「違う。そんなものを当てたら、あんたが飛ばされて当然だろう?」
「地面に、ぽいって捨ててくれると思ったんですよ。なのに、ずっと掴んだままで。おかしいなあ」
「おかしくない。死ぬところだったんだぞ」
確かに、一瞬死ぬかもと思った。走馬灯のようにこの世界の生活を思い出したりはしなかったが、また死ぬのか。という呆気なさは感じた。さすがに二度目の死は、しょうがないよね。という諦めの境地だったようだ。
「やり残したことは、ぐつ煮風呂。お代払ってないのに、材料用意させてしまっている。申し訳ない」
「わかっているのか!? 危なかったんだ!!」
「は、はい!」
フェルナンが問い詰めるように大声を出した。冗談では済まないと、危機迫るように怒鳴られて、その迫力にびくりと体を震わせる。それを見て、フェルナンが大きく横に息を吐いた。
呆れさせてしまったようだ。
死ぬことは怖くないとは言わないが、そんなものかと思った。受け入れるのが早かったと言うべきか。フェルナンにいらぬ心配をかけた。目の前で知り合いがどこかに飛ばされては夢見が悪いのだし、驚いて助けてくれたのだろう。
よくわからない勢いで飛ばされたのに、フェルナンが受け止めてくれたのか。さすが超人すぎる。しかも、崖下に落ちてどこも痛くない。怪我があっても治してくれたのか?
「フェルナンさんは怪我ないんですか?」
「は?」
「だって、どこから落っこってきたの? 大丈夫でした? 私、前より体重増えてますよ、きっと。肉もありますよ? どの高さから落っこって無事なの? 足とか痛くないですか!?」
前に三階から飛び降りても無事だったが、重力どうなっているんだ。あと足の筋肉とかどうなっているんだ? 勢いよく飛ばされて、それをどうやって受け止めて崖下まで落ちたのだろう。謎すぎる。とりあえずフェルナンに怪我はなさそうだが、つい上から下まで見ると、べちりと顔を叩くように押された。
「なにもない。じろじろ見るな」
「大丈夫ならいんですけどー」
「あんたの話だ。まったく、いちいち無謀なんだ」
「はあ。いい手だと思ったんですけどねえ」
「どこがだ! ……はあ、もういい。問題ないなら、少し待っていろ」
フェルナンは言うと、するりと結界を抜けた。牡丹雪がフェルナンにばちばちぶつかるが、フェルナンは気にしないのか、白の世界に消えていった。
「めちゃくちゃ、べちょべちょに雪かぶってたよ。大丈夫なの、あの人? さすがに風邪引くんじゃ?」
どこへ行ったのだろう。ここで待機すると言ってたし、迷子になるから危険だと言っていたのに、目印もなにも持たずにどこかへ行ってしまった。
大きな音も寒さも遮断する結界の中、一人ポツンと残されれば、急に寂しくなってくる。
周囲は白の景色だが、先ほどより暗くなっている気がした。どれほど気を失っていたのだろう。昼食を食べたあと、しばらくした時間にあの木の魔物に出会った。あと数時間ですぐに暗くなる。この時期は夜になるのが早いようで、太陽を見る機会が随分と減った。夜は長く、朝も暗い時間が続くからだ。太陽系と似たような世界ならば、北に位置するのだろうか。日照時間が少なすぎる。
暗い間、しかも雪が降って視界が悪い状況では、移動は難しい。ならば明日の朝、雪が止んで、日が昇る頃にならなければ、移動できない。雪で方向もわかりにくい。
「フェルナンさん大丈夫なのかな。方向わかるのかな? ホワイトアウトじゃ、ここに戻るのも迷子になりそうだけど」
移動できるならば、皆のところに戻れるような気がするが、もしかしなくても、玲那が足手まといになって二人では移動できないのかもしれない。それは有り得る。なにせ崖下。フェルナンだけなら一人で登れるかもしれないが、玲那が荷物になって、この吹雪では難しいのかもしれない。
「しまったなあ。また、お料理案件が増えてしまった。おいしいお料理作らなきゃ。もうお礼がそれしかできない」
それにしても、フェルナンにはため息ばかりつかれている気がする。
「前も、あんな顔させちゃったな」
あれは心配の顔だったのか。
フェルナンのような超人からすれば、玲那はか弱く見えるのだろう。実際その通りだし、だからこそリリをくれたのだ。無謀なことばかりしているのだから、気になるに違いない。
「魔法がねー。普通に使えるのならばねえ。ビットバぶっ飛ばすわけにはいかないし。魔法使えないって最初に言っちゃったしなあ」
今更、ビットバ飛ばせます。とは言えない。ビットバは魔法かわからない攻撃の技。魔法と違うと言われては困る。やはり黙っているしかない。申し訳ない。
「フェルナンさん、どこまで行っちゃったんだろ」
待っている間に、お腹が合唱しはじめた。カバンの中をあさって、燻製にしたお肉のささみを取り出す。腹の足しになるほど持っていないが、ないよりましだろう。フェルナンが帰ってきたら、これを食べよう。
他になにがあるか、ごそごそ探していると、遠くで何かが光ったのが見えた。




