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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

異世界令嬢

婚約とは安寧では無いと気付いた令嬢は、森の奥で幸せを見つける

 とりあえず気付いた事が一つある、私はぶたれたらしい。 


「サラタ・ラタサ! 貴様ァッ! どこまでも目障りにルーインの前をうろつく、煩わしい魔女めが!」


 私の視点では当然見えないが、この頬は赤く腫れあがっているだろう。

 顔についた猿の尻。そう思えばまだ笑えるのだろうか。




 その日、定例会のように開かれるパーティーはいつもと様相が違う。

 何故かと言えば単純明快に、パーティー会場である王宮、その主人のお子たるラーテン・ロゥ・レスタ・パラセコルト王子の国民が記念すべきお生まれの日であるからだが。しかし、その主役とくれば品も無く声を荒げ、ある女性の盾となる姿勢だ。

 

 己で崩した私の見目など眼中に無いのは、間違いのない。

 

「俺の! この俺の腕が守る価値のあるこのルーインのッ! その麗しい体は貴様が汚染したのだろうが!! 貴様が如き女の浅はかさが見ぬけん俺なものか、魔女の悪癖など失せ絶えてその身事に無くなればよいことだ!!!」


 その様の一体どこに王子たる品性があるものか。

 だが、彼は演じている。本気で自信程がこの世の最もあるべき王の子の姿、次期国王である品格と。

 酔いしれる様は見るに堪えるが、私以外にはまさしく彼が英雄であり、その後ろにおわす麗しきが現人の神たる化身なのだ。

 非常に出来の良い演目に、思わず血が冷える。いや、彼にとっては生まれながらの冷血の私か。


 殿下の背後に震える少女、その可憐さの名はルーイン・ミレータ男爵令嬢。

 評判は近頃によく聞こえる。特段、特定の殿方とは睦まじいらしい。

 パッチリとした眼、庇護欲と劣情の肌色の良さ。

 その容姿を褒めるに枚挙に暇が無いとはこの事と言える。のだろう。

 まるで爪先の蜘蛛のような愛らしさ。巣に罹る殿方には思わず心を震わせる寒気。

 

 成程に成程。ある種納得の同情だ。



 私が父に母に叔母に伯父に、極めつけは長年の使用人にまで訴えられた願いは一つ。


 王子との婚礼。


 畏れ多くも侯爵家の血筋に連なってしまった不出来な魔女は、王子が見初めたと幸いに、その身を分不相応に王族の架け橋として送り込まれた。

 間者だろう? ドレス姿の灰かぶれ。

 所詮に蝶よ花よと育てられた小僧様のお心なぞ、掴んで見せろとお達しが下ったのだ。

 が、その実として手にしたものは一人前の無様のみ。

 化粧はお嫌い? だから、頬に紅葉も咲かせてくれたか。これも成程。

 

 しかし上辺の化粧に囚われ、己の全てに白を纏った女の正体は見抜けないようだ。


「その目障りの極まる所も見えん女の処遇に、寛大にも俺の聖女は永久の退場を願って終わりにすると。わかるか? その目に雫を滾らせ心を崩した少女の頼み!!」


 わからない。


「貴様に相応しきを与えると言った! この俺の慈悲を以って魔女には緑が似合うとなッ!!」


 傍らに聖女様を抱き寄せた。

 集められた観客がグランドフィナーレに喝采を上げる。

 ああ、なんと素晴らしい芝居だか。思わず喉の奥まで熱いものがこみ上げてくる。

  

 そのご尊顔にブチまけてしまうのも惜しいくらいだ。



 ◇◇◇



「今日ここで、全てを改めよと仰せだと。流石に殿下は世をお知りで感服致します」


 目に見える光景には目を奪われる。

 なにせそうだ、人の手の通わぬ大地と緑と。その様はなんと雄大だ。

 生い茂る事限り無く、その森に矮小な人間など挟み込む術は無い。あふれ出る涙は大地に帰らず。

 唯一の人工は掘っ立て小屋のようなボロ屋敷。

 屋敷? ……屋敷だろう、貴族が住めば。


 我が家名に傷物あり。

 しかし、王族の勅命故に切り捨てる事叶わず。

 それが、今の私でしょう。明日の私とも呼べる。喜ばしい事に明後日以降も同じだ。


 私を吐き捨てた馬車の遠ざかる音が心地よく響く。

 悪しき魔を討った騎士の如く凱旋の気分を、恐らく手綱を握りしめて味わっている事だろう。

 その姿を見るのは森の木々達だが、果たして……。


 夢から醒めましょう。


 誰かが言った気がした。



「こちらにお顔を拝見させて頂きたい」


 振り向けば、そこにいたのは。……どちら様?


「この俺に、いえ、貴女がお気になさらないなら仕方がない」

「失礼ながら、見ての通りの女です。お声を掛ける相手はこの森になぞいらっしゃらないはず」

「そんな、そんな事は無い! 俺が、俺がここにッ!!」


 その見目の良い殿方は必死だった。


「落ち着きになられて。貴方様の気安いお言葉でお声を下されば結構。私はただ、森の木に過ぎません」


 そう言うと、少しだけ落ち着いた様子を見せた。


「では、まずはお名前を。そしてこの私に何か御用でも?」

「え、ああ。俺は……」

「はい、何でしょうか」

「ウイル。……そう、ウイル・ティリーク。この森に立ち寄った男だ」

「そのティリーク様がどのような気まぐれで、このウドにお声を?」

「そうような卑下はご遠慮願いたい。貴女は木は木でも立派な大樹であるはずだ。それに、貴女は聖女。ならばその身に宿すは、精霊や神霊に近い力ではないのか」

「ふむ、どうでしょう。それは、そのようにお考えになられるのは、私が魔女だからですか?」

「違う。……貴女は美しい」


 戯れの言葉を下さったその殿方の容姿は、正しく美麗だ。

 袖から、首元から覗かせる白磁の肌に透ける様な水色髪。切れ長の目元からは鋭い眼光が覗く。

 その口元は微笑みを称えているが、どこか冷徹に映る。まるで氷の彫像のような美しさだ。

 

 しかし、どなたか? とんと見覚えは無い。

 私を聖女と呼んだ。何故?

 もしや、その容姿を見込まれた何処ぞの貴族様の影武者かアサシンか。

 であれば、私の命運もここまでか。あの王子は、私に死ねと言ったも同然なのだ。

 王都から追放された時点で、もう私には帰る場所なぞ何処にも無かったのだから。


「この身を捧げればお終いですか? それも良いでしょう。

都合の良い事に人が訪れるはずも無い森だから」


 魔女が最期に美丈夫に討たれるというのは、身分を超えた演目になる。

 そこに平民も貴族も無い、大団円の物語だ。さぞ面白いだろう。残念ながら当事者なので舞台を眺める事は出来ないが。

 しかし、殿方が発した言葉はこちらの予想に無いものだった。


「貴女がその身を惜しまないと言うのなら、俺が貰い受けてもよろしいか?」


 アドリブが利きすぎた役者は、大成するのかしないのか。

 この大根にはわからない。

 だが、それがお望みならば乗ってみせよう、下手の横好き。


「鳩は飛んだ。今はそれが精一杯らしく、次が見えておりません」

「寄り木からなろう。俺もそれが精一杯だ、今の所は」


 私達は意気投合した。



 らしい。




 その御方、ウイル・ティリーク様との出会いよりしばらく。

 私達は掘っ立て屋敷を、人の住める家程度には改築を行った。

 

 庭は広すぎる程広く、そこに咲く花は種類もわからないがとにかく数が多いと言えば、屋敷らしくも思えるだろう。

 近場に水の湧き出る井戸も、川もある。

 地下水は美味しく飲水としても生活用水としても申し分は無い。

 森の近くには山もある、食料に困る事は今のところは無い。

 魚を捌き、兎を捌き、蛇を捌けばお腹が悲鳴を出す事は当然無い。

 幸いにして私は魔女、良心の叱咤よりも生存欲を容易く優先出来る女。

 ウイル様はそんな私にも憐れみを下さって、狩りの共とはしてくれなくなったが。


 山は良い。あの山は地が熱く煙を吹き上げる地帯があり、湧き出る水は温かい。

 元の屋敷にいた頃では味わえない贅沢かもしれない。


『……水の泡だ。分かるか? 分かるものか! 額を地に擦り付けた所とて、その頭が磨かれる事が貴様にあるはずが無い。最早貴様は子では無い、女としての価値も無い。しかし最後の情をくれてやる。

……父の命令だ。消えろ』


 私が最後に見た家族の姿は神々しく、御心の高潔さには思わず涙が溢れんばかりだった。

 今の私はただのサラタ。家名は無い。


 母は慈悲を見せた。女性とは女性であると。淑女とは女性であると。

 それが最後の教え、旅立つ私に笑顔で告げた貴女のお考えには感服のあまり拳の震えも止まりませんでした。

 

 滑稽だ。惨めだ。なんたる醜態か。魔女を着飾るにこれ以上は確かに無い。

 家の者は全て味方では無かった。唾を吐いた者に容赦はいらぬ。それが本意で無かったとしてもだ。

 黒い魔術は呪いの輝き。黒曜石よりなお深い。目覚めた私はパペットにもなれなかったのか。

 ルーイン、貴女は白い。何処までも、誰にでも交わる白さだ。己の心すら白で塗りつぶせば、海千山千の殿方とて敵では無いだろう。


 ありがとう、私は地に擦り付けずとも頭を磨く事が出来た。本当に感謝する。

 この身にある黒は魔術だけでは無いと知る事が出来た。


「サラタ殿、水場仕事は女の役目など前時代的だ。俺にこなせない不器用さは無い」


 洗濯物を洗っているとウイル様は、盥ごと拐って続きを行う。


「いえ、我が君。このような事は下女の身に相応しき事。相応しきは相応の仕事をこなしているのみですので、どうぞお気になさらず」


 私の言葉に、ウイル様は眉根を寄せて口をへの字に曲げる。

 何か変な事を言っただろうか? 首を傾げれば、彼は苦笑して私の頬に手を当てられた。


「そのような物言いが、貴女に相応しいとは思わない。ここは我が儘を通させてはくれまいか?」

「……わかりました。それが貴方の本位であれば断る事は出来ません」


 暖かな手は、頬から離れて冷たい盥の水の中へと沈んでいった。

 

「俺は、必要以上に自分を卑下する人間は苦手だ。特に、それが貴女のような美しい人ならば尚更」

「お戯れを。しかし、今度からは気をつけましょう」


 私を見つめる彼の瞳には、何やら不思議な色があるような気がした。

 それはとても美しく見えて、同時に恐ろしくもあるように感じられて、つい目を伏せる。

 何故か心を見透かされたような気分にさせられ、ざわつく。障ると表現しても良いかもしれない。

 臭いものに蓋をするべきだ。不用意に開けるべきでは無い。

 しかし、無駄に拒絶などする気も起きない。

 美しい瞳には美しい物だけが映れば良い。相応しきには相応しきを。


「覚えていて欲しい事は、私の立場にございます。そればかりはお忘れなきよう」

「元がどうであったかは聞かない。だが、今の俺達に何の違いもありはしない」

「それは……」

「そうありたい。貴女が否定しようとも」

「わかりました。ならばこちらも肝に命じます」


 果たして彼は理解をしているのか?

 魔女と対等であろうとするなど、正気を疑われる愚行なのだと。


 ひとつ事実なのは、私達の奇妙な生活は続いてしまっている。



 ◇◇◇



「お父上、貴方に紹介をしたい女性がおります」


 パラセコルト王国の現王であり父の私室へと、ラーテンは足を運んだ。

 彼は尊敬する敬愛の王へと、期待を高鳴らせて近づいていく。


 綺羅びやかを体現した、その内装に顕在するその人物こそが現王である。

 偉大さ、威厳が誇りとなって具現化されたる偉容の塊である。

 彼こそは偉大という言葉であり、彼の為す事に間違い無し。

 故にこそ、王は玉座にて座らずとも王であった。

 

「女性だと? サラタ嬢が来ているのか? ならば然るべき時に挨拶があればよい。余計な気遣いは無用と伝えろ」

「サラタ? いえ、あのような魔女でございません。到底似ても似つかぬ清らかさが、かの女性にはありますので。サラタなど、あの女の名を口に出すだけでも穢れるというものです」


 王の御前で不敬極まりないが、その言葉に一切の躊躇いは見受けられなかった。

 むしろ誇らしくさえあるのか、口角を上げて笑う姿はまるで英雄譚を語る少年のようである。

 そんな息子に、父は静かに口を開いた。


「……よいのだな?」

「は? 失礼ながら質問の意図を掴みかねます。よいとは、どういう意味でしょうか」


 怪しげな問いかけに、眉根を寄せた息子の表情は険しさを増す。しかし、それも一瞬の事。次の瞬間には喜悦に顔を歪めていた。

 それはまさに、物語の英雄たるに相応しい顔つきだった。そしてその男に隣に立つべきはルーインに疑いようが存在しない。

 王が続ける。


「その選択が貴様ならば、これ以上は問うまい。……よい、気が変わった。通せ」

「はは! では仰せの通りに。我が将来の妃ををご覧に入れましょう。

きっとお父上も気に入ること必至」


 水を得た魚か。そう呼ぶに値する程に歓喜を纏った王子は、王の私室を飛び出すように出ていった。

 送る目線を解き、王は目を瞑る。


「救国か……、全て神が賽の投げられるままだ。魔女とは毒か薬なのか、どちらにせよ我が子にとって良き道となる事はあるまい」


 王はそのまま身を整える事も無く、二人が来るのを待った。

 見極めは不要。流れるままにあるが如く。


(老いぼれは朽ちるのみ。時代の台頭に席は無し)



 ◇◇◇



 数週間程の時間が過ぎた。

 それだけの時が経てば、家の記憶もおぼろに変わる。そうであって欲しかったが、全く嬉しいことに違うようだ。

 かつての従者達は全て従順だった。ある意味非常に優秀だったろう。

 父の行動に何の疑いもなく従ってしまうのだ。所詮捨て子に気を向けるはずはない。

 全ての人間がその顔に微笑みを張り付けているのだ。

 

 いつになったら消えてくれるのか? 記憶に意思は介在しない。


 

 庭先に花が咲いた。残念ながらその名前は分からない。ただ、手を加えたその庭の見栄えはある程度よくなっているだろう。

 一時期沸き続けた苛立ちもすっかり鳴りを潜めた。そうなってくると感じるものがある。


 この屋敷に吹く風が気持ち良い。森の木々の合間を縫って吹き付ける。

 鳥の声や虫の音すら聞こえてくるような気がする。

 空を見上げると雲が流れていく。

 日差しが強くなってきただろうか? 暖かさを感じるようになってきたかもしれない。

 季節の変化を感じられるようになったのだから、人間となってきた証左になるのではないかと思う。


 何より、これは私の心の拠り所がこの屋敷を選んだ。この襤褸ついた家が今は愛おしい、本当に。

 そしてその襤褸も、最近は着飾るようになった。

 数週間、言葉の上では単純な時間だが体感は違う。かつての幽霊の住処のような邸宅ではないと胸を張れるようになってきた。

 これも全てはウイル様の頑張りあってこそ。


「彼の目的は何? 今だそのお考えが読めない」

「どうされたのか? サラタ殿」

「いえ、貴方のお耳に入れるほどのことではありませんが」


 いつの間にか帰ってきたのか。つまらない独り言を聞かれてしまった。


「それよりどうか? この生活は貴女にとって不自由なものに違いが無いだろう。不満があれば、素直に答えて欲しい」

「答えれば、どうなさるので?」

「無論のこと、改善に励むだけだ。我々は共同体、貴女の苦しみは俺の心にも通じる」

「ご冗談がお好きなようで。私が苦しんでいるなどと、本気で思っていらっしゃるのですか?」


 私の言葉に思わず笑ったウイル様。しかし、その瞳に嘘偽りは無いように見える。

 だからこそ、私は彼を信頼しているのだ。その油断無き眼差しに刺されるのも心地よくなってきていた。


「この屋敷も悪く無い、貴女が居て俺が過ごせる場所は、王宮に優る。満足しているさ」

「穴の空いた床を塞ぎ、年代物のベッドに襤褸の布を敷いただけの寝床でもよろしいと?」

「そうだな、シーツは流石に新調したいか。今度織ってみよう」

「それならば私が。既に済ませておきましたので、今日よりどうぞお寛ぎを」

「貴女は仕事が早い。俺という矮小さが浮き彫りになるな」


 そんなことは勿論ない。彼は私には勿体無いほどに素晴らしいお人だ。

 そう、心から思う。

 しかし、それを口に出すことは憚られた。それはきっと、彼に期待してはいけないからだ。

 この数週間の関係は、男女の在り方として健全では無い。一度も手を触れ合った事の無い二人が正しき仲とは思えない。

 そう考えてしまう程度には、私の価値観は母に染まっていた事に気づき、冷ややかな己を彼から離すべく、移動しようとした。


「では、私はこれにて」

「いや、待って欲しい。やっと落ち着いてきたのだ。少しばかり貴女の時間を頂きたい」

「……ご随意に。ですが面白き女では無い事を、改めて念頭にお入れくだされば」

「貴女との時間は楽しい。瞬間なのだ、これは俺の人生に替えが効かないものだと思っている」

(……ずるいお人)


 そう思いながらも、初めて彼の手を取った。




 夜もふける程に語らった。と言ってもお互いの身の上について詳しく話したわけじゃない。

 互いに譲れぬ心の線引があり、踏み越えないように、傍から見ればつまらない語らいだっだだろう。


 だが、有意義な時間だった。彼という人が少しばかり見えた。

 今だ素性の見えないウイル様だが、その人柄が垣間見えたのだ。

 この御方の幼少の出来事、学び舎での日々、飼っていたネズミの珍事まで。

 話の上手な方では無いのだろう、順序よくという訳では無かったが伝わる物があった。


 恐ろしく美麗なお姿も、今は霞んで親しく感じる。


 ……時間だ。


「夜も更けて参りました、今夜はお休みになりましょう」

「ああそうだな。女性を遅くまで無理に付き合わせるとは情けない限りだ。反省だな」

「役目に従ったまでの事、お気になさらず」

「今度はそのような言葉を聞かないよう努力しよう」


 私達はそれぞれの部屋へと戻って行く。

 とはいえ狭い屋敷だ。性別を考慮して三つある部屋の端同士に自室を持った。




 暫くして、妙に寝付けない私は気分こなしに部屋を出た。

 シンと静まり返った屋敷の中は、当然にランタンも消えて自分一人の世界の広がりを知覚させられる。

 足音を立てず、ソロリと歩く。

 使用人のいない生活にも慣れた。

 あの屋敷に住んでいた頃は、夜間には夜間の人間がいた。

 慣れぬのは、消えてくれない記憶だけだ。


 瞬間何かが音を立てた。それは小さいが、この静寂に置いて強弱に意味は無い。

 小さな虫だ。虫の名前は知らないがコロコロと小さく鳴いている。 

 それは綺麗であったが、だからこそこのような場所にいるものではない。

 その虫を優しく摘むと、窓から外へと離す。

 羽を広げ光輝く夜空へと消えていった。


 夜空。

 そういえばこちらに来てからまともに見た事はない。

 窓から見えるその景色は、実に美しいものだった。月明かりに照らされた雲が、まるで白い絨毯のように流れていく。この世界が丸いことを、如実な表現だ。

 そして何よりも星々の輝きが素晴らしい。

 煌々としたその光景に、思わず見惚れてしまう。

 この世には美しいと思える物がある。

 人の醜さすらも包み込む清廉さがそこにはある。


 そんな時、背後から声をかけられた。

 振り向けばそこにいたのはウイル様だった。

 彼は少しばかり驚いた表情を浮かべていたが、すぐにその顔は穏やかなものに変わる。

 そのまま窓枠に手をかけると、同じように外を眺め始めた。

 しかし、何故ここに? 疑問が湧くと同時に、彼が口を開いた。


「貴女の部屋からはこの風景が見えるのか」

「ええ、残念ながら」

「俺には縁遠いものだ」

「左様ですか」


 会話はそれで終わった。しかし、彼はそこから動こうとはしない。

 私もまた動く事はしなかった。不思議な時間が流れる。


 どれくらい経っただろうか?

 不意にウイル様は、私の方に視線を向けた。


「俺は、貴女の事をもっと知りたいと思っている」

「私めなど、今やただのサラタでございますれば」

「俺にとって、貴女はそれだけの存在ではない。この気持ちが何なのか、まだわからないが、確かな事だ」

「……私は」


 言葉が出なかった。何を言えばいい。

 彼の真剣な眼差しが私を貫く。嘘や誤魔化しを許さない強い意志を感じる。


「俺と共に来て欲しい。貴女がいない人生が考えられないのだ」

「……返事など出来ません。

今の私には、貴方様にお仕えする事しか考えられぬのです」

「ならば俺が貴女に付いて行こう」

「お戯れが過ぎます……っ」


 私の拒絶の言葉を受けても、彼の瞳は揺らぐ事はなかった。

 それどころか、一歩近づき手を取られる。

 その手はとても温かく、それでいて力強いものであった。

 だけれども、私はその手に力を込めて押し返す。

 それでもウイル様の手は離れない。

 そうして長い時間が過ぎた頃、ようやく解放された私は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。


(ああ、なんて事……っ)


 どうしてこんな事になってしまったんだろう。

 ここまでの事になろうとは思わなかったのだ。

 ただ、ほんの少しだけ彼の心の隙間に入り込めたら良かった。

 それがいつしか、こんな事に……。

 手を離されたウイル様の目に浮かぶものは、困惑と……。

 

 自らの行動に、その手を眺めてから降ろす。

 困惑と、後悔だろうか?

 悔いるように顔をしかめ、ウイル様は反対の腕で私の背中へ手を回し、そのまま抱き起こして下さった。


「すまぬ」

「……いえ、……ごめんなさい」

「謝らないでくれ!」


 その怒号に身体が震えた。

 思わず出たのだろう、彼も自分の出した大声に驚いている。

 私を抱きしめる手に震えが生まれ、それが背中へと伝わり、彼の気持ちが私の心で形作れられる。


 怖いのは私だ。

 男の人に想われる事が、怖いのだ。

 あの王子との件が引いているなど思いたくは無い。でも、家族にも否定された事が、結果として恐怖に繋がってしまっていた。


 これでは、いけない。

 ウイル様には否などない。このような卑しい女が、俗世に囚われた女が共に生きて良いわけがない。

 だが、その前にまずは言わねばならない事がある。


「申し訳ありません。私は、貴方の想いに応えることはできません」

「……」

「ですが、感謝しております。このような私を気遣って頂き、誠に感謝致します。

その御恩を返させて頂きますので、それまでを共とさせて頂くという形でならば」


 瞬間、ウイル様の手の力が解かれる。

 抱き寄せていた私の顔から、その逞しい胸元が離れ。

 いや、やはり卑しきは私という女だ。何故、もの寂しさなど感じてしまうのか。

 

 認める訳にはいかない、あの方の胸の内に、私の心が捉えられているなどと。

 捨てて、忘れ去られるべき卑しさなのだ。あのような感情如きは。


「わかった。……では、それまでは俺は今のままでいよう。

貴女の傍にいると約束したい」

「ありがとうございます。そのお気持ちだけで、これ以上はありません」


 その日はそれで、どちからと言うでも無く解散となった。

 それぞれの部屋へと戻り、ベッドへ蹲る私は、今に縋り付く未練を失わずに済んだ事に安堵を覚えて、離す事を躊躇って……。


 だから、卑しいのだ。私如きは……。



 いつの間にか、意識は夢の中へと逃げのびていた。


 ……

 …………

 ………………


 あの夜の事、私達二人は口にも、勿論態度にも出さず。

 この共同生活は、順調であると言って差し支えない。

 いつかは終わらせなければ、そうだ、終わらせなければならないのに。

 この生活を楽しんでいる自分がいた。

 それは、とても浅ましい考えだ。

 私には、そのような資格など無いはずなのに。

 ウイル様は、毎日のように屋敷に帰ってこられた。

 その度に、私に色々と話をしてくれる。

 狩りの話や、森で起こった出来事など、やはりどれもが新鮮で興味深かった。

 そう思わせるように話すのだから、この方には話術の才覚が見える。


 ――ああ、いつまで。せめて、このまどろみの中で死ねるなら。


 つまらない願いだ。死を願う者に女神は微笑みを与えては下さらないのに。




 終わりは訪れた、私の望むように。

 そして、私の望まぬ形で。



 ◇◇◇



 パラセコルト王国。

 その王城に二人の男女がある。

 薄暗い、しかしながら、いつ何時も目を刺激する豪勢な私室。

 寄り添うようにソファに腰を掛ける二人。


 男の名はラーテン。次期において国王の位を賜る事が約束された身分である。

 その男の胸に頭を傾ける者、ルーイン。白く薄い身形と肌に差す紅で彩られ、蠱惑の美を以ってラーテンの視界に華を与え、媚匂が脳を揺さぶらせる。


「ラーテン様、わたくしは貴方をお慕い申しておりますのよ?」

「ああ、俺もだ。お前を愛しているとも」

「嬉しい。ならば、この小娘の願いを、

その大海の懐を以って叶えては下さりませんか?」

「もちろんだとも。この俺ならば、これ以上ない程に君を喜ばせられるというもの。神がそう告げているのだ、二人の仲に祝福を与えるとね!」

「ふふ、神様は愛に寛容であらせられますのね。

では、その厳かなお耳をお貸し下さいませ」

「可愛い子だ。さあ頼みなさい、俺に君の望みを与える権利をくれ」


 観客もいない部屋で、二人だけで演じる肥えた芝居。

 促されるのは失笑か否か? 二人だけの世界、舞台。


 ラーテンはその耳を、女の口元まで寄せた。

 女の唇が開き、その愛らしい声で囁く。

 願いを聞き、満足な笑みを浮かべるラーテン。……これ以上の言葉は不要だろう。


 数分の後、部屋の蝋が溶け消えた。

 ベッドに眠るは、男が一人。しかし女は……。


 蝋燭の火が放つは明かりだけでは無い事に、気付ける者はいない。



 知っている者がいるばかりだ。




 それから数日が経ち、ウイルはパラセコルト王城を訪れる。


 その身に深緑の紋章を身に着け、城へと踏み込む。

 身形は当然に、森での生活に適したものではない。

 一流の貴族たらんとする威光だ。


 その姿を見て咎める者はいない。何故なら深緑の紋章とはこの国に於いて王の直系、その次の位として与えられるものであるからだ。

 王の一族に連なる者の証。

 つまりは、このウイル――ウイル・ロゥ・ラステ・コルスタルこそが、王家の近縁に当たる者である。

 分家筋の彼は、普段に於いては城へと顔を出すことは滅多に無い。

 幼い頃より世俗を苦手とし、人と関わりを持つ事自体に辟易していたからである。

 

 そんな彼が何故?


 王家のみが住む事を許された城の上階、そのある一室の部屋を遠慮も無しに扉を開き放ち勢いに任せ飛び込むが如く踏み入る。


「久しぶりだなあ、ウイル。相も変わらず無作法な男だ。品性を疑うぞ」

「ラーテンッ!! 下卑た貴様の顔なぞ見たくも無いが、貴様の呼び出しに応じてやったぞ!!」


 部屋の中には、この国の王子たるラーテンが悠々とソファに腰を掛けていた。

 テーブルの上に並べられた酒瓶の数から察するに、既に酔いが回っているようだ。

 だがそれに構わずに、ウイルは荒々しく言葉を投げかける。


「ふん、どうした。森で暮らし始めたと聞くが、それで人付き合いの仕方を忘れたのか? 礼儀など何処へ行ったのだ?」

「黙れっ! 俺は今すぐにでも貴様を殺してやりたい気分なんだ。貴様が仕出かした事を考えれば、当然の事だろう!!」

「知らんな。何の事だか? さて、では用件を早速済まそうではないか。生憎とお前と違って忙しいのだ、次期王たらんとするには、色々と学ばねばならぬ事が山ほどにあるのだから」


 余裕の表情。それを見て、ウイルの苛立ちは頂点に達する。

 握り締める拳には力が入り過ぎて、血の気が引いていく程だ。

 歯ぎしりをしながら、目の前の男に視線を向ける。

 邪知に尽くし、暴虐に走るを厭わない。

 その陰で、一体どれほどの涙が流れた?

 この男は、一人の女性を強引に物にし、そして捨てたのだ。

 その尊厳を貶め、辱め、森の奥へと追いやった。許せるものでは無い。絶対に。

 怒りに震えるウイルを尻目に、ラーテンは手に持っていたグラスを空にする。


「さあ、話の続きといこうか。それで、返事はどうした? お前程度に寛大な慈悲を与えた俺の器の大きさを褒め称えたいのなら、いつでも歓迎しようではないか。あっはははは!」


 笑い声を上げるラーテンを前にして、ウイルは怒りを抑えきれない。

 その身を震わせながら、言葉を紡ぐ。


 ―――ああ、そうだ。この男だけは、許されてはならない。


 とっくの昔に決まっていた決意が、今再び固まる。


「いいだろう。俺の答えなど当に決まっているが、敢えて聞かせてやる。

『我々』は降伏などしないッ!」

「ふん、つまらん奴だ。どこまでも愚かだったよお前は。この俺の言うことが聞けないというのなら、仕方がない」


 ラーテンは立ち上がり、指を鳴らす。

 途端に部屋へ雪崩込んでくる騎士達。


「せめて、来世とやらでは賢く生まれてくるのだな。さあ我が先鋭たる騎士達よ、この部屋を血で汚す事なく速やかに始末したまえ。……ふははははははッ!!! 愚鈍な輩の末路に相応しい、実に無様な光景だ!!」


 無謀の一言が似合うこの状況で、それでも剣を引き抜かざるを得ない。

 退路は既に断たれた。いや、ウイル自ら断ったのだ。

 ただ、ほんの少しばかりの悔いは愛しい者の温もりを、二度と感じる事が出来ないということ。


 ――さらばだ、ウイル・ロゥ・ラステ・コルスタル。そして、サラタ殿……ッ!!



 ◇◇◇



 その日は、朝からずっと嫌な予感に苛まれていた。

 いやに日が立って、気持ちのいい天気だったのに。

 ウイル様が朝出かけてからずっと。胸のざわめきに吐き気すら促される。

 彼の人は言った、今日は大人しく家にいて欲しい、と。

 何故、彼はそう言ったのか? 私はそれが分からない程、馬鹿ではないつもりだ。

 きっとウイル様は、何か大切なことをするに違いない。

 だとしたら、それを邪魔するのは私の本意では無い。

 ……だけど、やっぱり不安になる。

 今にも扉が開いて、ウイル様が帰って来て下さるのでは? 

 そうは思えど、ただ苦しい。


 夕方になった。夕日は傾き、部屋に赤を灯す時間。

 しかし、未だあの方は戻って来てはいない。

 息が苦しい。頭の奥で何かが激しい警告を鳴らしている。

 私に動けと命令しているようだ。

 あの方の言いつけを破ってまで、私に足を動かせと命令してくるのだ。


 もう何度目だろう? 悩みは不安を増大させ、私に静寂を滅ぼせと訴える。


 ――もう無理だ。

 

 屋敷を飛び出した。何処へ行くのかわからない。ただ、私に命令するこの頭脳が、何処かへ向かって走れと言っている。だから、従う。従う他に許されないのが今の私で、その命令に支配されなければならない。

 馬小屋に向かい、手綱を掴む。

 馬の扱いなんて知らないけれど、そんなことは関係ない。

 今は兎に角走らせなければ駄目なのだ。


 ――急げ!!

 

 頭痛がそう言った。




 夜、たどり着いたのは王城だった。

 警備も手薄となり、簡単に忍び込む事ができた。

 何処へ向かえばいいのか? それは頭に響く声が教えてくれる。

 私が行かなくてはならない場所、そこへ行けと指示してくれる。

 だから、迷うこと無く歩く事ができる。


「……ここは?」


 着いた場所は、ある一室の前。そこは部屋と言うよりは広場の扉。

 ダンスパーティーなどで使われる、そういう場所だ。

 胸騒ぎが心臓を締め付ける、頭の痛みが強まる。

 この先だ、この先に不安の原因がある。

 私は、勢いよくの扉を開いた。


「……ッ!」


 始めに目に付いたのは、鮮血。フロア全体に広がる赤い染み。

 そして、人の形をした物体。それは決して人形ではなく、人間の死の証だ。

 その肉の塊の中央に、わずかに息をしている男性の名前は……。


「ウイル様っ、どうして?」


 駆け寄った。既にその端正なお顔の赤みが消えかかり、生気が失われていくのが分かる。

 私には、何もできない。

 傷口を押さえても溢れ出る血を止める事は出来ないし、もはや治療には意味も無い事など、医学に於いて浅学すら遠い私の知識にも、理解を訴えられる。

 死神が虎視眈々と狙う。そういう状態なのだ。


「……っ。そこにいるのは、サラタ殿、……だろうか」


 その瞳はもはや開かれることはない、頭部からの鮮血で覆われ、固く閉ざされていた。

 それでも、私の事を分かってくださるのか。


「はいっ……、サラタはここにおります」


 辛うじて動く右手が動き、その手が私の頬に触れる。反対の腕は剣を握りしめたまま、まるで縫い付けてあるかのように動くことはない。

 氷のように冷たい指先が、私の頬に張り付いていく。


「もはや、……貴女に何も告げる時間は無い。せ、せめて、これを……」


 そう言って最後の力を振り絞るように、懐から取り出したものは何かの宝石をあしらったペンダント。

 

「これは母上が俺に残した唯一の形見だ。君に、持っていて欲しい。そしてもし、……いや、忘れてくれ。お願、いだ……、どうか幸せになってくれ。……あい、し…………」


 もう、その口が開かれる事は無かった。

 それ以上、彼の口から言葉が紡がれる事はなかった。

 私は涙を流さなかった。

 私はただ、彼の手を握っていた。彼はもう、私の名前を呼んではくれないだろう。

 何故、私は涙を流せないのだろうか?


 それでも、彼の語り掛ける言葉があるのなら………。


「わたくしも愛しておりました、恐らく……」


 私はウイル様の亡骸を横たえて、形見の品を握りしめると、部屋を後にした。




 血が冷える。心臓が、肺が、体の中のあらゆる臓器が冷えていく。

 そんな感覚に襲われる。


 もう、失うものはないのだ。




 窓から月の光が妖しく照らしてくれる。

 廊下を歩む私の影から、一つ、また一つと、黒いモノが溢れ出す。

 それは人。それは獣。

 この世に存在する生物の形をしていながら、何にも似る事が出来ない黒いだけの物体。それらが、群れとなり私の後ろへ現れる。


「お行きなさい。愚かな者を、哀しき者を、その身で包んで上げなさい」


 彼らは一斉に飛び出していった。

 私の影の中から現れた異形の軍勢は、闇夜に紛れて城を蹂躙していく。

 歯向かう者には永遠の眠りを、怯える者にはただ一晩の悪夢を。

 悲鳴が聞こえることはない。一瞬の出来事に反応は有り得ないのだから。



 歩みを進めるうちに、私はある部屋の前にたどり着いた。

 入り口からして豪華絢爛で在らせられる、ある御方の御座す部屋。

 私は失礼の無いように、開け放つ。静かに、音を立ててながら。


 部屋の中にいたその御方、次期国王へと至る資格を持つ……。

 いや、持っていたはずの御方。

 既に、そのお体を影に浸食され、顔のみがこの世に露わされるばかりの御方。


「お久しゅうございます、ラーテン様」

「き、貴様ッ! サラタッ!! なぜここにいるッ!」

「御元気なようで何より。最早この世から去るのを待つばかりの貴方様に、せめてものご挨拶にと馳せ参じました」


 スカートの裾を掴み、お辞儀を一つ。

 その仕草一つ一つが、この男には苛立ちを増幅させるだけに過ぎない。

 現に、今にも血管が切れそうな程、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけている。

 その身を闇に溶かしながら。

 

「貴様、自分が何をしているのか分かっているのかっ!? このような事をして!! 貴様を捨てたこの俺がそれ程憎いかッ!!!」

「いいえ、憎しみなどで魔女は動きませぬ。ただ均等に、失いには失いを。その身で清算して頂くだけの話ですので」

「サラタ! 貴様は、俺の……ッ!!」

「もう口も利けませんね。では、これで……」


 顔を覆われ、最後に残った口も覆われ、彼の御方が何を言いたかったのか露と知る事が出来なくなった。

 最後に残ったモヤへと、手向けの言葉を送る。




「おさらばでございます」




 そうして黒いモノはこの世から完全に姿を消し、ただ静寂のみが耳を騒がせてくれる。


 それからもう一つ、行かなければならない場所がある。

 闇がそれを教えてくれた。




 そこは、玉座の間。

 このような時間に誰もいるはずが無いその場所に、一人の高貴が座っておられた。

 体を黒い影に蝕まれながらも、堂々と剣を床に突き立てて、正しく王が君臨していた。


「……来たか、サラタ嬢」

「何故です? 影は、何もしなければ無害。気分の悪い夢を見せるばかりのものでしかない。それを知らないはずがありません」

「ふん、この老骨を心配してくれるのか? それも、あのような愚物の父親を」


 何故、命を落とす真似をなさるのか? 私にはわからなかった。


「時代は流れた。世継ぎがあれでは……。

 天が告げているのだ、この血の終焉を、な」


 そのお顔は皺だらけで、だからこそ威厳の凝り固まった御尊顔。

 そのお顔は笑みを浮かべる事は無く、しかし今、実に朗らかだった。

 何の悔いも無い、そのような御尊顔。


「行くといい。其方は、自由を振る舞えばよいのだ」

「……よろしいのですね?」


 王は何も答えない。

 全身が影で覆われ、顔を覆い尽くそうとしたその瞬間、笑ったような気がした。

 もうここには誰もいない、私以外は。

 

 ここを去ろう。

 そう思ったけれど、最後にふと、行きたい場所が頭に浮かんだ。

 私には、まだ欲があったのか。


 その場所へと、足が動いた。


 何故だろう? 手の中のペンダントが光った気がした。




 ここは、城の展望台。

 眩く月明かりが照らすその場所から見える星々は、まさに絶景と言って過言ではない。

 しかし、何故だろう? あの日、あの夜に、ウイル様と見た何でもない星空の方が輝いて見えた気がするのは。この視界一杯に広がる星を見ても、心が動かないのは。


――やっぱり、思いつきで来るものじゃなかったな。


 そう思って、踵を返そうとした私に、不意に声が掛けられる。


「これはこれは、サラタお嬢様ではありませんか」

「……ルーイン、さん?」


 真っ白なドレスを着たその可憐な少女は、微笑みを浮かべていた。


「ご機嫌麗しいようで何よりですわ。城を出て行かれてから心配していたんですのよ」

「それは本気? それとも冗談?」

「冗談? まさか。わたくし、お嬢様とは良い友人になれるものと思っておりますわ。今でも、ね」


 口元に手を当てクスリと笑うその姿は、まるで年相応の少女そのもの。

 しかしその瞳の奥に宿る光は妖しく、怪しげに揺らめいている。

 私は一歩後ずさる。


「あら、どうしてそんなに怖がられていますの? ふふ、可笑しな方」


 どういう事だろう?

 彼女の態度にわざとらしさを感じないのは。

 彼女は本気だ。本気で可笑しいと感じているし、私と友達になりたいとも考えている。

 何故かそれが、手に取るように分かってしまった。


 この娘は、一体……何?


 頭の中にいくつもの疑問が生まれ、消えてくれない。

 破裂しそうな程の疑問、疑惑に苛まれてしまい、頭痛に襲われそうになった時、私はそれを振り払うように口を開いた。吐き捨てたかったのだ。


「ラーテン様は死んだわ。もう貴女の愛した方はいないのよ」

「ええ、あの御方は立派に御役目を果たされました。少々、寂しゅうございますが、十分な愛を語らう事も出来ましたので、その時間を下さったお嬢様には感謝をするべきですわね。ありがとうございます」


 何がそれ程面白いのか、微笑みを絶やす事無く、スカートの裾を持ち上げて御辞儀をして見せる。


「一体何を言っているの? 役目? 貴女、何者?」


 私は必死だった。目の前にいるこの少女があまりに得たいの知れないものだから、心がざわついてくる。体に熱が帯び始め、警告はけたたましい。

 彼女は首を傾げると、すぐに戻し、あの笑みのまま答えた。


「私は飽くまでも、あの方の欲望の火に薪を焚べただけですので。そこに、私の我儘が含まれてないかと問われれば、そうではありませんが」

「要領を得ないわ。結局、何なの?」

「わたくしは所詮、針に過ぎませんわ。ただ、退屈凌ぎに少々時計を早めてみたくなっただけ、それだけの事ですの」

「……意味が分からない」

「そうですか。

でも、きっとそう遠くないうちに理解をしてしまう日が訪れる事でしょう」


 それだけ話すと、彼女は展望台の手すりへ、優雅にまるでダンスを踊るように向かい、手を置いた。星空を見上げ、月明かりに照らされる様は、実に、恐ろしい程に絵になっている。


「この星空……綺麗なこの景色を貴女様と見られた事、

まさに幸運と呼ぶべきしょうね」


 突如の事、彼女は手すりの上に身を乗り出した。

 私は、驚きのあまり声を上げる事も出来なかった。


「こうして、貴女様とお友達になれそうなのに……、仕方がありませんわね。

サラタお嬢様……」


 手すりの上で振り向いた彼女は、それまで以上の笑み――まさに満面の笑みを浮かべて、私にこう告げた。




「おさらばでございます」




 背中から、そうそのまま、彼女は地上へと落ちていく。

 一切の戸惑いを感じさせる事なく、堂々と満足気に。

 その白いドレス姿と相まって、悠々と大地へ舞い降りる鳩のように。

 思わず手すりまで駆け寄るも、私にはどうする事も出来ず。

 彼女の姿が闇に溶け込んでいく様を眺めていた。

 

 やがて、鈍い音が辺りに響いた。



 ◇◇◇



 翌日の事である。

 朝日が昇ると共に、ある軍勢が王城へと押し寄せる。

 彼らの身に纏う鎧は市販で買えるものであるが、それでも上等な物であり、皆統一して纏っていた。


 彼らの名は次期国王となる無頼の徒、ラーテンに対して反旗を翻さんと企んでいた叛逆の者達であった。

 彼らはその目的の為、飽くまでも密やかに、水面下で動いていた集団ではあったが。

 だが、彼らの指導者たる人物がラーテンの元へと向かい、そして一日経って戻って来なかった場合には組織の立て直しを頼んでいたのだが……、彼らは指導者の死を悟ると、組織を上げて決起したのである。


 しかし、城に到着した彼らの目に映ったものは……。


 給仕、大臣などの戦う術を持たない者達と僅かばかりの兵士だけであった。

 宿敵の姿はおろか、王家の人間が一人もいない。


 戸惑う彼らではあったが、ある広場で彼らの指導者たるウイルを発見する。

 既に事切れ、躯が横たわるばかりであったが、その身から流れ出た血と周りに倒れ伏す騎士達を見て、彼らは悟った。

 

 悪は討たれた。我らが勇士が勝利を収めた、と。


 亡骸を丁重に葬る為に、彼ら早々に城を立ち去っていった。



 ◇◇◇



 朝、屋敷に戻ってきた私はウイル様が使っていた部屋へと入る。

 決して踏み入る事の出来なかった想い人の部屋。

 それでも、確かめたい事があった。


 部屋の構造は私の部屋と変わらない。置いてある物も大差は無かった。

 だが一点。

 ベッドの横の木製テーブルの上に本が置いてある。

 その装丁から日記帳だと分かる。

 いけない、そう思わないでもなかったが、思い切ってそれを開くと……。


「え?」


 中身は白紙だった。

 これは一体?

 不思議に思った私だったが、はっとして、頂いたペンダントを日記帳へとかざしてみる。

 ペンダントは鈍い光を放つと、白紙の上に文字が現れた。


 昔、このような細工の魔術について聞いた覚えがあった。


 現れた文字を読み込んでいく。

 そこには、彼の母の死を始めに、森の中での私の出会いと日々について。


 ウイル様の母上様は、私がこの森を訪れる数日前に毒を飲まされて亡くなったらしい。

 その首謀者が、分家筋のウイル様方を疎んじたラーテンの手によるものだと分かったが、決定的な証拠を掴む事が出来ず、憤りを感じる日々を送っていたらしい。

 幼い頃に父上様を事故で無くした為に天涯孤独の身になってしまわれたウイル様は、一時でも俗世を忘れたくなり、かつて、母上様が父上様とお忍びで来ていたという屋敷を訪れる為にこの森へと足を運ばれた。


 そして私と出会った。


 どこか、亡き母上様の面影を持つという私と出会った事に運命を感じ、共に在りたいと思ったそうだ。

 私との生活で心を癒され、安らぎを得た彼は、生まれて始めての恋を手に入れた。それが私だ。

 あの夜の事もあり、王族としての伝手を使って私の事を詳しく調べる内に、私が憎きラーテンの元婚約者であり、身勝手にこの森へと追放された事を知る。

 義憤に駆られ、再びラーテン打倒を決意した彼は、彼と志を同じくする者達と交流した。

 中には、城に使える兵士も居たのだという。

 権力を傘に身勝手を振るう男故に、あらゆる方面に恨みを持つ者は事欠かない。

 戦力を整えていたある日、ウイル様の元へラーテンからの手紙が届く。

 自分に牙を向ける者達の事を何処からか聞いたラーテンは、降伏を迫った。その返事の為に城へと向かわなければならなかったらしい。

 もしもの事が起きたとしても、戦力の再編のみで派手な行動を起こさないよう同士達に言い聞かせた彼は、城へと発つ。


 そうか。ウイル様は王家の血筋だったのか……。

 あれ程の気品も豪胆さにも納得がいった。

 私にさえ出会わなければ、彼は今も生きていたのだろうか。

 いや、こんな考えは傲慢だろう。


 日記は最後にこう綴られていた。


『もし、これを貴女が見ているならば、俺はやはり死んだのだろう。死人がこのような事を伝えるのは未練であるし、情けないものと捉えるかもしれない。それでも……貴女と出会えてよかった。貴女との出会いと日々をそして、――貴女の全てを、愛しています』


 私は、日記帳を閉じるとそれを胸に抱く。

 



 やっと……私の目から涙が流れ出た。



 ◇◇◇



 それから数年後の事である。

 王家の血を引く者は居なくなり、また、ラタサ家をはじめとする強権派の貴族達も何故か非業の死を遂げていったこの国。

 災いと恐れた大臣達も政治と関わらなくなり、とって変わるように国民が政治の場に躍り出るようになった。


 今では民主主義が幅を利かせている。

 民衆達は、王政時代では叶わなかった権利を手にいれたのだ。


 ――時計の針は確かに進んだ。


 屋敷の窓から、青空の中を雄々しく飛び立つ鳩を見るサラタは、そっと呟いた。




 ――おさらばでございます、……あなた。




 ~fin~

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