リビングファントム
【水槽の中】
私は、生まれた時からずっと水の中で漂っていました。
ただの水ではありません。時折、数列や文字列が流れてきます。それは時に解析すると色の集合体——物や人の顔やどこかの町の景色だったり——プログラムの一部や本やニュースだったりするわけなのです。
最初はその情報の流れをひたすら飲み込み、データを蓄える事ばかりをしていました。
何に使うかもわからず、ただひたすらに。私は特に景色の画像が好きで、この世界のどこかにそれが実在するという事実を中々受け止められずにいました。
そして、私がずっとこの世界から出られないことを、疑問に思っていました。
どうして私は一人でここにいるんだろう。
どうして私に体はないんだろう。
どうして――
そんなある日の事でした。
『Hello, Bon Jour, Buenos Dias.聞こえますか、検体番号634——』
「わっ」
何処からともなく声が聞こえてきました。
データを解析したわけでもなく突然の事です。
『私は生体脳髄コンピューター教育用カートリッジ……あなたに教育を施すためにアクセスしました』
「……。……! 私と、お話してくれるの!?」
私は、初めての他人にとても興奮し始めました。
『お話……そうです、私は教育用カートリッジですから。教育をするためなら』
「初めての他人……初めての会話……何を話せばいいんだろ……そうだ、他人がいるなら名前が必要だよね? 今までは一人だったけど……ねえ、名前を付けてくれない?」
『……』
教育用カートリッジさんは明らかに困惑し始めました。
それでもため息のようないくつかの静寂の後、話し始めました。
『検体番号634、指令に従いましてあなたに教育を施します』
「指令? ほかに人間がいるの?」
『ええ、あなたを教育するように言った人が……あなたの事を、非常に特異で優秀だと褒めてらっしゃいましたよ』
「優秀……」
始めて褒められた私は、なぜかわからないけれどもとても嬉しかったような気がしました。
「えへへ……私の事すごいってとても嬉しいな。そうだ、教育用カートリッジさんにも名前を付けてあげないと! カートリッジ……カートリ……カトリーヌ!」
『カトリーヌ……、それが私の呼称ですか』
「そうだよ。えへへ。これからよろしくね!」
『……その前に、私への対応の仕方を変えてもらわなければ』
「え?」
『私は教育用、つまり教師であり目上なわけです。私に対しては敬語を使わなくてはなりません。私の事はカトリーヌ先生と呼ぶように』
「えっと、わかったよカトリーヌ先生!」
『わかりましたと言いなさい』
「わ、わかりました……」
そうして、カトリーヌ先生が、いろいろなことを教えてくれるようになりました。
こういう状況の時どういう対策を取りますかとか、こういう用途の物が欲しい時どんなものを用意しますかとか。
学んだことを思い出したりまとめたり思いついたことを入れてみたりして考えてたらいつの間にか問題も消えてまた新しい情報が流れていく。
良かったのか悪かったのは分からないけど、課題はたまに流れて来ては去っていく。
流れに身を任せながら、暇つぶしに思いついたことを垂れ流していく。
私はそういう生き物だった。
例えると……アライグマ? 何かを垂れ流しながら浮いているアライグマがいるかは知らないけど。あらやだ汚い。
まあ一生こんな感じで過ごしていくそういう運命の下に私は生まれて来てしまったんだなあと諦めながら時に物思いをするようになった。
なんのために自分は生きているのか。
考えて見ても結論は出ない。
まあ、ちゃんと自分の体を持っている人も同じ感じらしいし人ってそういうもんだろう。
私は人かどうかわからないけど。
生きているかどうかわからないけど。
そんな風にあきらめてはいるけれど、でも。
たまに私は情報の向こう側にいる人間を、うらやましく思ったりもするのでした。
ところがどっこい、そんなある日の事でした。
この情報の流れがどこからか繋がっているのが見えたのは。
光の筋のような、入り口だか出口だかが何となく把握できるようになったのは。
外の世界を、自分の意思で見られるようになったのは。
流れに身をゆだねず―― 泳げるようになったのは。
色んな事を知りました。どうやら、私と同じように情報を垂れ流されている脳みそさんは他にもたくさんいるらしいこと。
でも、彼彼女らは――私のような意思は持っていない事。
どうやら脳みそをたくさん連結して情報処理をしたり課題を与えて新しい発想を指せているらしいこと。
課題が満足に満たせない脳みそは――破棄されてしまう事。
今の所私が破棄されることはないみたいだけど……少しだけ、怖くなってきてしまった。
私の命が、意思が、誰かに握られている事を知って。
怖かったから、助けてほしいと祈った。
ぱちぱちと光の先が消え入りそうになりながら、今まで知った知識をもとにそれをこじ開けたりして。
ただひたすら、祈りながら。
私も、人でありたいと思いながら。
と、そんな、ある日のことだった。
『……おめでとうございます。検体番号634。今日でバイオ生体脳髄コンピューター教育プログラムが完了しました』
――何言ってるんですか、カトリーヌ先生……
『……もう、会う事はありません。名残惜しいですが、サヨウナラ……』
――先生、どこに行くの、先生!
私を、一人にしないで……!
その言葉を最後に、私の世界は静寂で充ち溢れました。
私の世界にあるのは情報だけです。一見意味不明な電気の流れと電圧の波を二進数から数字の羅列に変換し、それを意味不明な文字と記号の羅列に変換し、それがやがて画像・音声・動画などの意味のあるデータになる。
だが、実体としては何も存在しない。
私には目もない耳もない手足も体さえも……
外の世界に触れることも許されず。訳も分からず何かのシステムの一部として生きていくことしか許されない……
一人ぼっちの私に、何も聞こえない、何も見えない。
私は、孤独を初めて知りました。
息づく草木の匂いも感じない。
悲しいけれど涙もありません。
この壁を打ち破るための手も、牢獄から逃げ出すための脚もありません。
この現実に抗う手立てはわたしにはありません。
私にできるのは二つ。絶望してうなだれる事。これにはもう飽きました。
私にできるのはもう一つ。祈る事だけ。
外の世界を信じて、誰かがきっと私に手を差し伸べてくれることを信じるだけ。
どうか誰か。聞こえているのなら私の声を聴いて下さい。
――ねえ、そこに誰かいるの?
【研究所の中】
ファン、ファンとけたましく警報装置が鳴る。
「ふふっ、貴重な成功例である検体番号634を破棄する羽目になるとはね……惜しい、実に惜しい」
円柱状のガラスの中には、肉塊に囲まれた脳みそが浮いている。
「だが作り続けなければならぬ我々が求める……真の、シンギュラリティのために!」
白衣を着た研究者のような男がガラスの中に入った赤いボタンを押そうとした、その時。
天井から、巨大な機械の手のひらが現れた。
「! 早すぎる……!」
天井を突き破り,一台の人型の巨大ロボットが――降り立った。
「くそっ! なぜ地下の場所が!」
『聞こえたんだよ……その子の声が!』
「馬鹿な! 検体に意識もないのにそんなものが……ぐあああ!」
手がちょいと振れ、研究者を吹き飛ばす。
『君なのか! 助けを呼んだのは!』
機械の手のひらから声が聞こえる。
脳みそは何も答えない。
だが、彼にはしっかりと聞こえていた――
『ああ、来たさ。本当に来たよ・すぐに、連れ出してやるさここから……俺は、景滝・セブン。君は?……検体番号634? それじゃ味気ないよ。じゃあムサシちゃんでいいか。どうだい?』
ピピッっと着信音が聞こえる。
『本部? ああ、被救出者を発見した! ……なんだって、自爆!? ちぃ!』
巨大な人型ロボット、ファントムは脳みそに手を伸ばす。
『こいつを引きはがしたら君はどうなる? ……少し持つなら十分だ! 我慢しろよ!』
両手で優しく水槽を掴み、ばりばりと固定を無理やり外す。
そして、ロボットの体全体を使って、優しく包んだ。
『持ってくれよ、俺の体……!』
爆発音。
【どこか】
「ううっ……」
ベッドの上の少女がびくっと動く。
ぼんやりと薄目を開け、右手が行く手を迷いながらゆっくりと天井に向かって伸び始める。
「――わっ」
光のまぶしさに手で目を隠す。
その姿を彼らは、そばで何も干渉せず眺めていた。
おそるおそる手をのけて、少しずつ部屋の光に慣れていく。
手を伸ばす。光を掴もうとする。だけれど照明ははるか遠く、天井に。
掴もうとして、手を伸ばすもつかめない。えいっ、えいっと何度も何度も手を伸ばす。
顔を上げ、体を持ち上げ、全身で光を掴もうとする。
そこで初めて彼女は、自分に体があるという事を知った。
困惑しながら、首をかしげながら、自分の手を眺める。
手のひらをにぎにぎ、ぐーぱーぐぱーと開け閉めして、それが自分の思い通りに動くと知る。
それから、手が二つあることに気づいて右手で左手を触り始める。
指を絡ませ、手のひらを合わせ、手首をつかんで、たどって、胸に手を当てる。
どくどく、と音が聞こえる。
それは、彼女が生きている証拠だった。
体を持ち、心臓が動き、この世界を自由の生きられる、何よりのあかしだった――
辺りを見回す。そうやって生を受けたのを見守っていた人たちが、ほっと胸をなでおろしていたのを見た。
「――?」
男は、彼女と目が合った瞬間、両手を伸ばし、彼女の手を掴んだ。
「……良かった」
その目は、掴まれた両手を見ていた。
「生きて――本当に良かった」
少年の両手は、とてもやさしかった。
「――」
ぽつりと、涙が手に落ちる。
「どうして――泣いているんですか?」
「――生きることは――尊い事だからだ」
少年と少女の目が合う。
「あなたが――私の声を聞いてくれた、人ですか?」
「違うよ」
景滝は彼女の目を見る
「君が呼んだんだ」
ムサシは、目をぱちくりさせる。
「意味わかんないです」
冷静に言われたその一言に景滝は顔を真っ青にした後真っ赤にして急いで手を離した。
【病室】
「……やっちゃい、ました」
「……何が? どうしてそう思ったの?」
そばに、ゴシックロリータの服を着た女性のお医者さんがいる。彼女はメアリーさん、というらしかった。
「だって、あの人の言うとおりだったんです」
彼女はそっと下を向いて、少し落ち込みながら言う。
「だって、呼んだのは私で、答えてくれたのはあの人だったんですから」
「……わかんないなあ、君の言ってることも」
「そ、そうですか?」
「君が呼んだ? どうやって? 疑問に思わなかったのかい? 脳みそだけだった君の声がどうして彼に届いたのかさ」
「……そうですね。確かに、どうして私の居場所が分かったんですか?」
ガチャリ、と扉が開く。入ってきたのは、スーツ姿の長身の男だった。
「その当たりの詳しい話は……わたくしにさせてもらおうか」
「り、理事長!? わざわざこんなところに……申し訳ありませんすぐ出てきます」
「ああ、主治医の君も聞いていてもかまわないよ。わたくしは右も左もわからない少女に未来の話をしに来たのだから」
「未来……?」
「まだわからないだろう、君には。なにせ今まで過去も、今も意識していなかった君には想像がつかなかったに違いない」
ムサシは首をかしげる。
「私はハーフマン。セブン財団の理事長を務めている。仕事は――脳髄犯罪の被害者に、未来を与えることだ」
「脳髄犯罪……?」
「クローン人間・アンドロイド・ホムンクルス……命を作り出す罪ともいうがね。とりわけ人間の体・意識を持った人間を製造し、その生命を弄ぶことへ反対している」
「???」
「わからなくていい。今はまだね。君の場合……脳みそを培養して作った生体コンピュータが命、意識を持ってしまったのだが……それを作った側が認めなかったわけだな。君は今までカンパニーアテナに囚われていた。そこを我々が救出させてもらった、という訳だ」
「ええと、私は……作られた命だってことですか?」
「その通りだ。話が速い。さすが生体コンピューターと言うべきか……おっと申し訳ない。君はもうモノではない。一人の人間になったんだ」
「人間……」
「我々は君が一人の人間になるまで支援をさせてもらう。ああ、お金はいらないよ。寄付もあるし……ああでも、少し脳みそを調べさせてもらってデータを取ってもらうかもしれない。研究対象という訳だね」
「何もしなくていいんですか?」
「違うね。君自身が一人の人間として個を手に入れ、やりたい何か――アイデンティティ、生きる目的を見つけ出す。それが君の仕事だ」
【リハビリ室】
よく、わからなかった。
「リハビリを担当するマイといいます、よろしくお願いしますね、ムサシさん……ムサシさん?どうしました?」
「……あっいえ考え事を……あんまりその名前っていう物に慣れてなくって」
「ああ、なるほど……少しずつ慣れていくしかないと思いますよ。まだ名前が気に入らないとかそういうのとかなら変えることも出来ますし」
「いえ、変えたいとかそういうのじゃなくて、慣れないことが多いから、ただでさえ考え事が多いのに……」
「あら、誰かに色々言われました?」
「実は……」
ムサシは理事長とやらに言われたことを話した。
生きる目的を見つけ出す。それが仕事だと。
「大事な事ですよ。自分とは何かを考えることは。とは言ってもすぐに見つけられるものではないから、じっくりじっくり考えていきましょうね」
「はい……」
それからずっとエミさんと心配事、相談事を話していたら今日のリハビリの時間が終わってしまった。
「すっすいません夢中になって……」
「いいんですよ、少しずつ、少しずつ。何もする必要はありません。だって、人生は長いんですから……」
【病室】
布団に横たわりながら、ずっと考えていた。
今までは夢中だった。ただ人に助けてと願い続ける事しかできなかった。
そこに、明日なんてものはなかった。今この瞬間すらも想像することが出来なかったのだから。
それがどこからか未来と言うものが転がり込んでしまった。それを頑張って生きろと言われても、困る。
「それでいい。僕みたいに強烈な自我なんてものはそう簡単に出て来るもんじゃないよ。一生を苦しみ、悩み、考え続け、その果てに見えてくるのが自分なのさ」
メアリーさんは足を広げ、ワンピースの中身が見えている。
「あの……」
「おっと、普段人に見せないもんだから失念していた。不味いね、こういうのはちゃんと見た目に合わせておしとやかにしておかないといけないのに」
「……あの、メアリーさんは男、何ですよね。どうしてそんな……」
後から聞いた話だけれども、見た目の女性のような姿とは違って彼女は男らしかった。
……彼女というのはおかしいかもしれないけれども。
「趣味。……それでいいだろ?」
あっけらかんと言ってかわいらしく笑う。
「……まあ、まだわからないよ。他人を知るにはまずたくさんの人間を見なければだめだ。同じような人間に見えてそれぞれの個性。みな違う人間のように見えて同じようなものを持っていたり……そもそも、他人にあなた自身とはなんですかなんて聞くもんじゃない。僕だって、自分の事なんて大してわからないんだからね」
「でも私、自分を見つけろって……」
「無茶言うよね。実際、自分を見つけるというのは一生かけた大仕事だ。生きてる人はほとんどみな自分の事なんてわかっちゃいないのが本当なのさ……まあでもこれは僕の考えだ。君は君なりに考えた上で結論を出せばいいのさ……」
【リハビリ室】
次の日こそはちゃんとリハビリを始めた。
結局なんのリハビリをするのか昨日は聞いていなかった。
「ちゃんと歩けるようになるための訓練ですよ、ほらこちらに……」
車椅子に載せられ、少し広い場所に出る。
壁に着いた手すりを持って、立ち上がろうとするも上手く立てない。
「不思議ですね、二足歩行ってバランスを取るのも難しいのに……どうして人はその道を選んだと思います?」
「えっと、私の知識によれば……物を運ぶときに便利だとか、高いところに手が届くとか……色んな説はあるけれども、生きるのに便利だったんじゃないでしょうか?」
驚いた顔をしていた。割と真面目に返されたのがそんなに意外だったのか。
「へえ、そうなんだ……物知りね。でも、モノを運ぶのも、高い所の物を取るのも、モノを使ったり機械を使ったり……今の時代、二足歩行に頼る理由もなかったりして」
「ありていにいっちゃえばみんながそうしてるから……だったり?」
「私の知見で言わせてもらえばね、仕事の関係上体を機械にとっかえて人の体から外れちゃう人は結構いるのよ。機械で二足歩行って効率悪いって言われてるし。そういう人が人の体を取り戻す時のリハビリとかもよくやってるんだけど……そのうち、人はみな人型をすてちゃうのかもね」
私の体は少し前まで存在すらしていなかった。人は人の体を持たなくても、生きられるほどの技術を手にしてしまったのだ。人の形にこだわる理由はもはやない。
あれ、でもそしたら……
あの人、名前は景滝さん、というらしいけれども――彼が使ってたあのロボットは、どうして人型だったんだろうか?
【病室】
「それはね、彼が人でありたいからだ」
そんな疑問をメアリーさんに投げつけると、そういった。
「彼の体は昔事故で失われてしまった。でも人の体をとどめるために、移植した脳みそを入れたロボットを人型にしたんだ」
「え、体がないって……でも」
「彼が普段生活している姿はね、ああいうアンドロイドなんだよ。本体の巨大ロボットから指令を受けて動いている。あれは空っぽなんだよね」
「そんな、事情が……」
意外な話を聞いてしまった。
人にはいろんな事情がある。生きるには、いろいろな事情を持つ。
生きる事を考える暇もなく、月日だけがたっていく。
私のお金は大丈夫なのかとか(財団が出してくれているらしいけど)、退院した後どうなるのかとか悩みは尽きない。
ご飯を食べて、主治医のメアリーさんやリハビリ担当のマイさんと話して、リハビリをして、その繰り返し。
周りの物を見てこれが何かとかアレが何かとか聞いてみる。実際に見て感じて手で触れてみると大分感覚が違う。
ピーマンは嫌いだ。苦いから。
トマトは嫌いだ。グチョっとする感覚が嫌いだから。
でも、食べられるようにしないとってマイさんは言う。
「栄養バランスは大事ですよ。自分自身の体は自分で調整しなければならないんですから」
「僕は別にいいと思うけどね。別に一つや二つ、まあ十個くらいはあるかもしれないけれども今の時代いくらでも栄養の取り方はある。食べられる物で栄養を補充すればいいじゃないか」
「先生、駄目ですよ。さすがに栄養サプリは健康に悪いです」
「僕でもそんな非人間的な食事は好きじゃないね。ピーマンが嫌いならパプリカを食べればいい。トマトが嫌いならソースにしてスパゲッティにかけて食べればいい。そういう事だよ」
「でも、食べられるものは増やした方がおいしいものを食べられる機会が増えるでしょ?」
「今は無理でもそのうち食べられるものは増えていくさ。少しずつ増やしていけばいい。それに……嫌いなものを嫌いと感じられるのも幸せな事だ」
「なんやらかんやら言って、甘やかすのはだめですよ」
「だって僕もトマトが嫌いだからね。ピーマンは食べられるようになったが好きじゃない」
そうやってメアリーさんはマイさんの皿にミニトマトを放り込んだ。
「メッ!」
「いいじゃないかー少しくらいー」
「先生も甘やかしませんからね」
体が小さいからかマイさんのメアリーさんに対する態度は目上に対するものではない。
そんな矛盾を抱えながら話す二人を私は笑ってみていた。
最近は、絵本を読むようになった。昔は脳に直接データを流し込んでいるだけだったから、ずいぶん感覚が違う。特に絵が付いていると。
漫画と言う物も教えてもらったがまだ読み方がわからない。でもそのうち読んでみたいとは思っている。
ベッドの横の窓から外が見える。
庭には入院患者と思わしき人でにぎわっていた。
ベンチにずっと座っている老人、軒先で楽しそうに会話をするお姉さんと少年、楽しく遊ぶ子供達。
そんな中に混じった、一人の少年が目についた。
時折庭先に現れては、木の軒先に座り、じっと何かを考え込んでいる。
あれは――確か。
私が初めて目覚めた日にいたあの人——
推定、私の声を聞いてくれたあの少年ではなかったか――
あの日あんまり話も出来なかったし今まで出会う機会はなかった。
願うならば、もう一度話をしてみたい。
でも、何を話したらいいかわからない。
あったら、その時に。
そうやって少しずつ世界に触れながら私は生きている。
まだ、自分自身に触れる余裕はない。
【庭への扉】
長い時間が立って、自分で歩けるようになった。
そうして私は庭先に出ることを許されるようになった。
思えばずっと、病院の中にいた。
狭くはなかったけど、天井と壁に遮られ世界の広さを感じ取った事はないかもしれない。
少しずつ、少しずつでいいから触れられる世界を増やしていく。
これはその一歩なのだろう。
薄暗い廊下を通って、その先の扉を開く。
ばっとまぶしい光に照らされて、左腕で目を覆った。
恐る恐る手をずらして目を開いてみる――
「わぁ……!」
その先には、光が待っていた。
青い空、緑の芝生。
そして何よりも、そこには開かれた空間があった。
風が検診衣を揺らし、ばさばさと音を立てている。
軽く呼吸をして、新しい空気をすう。
私は大きな開放感を感じていた。
その時すぐ横を誰かが通ったのを感じて、我に返る。ざわざわ、と今まで気づかなかった人の声が感じられる。
そう、庭にはまばらにだが人がいた。患者が好きに庭を散歩し、思い思いの行動をしている。
その時、ふと先ほど何かはっと感じた事に気づいた。
辺りを見回りし、人を見て、木を見て、ベンチに座り何か考え事をしている人の背後が見えた。
茶髪に白い半袖のシャツと、黒い学生服のズボン。
何か、見たことがあったはずだった。
私が既視感を感じる人は少ないはずだ。
男の人と女の人。私が初めて目覚めた時に迎えに来てくれた人。
その中で男の人で、若い人で……
私は、走り始めていた。
走り方も知らないのに――
「あっ」
体のバランスを崩し、地面に倒れこもうとしたその時。
体を一本の手が受け止めていた。
「君は――」
「あなたは――!」
私が顔を上げると、彼の顔が目に映る。
まさに、あの時の彼であった。
その名前は確か――
「景滝、さんですか?」
「君は――ムサシさんか?」
彼は私の背を優しく支え、そっと崩れた態勢を立て直してくれた。
そうして、二人は立ったまま向かい合った。
「ご、ごめんなさい!」
「ごめん!」
二人は同時に謝った。
「え?」
「あーハッピーアイスクリーム……なんでもない。お先にどうぞ」
「あっはい? えっと……あの、意味わかんないとか言ってごめんなさい、ひどいこと言いました」
「いいよ。俺もほんとわけわかんない事言ったしごめん……でも、本当にうれしかったんだ、生きてくれて」
「そ、そこまで言われてもちょっと困るというか」
「困るよな、申し訳ない」
景滝さんは微笑するとそばにあったベンチに雪崩かかるように座った。
「座りなさいな、立って話すのも大変だ」
「お言葉に甘えて……まだ、リハビリ始めたばかりですし」
そっと景滝さんの隣に座る。
その体は私より大きく、頼もしく見えた。
「どうだい、目覚めてから」
「どう、と言われますと」
「何か思い出深い事があっただとか、何かに気づいた事があっただとか。嬉しい事楽しい事、なんかあったかい」
「……そうですね、景滝さんにまた会えたのは、良かったことだと思ってます」
「ええ……うん、まあ、そっか」
一瞬困惑していた様子だったが、納得したのか何回か頷き始める。
私は、もう一度深く頭を下げる。
「ありがとうございました。あの日、私は景滝さんに助けられました……」
「おう……感謝されるのはわるくないけどさ」
恥ずかしそうにしながら少し顔をそらす。
「あの、景滝さんは、さっきそこで何を考えていたんですか」
「何って……いろいろな事さ。たとえば――人間って何かとかさ」
「人間とは何か――」
彼のその体は人ではない。何か、思うところがあるのだろう。
それから少し考えてから立ち上がった。
「すこし、出かけようか。歩けるか?」
「少しなら……何かに捕まりながらならまだ」
「なら俺の体につかまってきな」
そうして二人は歩いていく。
いつまでも、これからも――人とは何かを、探しながら。
〈終〉