推理と真実(後編)
※この物語はフィクションです。
毒に関しては素人レベルの知識です。
ただし、過剰摂取はお控えください。
「大旦那について語るには、時を少し戻さねばなりません。奥様が亡くなられた時まで…」
***
清一郎とその妻、美代子は見合いの席で知り合った。初めて美代子を見た時、とても胸が高鳴ったという。そんな清一郎の一目惚れにより、トントン拍子で結婚へと話が進み、子どもを三人も授かることができた。仕事も特に不自由なく営むことができ、桜木一家は仲睦まじく幸せに暮らしていた。
だが、美代子が病気を患った頃から少しずつ歯車が狂いだす。美代子の体は日ごとに弱まっていき、出来なくなることが少しずつ増えていった。そんな母に代わって、清華が屋敷内を切り盛りするようになり、清華の結婚後は暁清の嫁、智恵美が自ら代わりの役目を果たしていた。だが、周りの協力も虚しく、美代子の体は病魔に蝕まれ、ついに床から起き上がることも難しくなってしまっていた。
一方で清一郎はそんな美代子の体調もいつかは治ると信じていた。毎日のように医者が様子を見に来ていたし、女房がそんなに重い病気だとは知らなかったから。だから、ほとんど毎日昼夜問わず、仕事の付き合いで外出や吞みに出かけ、美代子のことを家族に任せっきりにしていた。
美代子が息を引き取ったのは、清一郎が友人と、とある料亭で酒を嗜んでいる時だった。まさか不摂生な自分より彼女の方が先に逝ってしまうなんて思いもよらなかった。
「きっと探偵さんはご存知だと思いますが、奥様をご病気で亡くされてからは、大旦那は人が変わられました。より酒に溺れ、我慢もきかず、すぐに頭に血が上るようになったのです」
清一郎は自分を責め続けていた。病気が治ったら、自分が引退したら、いつか一緒に旅行にでも行って沢山彼女を労ろうと考えてはいたのだった。だが、もう遅い。なぜもっと一緒にいてやれなかったのか、なぜもっと早く感謝を伝えなかったのか。なぜ、恥ずかしがらずに、愛の言葉を囁いてやらなかったのか。あんなにも美代子を心から愛していたのに…。
実はというと、清一郎が美代子に自分の思いを伝えたことは生涯一度も無かったのだ。もう美代子に何もしてやれない。こうして、たくさんの後悔が清一郎の胸の奥に深く刻まれることになったのだ。
数年後、清一郎に癌が見つかった。ようやくか、と安堵した。仕事を辞め、酒を断ち、ただただ美代子の面影のある家に居座るようになった。だが、それは彼にとって苦痛となる日々の始まりだった。いつの日からか、智恵美の行動一つ一つが癪に障るようになる。美代子と全く違う振る舞いに、話し方に、自分に向ける眼差しに…。桜屋敷から愛しい妻の面影が消え始めていた。
「大旦那は制御しようと努めていました。でも、美代子さんとの思い出が薄れていくのに恐怖し、気がつくと智恵美さんをいつも猛烈に叱りつけていたそうで…。自分でも止められないその怒りに彼自身、一番恐怖を感じられておいででした」
「愛しい人との別れはどの世代のものも狂わす。大旦那もその一人にすぎなかっただけ、ということだな…。そして次男の妻が屋敷を去った後、次の被害者が娘というわけか…」
医者は少し考える。「清華さんが来られて直ぐは大旦那様は落ち着いておられました。彼女が耐えきれなくなったのはそこからまた少しした後のことです…」
清華が屋敷へ戻ってきた時、清一郎はたいそう安堵した。美代子によく似たわが娘を見るだけで、自然と怒りは静まる。ようやく感情をコントロールすることが再び可能になったのだ。もう智恵美へと激しく説教することもなくなるだろう、清一郎は胸を撫でおろしていた。
「だが、次男と共に屋敷から去ってしまった。まぁ、当然だな」
「はい。大旦那は自分の責任だと充分理解し、受け入れられていました。そして、次からは誰に怒ることもなく、ひっそりと老後生活をおくろう。そう考えていたようです。ですが…」
「そのタイミングで、コロナウイルスの上陸か…」
その言葉に医者は小さく頷いた。
「病気になっても、お酒が呑めなくなっても、気分転換に屋敷の外を散歩したり、古いご友人と会ったりするので、当時は何も問題はなかったのです。ですが、コロナには勝てなかった。外出が悪となり、家に一日中いるほかなかった。家事はお手伝いさんや清華さんの仕事ですし…。屋敷にいてもやることが無く、新聞を読むか、ご飯を食べるか、さっさと床にはいるか…。認知症が始まってしまうのも時間の問題だったのです」
初めての異変は清華に朝ご飯を尋ねた時だった。腹が減った気がしたので、『いつになったら用意してくれるのか』と、少し怒り気味に尋ねた。すると何故だかキョトンとした顔をして、『さっき食べたばかりじゃない』と返してきた。食べた記憶のなかった清一郎は驚いた。だが、忙しそうにしている娘にそれ以上問うことは気が引けてしまい、昼ごはんまで大人しく待つことにした。
次の異変は庭の景色だった。いつも綺麗に咲き誇っている、柔らかな花びらたちがそこにはなかった。代わりに、枝だけの寂しい姿をした裸木たちしかなかったのだ。『桜はどうした?』単純な疑問だった。だが、清華は眉を下げてこう返す。『桜の時期はもう少し後よ』
最後の異変は屋敷内で働く全ての人たちだった。昨日まで働いていた人が急にいなくなり、目につく人は全て知らない人間だった。もしや自分の屋敷ではないのでないか?恐ろしい考えが頭によぎり、一心不乱で清華を探す。ようやく庭で掃き掃除をしている彼女を見つけた。だが、彼女が顔を上げた途端、全ての時が止まった。そこには清華ではなく、あんなにもまた会いたいと恋焦がれた美代子がいたのだ。履物を掃かずに靴下のまま彼女のもとへと向かう。『美代子、お前…どうして…』その声に美代子は始めてみせる恐ろしい顔で怒った。『私は清華です!』
「認知症の大旦那を世話する清華さんは、少しずつ精神を削られていきました」
「でも、このお屋敷にはお手伝いさんがいるじゃないですか。一般家庭よりも十分に恵まれた環境だと私は思うのですが…」
「それは違う」秘書の言葉に探偵は首を振って否定する。「介護に恵まれた環境なんてない。確かに、周りに協力的な人がいれば精神的にも体力的にも少しは楽になるかもしれない。だけどな、自分の肉親が日ごとに弱り、昨日できたことが出来なくなる様を間近でみていると、人間だれでも心が病んでしまう。知らない他人ではないのだから、情のある大事な人だからこそなんだ」
医師は話を戻す。
「大旦那に話を振られたのは去年の桜が散り始めた頃でした。『もし屋敷で死んでしまったら、警察に自分の体が開かれてしまうのか』と…。急な問いかけに驚きはしましたが、私が先にお姿を確認出来たら正しく診断をするので、検死の必要はない、とだけお伝えしました」
あんなに強く部屋中に漂っていた桜の香りも、知らぬ間に消えていた。
「その時に大旦那に頼まれたのです。もう治療をしないでくれないか、と。延命などせず、寿命のまま生を終えたい、と」
「大旦那は認知症だったのだろう?それに頷いたというのか?」
「いえいえ!もちろん、初めは私もお断りしました。おっしゃる通り認知症の患者様でしたので、ご家族の方と相談しなければならないと、茶を濁してお伝えしました。でも、その時に大旦那がポツンと理由を打ち明けてくれたのです」
部屋から見える雄大な桜の姿も、ここ数日前から葉っぱが目立つようになってきた。独特の香りを嗅ぎながら、春の終わりを清一郎は感じていた。
『お父さん、これ作ってみたのだけど飲んでみて』
振り返ると緊張の面持ちをした美代子がそこにいた。彼女が持ってきた湯呑みからは桜の良い香りが漂ってきていた。言われるがまま言葉に従いそれを飲もうとするが、想像以上の香りの濃さにむせてしまった。
『やっぱり私どうかしてたのよ!ごめんなさい。やっぱり飲まないで!』
そういう美代子は今にも泣きだしそうだった。彼女の作ったものを飲まないなんてそんな馬鹿な話があるものか、そう思い一気にそれで喉を潤す。
『もっと強い香りの方が好きだ。もう少し濃いものを次から作ってくれないか?』
清一郎はあの湯呑みを持った時に悟っていた。美代子はきっと早く自分にそちらの世界に来て欲しいのだと。
新婚当時、話が苦手な清一郎は自分の仕事のことばかり彼女に話していた。もう何度も桜の葉の毒についても語ったものだ。あれは毒があるから取り扱いに注意しないといけない、と。
笑顔で聞いてくれていた美代子がそのことを忘れるわけがない。やはり、一人は寂しいのだ。随分と長い年月もの間、仕事で彼女に構ってやれなかった。だから清一郎は悲しい覚悟を決めた。彼女が自分に毒を渡してきた心中を察して、
『早く美代子のもとへと旅立ってしまおう』
そう後追いを決意したのだった。
「清華さんの真意は正直未だに分かりません。ですが、もともと桜餅などに使用する為、桜の葉のクマリンについては大旦那も熟知されておいでで。ですので、あの薬湯の匂いの濃さから瞬時に察したそうです。あれは毒なのだと…」
「娘をかばうためではなく、妻のもとへと後追いする為にあなたにそう依頼してきたのか…」
「左様です。当事者である清華さんに相談などできるはずもなく、暁清さんにこのことをお伝えし…、承諾を得ました」
「次男は知っていたのか…」
「はい。介護を清華さん一人に押し付けて来た自分たちにも責任があると。父のしたいように最期はさせてやって欲しいということで…。あのお茶のせいか、それとも薬を飲用することがなくなったことが原因か…。私が想像していたよりもずっと早くに、大旦那は息を引き取られました」
医師の目には沢山の涙が溜まっていた。
「『桜に生かされ、桜で死にたい』大旦那の最期の願いの通りに」
***
医者が帰ったあとの事務所は重たい空気が立ち込めていた。
「医師も暁清さんも…。清華さんを守るために頑なに口を閉ざしていたんですね。清敬さんには何と報告を?」
「迷っている。ありのままを伝えるかどうか…。依頼料の額も額だしな…」
「清華さんが本当にあれを薬湯だと思い込んでいたとしたら…?とてもこの辛い結末に耐えられないでしょうね…」
「それはない。彼女は知っていたさ」探偵の即答した答えに秘書は目を見開く。「化粧品会社に勤めていたんだ。このクマリンの成分の有毒性は知っていただろうよ」
「でも、私は…それでも、殺すつもりはなかった、と信じていたいです」
秘書は葉っぱの入っている缶を開く。濃い桜の匂いが再度事務所に漂った。
貰った時はあんなに嬉しい気持ちにさせていたこの香りも、今ではただただ悲しみを思い出させるものになり果ててしまっていた。
「大旦那は本当にあの薬湯が亡き奥様からのものだと思われていたのでしょうか?」
「それは彼しか分からない。だが、検死を避けようとしている時点で俺は違うとみている」
「え?」
「娘に親殺しという汚名を背負わせないために、認知症を利用して医者を丸め込んだとみているんだ」
もう誰も真実は分からない。
この桜屋敷の不審死事件の真相は未だ闇に包まれている。
完