推理と真実(前編)
長くなってしまったので、二話に分けます。
大旦那のかかりつけ医とのアポイントメントが取れたのは、桜屋敷に聞き込みを行ってから実に4日後の事だった。
「こんな夜分遅くにすいません」
時刻は21時前。仕事後で疲れ切った顔を浮かべるその男は優しく戸を叩き、恐る恐る事務所へと足を踏み入れる。髪はボサボサと乱れており、脱ぎ忘れていたのであろう象徴の白衣には皺が寄っていた。
「いえ、こちらこそ無理言って来てもらいましたから。ところで何か食べてこられました?」
「いいえ。何せ仕事が終わってすぐに来ましたので、時間がありませんでした」
「せっかくだから、今日買ったものを彼にお出しして」
「おかまいなく」
断る医者に「買ったはいいものの、賞味期限が今日まででしたので…」と伝え、秘書に指示する。
「暁清さんのところの桜餅です。あ、このお茶もよろしければご一緒に」
秘書はそう言い、紙皿に乗せた桜餅と強い香りのするお茶を男へと出す。
そしてその様子をじっと探偵は強い眼差しで見つめていた。これらを目にした医師の表情を確認するためである。だが、探偵の予想とは裏腹に男は満面の笑顔を浮かべていた。
「暁清さんのところのですか!?私の好物なのです。それでは、遠慮なく呼ばれます!」
男が口にしたことで、より一層事務所内に桜の匂いが漂う。この空間だけまるで一ヶ月もの時を遡ったかのようだった。
「よくお食べに?」
「はい。清一郎様の好物でしたので。よくお屋敷で花見をしながら一緒に頂きました」
勢いよく頬張ったからなのか、少し医者はむせた。「もし、宜しければこのお茶も」そう言って娘の作った薬湯を勧める。
男はありがとうございます、と声を発したのだが、すぐに少し眉をしかめる。
「ずいぶんと桜の匂いが強いですね」
「清華様自作の桜の葉茶だそうです」
秘書の何気ない回答に医師の手が止まった。それを探偵は見逃さない。
「どうかされましたか?」
先ほどまでとは打って変わって、目の前の男は酷く狼狽えているように見えた。
「それがただの薬湯ではないと知っているのではないですか?」
男が顔を上げたことで、ようやく二人の視線が絡み合う。
「何のことやら…」医者はそうとぼけると、目の前の薬湯を一気に飲み干した。「珍しい匂いの飲み物で驚いただけです。桜茶とは、花びらのイメージしかありませんでしたので」
「いいえ、あなたは知っている筈です。それが毒だということを」
「えっ!?」
探偵の低い声に驚きの音を上げたのは秘書。彼女を無視し、そのまま探偵は続ける。
「市販されているものなら私は気にも留めませんでした。だが、これは娘さんの手作りのもの。しかもこんなに濃いものを毎日食後に常飲させていた。大旦那には肝臓や腎臓に疾患があったのでしょう?彼にとっては十分毒になりえる。その可能性をあなたが知らない筈がない」
男は目の前の薬湯の入っていたコップを見つめ、少し考えながら言葉を落とす。
「そうですね、そうかもしれません…。ですが、私は知りませんでした。清華さんの作られていた薬湯が桜の葉茶で、しかもこんなに濃いものなんて…」
「あの…」ここで秘書が恐る恐る口を挟んできた。「一体どういう事なんですか?私にはさっぱり…」
「桜の葉、これ自体は無害なんだよ」秘書の戸惑いに、男は眉をさげながら優しく解説する。「だが、塩漬けすることによってある物質が生成される。それはこの甘い花の香りを発生させる一方で、毒という一面も持っているんだ。聞いたことないか?【クマリン】という物質を」
「売られている桜餅の葉はどうなるんですか!?」秘書は首を振りながら医師に質問を重ねる。「だって、この桜餅を買いに行ったとき次男さんは言ってましたよ!大旦那は桜餅についている葉も全部食べていたって!」もしかして、全て毒なのではないか…そう小声で重ねて呟く彼女は少しパニック状態になっていた。
「桜餅についている一枚や二枚くらいの葉を食べることは特に問題なんてないよ。大量に、しかも日常的に摂取するとなると話は別だけどね。この物質は肝毒性を持っているから…。探偵さんはそれが気になっているんだろう?」医者は探偵へと目を向ける。「だけどね、クマリンは医薬品に利用もされている。清華さんはこれが毒の一面を持っているなんて知らなかっただけだ、と私は思うけどね」
秘書の耳には医師の声が届いていないようだった。なにせ、あの缶のお茶を貰った時から毎日常飲していたのである。自分も知らぬ間に毒を摂取していたという事実に顔を真っ青にし、今にも倒れそうになっていた。
「あの薬湯は、毒…」
彼女の弱弱しく落とした言葉に、医者は優しく首を振る。
「あの薬湯にどれほどの量のクマリンが含まれているか、私は研究者ではないから分からない。ごめんね」
秘書が言葉を失う一方で探偵は重たい口を開く。
「屋敷に勤めている人から聞いたんだが、大旦那は以前は桜の葉は食べなかったそうだ。だが、二年前から急に食べるようになったと。あのお茶が食後に出されるようになった時期と同じだ。彼と何年も一緒にそれを食べていた関係のあなたがその変化に気が付かないわけがない」
事務所の空気が重くなる。
「あくまで私の推測の上で推理したことなのだが…」枕言葉を置き、探偵は話を続ける。「大旦那は随分と嗅覚がよかったそうではないか。あんなにも濃い匂いのもの、すぐにその正体に気が付いただろう。そして悟ったんだ、娘が自分を殺そうとしているということに。だが、認知症が仇になった。それを他人に説明する前にその出来事自体を忘れてしまうんだ。なんとか彼の潜在意識によって、桜餅の葉を食べることに成功し、彼に起こっている異変を伝えようとしたが、不幸なことに、あなたはそれに気づきながらも知らぬふりをした…。私はね、率直に言うとあなたと娘の清華が共謀して成しえた、完全犯罪ではないかと疑っているんですよ」
探偵の最後の言葉に、上の空だった秘書は驚いて我に返った。まだ不確かであることを他人に口にするなんて、彼にはあり得ない行動だったからである。いつもと異なる状況に秘書は固唾を飲んで行く末を見守る。
「いつかは誰かに気づかれると思っていたさ…」暫くの沈黙後、医師は探偵の言葉に両手を上げて答えた。「だが、医師生命にかけて大旦那の死因は病死だと誓うよ。確かに、私はあの薬湯が毒かもしれないと分かっていながらも私は黙認した。だけど、それは清華さんとのすり合わせではない。故人の遺志だったんだ。私には患者の守秘義務がある。だけど人様に間違って解釈されるのは私には耐えられない…。だから…今から大旦那の真実を話すよ」
その後、彼は語った。清一郎の悲しい覚悟を。
※この物語はフィクションです。
毒に関しては素人レベルの知識です。
ただし、過剰摂取はお控えください。