身の丈だけでは及ばない
「お侍さん。お忘れになられていますよ」
凛とした声音が、喧騒の中でやけに大きく聞こえてきた。
それは果たして、何の悪戯であったのか。その真意は未だ掴めずにいる。
ただ、彼が振り返った先には、美しい少女が一人立っており――。
「あ……かたじけねェ」
新選組十番隊隊長という肩書きすら忘れ、その瞬間、彼は恋に落ちた。
「永倉ァー!」
スパァンと障子が開けられると、原田左之助は無遠慮に部屋へと踏み入ってきた。問答無用ってか。返事をする間さえありゃしない。
こちとら、お偉い方に書状をしたためなきゃならんというのに、何を突然押しかけてきやがる。むしろ何だ、その干乾びたワカメのような面構えは。まさかお前、真剣なこの状況に水を差すんじゃあるまいな。
苛立ちもあらわに俺は原田をじとーっと見つめていると、自然と眉根に力が籠った。勿論そんな俺に構うことなく、原田はずかずかと歩み寄って来る。
嫌な予感は見事に的中したらしい。
文机を挟み、俺の対面に腰を下ろすと、原田はハァと壮大な溜め息を吐いてきた。
「なぁ永倉、聞いてくれよ」
「……今日は一体何だ。仕事か、隊士か、それとも『アレ』か?」
筆を置き、ほとほと飽きれた風に俺はぼやいた。だが、対する原田はその面に焦りの色を浮かべると、両手を見つめながら切々と切り出し始める。
どうやら、既に俺の嫌味さえ頭に入らないほど混乱しているようだ。
「マサさんが……マサさんが見知らぬ男と話していた。それも、すっごい楽しそうに話していてよぉ。絶対に話しかけられないっていうか、話しかけてくるなっていうか……」
すると、まさに顔面蒼白といった様相で、原田は唇を震わせた。
「結局さ、俺、何も話しかけれないまま、あの場を離れちまって。でも、どうして離れちまったんだって、滅茶苦茶後悔していてよ」
それを目にした俺は更なる呆れを垣間見せると、口をへの字に曲げる。
ああ、そう。あなたが取り乱しているのは、アレの方の問題ですか。
「あーそうですか。それは難儀なことで――」
「どうするよ、永倉!! あのマサさんに、まさかそんなことがあるだなんて!」
「左之。あのなぁ、マサさんも町人の娘なんだ。それも良い年頃の麗しい娘なんだろう。別に契りを交わした者がいたとしても、何ら不思議はないだろうに」
俺の言葉にぐっと言葉を詰まらせると、原田はきゅっと唇を噛み締めた。
原田の言うマサとは、仏光寺の町人菅原某の娘である菅原マサのことだ。年の頃は十七ほどと、実に花の咲き始める頃合い。また儚げな外見ながらも芯を持ったその心に、想いを寄せる者も少なくないのだという。
勿論それを言ったのは原田自身であるため、想いが募れば何とやら。どこまでが事実でどこからが妄想なのかは、俺にはさっぱり解らなかった。そもそも、あそこまで来たら末期だ。理解したくもない。
「ま……真で御座いますか、永倉様ァー」
確かに美しいことは否めないけどよぉ。と呟くと、原田はずでんと文机に突っ伏した。と同時に、何かがぐしゃりと音を立てる。
「なッ、テメェこら左之! 何しやがるんだ!」
「……あ?」
「『あ?』じゃねぇよ! 折角したためたっていうのに、どうしてくれるんだ、これ!」
故意ではないにしろ、本当によくやってくれる野郎だ。
突っ伏している原田の腕の下には、先刻までせっせと書き記していた書状が、見るも無残な形になって横たわっているではないか。ピンと伸びていたはず紙は、最早見る影もない。原田の腕の下で、ぐしゃりとしわを寄せている。
なんてこった。書状を台無しにしたのも痛いが、心の方も相当痛い。
俺が今度は絶望に暮れている傍ら、先ほどとは異なる苦い表情を原田は浮かべる。
あー、と生気のない声を垂れ流しながら身体を上げると、せめてもの罪滅ぼしなのか、原田はしわの寄った紙をせっせと伸ばしにかかった。だが、いくら両の手で紙を伸ばしても、完全にしわがとれるはずもなく、
「……悪い、永倉」
「本当だよ、この馬鹿が」
さすがに口には出さないものの、正直「これを書いていた時間を返せ」と、声を大にして言ってやりたいと思ってしまった。勿論自らの立場を考えて、寸での所で飲み下してやったが。
俺は頭が痛くなり、片手で目元を覆い隠す。
爽やかな春の風が、小馬鹿にするように吹き抜けていった。
原田がマサと出会ったのは、池田屋の一件から幾許かの時を経てからだ。
その日、原田率いる新選組十番隊は市中見廻りを終えた後、数人の隊士を引き連れて、京の街へと赴いていた。池田屋の一件以降、見廻りに一層の力を入れていたものだから、たまの息抜きを兼ねていたとも言えるだろう。
だが、髷を結い、甘味を食し、実に良い気分でいたその帰路で、それは起こった。
新選組屯所まで、それほどの距離もなかっただろう。仏光寺の近くをわいわい歩いていたところ、不意に声をかけてきた娘がいたのだという。それがマサだ。
彼女は腰に佩いていた刀で気がついたのか、はたまた彼らの堂々とした雰囲気から悟ったのか。努めて華やいだ笑みを浮かべると、かの新選組隊士である原田を気遣い、『落とした』ではなく『お忘れになった』と、一文の金を手渡してくれたのだそうだ。
しかし、これはいわゆる一目惚れというもので。原田にしてみればその瞬間、一文では足りないほどの大きな想いが生まれていたのである。
それは今から三つもの季節を遡った、ある日のこと。
「もう、いっそのこと想いを告げればいいだろうに」
今日も今日とて、「マサさんがぁぁぁああ!」と押しかけて来た原田に、いい加減うんざりしていた俺はそう言ってやった。
刹那、その言葉に驚きを隠せず、原田はくわっと顔を寄せてくる。
「ちょッ、あなた一体何をおっしゃるんですか!?」
やめてくれ。俺は男には興味がないんだ。どうせ近づけるなら、もっと色っぽい女の顔にしろ。そして唾を飛ばすな。微妙な気分が、余計に微妙になる。
ひょいとさりげなさを装って原田との距離を開けると、咳払いをしてから改めて原田へと顔を向けた。
「お前も知っての通り、俺はこれでも二番隊の隊長だぞ。時には隊士の色恋話だって聞かされている」
もっとも、「任務に支障をきたすなら」と、ある隊士の恋の悩みを聞いてしまったのがことの始まりだ。
以来、おかしな風にこのことが広まったのだろう。いつの間にか、俺の周りには恋愛相談者が増えに増え、やれ「どこの娘が美しい」だ、やれ「どこの娘に恋をした」だと持ちかけられるようになっていた……というのが本当のところなのだが、それはこの際気にしないことにする。
どのみちそういう類の話を聞かされているのだ。変わりないだろう。
「で、その時は必ず言うんだ。『そこまで想っているのなら、己の想いを正直に告げればいいだろう』って」
「やるのか? お前んとこの隊士は」
「ああ。果敢に飛び出し、各々の想いを告げに行ったさ」
その様相は、まるで戦場へと飛び出してゆく武士の姿か。意を決し、一世一代の大舞台へと飛び込まんばかりに気を引き締め、時には刀を持てば怖がるだろうという気遣いをし、刀を放っては門扉の下を駆け抜けてゆく。
普段以上に真剣な眼差しと雰囲気は、これ以上の物はないとさえ思えるほどに張りつめていた。皆が皆、心に決めた一つの想いを告げるべく、この世にまたとない高見へと出陣していく姿を、幾度と見送ったことか。
「……とはいえ、その大半は潔く散っていったがな」
まあ、人生なんてそう甘いわけがない。
左隣から注がれていた輝かしいばかりの視線を断ち切らんばかりにそう付け足すと、俺は茶をすすっては懐かしむように虚空を見やった。むしろ、ある種の憂いさえ浮かんでいたのかもしれない。
「あいつらは真に、美しく散っていった」
もう一度ズズッと茶をすする。
小鳥がさえずる中、ポカンと口を開けていた原田は、我に帰るなり「いや待て!」と大きく首を振った。
「いや、待てコラァ! それってちっとも良くねぇじゃねぇかよ!」
「何だよ、七面倒臭い。いいじゃないか、想いを告げて散ったんだ。本望だろう?」
「『本望だろう?』じゃねぇよ! てかそれ、本望じゃねぇから絶対!」
「だったら何が、お前の本望だって言うんだ」
まあ、何を言うかは大方見当は付いているがな。
湯呑の淵を親指ですすっとなぞると、俺は原田になど目も向けずにそう独り言ちた。思わず押し黙ると、原田は居心地が悪そうに視線を彷徨わせる。
騒がしい奴が急に黙ると、いつにも増して静寂が色濃く纏わりつく。もしかしたらつい先日、この西本願寺へと屯所を移動してきたせいもあるのかもしれない。以前の屯所とは違い寺の境内にあるものだから、通りの喧騒もさほど大きくないのだ。
今まで境内の木々を見ていた俺は原田をちらと見ると、目を細める。
酸いも甘いもなんとやら。こいつだって世事も人情も、そこから学んだ人との関わりだって知っているはずなのに、やはりどこかで子供だった。
人とただ付き合うことと、恋を交えて付き合うことは、そこに宿る意味合いが違う。加えて、原田はもう二十六だ。それこそ、先を見据えた恋だということは目に見えていよう。
それを踏まえた上で、なお付き合っていくことがどれほど難しいか。どれほどの決意が必要か――想いを告げ、結ばれるというのは、そういうことだ。双方にその意気がなければ、散るに決まっている。
何も言わない原田から視線を話すと、コトンと湯呑を置いた。吹き抜けていった風は梢を揺らし、桃花の香りを運んでくる。
そこでふと、少し前の記憶がよみがえってきた。
あれはまだ、肌寒い二月の風が梅の香りを運ぶ、春と冬が混合していた時期だったか。いつも通りマサさん関係のことで飛び込んできた原田に、俺は堪らず言ってやったのだ。
「お前はいつもそう言うけどな、俺は実際にマサさんに会ったことがないんだから、お前にどうこう言えるわけがないだろう」
という風に。そりゃあもう、きっぱりと言ってやったさ。
すると何を開き直ったのか、原田はすぐさま俺を連れ出すと、有無を言わせずにマサさんの所へ連れて行きやがったのだ。その行動は実に早く、今までへこたれていたのが演技だったのではないかとさえ感じられた。それくらい、奴は素早かった。
それでだ。結論から言うと、そのマサさんという人は話通りの愛らしい娘だった。大きく黒目がちな瞳も、コロコロと変わる表情も、痩せすぎず肥えすぎずな体型も、典型的な娘というべきか。
だが、それでさえ愛らしいと言い切れるのは、彼女の純粋な心と初々しい所作があったからこそだ。いわゆる男なら誰でも持つであろう「守ってあげたい」という感情をくすぐる雰囲気を、無意識のうちに纏っていると言えばいいだろう。
なるほど。これならば原田も気が気じゃないわけだ。こんな娘ならば、さぞかし男に惚れられるに違いない。もしくはそこまでいかなくても、近付いてくる奴は多いだろう。
そうかそうか。左之はこの娘に恋をしているのか――そう思いニヤケたくなる反面、意外だなと思ったのもまた事実。
何しろ、俺と原田はしょっちゅうつるんでいる仲だ。そんな俺達だからこそ、ぎゃーぎゃー言いながら花街に足を向けることもしばしばだったのだが、原田は花街に行く度に派手目な女と席を共にしていた印象が、俺の中にはあったのである。
……いや。そりゃあ花街だから、庶民なんかよりも十分に派手な出で立ちをしているのは承知している。そうじゃなければ、商売上がったりだ。
つまり俺が言いたいのは、派手な花街の遊女の中でも、特に派手な女を原田は好んでいたということで、だから現実でもそれなりに派手な女を好むものだとばかり思っていた、ということだ。それが今回、一番驚いたことだろう。
もう一つ驚いたことを上げるとすれば、やはり原田自身についてだ。
まさか普段はあれほど荒々しく豪快な原田がだ。「この腹は金物の味を知っているんだぜ」だなんて得意そうに言い、ポンポン腹を叩いては笑っているような、あの原田がだ。
マサさんと顔を合わせた途端、まるで始めて恋を知った乙女のように頬を染め、嬉しくも恥ずかしいといった感じで終始話していたのは、おそらく俺の気のせいではないはずだ。
その上、会った時の「ちょっと近くを通ったもんで」やら「あ。こいつ、友人で同僚の永倉新八っていうんだ」やらいう、いかにも偶然を装ったという口実や回りくどい言い方には、どこの女子だよと鳥肌が立った。よくそれを口にせず愛想笑いを浮かべていられたもんだと、自分自身を褒めてやりたい。
それほどまでに、原田は乙女だった。初だった。今まで相談を受けてきた隊士の中でも、最も重度の恋心を抱いているといっても過言ではないだろう。
そんな原田は隣でそわそわと落ち着かなそうにしていたが、しばらく経つとそれもやめにする。
「お前、何が本望かって言っただろう?」
すると、ぽつりと小さな声が聞こえてきた。
「俺はマサさんと一緒にいたいし、そんなマサさんの笑顔だって、ずっとずっと見ていたい。そのためだったら、どんな時にでも守りたいから、その……こ、告白っていうか、きちんと思いだって伝えられたらなって思うよ。でもさ、何ていうか……俺って馬鹿だから、何が本望なのか、うまく言葉にできなくって……」
ああ。やっぱりだ。
今も想っただけで、こんなにたどたどしく弱気な発言をしている。それがひどく初々しくて真剣で、悪いとは思うものの何だか笑えた。
恋は人を変えるというが、なるほど。本当にそういうものらしい。まさか原田が、ここまで純情で初だとは思わなかった。だが、
「ああ。確かに馬鹿だな、お前は」
これで俺の中の結論は出た。
こいつは馬鹿だし、大雑把だし、空気読まないし……つるんでいればいるほど、悪い所も目立ってくる。正直な話、酒癖が死ぬほど悪いことは、隠しようのない真実だ。
「なぁ、左之。馬鹿なお前にも解り易く言ってやるよ」
それでもその分、良い所だってたくさんある。俺はそれを知っている。いや、おそらくこいつの周りにいる奴らは、大抵解っているだろう。
「あのな、お前が言ったことの全てが、お前の本望なんだよ」
こいつが努力家だということを。行動力があることを。真っ直ぐすぎて、嘘もろくにつけないことを。そして、仲間を大切にするやつだということを。きっと、みんなみんな知っているはずだ。
原田の頭を軽く張り飛ばしてから、俺はのっそりと立ち上がる。
「しょうがねぇ。お前の恋路、手伝えることなら何でもしてやるよ」
しばらくポカンとしていた原田は、言葉の意味を理解するなり泣きそうな顔で笑ってきた。
さて。本当の春を咲かせに行きましょうか。
それからというもの、原田は今まで以上に頻繁に、俺の所へ来るようになった。
新選組内ではちょいと前に男色が流行したものだから、まあ、不本意ながらもそういう関係なのかと見られることも多々あったが、人の噂も七十五日。当分苦しめられそうな気がしないでもないが、この際気にしないことにする。
ただ、やはりどこかで居心地の悪さを感じていたのだろう。それ以来、俺は原田と共にマサさんの所へ行くことが多くなっており、より間近で二人の近況を知ることができた。
勿論、その中でも一喜一憂する原田の姿を目にしたわけだし、俺自身の意見では「壁になるんじゃねぇかな」というような小さな問題もいくつかあったわけだが、それでも無事に過ごしているといっていいだろう。
ずいぶんと弱気で初な原田も、会う回数を重ねるごとに素に近い状態で話せるようになった。
そんな原田を見て、マサさんも安心していった。
一見些細な変化かもしれないが、それが二人にとって良い方向へと働いていたのは、たかが一隊士から色恋事の相談を受けている俺にだって解った。むしろ、恋をしている時と普段の落差が激しかっただけに、原田の場合は不幸中の幸いだったのかもしれない。俺が女なら、「実は俺、本性凄まじく荒々しかったんです」なんて言われようものなら、くらっとしていたこと請け合いだ。
まあ、そこは人の心のことなので、一人ひとり感じる点や考える点は違うのだから、俺にとやかく言う資格はない。
更にもう一つ付け加えるならば、女性にはそういう点が受けがいいというか、ようは母性本能をくすぐられるのだろう。無邪気で元気なくらいが、心配もいらないし可愛いのだ。前に、俺も彼女にそう言われた。とりあえず、そういうものらしい。女心は男が考えるよりも、なかなかに複雑なのだ。
隣にいる原田に目配せをしながら、俺は静かに長く息を吐き出した。
三月もそろそろ後半に入るだろうか。花見の時期も過ぎ、若い緑が陽の光に映えるようになってきた頃合いだというにもかかわらず、茶屋で呑気に団子を食べながら、俺はぼんやりと通りを眺めていた。
……いや。本当はこんなことをしている場合ではないのだ。本来ならば、今日は一大決心をするために、原田とこうして外に出てきたはずだった。
ただ、菅原家を前にして顔色を悪くし、「もう俺、絶対駄目だ」発言を垂れやがった原田の気持ちが落ち着くのを、こうして団子屋で暇をつぶしながら待っているだけにすぎない。
そのため、大して食べる予定ではなかったはずなのに、俺は十本の団子と三杯の茶をたいらげていることに気付いた。これでは新選組随一の甘党である島田魁のことを、甘党だななんて茶化せない。
一本目の団子を手に持ったまま、死にかけた視線を足元に落としている原田に、俺はとうとう痺れを切らした。
「左之。お前、いつまでそうやっているつもりだ?」
「…………さあ」
「『さあ』じゃねぇよ。このままだと俺、確実に甘党に格上げだよ。昇進しちまうよ。むしろ島田さんと一緒に市中甘味処めぐりをしちまうよ」
「……そう」
だが、俺が少しでも気をほぐしてやろうと努力しているにもかかわらず、鈍い反応の上、一言だけボソッと言うだけだ。確かにこれからしようとしていることは緊張するかもしれないが、これでは救いようがない。
俺は無防備になっている原田の太股を親指でぐっと押すと、ようやく情けない声を上げて、死んだような眼にも生気と涙が宿った。
「ちょッ、何すんだよ永倉!」
「お前こそ何やってんだよ。いつまでも団子と見つめあっているつもりか? え?」
あえて苛立った口調で、俺は食いかかってくる原田を迎え撃つ。だが、現実を思い出したのか、原田の表情はすぐに曇ってしまった。
まったく。これじゃあ進めるもんも進めないじゃないか。
「別によ、団子に求婚申し込むために腹括ったわけじゃねぇんだろう? やること決めたから、腹括ってここまで来たんだろう? それなのに何、死んだ魚みたいな目ェしていやがる」
「や、だって……」
「だってもクソもねぇだろう。お前、今朝の勢いはどうしたんだ? 朝言ったこと、まさか偽りだったなんて言うんじゃねぇだろうな」
「それは断じてねぇって!」
「だったら、覚悟はあるんだろう」
今朝、朝稽古が始まる前に原田は俺の部屋に来た。今までは市中見廻りや仕事の合間に来ることばかりだったから、俺は正直何事かと驚いた。
(永倉。今日お前、非番だったよな)
(ああ)
(俺、さ。そろそろ踏ん切りつけないといけねぇって思ってさ。だから今日……その、マサさんの所に行こうと思う。それで、自分の想いをさ、正直に伝えてこようと思うんだよ。だから……)
それでも俺はそこで紡がれた言葉が本気なんだと感じ、原田の言うことに従った。そうすると決めていたから、迷いなんてなかった。
(了解。武士に二言はねぇからな。前に言ったとおり、俺はできることなら何でも協力するよ)
だから俺は、原田が逃げ出さないように、めげないよに、こうしてついてきた。そうする約束だったから……というのもあるが、正直なところ、こいつには逃げないでほしかったからだ。
言うのは簡単だと解っている。
だって俺は、ただ見ているだけにすぎないのだ。実際にそれを行動に移すのは、あくまで原田左之助本人だ。原田にかかる緊張や圧力は、計り知れないだろう。
それこそ、まだ恋の行方どうなるとも解っていないのだ。いくら仲が良くても、振られる時には振られるし、結ばれる時には結ばれる。だが、その振られるのではないかという恐怖心を振り払わなくては、何も行動できない。
だからこそ、今朝、原田が俺にその覚悟を言葉にしただけでも、相当の勇気が要ったであろうことは容易に想像できた。何しろ様々な葛藤があった末に導き出した答えだ。例え誰かが協力するといっても、そんなの気休めにしかならない。
しかし、今はそれ以上の勇気が必要になる。
「お前がマサさんに向けている想いは、そんな圧力に負けちまうくらいの、弱いものだったっていうのか? 違うだろう。ずっと馬鹿みたいに悩んで、それでやっと決めたんだろう。今さら逃げて、そんなんじゃ、絶対に後悔するぞ」
それでも、俺には発破をかける他なかった。ここで「じゃあ、今日は帰るか」なんて逃げを用意してしまったら、原田のためにもならないし、それにずっと逃げ続けることになるだろう。
それだけは、何が何でもさせるものか。
「なぁ、左之。違うか?」
「違うわけねぇよ。俺だってそれくらい……本当は解っている」
ギュッと団子の櫛を握りしめると、原田は唇を噛み締めた。
「でも、今になって、すげぇ怖い。鴨さんを斬りに行った時よりも、池田屋に乗り込んだ時よりも、ずっとずっと怖ぇよ。本当は女々しいんだっていうことは解っているけど、それでも――」
訥々と語る原田の声は、通りの喧騒に時折掻き消されそうになる。幾つもの足音が行き交う中、俺は黙って原田の言葉に耳を傾けた。
聞き取りにくかろうが何だろうが、原田にここで引いてほしくないように、俺もここで引くわけにはいかない。
他の隊士から相談を受けた時なんか、恋に破れる奴も多かったから、俺自身が誰かの恋を実らせる力を持ているとは毛頭思っていない。けれど、関わったからには引けないと、心のどこかで思っていた。
原田は再び黙り込むと、開いている方の手で顔を覆い隠す。やっぱり俺は何も言わずに、原田から視線を離した。目の前を姉弟と思われる子供が駆け抜けていく。
それから、どれほどの時を経たのだろう。長かったようにも、短かったようにも思える。
さらさらと爽やかな風が頬を撫でていくのを感じると同時、原田は顔からそっと手を離した。相変わらず冴えない表情のままだったけれど、それでもぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「わりぃ、うじうじしていて」
「本当だよ」
「でも、だいぶ落ち着いた」
原田はそう言うと、ぎこちない笑みを口元に浮かべた。けれど、それで落ち着いたのは、案外俺の方だったのかもしれない。
人の恋路とはいえ、ここまでかかわったからには、気付かないうちにそれなりの覚悟を自らの中に持っていたのだろう。
恥ずかしさを紛らわすためにも、俺は原田の頭をやっぱり軽くひっぱたき、「早く食え」と促した。
「団子食って、今のうちに腹満たしとけ」
「うぅっ。すげぇ嫌な言い方するんだな、永倉って」
「嫌な言い方なもんか。幸せっぱいで、食事も咽通らねぇってなるんだろう?」
武士の勘だけど、今日ならうまくいくような気がしているんだよ。だって、お天道さんもこんなに輝いているじゃないか。
だからよ、馬鹿左之。身の丈よりも大きな想いを告げて、とっとと幸せになりやがれ。
にかっと笑ってやると、原田は照れくさそうに微笑み、団子を一気に食べてからすくっと立ちあがった。
「待ってろよ」
「大丈夫。高みの見物させてもらうからさ」
ひらひらと手を振り、原田を送り出す。原田は振り返りもせずにひらひらと手を振り返すと、五軒ほど離れた場所にある菅原家へと真っ直ぐに向かっていった。
マサさんの姿が、日の下に現れる。
おわり