十王族-10
レナの首筋に突きつけられた、アスハの握る剣の刃。
その冷たい切先が僅かに喉元にあたった事で、彼女の柔肌が切れ、僅かに血を溢す。
「さて、本題だ。ファナ・アルスタッドの身柄をこちらに引き渡せ。そうすればレナ・アルスタッドを解放してやる」
「外道め」
「好きに呼ぶといい。我々も外道に落ちずして理想を叶える事が出来るとは思っていない」
時間を多く稼ぐ事は出来なかった。ヴァルキュリアはファナへと向き、彼女と視線を合わせると……ファナはコクリと頷いて、一歩一歩、アスハの元へと向かっていく。
「賢い選択だぞ、ファナ・アルスタッド」
「お母さんを、解放してください」
「お前の身柄を確保してからだ」
まだ、距離としては十メートル弱離れている。
その距離を少しずつ、緊張する足を前に出しながら詰めていくファナを挟んで、ヴァルキュリアとアスハが視線を交らせる。
二人とも、この取引が無事に終了するとは思っていない。
問題は、互いに持ち得る不確定要素が、この取引においてどう作用するかである。
アスハへと一歩一歩近付き、もう数歩近付けば、アスハが手を伸ばすだけで届く距離にまで来た。
そこでヴァルキュリアは剣に込める力とマナを強め、何時でも動けるようにする。
それに気付いたアスハも、ファナの身柄を確保しつつヴァルキュリアを妨害できるよう、全身を警戒させた瞬間――ファナが足を止め、口を開く。
「あの、少しいいですか?」
ファナがこのタイミングで言葉を挟む事を予想していなかったアスハは、聴覚を稼働させながら「何だ」と問う。
「アスハさん達は、アタシについて、何も知らないんですか?」
「知らん。知らんからこそ、我々は貴様を不確定要素とし、始末しようとしている」
「……そっか。そうですね。じゃあ、コレも知らないんですね」
「コレ?」
ファナがポケットの中に手を入れて、何かを取り出した事はアスハにも理解できた。
問題はそれが何かであるが――ファナはその何かを、ヴァルキュリアの方へ、つまり後方へと投げ渡すように放り、今それが宙に舞った事は理解できた。
瞬間、アスハの脳内には幾つか思考が巡る。
(ブラフである)
(しかしファナ・アルスタッドが持つ特異性が何か魔導機のようなもの故であれば?)
(そもそもアルスタッド家には不明な点が多い)
(だがこのタイミングでというのはブラフとしか)
瞬間的な思考に、数多の思惑が絡んだ所で解決に至る事は無い。どんな形にせよ行動へ移す他に解決手段はないのだが――彼女は盲目故に見えない何かが宙を舞っている時間に、それを思考してしまった。
僅かに、アスハが剣へ込めている力を緩めてしまう、その瞬間。
ファナは目を閉じて頭を抱えながらしゃがみ、不意に動いたファナの事を感覚で追ってしまったアスハの剣に――ヴァルキュリアが地面を蹴りつけ、その剣を弾き飛ばすと同時に右腕を切り裂き、頭部へと回し蹴りを叩きつける。
「グ――ッ!」
痛みを感じずとも、衝撃を受ければ脳が揺れる。脳が揺れれば平衡感覚に影響を及ぼし、僅かによろめいた身体へと追撃を行いつつ、声を上げる。
「ファナ殿ッ!!」
追撃として、グラスパーの刃ではなく柄の底でアスハの顔面を強く殴りつけたヴァルキュリアによって、その場から殴り飛ばされるアスハ。
そしてレナとの距離が開く事で、ファナはしゃがんでいた身体を起こしつつ、レナの所へ。
軽く触れながら、レナに怪我などが無い事を確認してホッと息をつく。あくまで薬か何かで気絶させられているだけで、目に見えない外傷なども無い。
レナの少し大きな体を抱えるも、鍛えていないファナがレナを担いで逃げる事は難しい。
ならば味方の増援が来るまで、二人を守る必要がある。
二人を背にして立ちはだかるヴァルキュリア。そんな彼女と僅かに距離を開けながら、先ほど切り裂かれた右腕をアスハが拾い上げる。
「――手を焼かせてくれるな」
「そちらが非道を貫くならば、こちらも手を尽くすだけである」
「つまり先ほど投げていたものはやはりブラフであり、ファナ・アルスタッドの特異性は、彼女当人のものであると」
「それはどうであろうな。ハッタリと断定するにはまだ早かろう」
「そうか――ならばその正体を探るのも、悪くはない」
拾い上げた右腕の切断面を合わせるようにしてくっつけると、肉と肉、骨と骨の切断面が再生を果たし、繋がっていく。
アシッドと言う存在の自己再生を見せつけられたファナは、僅かに視線を逸らしそうになるが、それでも敵を見据えつつ、一歩一歩、重たい母の身体と共に遠ざかる。
「ヴァルキュリア、私は貴様とアマンナの事を、それなりに気に入っている」
「それはそれは。嬉しくて反吐が出るようであるな」
「貴様とアマンナは敵をしっかりと見据え、その上で最適な戦闘方法を模索する。私がなり得なかった兵士としての在り方を体現し、事実私を圧倒し得る力を持つ。……故に、この力をあまり、お前へ使いたく無かったのだが」
アスハの顔面にかけられた知的さを感じられる眼鏡。
先ほどの戦いで僅かにレンズが割れてしまっているが、しかし本来盲目である彼女にそのレンズが意味を成しているとは思えなかったが――今、その眼鏡を外し、ヴァルキュリアを見据えた。
彼女と目が合った瞬間――ヴァルキュリアは脳を揺さぶられる感覚と共に、思わず構えていたグラスパーの刃を、落とした。
カランカランと音を奏でながら、落ちた刃と、ガックリと項垂れるように頭を下すヴァルキュリアに驚き、ファナが「ヴァルキュリア様……?」と声をかける。
だが、彼女は何も、反応を示す事は無い。
「ヴァルキュリア。先ほどファナ・アルスタッドより投げられたモノをこちらに寄越せ」
本来、敵であるアスハに命じられて、それを成すヴァルキュリアではない。
しかし、今の彼女は実にゆっくりとした動きでポケットに手を入れると、先ほどファナが投げ、ヴァルキュリアが回収したモノを取り、それをアスハに投げた。
掴み、受け取って触れると、それが何かの概要を掴む事が出来る。
「……球体の何か、恐らく聖ファスト学院で宝石魔術の授業にて用いる、合成宝石か」
僅かにファナの身体がビクリと動いた事がアスハにも読み取れた。彼女は実に分かりやすく、クスと微笑みながら、その球体……価格の安い、授業で用いる為の宝石を地面へと落とし、踏んで砕いたアスハに、ヴァルキュリアは何も反応を示さない。
「ヴァ、ヴァルキュリア様、どうしちゃったんですか……!?」
「無駄だ。今のヴァルキュリアは意識を奪われ、私の傀儡となっている。それが、私の【支配能力】だ」
支配能力、その言葉を聞くだけでも、概ねどのような能力であるか、それは理解できた。
現に先ほどまで、多くの男女を操っているかのように動かしていたし、それ自体は概ね予想出来た。
「さて、それなりに時間が経過した。貴様らの組織……そう、確かシックス・ブラッドか。貴様ら以外に誰か訪れる気配も無し、これ以上遊んで時間を浪費する必要も無いだろう」
「……遊び、ですか?」
「ああ。お前を殺す事自体は容易い。しかしお前の背後にある、シックス・ブラッド以外の組織や人物がいるのなら、ソイツを誘き出し調べ出す事が、メリー様の目的でもあったのだが、どうやら来ないようだ」
一歩一歩ファナへと近付くまでの時間も、アスハにとってはそうした敵を誘き出す為の時間稼ぎ、かつ敵を挑発する手段でしかない。
しかし、そもそもファナの背後にいる組織がファナを守ろうとしているか否か、それすらわかっていない状況だ。
もしかしたらファナを殺す事が、まだ見ぬ敵にとっての目的だとしたら、それはそれで帝国の夜明けとしても異論はない。
「さて――ではタイムリミットだ」
ヴァルキュリアのグラスパーを拾い、ファナの喉元に突きつけられる刃。
刃を振り上げ、今にも振り下ろそうとするアスハを見て――ファナはそれでも決して、嘆きも命乞いも、口にはしなかった。
それでも、やはり目は閉じていた。
死に行く事が恐怖で無い筈はない。恐ろしくない筈はない。だが嘆きや命乞いを口にしない強さに――アスハは一言、彼女へ冥途の土産として言葉を遺す。
「ファナ・アルスタッド。貴様は私好みの心を持つ女だ。殺さねばならぬのが、惜しくなる程にな」
だが、現実は無情だ。アスハは振り上げた刃を振り下ろし、その首を切り裂こうとした――次の瞬間。
何者か――恐らく女性の細い足が、グラスパーを握るアスハの手首を切り裂き、その刃を宙に舞わせた。
驚き、思わず背中を逸らすように後ろへと飛んだアスハだったが、女性の攻撃は止まらない。
アスハの顔面に三本、小さなナイフが降り注ぐように放ち、全てが顔面を貫いていく光景を、ファナに見せぬよう手を当てる。
「き、貴様、もしや貴様が、ファナ・アルスタッドの事を……守って、いるのか?」
ナイフによって口内まで切り裂かれた結果、上手く発する事の出来ないアスハが、何とか放った言葉に、女性は答えない。
そして女性の手によって目を隠され、その者が誰なのか、ファナにも理解する事は出来ないでいる。
「だ……誰……?」
ファナが問うても、女性は答えないし、答えた所で誰かを知ってもいないだろう。
しかし――アスハには分かっている。その者の放つ気配と、名前が。
「……ルト・クオン、ハングダム……十王族の一人が、何故ファナ・アルスタッドを守る……ッ!!」
「さて――何故かしらね」
応じた言葉に、ファナはどこか……優しそうな声であると、そう感じるのである。





