クシャナ・アルスタッドという女-07
話しながら進んでいった先、既に工業区画というよりも工業区画内の住宅エリアと呼んでも差し支えない、薄暗い通り。
そこにはあられもない格好の女が何人も立ち並び、男達に向けて唇を鳴らしている。
「そ、その……あの女方らは何をしているのだろうか……?」
「男に身体を売ってるのよ」
「か、身体を……!? じ、人身売買、であるか?」
「違うわよ、売春。流石にこう言えばわかるわよね?」
売春、と聞いた瞬間、どういった意味の言葉であるかを頭で探ろうとしたヴァルキュリアはすぐに意味を思い付き、顔を赤くさせたが――同時に、アルステラから一歩程遠ざかり、身構えた。
「も、もしやアルステラ殿も……!?」
「してないわよ。なんでこんな、小汚い連中が集まる場所で、私の高貴な身体を売らないといけないの? 私、お金に困っているわけじゃないわ」
「で、ではここに如何な用があって……!?」
「通り道だから仕方ないの」
売春が横行していた細い通りを、さらに細くしたような通りへ、アルステラが行く。
その通りを進んでいくと、汚れた格好の男が、紙煙草のようなものを口に咥えながら火もつけずに立っていて、アルステラは男を見つけると、ポケットの中に入れていた千トネル札を二枚取り出し、男へと差し出した。
「この子、初めてなの」
「紹介ですかい。何時もありがとうございます」
男は礼儀も何も知らぬが、しかし頭を下げるべき相手だと分かっているように適当な動きでペコリと頭を下げ、下品な表情で二人を見据えつつ、その場を退いた。
男の背後には、もう一つ小さな通りがあった。
人が二人並んでは通れない程に狭い通路、アルステラがその中へと進んでいくものだから、ヴァルキュリアは恐れながらも中へと進んでいく。
通りを抜けた先には、少しだけ大きな広間があった。
広間には軽やかな音楽が魔導機から発せられていて、年齢を問わず様々な男女がひしめき合い、踊っている。
全員、楽しそうではあるが――何とも、異様な空気を感じ取った。
全員、目が死んでいるように見受けられたのだ。
「あ、アルステラ殿……? こ、ここは一体」
「庶民の娯楽場よ。ちゃんとした届出も出されていない、違法なものだけれどね。みんなはここを【グレッセル】と呼んでいるわ」
「そ、そんな場所に拙僧らが来ることも、そんな場所が存在する事も間違っているのである! な、何故そんな場所に」
「ヴァルキュリアさん、これでも飲んで落ち着きなさい」
通りがかった、係員のような男がグラスを二つ持ってきて、アルステラに手渡すので、アルステラはその一つを自分で煽る様に飲み、もう一つをヴァルキュリアに手渡した。
水のような外観に、ヴァルキュリアも言葉を失い、それを口にしようとするけれど――しかしその自ら僅かに酒の香りが漂ってきたので、口を放す。
「さ、酒……!?」
「そうよ。流石に普段私たちの周りにあるような、高級志向じゃないけれど、意外と飲めるものも多いわ」
「ぐ、グロリア帝国では十八歳未満は酒を嗜んではいけないのである!」
「でもここでは、子供でも酒を飲むわ。そうした場所に応じて、自らも在り方を変える。それこそ庶民の生活を知る上で大切な事よ」
無理に飲めとは言わないけれど、とヴァルキュリアから酒をひったくり、自分で飲むアルステラの姿を見据えた後、ヴァルキュリアは周りを今一度見渡す。
確かに、中にはヴァルキュリアよりも年下にも見える子供が幾人か見える。
そうした子供たちも、酒を飲み、大人と踊り、中には幼い子供が父親程度の年であろう男に向けて、尻を突き出している光景は、見ていて気分もよろしく無かった。
「せ、拙僧はもう、ここに居たくないのだが……」
「そう? なら早く帰りましょうか。買い物だけして」
「か、買い物……?」
「ええ。さっき、庶民へお金を落とす方法として、しっかり買い物をする事と、教えたでしょう?」
踊り狂う者たちの間を抜けていくアルステラ。その足取りは酒二杯を煽ったとは思えぬ程軽快な足取りだった。
それだけこの場所と、酒を飲む事に慣れた者であると、ヴァルキュリアは読み取れた。
彼女が向かった場所は、正方形の広場、その隅にいる帽子を被った男で、彼はアルステラを一瞥すると、すぐに帽子を外し、彼女の前へ突き出した。
「この子、初めての子なの。その分は安くしておいて頂戴」
「入れろ」
「ハイハイ。相変わらず礼儀も何もあったものじゃないわね」
先ほど、通りを塞いでいた男へ手渡した金と同じように、ポケットから八枚の千トネル札を取り出したアルステラが、その帽子の中に金を入れながら、予め帽子の中に入れられていた、何か紙の個包装にも似たモノを、幾枚か手に取った。
すると男は帽子を被り直し、アルステラはまるで男の事など知らぬと言わんばかりに翻り、ヴァルキュリアの手を通って、その場を遠ざかる。
「帰りましょう」
「え、その」
「買い物なら終わったわ。今日は私のおごりよ」
強くアルステラに手を引かれ、来た道を戻っていく二者。
二人は通りを塞いでいた男に軽く頭だけ下げ、少しだけ遠ざかる。
アルステラは周りを見渡し、誰もいない場所である事を確認してから、その場で先ほど帽子の男から受け取っていた、個包装の袋を三つ程、ヴァルキュリアへ手渡した。
「はい、あげるわ。もっと欲しくなったら言いなさい。今度は取引の仕方だけ教えてあげる」
「あ……っ、アルステラ、殿……? こ、これは、一体……?」
「栄養剤よ。吸引するタイプだけど、燃焼させながら吸引する事で、効率よく血管内を循環するんだって。よく知らないけれど」
いくら世俗に疎いヴァルキュリアとて分かっている。それが栄養剤などでは無い事は。
「や、薬物、であるな……?」
「人聞き悪いわね。違法薬物として認定されていない、新しいタイプだから大丈夫よ」
「薬物は薬物である……!」
「でも、この工業区画に住まう人たちが、唯一楽しめる娯楽ってこれ位しかないのよ。違法スレスレの所をなんとか掻い潜って、ハイにならなきゃやってられない、それがここの現実――私は、その現実に向き合い、彼らと同じ場所に立っているだけよ」
パチンと、指を鳴らしたアルステラの人差し指に、小さく炎が灯った。
彼女は先ほどの個包装の袋……薬物の入った袋を紙煙草のように丸めた後に咥えると、口の反対側にある先端を火であぶり、僅かに煙をあげる。
丸めて口を付けた側にはフィルターがあったのか、フィルター越しに吸い込んだ煙を、彼女は体内に吸引し、肺に残る副流煙を吐き出す。
そうした後の彼女は――何と言うか、身体を震わせ、目を泳がせながらも、気持ちよさそうに一息つく。
「サイッコー。これの為なら、どれだけでもお金払ってあげられるわね」
「だ、駄目である。それは」
「でも、私がこうやってお金を払ってクスリを買う事で、庶民にもお金が回るのよ? お父様とかお母様なら、もう少しいいお金の使い道があるかもしれないけれど、私たち学生の身分で庶民に出せる大きなお金なんて、これ位しかないもの」
これも経済よ経済、と口にしながら笑う彼女は、随分とハイになっているように見える。
ヴァルキュリアは恐ろしく感じながら、しかし受け取ってしまったクスリをどうすればよいのか、その場で考えてしまった。
彼女が最も採るべき行動は、何よりもその場から逃げる事だったのだ。
クスリを捨て、その場から逃げ、二度と彼女に近づかない事だった。
であるのに、ヴァルキュリアは考えてしまった。
――アルステラを更生させる方法を。
「私、間違っていると思う?」
「……間違いである」
「でも貴女はこれについて知らないじゃない。吸ってもいない、調べてもいない、そんな曖昧な情報で私を非難するの? それは如何なものかしら?」
ぐ、と息を詰まらせたヴァルキュリアに、アルステラはケラケラと笑った後、未だに握られているクスリの紙を指さした。
「ねぇ、試しに一回やってみてよ。せっかく私が買ったんだもの。気に食わなかったら、残りは私が貰うし、もう来なくても良いから」
「た、試しに……?」
「そう。ヴァルキュリアさんは真面目な子だから、もしかしてこういう薬を誤解しているんじゃないかしら? それを自分で確かめて、危ないものじゃないって知ってもらいたいの」
ヴァルキュリアは知らない。「試しに」「私が買った」「一回だけ」という言葉の魔力を。
彼女はこれまで、魔術や剣術にだけ、生を注いでいた少女だ。
故に世俗を知らず、こうしたクスリの危険性も、人伝にしか知らない。
その売り方が、広め方が、心の弱い人間や、心は強くとも真面目な人間にも通じるものであると。
加えて、先ほどした会話が、より彼女を困惑させたのだ。
知らぬものを否定する行為が過ちであるとした言葉が。
「……そう、であるな。……知らずに、否定する事は、愚かな事だ……」
「良かった、分かってもらえたのね。あ、吸い方はね、こうやって太い紙の部分を咥える方向にしながら」
そうして接する彼女達の姿は、遠目から見れば何とも仲睦まじい、少女たちの接し方にも見えただろう。
だが、それは違う。
アルステラがヴァルキュリアという少女を、もう二度と戻る事の出来ない道へと誘う罠だ。
「はい、これで大丈夫。じゃあ火、つけるね」
指を鳴らし、巻かれた包装の先端をあぶるアルステラ。
後はヴァルキュリアが、炙られた方とは逆の先端を吸引すれば良い。
しかし――それを止めたのは、良心の呵責でも何でもない。
「ダメだよ、ヴァルキュリアちゃん。甘い言葉に誘われても、犯罪は犯罪だと断る勇気を持たなければ、優しさとは言わない」
炙られるクスリと、人差し指の先端から僅かに放たれる火を包むように、少女の手が握り締められた。
グッと握られた手によって、クスリは握りつぶされ、アルステラの指も僅かに痛みを訴えた結果、アルステラは無理矢理指を引っ張り、その場から数歩下がる。
「あ、アンタ……!」
「く、クシャナ、殿……?」
クスリを握りつぶした少女は、ヴァルキュリアとアルステラの知るクシャナ・アルスタッドに外ならず、彼女は焼けた右掌を気にする事無く、クスリを地面に落とすと、その革靴で丹念に潰す。
そして、ヴァルキュリアの手に残された、残り二枚のクスリも、少し距離の取られたアルステラへと投げた。