十王族-05
ファナ・アルスタッドはその日、元々聖ファスト学院魔術学部で優秀な成績を収めていたヴァルキュリアを隣に置き、魔術座学の勉強に精を出していたと言っても良い。
「つまり魔術とは、基本的に元来世に存在しない理を【こうした容ならばあり得る】と世界に誤認させる必要があるのだ。魔術詠唱や魔術式と言った存在は、魔術回路と世界の間を隔てる次元的な理の壁を超え、この世界にあり得る容として顕現をさせるものであり」
精を出していたと言っても良いのだが……それは初めの数分程度であり、十数分経過すると、ファナはコクン、コクンと頷くような形で頭を幾度も落としかけ、意識が飛んでいた事も数回程度では済まない。
「魔術の基礎となる【強化】【変化】【操作】の三つはあくまで便宜上の呼び名でしかないが、しかし全てに通ずるものと呼んでも構わないであろう。【強化】は基礎中の基礎ではあるが、例えばファナ殿の治癒魔術も強化魔術と他者を【変化】させる強化魔術と変化魔術の応用によって他者への変質をもたらすモノである。こうしたどの様な魔術も、本来この世の理から外れたものであるが」
普段の授業でもそうなのだが、ヴァルキュリアも先生方もこうした言葉を並び立てているだけなのに、何故かそれが呪文に聞こえるのだ。
特にヴァルキュリアの声は聞き取りやすくて澄んだ声が特徴的と言っても良い。言ってしまえば意識せずとも耳から脳を通る唄にも思える程で、ファナとしては真面目に聞きたい所なのだが、真面目に聞くと眠くなり、真面目に聞かなければ話が入って来ないという矛盾は、どうあっても覆せない問題であると認識している。
「……ファナ殿?」
「にゅあっ、ね、寝てませんっ! 寝てませんよッ!?」
「うーむ……拙僧の教え方が悪いのであろうか……以前アマンナ殿が教えていた時は、そう眠そうにしていなかったような気がするのである……」
「ち、違うんです違うんですっ! アマンナさんの声って何となくちゃんと耳立てて聞かないと聞き逃しそうになるので結果的にちゃんと聞いてる感じなんですっ! ヴァルキュリア様のお声は綺麗で透き通ってて聞き取りやすくて子守唄みたいな居心地になっちゃうので眠くなっちゃうんですぅっ!」
以前、アマンナがヴァルキュリアと共にファナの警護を担当した際、ヴァルキュリアが家の手伝いをし、アマンナがファナに勉強を教えていた時があったのだが、その時は随分と聞き込んでいた様子であった。
遠巻きで見ていたからこそ内容は分からないが、ヴァルキュリアにはその姿が、仲睦まじい友人のようであったように見えたのだ。
それが何だか、仲間外れにされているような気分になり、頬を膨らます。
「うむ、距離であるな」
「へ?」
今までヴァルキュリアは勉強机の隣に立ち、教科書を指さしながら指導していた形であったが、別の椅子をもう一つ用意した上でファナの隣に座り、ファナと顔を近づけ、耳元で声をかける。
「拙僧もアマンナ殿のように勉強を教えれば、しっかりと学んでくれるであろう?」
「ひゃ、しょ、しょのっ、この距離は流石に……っ」
顔を僅かに傾ければ、すぐにヴァルキュリアと接触してしまう距離。ファナは恥ずかしさと憧れの人物が至近距離にいるという緊張で、汗が溢れ出て仕方が無かった。
「否、駄目である。拙僧としてもコレは戦いなのだ。ファナ殿が休校期間中にもし成績が下がるような事があれば、それは教員を買って出た拙僧の責任でもある故。加えてあのアマンナ殿に負けているというのが、何か納得いかないのである……っ」
「張り合う所おかしいですよヴァルキュリア様……っ!」
ファナが恥ずかしさから席を僅かに離そうとするとヴァルキュリアが詰め、と言った攻防を繰り返している中、ドアをノックする音が響いて、ヴァルキュリアがそちらを向く。
「二人とも、椅子がドタバタする音は意外と響くわよ?」
「あ、失礼しましたレナ殿! 拙僧としても煩くするつもりは」
レナ・アルスタッドが、二人分のお茶と菓子を用意した上で、ファナの部屋へとやってきていて、クスクスと笑いながら、それを机に置いた。
「でも良い光景を見れたわ。いいわねファナ、私も憧れの先輩と一緒にお勉強、なんて事を一度でもいいからやってみたかったわぁ」
「? お母さんはこういうお勉強とか無かったの?」
「今でこそ聖ファスト学院は一般の生徒も受け入れているけれど、昔……それこそお母さんが子供の頃なんかは、近所のオバサン達が集まって、子供たちに読み書きを教えていただけだったわね。それも簡単な文字と数字の読み書き計算程度」
レナは意図して言葉にしなかったが、実際にそうした、上流階級と下流階級における教育格差と言うものは、今の世にも在る事である。
実際アルスタッド家は本来、クシャナとファナの二人を聖ファスト学院に入れるような財政では無い筈だが、かつてクシャナが手をこまねいた事で一定のまとまった金額が入ったからこそ、そうした環境に二人を置けているという側面もある。
「そう言えばアタシも、お母さんの昔とかあんまり聞いた事ないなぁ」
「クシャナにも話してないし、聞いてもあまり面白くないわよ? それこそ私なんて、十五の時に家を飛び出して、帝国城に住み込みで働かせて貰ってた事がある位」
「レナ殿は帝国城での勤務経験がお有りなのでありますか?」
「ええ。こう見えても私、帝国城では色々と要職も任されていたのよ。帝国城での使用人経験があるから、今もある程度職に在り付けているって感じね」
帝国城の給仕となれば、行う仕事は多岐に亘る。一般的な給仕としてだけでも多く仕事があるにも関わらず、城内は十王族用の住まいや執務室、加えレクリエーションルームや帝国政府の会議等にも用いられる為、そうした仕事に影響を及ぼさぬよう掃除をするだけでも、数十人単位で仕事をする必要があるからだ。
そうした母の昔話を聞いて――ふと、ファナは気になった事を、しかし何故か今の今まで聞いたことが無い事を、聞いてみたくなった。
「……ねぇお母さん」
「うん? どうしたの、ファナ」
「お父さんって、どんな人?」
ファナにとっては何気ない質問であっただろう。
だが、その問いは本来関わりの無いヴァルキュリアでさえ――レナがどう答えるのか、汗を流しながらも口を挟めぬ状況となっている。
ファナは捨て子で、レナが産んだ子供ではない。
その事実を伝える機会であるようにも思えて……しかし言葉を間違えてしまえば、ファナの心に永遠の傷を作ってしまう可能性すらある話題を、彼女がどう答えるのか。
レナは、しばし考えるように目線を僅かに下ろした後……ファナの部屋にあるベッドに腰を落とし、笑みを浮かべて、答えた。
「……そうね。笑顔が素敵な人だった。何時も私の事を一番に考えてくれていて……クシャナの事も必死で守ろうと、助けようとしてくれた」
「お姉ちゃんを?」
「あの子にも伝えてないんだけれどね。クシャナは今だと考えられない位に、生まれた直後は身体が弱くて……色んな病気を併発してて、正直生きている事がやっとだったの」
ヴァルキュリアにとっても、ファナにとっても初めて聞く情報に、二人は顔を合わせ、椅子の角度を変えて、聞く体制を取る。
レナはそうして真剣に聞いてくれる二人を見て、嬉しそうに表情を綻ばせて、語り続ける。
「クシャナは生まれた時から、体重も少なくて、お腹から出て来た時は息もしてなかった。お父さんが治癒魔術を専攻している人を連れてきて、何とか気道を確保出来たと思ったら、今度は血管に、そのまた次は肺に炎症が……って、検査するたびに問題が出て来たのよ」
今のクシャナは、アシッドとしての驚異的な再生能力を持ち得る。故に風邪を引く事も大怪我をする事も、あったとしてすぐに再生を果たしてしまう。
だから、ファナとしても――レナの話には、驚きが多くあったと言ってもいい。
「私は正直、この子に苦しみしか与えてあげられないんじゃないか、生まれてきた事を、産んだ私の事を恨むんじゃないか……ううん、恨んでくれる事でこの子が治るのならそれでいい、苦しみを代わってあげられるなら代わりたい、この子には生きていて欲しいって、嘆いてばっかりだった」
下腹部を擦りながら、瞳を僅かながらに潤わせながら、レナが語る言葉は……同じ女であるヴァルキュリアにとっても、ファナにとっても、重い言葉。
しかし、その言葉は決して、聞くに堪えない言葉ではなく、胸の中にしっかりと残る言葉であるのだと、二人は無意識的に感じていたのだろう。
「でもあの人は……お父さんは、クシャナの隣に居続ける私に『今ほど女性でありたいと思ったことは無い。君の抱く苦しみを十分の一も理解できないんだから。せめて、私に出来る事は全てする。だから苦しみを抱え込まないで欲しい』と、色んな感情を分かち合おうとしてくれた」
レナはこの時、初めて【女】としてではなく、今は【母】であるのだと自覚し、クシャナの生命を諦めない、母としての在り方を……道を選べたのだという。
「もしこの子がちゃんと、人としての生を歩めるようになったなら、私はこの子の事を絶対に幸せにする。母として娘に全てを捧げ、この子が『生きていてよかった』と思える人生にさせてあげたいって。嘆くだけの弱い女じゃなくて、そうした母としての想いを抱けるようになったのは……お父さんのおかげだったのよ」





