情動-07
クシャナは、そうして息子へ体温を与えようとするセインツの姿を、母親らしい姿と思う反面、それと同じ程の狂気さえ感じてしまう。
確かにセインツが有する、息子への愛情は正しい形なのかもしれない。子が持つ優秀な能力を正確に判断し、彼への期待と愛情を正しく口にし、想いを伝える。
それは、思いを言葉でしか伝える事の出来ない、人間というふあ完全な生命にとって理想的な感情の伝達であり、それを理解できるフェストラもまた、セインツという母を尊敬に値する人間と見込む理由なのだろうとも思う。
けれど——
「どうだ庶民。オレの母上は、お前の母親……レナ・アルスタッドに似ていると思わないか?」
同じ光景を共に認識する、今を生きるフェストラがそう語りかける。
それは外見の事を言うのではないだろう。境遇の事を言うのではないだろう。もしそれを似ているというのなら、クシャナは言葉を貯める事なく否を突きつけただろう。
しかし、これが「在り方」という言葉にするのならば、それは確かに似ているのかもしれない。
「こうして振り返ると、オレの母上は異常者だよ。子供という存在を王として君臨させ、世界をより良き形とする為に、自らの命を惜しむ事なく投げ出した。より良き世界を作り上げても、自分がその世界を享受できるわけでもないのにな」
「……美しい、在り方だとは思う」
「だが人間としての在り方は狂っている。母上もオレに負けず劣らず、人ならざる者——つまり、王としての素質を持つ女だった、という事だ」
王としての素質。人を統べる者として、王は人である事を許されない。人としての幸せなど許されない。そんな覚悟を有した存在に相応しい素質がある事を、フェストラは「狂っている」と表現するのだ。
「しかしオレは、レナ・アルスタッドの事も同様に狂っていると見た。それと同時に、あの女性もまた、母親としての強さを有する怪物だとな」
「お母さんを、侮辱するな」
「オレに言える最上級の賞賛だよ。あの母親は、お前とファナ・アルスタッドを幸せにする為なら、どんなに自分が不幸になろうが、悪行にだって手を染める事が出来る。それがお前たちにとっての幸せで無いと理解しているから、それをしないだけだ」
クシャナとファナの母親、レナ・アルスタッドは、確かに自らの事を顧みず、ただ子供の未来を鑑みて行動する女性だった。
もし、レナがセインツと同じ立場の女性であったのならば、もし自分が死ぬ事で、自らの子が幸せになれると理解していたとしたら……きっとレナも、惜しむ事なく笑顔で自分の命を投げ出すのだろう。
「オレが知る母親という存在は、皆そうだった。自らの子供が作り出す世界を、未来を信じて、自分の命を投げ出せる。母上も、アマンナの母であるアンスも、レナ・アルスタッドも——ルト・クオン・ハングダムもな」
ルト・クオン・ハングダム——その名を聞いた瞬間、景色がまた移り変わる。
目元を赤く腫らしたフェストラが、とある部屋のソファに腰掛けながら、目の前に座る美しい女性に頭を下げようとして、思いとどまっている。
『——そう。全員の死体が確認されたのね』
『海水を多く吸い込んでいた関係上、腐食が早く、匂いも酷い事から、引き上げと同時に火葬された』
紅茶の入ったティーカップをフェストラに一つ、自らに一つ用意した女性、ルト・クオン・ハングダムは、一口だけ茶を味わうと、そのまま深く、深くため息をついて、涙を一筋流した。
『せめて、私が同行できたら……セインツ様と、アンスだけでも救えたかもしれないのに』
『いや、絶望的だっただろう。そもそも、アンス様——アンスが同行している状況で生存が出来ていないのが良い証拠だ。ニージャには腕のいい暗躍家がいるんだろうよ』
ルトと話す幼きフェストラの言葉遣いは、大人に向けるそれではない。しかしルトはそれを気にする事なく、違う所に首を僅かに傾げたようだが——それを問う事はなかった。
(きっとルトは、ボクに——オレにこう問いたかったのだろう。「何故アンスの事を呼び直したのか」と。けれど、本来はそれが正しいと理解しているからこそ、彼女はそれを問わない。これ以上は、オレにとっての苦痛な情報ばかりであるとも、分かっているから)
貿易同盟締結に向けて、彼の父であるウォングと母であるセインツ、そしてアマンナの母であるアンスの三人が、ニージャへと向かう船に搭乗したが、ニージャへと出航して四日目にして、船は沈没。
元々波の荒い海域であった事、そもそもニージャという国自体が他国との交流に対し極めて消極的である事から、救助の手が遅くなってしまった。
三人は亡くなり、フェストラとアマンナは両親を亡くした事となる。
けれど——フェストラは知っている。
アマンナには、もう一人の母親がいる事を。
『申し訳ないと、思っている』
『何故、フェストラ君が謝るの?』
『貴女から、娘を引き離す事になってしまう。……アマンナは、貴女の娘だ。貴女がハングダムの叡智をあの子に授ける事が、母親からの愛情代わりであると、オレは知っているのに、二人を引き離さなければならなくなった』
アマンナが、ルトの娘だという言葉を聞いて、クシャナは目を見開く。彼女は、アマンナの出生についてを知らない。フェストラもそこを事細かに伝えるつもりはないし……クシャナもそう頭の回転が遅いわけではない。何となく、その意味に察しは着いた。
『アマンナはシュレンツ分家の子だもの。ウォリア様が亡くなった事でフェストラ君が当主になるのなら、貴方の影に、手足になる事を定められた子供なのよ。……そうなる事を分かっていながらあの子を生み出したのは、、アンスと私なの。それを悔やむ事はないのよ』
元々、次期帝国王候補として名が上がっていたのは、フェストラではなく彼の父であるウォングであった。
十王族というのは、その優秀性によって選出されるわけではなく、あくまで現帝国王に最も血筋が近しい順に一位から十位が選出される。前帝国王・バスクの妹から生まれたウォングが、ラウラに一番近しい血筋の人間であっただけで、フォルディア家は十王族一位とされていて、結果として次期帝国王に最も相応しい男がウォリアとされていた、という事になる。
そのウォリアが死した今も、十王族の順列に違いはない。彼の子供であるフェストラが最もラウラに近しい血筋となった事により、彼が次期帝国王として最も相応しい人間となった、というシナリオだ。
フェストラはこれから、十王族フォルディアス家の当主として生きる事になる。フェストラという男の子が、一人称を「ボク」から「オレ」に改めたのは、このタイミングだったからこそなのだろう。
それと同時に、ルトの下でハングダムの技術を叩き込まれていたアマンナが、フェストラの影として生きる為に彼の部下となるタイミングも、同様だ。
『オレは、アマンナに幸せな生涯を辿って欲しい。シュレンツ分家がどうとか、オレの影だとか、そんなのは瑣末な事だ。ただあの子が、自分の意志で見つけた、自分の幸せや願いを叶える為に、その命を使って欲しいんだ』
『……フェストラ君の近くにいたいと、あの子は願っている』
『それは盲信だ。アマンナにはこれまでの人生で、それしか与えられて来なかった。オレと言う男の影である事を強制され、オレという人間しか与えられなかった子供が、どうしてそれ以外の幸せを見つける事が出来る?』
『なら、フェストラ君にとっての幸せは——何?』
諭すように、促すように問われたルトの言葉を受け、フェストラは口を結んだ。
『私にも、そう偉そうな事は言えない。けれど貴方にだって、帝国王となる未来しか与えられてこなかった。貴方だってアマンナと一緒よ。——貴方が帝国王となる以外に、幸せな未来があるんじゃないの?』
『無い——無いんだよ』
目の前に置かれた、カップに注がれていた紅茶に、一つの水滴がこぼれ落ちた。
腫れぼったい目元からフェストラの涙が流れ、紅茶の味を少しずつ、塩辛くしていく姿は、ルトにとっても痛々しい姿だったかもしれない。
『オレにはもう、それ以上の幸せなんて、無い。確かにアマンナという妹の幸せ、アマンナの母である貴女の幸せは、叶えたい。けれどそれ以上に——オレは帝国王となり、この国の民に、安寧と平和、そして平等を与える事しか、叶えたい未来も、考えられる幸せも、無いんだ』
アマンナと違って、フェストラはこの時から聡明であった事は想像に容易いだろう。
彼は帝国王となる事以外に、自分の幸せがどこかにあるかもしれないと、必死で求めたのだ。
魔術や剣術という技能に特化し、自らを鍛え上げる事に幸せを感じる事もあるだろうとも考えた。
世界のあらゆる情勢に精通する事や、知識そのものを蓄積していく事に幸せを感じる事はあるだろうとも。
否、そんな有益な事ばかりが人生じゃ無いと考え、民衆の低俗な遊びに手を出したりもした。
賭け事も、違法薬物も、葉巻も、女も味わってみた。
けれど何をしても、幸せなど、面白さなど、感じた事は無い。
全てを理で思考し、魔術や剣術、知識を高める事に意味は見出せたが、それに自分の生涯を注ぎたいとは思えなかったし、賭け事は胴元の思考に対して裏をかく事で勝ち、違法薬物や葉巻についてはむしろ愛用している者に対して嫌悪感さえ湧くようになった。
そして、何よりも嫌ったのは——女だった。
どの女も、最初はフェストラの事をガキとしか見ていなかったのに、彼が十王族の嫡子であると知った瞬間から、目の色を変えて色気を振る舞い、何としてでもこの金ヅルを離してたまるかと狂気に染まった。
フェストラはウォリアが、かつてアンスという女性を「薄汚い雌豚」だと罵っていた事を嫌悪していたが、同じ感情を彼は感じてしまった。
その感情を思い返させた女性に対して逆恨みに近い感情も抱いたし、そんな感情を勝手に抱いて女性を嫌悪してしまった自分自身にも——強い嫌悪感を覚えたのだ。
——自分は底が浅くて、冷たい人間であると。





