夜明け-08
フェストラから、命からがらという表現が似合う程に苦労し、逃げてきたにも関わらず、ファナはフェストラの理想がクシャナにとって幸せの道であるのならば、それを肯定するという。
最初はその言葉に、クシャナは「周囲がそれを許しはしない」と言い訳をしようとしたが……しかし、それは嘘になってしまう。
ファナの隣で、ただ静かに押し黙るアスハも、きっと同様に考えている筈だ。
そして……帝国城から逃げる為に、満身創痍の状態でも駆け付け、フェストラを足止めしてくれたヴァルキュリアだって言っていた事だ。
『お二人は、お二人の結論を導き出されるが良いだろう』と。
『フェストラ殿との決着は、その後でも遅くは無いだろう』と。
「私は、お前達が傀儡となる事に、疑問を感じた。私にとって、正しい事だと思えなかった」
ぽつりと呟いたアスハの言葉。それは、かつて自分が何の意見も持たず、自分の意志を持たず、他者の言葉に動かされてきた傀儡だったからこそ出る言葉なのだろう。
「でも、それがお前達にとって、間違っていない結論だと。この国にとっても間違っていない結論だと。そう考えると、自分にとっての正しさが……分からなかった」
だから一時は、フェストラとメリーに従ってもいた。
アスハはそうでは無かったが、自ら傀儡になる事で、得られる幸せもあるかもしれない。
クシャナとファナがもしそれを望むのならば、それを叶えてやりたい……アスハは心のどこかで、そんな事を思っていたのかもしれない。
「けれど私は、お前達の『正しさ』を聞いていない。お前達にとって『間違いではない』結論じゃなくて、お前達が目指す『正しさ』の未来を、聞いていないんだ。……その結論を、私も知りたい。この場は、まさにその問いかけに相応しい場所だと、私も思う」
ファナの目指す「正しさ」は、姉であるクシャナが幸せになってくれる事。
これまで、仲間の為に苦しんできて、今は既に人が持つには大きすぎる衝動に苦悩し、涙を流す姉に、少しでも幸せであってほしいと願っている。
そして、クシャナは――どんな「正しさ」を求める?
その結論が、誰をも裏切る結論であったって、構わない。
皆、クシャナがそうした結論を導き出す事も考えている。そして、それを祝福もしてくれる。
フェストラの傀儡になったとして、それが彼女にとって後悔の無い結論ならば、それを受け止めてくれるから。
クシャナは――そんな仲間や家族に、恵まれた。
やはり彼女は……赤松玲やプロトワンとは違い、クシャナ・アルスタッドとなれたのだ。
だからこそ……クシャナは涙を流し、表情に僅かな迷いを残しながらも、しかし確かに喉を震わせて、自分の想いを告げる。
「……フェストラを、喰うよ」
まだ、辛さはある。
この辛さがどれだけの未来、クシャナを苦しめるかは分からない。
もしかしたら一生、この苦しみはクシャナを苛み、時に欲望に負けて、大切な人を傷つけるかもしれない。
けれど――それでも。
「責任を、取らなきゃいけないんだ。私は、フェストラを変えてしまった。優しかったアイツを……ううん、優しいままで狂ってしまったアイツを、このままにしておく事なんて、出来ない」
「それは、お前にとって苦しい選択ではないのか?」
「苦しいよ。アイツだって今は、同じアシッドになってくれた。共に苦しみを分かり合える同胞になってくれたんだ。その同胞を殺す苦しさは……二十年以上前に経験した苦しみだ。それを、繰り返したいなんて思う筈がない」
しかし、クシャナはその道を、選ばなければならないのだ。
それは、この世界にアシッド因子をもたらしてしまった原因が自分にあるとか、そうした理由だけじゃない。
「やっぱり、アシッド因子なんてものは、人間の生きる世界にあっちゃいけないんだ。ラウラ王……お父さんも、アシッド因子なんてものを知ったからこそ、狂ってしまった。帝国の夜明けも、お父さんからアシッド・ギアなんて物を横流されて、その力に魅入られた。そこから、全てが狂い出したんだ」
「……そうかもしれない。こんな力が無ければ、私達はもっと真っ当な方法で、この世を変革させようとしたのかもしれない。メリー様はアシッド因子という存在は、力そのものは悪でないと説いていた。その言葉は正しいと思うし、力とは使いようであると理解もしている。しかし……手を出してはいけない力というのも、やはりあるんだ」
「そんな過ちの力を以て、人の世を変えるなんて間違ってる。そんな力で変わった世界で――私は、幸せになんてなれないから」
だからこそ、戦わなければならない。
平和を願ったからでも、自分の苦しみを無くすための戦いを望んだからでもなく、ただ人の世が人の世で在り続ける為の戦いを、クシャナは望む。
アシッド因子を以て世界を変えようとする者を倒し……そんな歪な力を持つ者は、世間から隔絶されるべきだとする彼女の願いが、そこにはある。
「でも……お姉ちゃんはホントに、それで幸せになるの? フェストラさんを否定して、フェストラさんを食べて、それで本当に」
「どうだろうね。それは分からないよ。私はフェストラと違って、間違えるし考えが及ばない時なんて往々にしてある。ブーステッド・ホルダーなんて力を手にして、こんなに苦しむ事を想像もしてなかったんだよ? ちょっと考えれば分かる未来を見て見ぬフリしちゃうようなおバカなお姉ちゃんが、未来で幸せになれるか、なんて決めつけられない――でもね」
ファナの頭を軽く撫で、クシャナは顔をお湯で流し、涙を落とす。
その上で笑顔を見せて……ファナへと誓うのだ。
「フェストラの理想が、私にとっての幸せじゃない事は分かってる。そして、今を後悔しない選択肢も、ちゃんと分かる。もし、その結果がもたらす未来が、絶望に染まっていたとしても――私はハッキリと言える。『あの時の私は、その選択が正しいと思ったんだ』ってね」
未来の事が分からないのなら、せめて今の事を見よう。
今の自分が後悔しない生き方を選べたのなら、先の見えなかった未来に辿り着いた時に、胸を張って「あの時の自分はこう感じたんだ」と言えるようになる。
「だから私は、ブーステッド・ホルダーをカルファスさんから渡されて、その力を使って、苦しみも嘆きもしたし、後悔もした。これから先の未来も、きっと同じだと思う。……でも、その苦しみを抱えて、これから先も生きていく。あの時の選択が――間違いだなんて、思いたくないもの」
勿論、ファナが共に在ってくれると誓ってくれた事は嬉しかった。
誰もが、クシャナとファナの結論を大切に思ってくれた事もそうだ。
けれど結局、クシャナの中にあるのは、アシッドと言う存在がもたらす脅威を人間社会に残していい筈がないという、彼女なりの理屈だ。
クシャナ・アルスタッドとしてだけじゃなく、赤松玲もプロトワンも経験した記憶を有する彼女だからこそ……彼女はその危険性が人の世にあってはならないのだ、と。
そんな力を以て、人の世を変えようとするフェストラを、認める事は出来ない。
彼がクシャナにどれだけの幸せを与えたいと誓ってくれたとしても、そんな力で手にした平和や幸せに、何の意味だって無いのだから。
「ならむしろ……お前の心配は、戦いが終わってからだな」
それまでの重く苦しい雰囲気を壊すように、アスハが微笑混じりにそう呟いた。
「あー、そうかも。戦いが終わって生き残っても、食人衝動が強いままだと、ファナと一緒にいるだけで本当に食べちゃうかもしれないしね」
「う、うー。お姉ちゃんとは一緒にいたいけど、でもあんまり食べられるのはヤだなぁ」
「まぁファナが良いんなら私は何時でもファナを食べてあげるよ。勿論、性的な意味でね!」
「も、もーっ! お姉ちゃん、えっちな事を妹にしようとしちゃダメーっ!」
「食人衝動が無くとも、お前達二人で共に居させるのはどうかという所だな」
そんな姉妹のやり取りに、クスクスと笑うアスハに、ファナが視線を向ける。
「アスハさんは、どうするの?」
「私? 私は……」
考えていないわけではない。
アスハはこれから、メリーと戦う事になると思っている。
彼がフェストラの計画を推し進める理由も分かる。そして、その決意は止まる事無く、きっと邪魔立てするアスハを倒す事に容赦もしないと。
けれどその先に何があるか――それを考えると、結論は一つしか、思い浮かばない。
「私は、未来なんて良いんだ。そもそも罪を犯しすぎた私が、私達が、のうのうと生き続けると言うのも、おかしな話だ。……だからきっと、私は戦いが終わったら、クシャナかヴァルキュリアに、処理を頼むのかもしれないな」
多くの命を殺め、アシッドとして利用した罪は、消えない。
許されて良い事である筈もない。
だからこそ、アスハは戦いの先に、未来を見い出す事が出来ない。してはならないと、そう思っていた。
けれど――
「それは、ダメ」
湯船の中に浸かるアスハの手に、ファナの小さな手が触れて、ギュッと握りしめた瞬間……アスハは、本来無いハズの感覚があるかのように、思わずその手を握ったファナを見た。
「アスハさんは、確かに罪も犯したし、いっぱい人を、殺しちゃったかもしれない。でも、それを理由に死んじゃうのは……逃げる事だから、アタシは許さない」
「……私に生きて、何が出来るんだろうか」
「うんと、アタシにも分からないけど……でも、それを見つけるのも、きっと犯した罪に対する、贖罪なんじゃないかな?」
シガレット・ミュ・タースの時にも思った事だが……ファナはサラリと、酷い事を言う。
犯した罪を償う為の死を許さないというのは、特にハイ・アシッドとして永遠の命を手にしたアスハにとって、酷い事であると、彼女は理解できているだろう。
それでも……彼女は罪を犯した者にも「生きていて欲しい」と願うのだ。
どんな罪を背負った者にでもそう願えるのは――アスハやクシャナには決してない、強さであるように思える。





