夜明け-07
アスハ・ラインヘンバーがクシャナとファナを抱きながら、帝国城より逃げ出した先……そこはクシャナとファナには既に住み慣れた場所であった。
アルスタッド家宅。既に日付が変わっている為、昨日の朝にシックス・ブラッドと帝国の夜明けメンバーがここを後にしたにも関わらず……帰ってきたのは、クシャナとファナ、そしてアスハだけだ。
自分が元々住んでいた家に近付くと、アスハは抱えていたクシャナとファナの両名を下ろした。元々二者は怪我をしていたわけでもなく、あくまでアスハが抱えた方が早く移動できるからそうしていただけだ。
下ろされたクシャナとファナが、庭にかけられた洗濯物が夜風で揺れ動く姿を見る。
ガルファレットが、取り込みに戻るからと敢えて、外に出されたままとなっている洗濯物を見て……クシャナとファナは家に入るより前に庭で洗濯物を取り入れ始めた。
「ガルファレット先生は、死んじゃったんだよね?」
「……ああ。シガレット・ミュ・タースに殺された」
「そっか。……お別れも言えなかったのは、辛いな」
綺麗に干され、乾いていた筈の衣服に、クシャナの頬から零れた雫が落ちた。しかし、クシャナは気にする事無く洗濯物を取り入れ、ファナはクシャナが取り入れた洗濯物をカゴの中に放り込む。
玄関の扉を開け、一言だけ「ただいま」と口にする、クシャナとファナ。二人に続いてアスハも家内に入ると、ファナが「お風呂沸かしてくるっ」と述べながら、風呂場へと向おうとする。
「お風呂……?」
「うんっ! お姉ちゃんもアスハさんも、血の匂いがすっごいするもん! それにアタシも、ずっと埃っぽい所いたから、洗い流したいなぁ」
笑顔ではあるが、しかしファナの表情には若干、作り物めいたものがある。
きっと、クシャナやアスハを気遣った結果としての言葉なのだろうが、その気遣いをするには、ファナという少女は演技が下手だ。
「お姉ちゃんもアスハさんも、一緒に入ろ? ……ダメ?」
「ファナ、揉みたいだけじゃないよね?」
「ち、違うよっ! た、確かにウチのお風呂狭いから一緒に入ったら当たっちゃうなァとかそういう事は思うけどそういう事じゃなくてねホントそういう邪念は無いんだけど!」
「ものすっごい早口」
「……その、アタシだってこれから、どうなるのとか、想像はしてるし……ひょっとしたら、これが最後になるかもしれないかもって思ったら……一緒に入りたいなぁ、って、思って」
邪念が無いと言えば嘘になるのかもしれないが、それ以上に同じ風呂へ浸かり、最後かもしれない時間を過ごす……その時間に意味を求めたファナの想いは、二人にも十分伝わっている。
しかし、クシャナはそんな妹の想いを聞いて、それでも表情を俯かせる。
「……ファナ。やっぱり私は」
「いや、入ろう。ファナ、風呂はすぐ沸くのか?」
断ろうとしていたクシャナの言葉を遮り、アスハがそう同意すると、ファナは嬉しそうに「すぐ沸かしますっ」とはしゃぎつつ、風呂場へと駆け出していく。
「アスハさん、こんな時に一緒にお風呂だなんて」
「こんな時だからだ。ファナも言っていたが、誰にとっても、これが最後の風呂になるかもしれないんだ。こうした時間も悪くは無いだろう」
「いや、そうじゃなくて……私は」
「安心しろ。私なら今のお前を押さえ込める。……そろそろ、限界か?」
アスハの言葉に、クシャナは言葉を詰まらせながらも、静かに頷く。
「長らく食人衝動を抑えてきたお前が、それだけ切羽詰まっている様子は見て取れる。大方、さっきからファナが美味そうに見えているんだろう?」
「……ファナだけじゃない。貴女も、ヴァルキュリアちゃんも……フェストラやメリーだって、今の私には、上質な肉の塊にも見える」
「ブーステッド・フォームの弊害は、もうそこまで現れている、か」
勿論アシッドは栄養を補給せずとも因子さえ無事であれば生きる事は出来るし、これまでクシャナがそうしてきたように、長く肉を喰わぬ生活を続けていれば、それだけ食人衝動に慣れる事も出来るが、今のクシャナは、アスハやフェストラ、メリーとは異なる。
大量のアシッド因子から供給されるエネルギーを、ブーステッド・ホルダーという中継器を介してではあるが、一身に受け続けたクシャナ。
彼女はその内部に蓄積されたエネルギーを戦いの中で消耗させ、今や空に近い状態だ。
しかし、消費したエネルギー分、身体はその消耗分を補おうとして、脳が身体へと栄養を補給する様にと強い命令を絶えず下し続ける。
これまで肉そのものを好まず、避けてきたクシャナにとっても、その莫大なエネルギーの補給を求める欲求は辛く、目に映る生物が全て、上質な食材にしか見えず、先ほどからクシャナはファナと目さえ合わせずにいた。
その無垢な瞳を長く見てしまえば、きっとクシャナはファナを喰らいたいと唾を流す。
そうして食欲に飢える姿を、クシャナはファナに見せたくない。
ファナの前では、強く、優しく、少しだけエッチな姉であり続けたいと願うからこそ、彼女から距離を置こうとしているのだ。
「お前がどれだけファナを拒絶しようと、お前がどれだけファナを遠ざけようと、ファナはきっと、お前の隣に居続けようとする。あの子は、そういう子だ」
誰かが苦しんでいたら、その苦しみを理解し、助けてあげたい。
誰かが涙を流していたら、涙が枯れるまで隣に居続けてあげたい。
そんな優しさと強さを兼ね備えた少女が、ファナ・アルスタッドという少女だ。
「ファナはお前から逃げない。だからお前も、ファナから逃げるな。……お前があの子にとって、本当に強く優しく、少しエッチなだけの姉で在り続けたいと思うならな」
苦笑を浮かべながら、アスハも風呂場へと向かっていくと、丁度湯を沸かし終えたのか、ファナが脱衣所から顔を出した。既にファナの衣服は脱がれ、クシャナは思わず喉を鳴らす。
「お姉ちゃん」
「……分かったよ」
それに、この状態での風呂というのも悪い事だけではない。今は皆から少なからず、肉の匂いや血の匂い、汗の匂いを感じるからこそ、食人衝動が強まっている部分もある。風呂でそれが洗い流されれば、少しは食人衝動を抑え込めるかもしれない。
そう思い、既に薄汚れた聖ファスト学院の制服を脱ぎながら脱衣所へと向かうと……そこで一瞬だけ見えた光景に、クシャナは思わず目を見開く。
比喩や表現ではなく、アスハやファナが服を全て脱ぎ、生まれたままの姿である状態が……まさに肉の塊にしか見えなかったのだ。
以前のクシャナならば、多少の劣情は感じてもおかしくない中で、ただ頭は彼女達の姿を食欲で捉えた。
自分が、本当に変わってしまったのだと理解して……思わずクシャナはその場で足を崩し、へたり込んでしまう。
「……お姉ちゃん。アタシ、美味しそう?」
全てを理解しているかのように、ファナはクシャナの前へと腰を落とし、そう尋ねる。
「アタシね、お姉ちゃんの事を、幻滅したりしないよ。……ちょっとエッチじゃなくなったって、お姉ちゃんはずっと、優しくて強いお姉ちゃんのままだもん」
入ろ、と優しく呟きながら、ファナはクシャナの手を引いて、彼女を浴室へと連れていく。
自分から湯舟の真ん中に浸かり、アスハが彼女の右隣、クシャナが空いている左隣に身を降ろし……身を心から温めるようなお湯の感覚に、クシャナは心を委ねた。
心を委ねるからこそ――これまでずっと心に溜め込んできた想いまでもが溢れ出すように、涙となって頬を伝い、湯舟へと落ちる。
「ひっ、く……うぅ……っ」
「……お姉ちゃんは、そんな風になるまで、戦ってくれたんだよね。アタシの為に……みんなの為に」
ずっとずっと、クシャナは戦い続けた。
それは、周囲に仲間がいるという幸せを守る為。
プロトワンだった時も、赤松玲だった時も得られなかった、大切な仲間。
辛さも苦しみも、楽しさも喜びも分け合える、大切な仲間と過ごす幸せを、守る為。
その為に得た力を……クシャナはきっと後悔しないと、そう自分に言い聞かせてきた。
「それは、すっごく嬉しい。アタシのお姉ちゃんは、ホントに誰よりも強くて、優しいお姉ちゃんなんだって……今なら、ハッキリ言えるよ」
でも違う。後悔しないなんて、嘘だ。
「私は……私は、皆を……守りたかった……っ、だから、力が欲しいって、思った……どんな苦しみも、どんな辛さも、皆と一緒なら、乗り越えられるって……っ」
大好きな妹と、大切な仲間と、手を伸ばせば触れ合える距離にいて、共に温かな湯に浸かり、癒しを求めるべき時を過ごしているのに、クシャナはそんな癒しの時間さえも、彼女達を喰らいたいという欲求に苛まれる。
それが苦痛で無い筈がない。そして彼女達を喰らえないのが苦悩であると思ってしまう、自分自身でさえも嫌になる。
その力を……ブーステッド・ホルダーを手にし、変身した時から、分かっていた事なのに。
なのに、そうして苦しみを抱き、後悔する自分の浅ましささえも嫌いになり、嫌になる。
「お姉ちゃん。フェストラさんの目指す幸せって……そんな苦しんでるお姉ちゃんを、助けてあげられる幸せなのかな?」
嘆くクシャナに、ファナはそう問うた。
その意味が分からず、涙は流れたまま、しかし顔はファナへと向けると、彼女は浴室の、水滴が張り付く天井を見上げながら、続ける。
「アタシ、やっぱりバカなんだ。皆がこうして、信念を以て戦ってても、アタシは何が正しくて、何が間違ってなくて、何が駄目なのかも、分からなくて……ただ、こうして苦しんでるお姉ちゃんが、少しでも苦しまなく済むんなら、そうなって欲しいって思うんだ」
でも、クシャナがファナの幸せを求めたように、ファナもクシャナの幸せを求めたのだ。
「お姉ちゃんは……フェストラさんの未来を歩んだら、幸せになる? もし、それが幸せなら……アタシは、そんなお姉ちゃんの幸せと、一緒に生きたい。どんな永遠の不自由があっても、どんな永遠の寂しさがあっても……強くて優しいお姉ちゃんと一緒なら、何時までも頑張れるから」





