ヴァルキュリア-10
毅然とした表情で、アスハに近付くファナの肩を抱くと、彼女はシガレットに「早く行け」と言わんばかりに、顎で示した。
アスハとしても、ヴァルキュリアという少女を殺したいわけではないのだろう。そして、シガレットもファナが敵の手に落ちるというのならば、残る希望をヴァルキュリアに託す他ない。
シガレットは唇を噛みながらアスハの横を通り過ぎ、ヴァルキュリアを救いに行こうとするが……しかしその前に、問いたい事がある。
「……ねぇ、アスハちゃん。貴女にも、聞いてもいいかしら」
「手早く聞け」
「貴女にとって、ガルファレットという男は、何を望みにしていたと思う?」
「彼とは多く言葉を交わした訳ではない。しかし、そんな私にも言える事があるとすれば――そうだな。きっと彼が求めたのは、過ちが許される世界だったという事だ」
そんな悠長にしている暇は無いというのに、シガレットはアスハの言葉に、思わず足を止めて、彼女の方を見た。
アスハは既にファナの手をギュッと握り、シガレットに背を向けて歩き出そうとしている。だが意味を言わねば、シガレットが黙っている事は無いと分かっているかのように、語り続ける。
「彼という男には、誰かを傷つける力しか無かった。それは彼という男を知る者ならば、誰もが理解できた事だろう」
ガルファレット・ミサンガという男の、狂化という力は、きっと帝国の夜明けとしても非常に脅威であると理解していた。
だからこそ、彼の過去や経歴、そして彼の力を理解した上で、敵対していたと分かる。
敵という立場にあり、彼の事を調べた者だからこそ……理解できる事もあるのだろう。
「彼は貴様という女の騎士になる事で、罪を背負った者の苦悩を知った。けれど、罪や過ちを背負った存在を許容できる程……この世界は生易しく等無い」
世界とは、長きに亘る歴史の中で維持し続けてきた、多くの人間が生きる場所だ。
そんな世界をもし変えていくとしたら……それは一人ひとりの人間に対して真摯に向き合いながら、罪や過ちを犯した人間だって変わっていく事が出来るんだと、そう唱えていく事が必要だ。
だからこそ彼は、きっと教師という立場の存在になろうとしたのだろう。
これから大人になろうとする者達に、罪や過ちの愚かさを説き、そして彼らがもし、罪や過ちを犯してしまっても、その罪を許す事の出来る者でありたいと。
罪や過ちを背負った者達が、心に大きな闇を抱えてしまっても……ふらりと彼の下に立ち寄った時に、ほんの少しでも心を支えられる人間であろうとした。
そして、そうして苦しみを理解できた人達が「罪や過ちを背負った人間を救いたい」とする心の持ち主になって欲しいと。
時間は多くかかるだろう。彼が生きていた筈の時間全てを費やしても、きっと叶える事の出来ない、本当の夢物語。
しかし――それでも、そんな世界は、多くの人間を殺めてきたアスハでさえ見てみたいと、心の底から強く願う、尊い未来だ。
「分かるか、シガレット・ミュ・タース。ガルファレット・ミサンガという男は、二度目の生を得て、そこでまた過ちを繰り返そうとする貴様に対しても、許そうとしていたんだ。だからこそ……自分の命を投げ打ってでも、貴様を止めた」
本当に強い男だった、と。
アスハはその言葉を以て、ガルファレット・ミサンガという男の総評を終わらせた。
「ファナも言った事だが、この戦いで貴様という死者に出来る事は何もない。全て、生きる者の戦いだ。しかし死者である貴様だからこそ、出来る事はある」
「……それは、何?」
「分かっているんだろう? ……お前も、分からないフリをするのは、もう止めろ」
それ以上は何も言う事は無い。アスハはファナの手を引きながら去っていき、ファナも最後に一度シガレットを見ただけで……彼女の言葉に加える事など無いと、僅かに頭を下げただけだ。
シガレットは、しばしその場で沈黙し、空を見上げた上で……胸に手を当てながら、言葉を溢す。
「ガルファレット、私……罪を背負ったまま、生きていいのね」
ファナも、ヴァルキュリアも、シガレットの事を、許さないといった。
しかしそれは、シガレット本人を許さないと言ったわけじゃない。
シガレットの背負うべき罪を、許さないとしただけだ。
――ガルファレットを殺した罪によって苦しみ続けろ。その苦しみを忘れる事は許されない。
――けれどもし、貴女がその罪を忘れず、苦しみ続けるのならば。
――貴女はきっと、罪を犯した存在だからこそ出来る事を、果たせるのだろう。
シガレットの心は、晴れる事など無い。
けれど確かにその瞳には……もう迷いなど無くなっていた。
**
(命の価値が平等であると語る人間は、エゴイストだと思う)
クシャナ・アルスタッドは、夢を見る。
それはきっと、誰かの深層心理の奥底。けれどこれは、誰の深層心理なのか、それを彼女は理解出来ない。
(人の命は確かに一つしかないけれど、特別な才能や技能を持った人間は、ごまんといる凡夫よりも価値がある。命の価値が平等なのだと信じたい人間は……自分の命に、他の人間と同じ位の価値が在ってほしいと願う、利己的な思考の表れだ)
この世界で生きる誰か、名も知らない誰かなのかもしれない。
けれど……この深層意識にはどこか、感じるものがあるとは理解できる。
(ラウラ・ファスト・グロリアという男は違った。確かに奴は人を数字で見る人間……為政者であっただろうが、しかしその実、奴ほど人間という存在を見ていた利他主義者はいないだろう。人々の優れた部分や凡才を理解し、区別する)
ラウラ・ファスト・グロリア――彼の事を理解している人間。ならば、この深層意識の持ち主はきっと、グロリア帝国の人間なのだろう。
それも彼という男の事を知っている人間……彼という男の根幹を知り得る事の出来る者だ。
(そうしていた奴は間違いなく、人を見ていた。その上で他者を……自分とは違う者を真に理解し得ないと早々に気付き、共感を拒んだ。けれど、本来はそれが正しいんだ)
一体、この存在は誰なのだろう。それを知ろうとしても、クシャナの意識には一つの背中しか見えない。
小さな子供の背中。ファナよりも小さな、本当に幼い子供の姿。
(人間は他者を表面的に見る事しか本来は出来ない。誤解なく分かり合う事など出来ない。勿論、他者を理解しようとする心は必要かもしれんが、本当に他者と誤解なく分かり合える者がいるとすれば……それは異常な事だと思う)
きっと彼が語っている言葉なのだろうとは分かるが……しかしクシャナには、そんな小さな子供に心当たりは無く、思わず手を伸ばした。
(ラウラは自分じゃなくて、愛する者の幸せを願った。他者との共感は拒んだくせに、けれど愛する者の幸せは知りたいと、利他主義者らしい矛盾を孕んだ、ロマンスの塊みたいな奴だったな)
手をどれだけ伸ばしても、子供の姿を掴めない。
でもどうして、自分はこれだけ、子供の事を知りたいと願うのだろう?
(だが他者の根底を理解できないと分かっているからこそ、けれど理解したいと願う人間らしさは好ましい。……オレには、そんな事が出来なかったからな)
それは言葉を聞いているからだと気付いた。
きっと、ラウラという男と自身を比べる子供を見て、この子供は何故、そんなにラウラという男を見て、彼を利他主義者などと言うのだろうと、気になったのだ。
(オレは、どうしようもない程にエゴイストなんじゃないかと思う時がある。きっとそうなのだろうと思う時もな。何せオレには、他者の心がすぐに理解できてしまう。その苦しみも、想いも。けれどその想いを知って、何をしてやれば良いのか、何かしてやった方がいいのかさえ、分からないでいる――冷めた人間だ)
背中が、震えていた。
泣いているのだろうか。苦しんでいるのだろうか。顔が見えないのでは、それを理解できない。
(けれど、もしオレの根底にあるこの想いが、本当にエゴなのだとしたら……オレは何の為に産まれてきた? オレはどうして、こんな風になるまで、生きてしまった? オレは、オレは――ッ!)
こっちを向いて、顔を見せて、君の苦しみを、涙の訳を、教えて欲しい。
そう願って手を伸ばし、今ようやく手が子供に触れようとした、その時。
(教えてくれ。お前はどうして、そんなに他者と理解できる力を持つのに、他者と共に在れる? 他者を想う事が出来る? 自分を捨てず、自分の在り方を曲げず、けれど他者を守ると誓える?)
子供は、少年は、伸ばしたクシャナの手を握り、彼女に抱きついてきた。
(オレはどうしたら、お前のようになれる? 教えてくれ――教えてくれよ、庶民)
彼の頬から伝う涙が、クシャナのお腹辺りを濡らした気もするけれど、しかしこれは夢であり、冷たさは感じない。
けれど、クシャナは願う。
これが例え夢で、深層意識の中にある幻だったとしても……彼に、クシャナは伝えたい事がある。
だからこそ、クシャナは小さな背中に手を回し、自分の胸を押し付けるようにして、少年の事を、抱き寄せた。
『お前は……優し過ぎるだけなんだよ』
**
目を開くと、クシャナは自分が涙を流していた事に気が付いた。
他者の深層意識を、見ていたと思ったけれど、それはただの夢だったのかもしれない。
起きてから数秒までは、夢の景色を思い出せていたのに、けれど今は記憶が段々と薄れていく。
夢に見た少年の事も、段々と朧気になって、しばらくすると彼だったのか彼女だったのか、その子供が何を語っていたか、そもそも子供だったかも思い出せなくなる。
小さな欠伸と共に、目をかこうとした。けれど左手は、何かに掴まれていて、その動きが抑制されたから、思わずそちらを見る。
フェストラが椅子に腰かけている身体を前のめりに倒し、ベッドに身体を預け、寝息を立てて眠っていた。それも、クシャナの手を握り、彼もクシャナと同じく……涙を流して。
本当は、彼の事を「何で私の隣で手を繋ぎりながら寝てやがる気持ち悪いんだよクソ野郎が」とでも言ってやりたかった。
けれど……心のどこかで、何か思う所があったのか、クシャナはため息をつきながら、もうしばらく目を瞑る事にした。
次にクシャナが目を醒ました時……そこにフェストラの姿は無かった。





