ヴァルキュリア-09
先ほどより遠くから、戦闘の剣戟と衝撃のようなものが放たれていると、シガレット・ミュ・タースには理解できていた。
しかしそれは本当に僅かなものだ。事実、ファナはそんな気配を感じる事も出来ない程で、ヴァルキュリア……煌煌の魔法少女・シャインである彼女が全力で戦うものでないと理解できるからこそ、それが彼女の生きている証なのだろうと、シガレットは思っている。
けれど、それがある時を境に、ぱたりと止まった。最後に地面を強く打ち付けるような音が自分の耳に届いただけでなく、ファナの身体を抱き寄せながら工業区画の狭い通りに腰を下ろし、落ち着いていた二人の身体を僅かに揺らす程の衝撃が届いた後。
「い、今の、ヴァルキュリア、様……?」
「……さて、ね」
その言葉は、ファナに対してのはぐらかしでもなんでもない。本当に、分からないのだ。
シャインの特徴的な力である、溶解炉マニピュレータの炎熱を、彼女と別れてから少しした一回以外を感じない。
少なくともアシッドを排除するという点において、彼女があの力を用いない筈がない。
だが先ほどから戦闘音だけが聞こえる中で、彼女が何故溶解炉マニピュレータを使用しないのか、それを訝しんでいたのだが……その理由は、シガレットに聞こえた足音で、理解できた。
目を見開き、ファナの手を握りながら立ち上がるシガレット。
驚きながら何事かを聞こうと口を開きかかったファナは……しかし、薄暗い通路の先、まだ顔は見えないけれど、一人の女性がカツカツと音を鳴らしながら、こちらへと歩んで来ているという事だけが理解できた。
そして……女性の風貌に、ファナは見覚えがある。
「アスハ、さん?」
「ああ。しばらくぶりだな、ファナ」
彼女がアスハであると完全に捉えるよりも前に、言葉が先に出た。そしてその言葉に対し、アスハは頷きながら、彼女達の前に姿を現したのだ。
「シガレット・ミュ・タース。お前の事は聞いている」
「良い風には聞いていないと、思うけれどね」
シガレットは、目を細めながらもこちらを睨むアスハに対し、汗を一筋だけ垂らす。
彼女の実力は高い。正しく、自分と同様に硬軟織り交ぜた戦略性に富む戦闘能力。そして、その能力が有効的に活用されるように発動されるハイ・アシッドとしての能力は、歴戦の戦士であり、かつてシガレットと共に戦ったミハエル・フォルテという男を降す一端を担った事でも、概ね理解できるだろう。
彼女と戦い、負けるとは思わない。しかし悠々と勝てる、等と言う事も出来ない。
ガルファレットとの戦いと同じく、彼女との戦いにおいては本気を出さねば、むしろ殺されるのはこちらだという緊張感が、シガレットの心を臆病にさせるようであった。
そしてそれは、彼女も同様の想いがあるのだろうと、理解できる。
「お前と戦い、討つ事も良いだろう。それがガルファレット・ミサンガという男に対しての、手向けにもなる」
だが、だからこそなのか、アスハという女は剣を手にする事も無く、戦闘態勢を整える事も無く、ただ一本の通り道を譲る様に身を壁に近付けた。
「しかし、それに意味は無い。この戦いは既に、死者と生者による争いじゃなく、今を生きる、この世界の生命による戦いだ……死者は大人しく、引っ込んでいて貰おう」
戦闘の意志が無い事は、シガレットにとっても都合がいい。
しかしならば……何故、彼女がこの場所に居るか。それは、シガレットの背中に隠れながら、しかしアスハに向けて不安そうな表情を向ける、少女しかあり得ない。
「……ファナちゃんを渡せって、そう言いたいのね」
「ああ。ファナは必要な人材であり、私が守るべき愛おしい女の子だ。お前のように、自分の正しささえ見誤っている死人が、軽々しく扱っていい子供じゃない」
「言うじゃない。でも、そう言われて、はいそうですか……なんて私が言うと思う?」
恐らく……ヴァルキュリアはアスハとの戦闘に敗れたのだろう。今のアスハもそれなりに負傷していた様子を残しているし、その衣服や顔に付着する血には、僅かだがヴァルキュリアの魔晶痕を感じる。
ならばこそ、ファナを守れる人間はもう、シガレットしかいない。クシャナに続いてファナまでが、フェストラの手に落ちてしまえば……もう、彼を止め得る人材は居ない。
だからこそ、幾ら死闘になると理解していようと、自分が敗北する可能性が僅かにあろうとも、戦うしかない。
シガレットがまだ残るマナを自身の身体に纏わせようと意識を集中させた……その時。
アスハが首を横に振る。
「私に戦う意思がないというのは理解しているだろう? お前がどれだけやる気であっても、私はお前とやり合うつもりなど一ミリも無い」
「生憎だけれど、私は何の理由も無くファナちゃんを貴女に寄越すつもりはない。……ファナちゃんは、ガルファレットが守ろうとした子だから」
「そうだ。だが……お前が守るべき子供は、果たしてファナだけかな?」
先ほど、自分が通ってきた道を示すように、アスハが手をそちらに向けた。
薄暗い通りの先に何があるか、誰がいるか、それを冷静に考えてみろ、と言わんばかりに。
「……まさか」
「ああ。ヴァルキュリアは既に無力化した。頭を潰し、身体にも致命傷と言える傷を与えた。勿論、既にアシッドとして進化を果たした彼女は死なないが……しかし、再生は出来ないようにしてある。そんな彼女の匂いに誘われたアシッド達ならば、あの子を食い殺し得るぞ」
つまりアスハは、こう言いたいのだ。
――ファナを渡さねば、お前をここから先に通さない、と。
――そして、お前が助けにいかなければ、ヴァルキュリアがアシッドに食われ、死ぬぞ、と。
事実、今の彼女は先ほどまでと違い、殺気をシガレットに向けて、視線を彼女から外す事は無かった。
もしファナを連れてヴァルキュリアの下へ行こうとすれば、アスハは全力を以て止めに来る。
そしてアスハには、シガレットという女を幾らでも足止めできる力を持ち得る。
……その間に、アシッド達は既にハイ・アシッドへと進化を果たしたヴァルキュリアの有する血肉の匂いに誘われ、彼女を食い殺す事になる。
「……破廉恥なッ!」
「破廉恥とはな。一度死した女が現世に首を突っ込む事こそ、まさに破廉恥じゃないか。鏡を見る事を勧めるよ。……さて、返答を聞こうじゃないか」
シガレットは、揺れ動いていた。
ファナという少女をアスハに渡せば、確かにフェストラという男の手にクシャナとファナという二人が亘り、彼の野望に大きく近付く事は間違いない。
しかし、シガレットが知る限り、もう現時点でフェストラを止める事が出来るのは、メリーやアスハ、そしてフェストラという男を止める事が出来るのは、煌煌の魔法少女・シャインに変身が可能で、エンドラスという男によって技術を叩き込まれた戦闘の申し子とも言うべき、ヴァルキュリアだけだ。
今はファナを渡し、そしてヴァルキュリアを助け、彼女の回復と再生を待つ……そうすれば、まだか細くはあるけれど、僅かな可能性が残っていると言えるだろう。
しかし、フェストラやメリーという男が、ヴァルキュリアというアシッドにとっての天敵を、敵視していない筈も無い。
彼女がどう動いても対処出来るように、予め動いていないなんて筈も無い。
ヴァルキュリア一人が彼らに歯向かった所で、か細い糸の上を歩く事になる彼女の道を閉ざす……そうなる未来しか、想像出来ない。
――ファナは、渡せない。そして、ヴァルキュリアも殺させない。それが最も最上な答えである筈だ。
そして、それがきっと、自分の新たな命が神からもたらされた意味なのだろう。
ならばそれを成し遂げなければならない――そう覚悟に顎を引いたシガレットと、そんな彼女の前に立ちふさがろうとするアスハだったが……。
ファナだけは、違った。
目を見開き、アスハの事を見据え……その上で、シガレットの服を小さく、力の弱い指で摘まみ、彼女が前へ行こうとするのを、止めたのだ。
「シガレットさん。ヴァルキュリア様を、助けに行って」
「ファナちゃん……!?」
「いいから。……アタシなら、大丈夫だから」
きっとファナは、その意味を理解していないのだろう。
自分がどれだけ、フェストラという男にとって大切なファクターであるのか。
もし彼の手にファナもクシャナも渡ってしまえば、取り返しのつかない事になりかねないのだと。
そう彼女を説得しようとして、彼女の肩に手を乗せようとしたシガレットだが……しかし、ファナの表情は、そんな甘い考えに充ちたものじゃない。
むしろ……シガレットの気付いていない、何か別の真意を理解しているかのような、そんな覚悟に充ち満ちた、強い目であったと感じた。
「アスハさんの、言う通り。ここから先は、アタシたち生きている人間の戦いだ。なら、その決着は……生きてるアタシたちが付ける」
シガレットの身体を横切って、ファナはアスハへと歩んでいく。
彼女へと手を伸ばそうとするシガレットだったけれど、彼女の背中はまるで「止めるな」と言わんばかりの凄味に充ちていた。
「アタシ、分かったよ。シガレットさんが、生きてやらなきゃいけない事」
その一歩一歩も、か細い足で幅も小さく、動きも遅い。けれどもシガレットには、その足に追いつける気がしなかった。
「シガレットさんには、もっと未来で出来る事があるんだ。今みたいに、生きている人の戦いに割り込む事じゃなくて、もっと……死んでいる人の立場から、出来る事。戦いっていう存在から一歩外に出るからこそ、出来る事だったんだよ」
彼女の言葉を、理解は出来ない。けれど、確かにシガレットは――自分がそうであるべきなのだと、納得させられてしまう。
だからこそシガレットは……ファナに伸ばそうとした手を、下ろした。
「……そうだよね。アスハさん」
「そうだ。ファナは理解してくれたようだな。……相変わらずお前は……私にとって最高の魔法使いであり、私にとっての、王だよ」





