王-04
『レナ君……もう一度聞きたい。我と籍を、入れてくれはしないだろうか?』
突然の言葉に、レナはそれまでファナの方を見ていたけれど、娘から視線を外し、ラウラの方を見据える。
『外野の声など、気にする必要はない。我が、君達を守ると誓おう。娘達にも苦労はさせない、絶対に。必ず、幸せに出来ると、自信を以て言える』
それは愛の告白等ではない。そんな時期はとっくに通り過ぎて、二者はそれぞれが抱く愛情を深く理解し合っている。
理解し合っているからこそ……二人にはそれぞれの認識と立場に違いがあるとも、理解していた。
『……私は、何の高貴な血も流れていない、ただの庶民です。そんな私が、次期帝国王である貴方と愛し合った時間があるというだけで、本来あってはならない事なのです』
『それがどうしたという? 我はそんな道理に縛られるつもり等ない。君も、そんな我を妻として、支えて欲しい――君の事を本当に愛している。君とてそうであると思っていた』
『ええ、その想いに、嘘偽りはありません。私は……レナ・アルスタッドという【女】は、貴方様の事を、愛しています。貴方様の女として、貴方と共にありたい。それによってどんな誹謗も中傷を受けても、石を投げられようとも塩をかけられようとも、火炙りになろうとも構いません』
でも……と、そう続けながら、レナはラウラの手に、自分の細くて長い、綺麗な手を重ね合わせた。
『私はもう、レナ・アルスタッドという【女】ではなく、クシャナとファナの【母】なのです。もし私が貴女の妻となれば、私だけではなく、子供である二人にも必ず、様々な困難と苦しみが与えられる事でしょう。子供にそんな想いをさせたくない……だから私は、女として貴方様を愛した自分を、封じたのです』
レナがもし、自分の事しか鑑みない【女】であったのならば、彼の望みに頷き、彼と自分の幸せを求めたのだろう。
それは、レナにとっての幸せである以上に、愛するラウラの求める幸せであるから。
ラウラという男が、これから先に歩む事となる、帝国王としての人生。
その人生はどんな人間よりも苛烈で、過酷で……それでも、彼は優秀であるからこそ、その役割をこなしてしまい、こなせる彼の事を知れば、民は彼が死ぬまでの間、帝国王として命を使い続ける。
王という存在は、民衆にとって自らの生活を良くする為に酷使する、厄介事を全て押し付け、何か過ちがあれば責任を擦り付ける為の、道具でしかない。
王が一人の人間であるという事実を知りながら、しかし王になった存在だから、と。
そんな彼を、少しでも支えたいという願いを、心の中でレナが思わない筈も無い。
彼女は、自分の幸せよりも、誰かの幸せを願える者だ。
その他者の幸せを求める重圧で自分が潰れようと、例え他者を想って代わりに石を投げられても、殺されても、幸せを求めた者が、本当に幸せを得られるのなら、彼女は最後の最後まで、笑顔でい続ける事だろう。
レナ・アルスタッドという人間は、そういう愚かで……しかし人の善性によって形作られた人間なのだから。
けれど……そんな善性によって形作られた彼女であっても、許せない事もある。
レナは今、二人の子供を支えるべき【母】としての慈しむ存在になった。
ラウラと共にあれば、ラウラを支える事は出来るかもしれないが、それが娘達にとって、どんな結果を産むか、それを理解している。
子供の幸せを何より求めるべき【母】が……【女】としての自分が成したい事を成す為に、子供を犠牲に出来る筈も無い。
『だから、ごめんなさい。私は、貴方様の女には戻れません。その代わり……私の遺伝子を有するクシャナと、貴方様の遺伝子を用いたファナ、二人の愛が生み出した結晶は、私の命を懸けてでも、必ず育てあげます』
『……そこに、君の幸せが、あるというのかい?』
『ええ。母親にとって、自分の下で子供達が幸せでいてくれる以上の幸福が、この世に在るものですか。……貴方様という、最愛の男性と共に在る事を犠牲にして、得られる幸せもあるのです』
強い風が、レナとラウラを襲うように舞ったと感じた。
一瞬だけレナとラウラの身体を打ち付ける温かな風、それが僅かにレナの身体を竦ませると、彼女を日差しから守る麦わら帽子が風に乗って舞い上がり、その行方を皆が視線で追いかける。
しかし、帽子は空高く舞い上がるよりも前に、ラウラが用いた操作魔術によってそれ以上どこかへと飛んでいく事は無く、ゆらゆらと揺られながらも、ファナの頭に被さった。
大きな帽子が頭どころか顔全体を隠し、ファナは『なにもみえなーいっ!』と大声を挙げたが、しかしどこか楽し気だ。
麦わら帽子のハネを小さな手で握りながら自分の顔に押し当てる姿は可愛らしく、二人はそんなファナの姿を見て笑うけれど……そこで顔を合わせた。
『酷い女で、本当にごめんなさい』
『いや、良い。……我は、君が幸せでいてくれる事が、何よりも幸せだ』
『でもせめて、せめてこれだけは……私にさせて下さい』
ファナが見ていない内に――レナは僅かに身体と、向き合わせた自分の顔を、ラウラの顔に近付ける。
短く触れた、レナの唇。それは育児や、日々の仕事に対する疲労もあるのか、昔よりも僅かにカサついていたように感じる。
けれどそれは、彼女がどれだけ娘達の為に日々を戦っているかの証明であり、ラウラにとっては、そんな彼女の姿こそが、愛すべきレナの姿なのだとし、感触を味わった。
永遠にも感じる口づけ、けれどその時間は、きっと一秒も経過していなかっただろう。
唇同士はすぐに離れ、レナは顔を赤くしながらはにかんで『こんなオバサンが年甲斐もなく』と恥ずかしがった。
『……ラウラ様。どうかクシャナとファナの幸せを、願ってくださいませ。それが、貴方様の愛してくれる私にとって、何よりの幸せです』
『ああ、分かっているよ。……十分、君の心は、伝わっている。君の言葉は、どの聖書に並べ立てられたフレアラス様の御言葉よりも重く、そして心を綺麗に洗い流してくれる。まるで君自身が神であるかのようで――』
そう、口にした瞬間。
ラウラが思わず言葉を閉ざした。
『……ラウラ様?』
首を傾げながら、問いかけるレナの言葉を、しかしラウラは聞いていなかった。
何故なら彼は、気付いたのだ。
レナが求める幸せ――娘達を幸せにする方法を。
それは、自らにしか出来ない事。
それは、自らだからこそ出来る事。
それは、人としての自分に背負いきれる罪ではない。
それは、人である限り出来る事ではない。
けれど……自らが求めた力によって、それを果たすだけの力があるではないか。
――アシッド因子という力があれば、我は文字通りの、神にだって至れる。
――神に至る事が出来るのならば、人である限り出来ぬ事とて、出来るのだ。
涙が溢れた。それは嬉しいという感情からではない。どちらかと言えば、今生の別れを惜しむ、悲しみの方が近いかもしれない。
もし、自らがその在り方を突き進もうとするのなら、一人の人間として、誰かと愛し合う事は出来ない。
自らが隣に居たいと、居て欲しいと願った、レナという最愛の女性と、同じ立場になる事は出来ない。
それでも、彼女の幸せを願うのなら。
それを、決断しなければならない。
どれだけ溢れようとも、ラウラの涙は枯れない。そんな彼の涙を……レナは決して拭わない。
涙の意味も分からずに、男の涙を拭うものじゃない。それが、男にとっての屈辱であると、知っているから。
『我も……君を一人の【男】として愛している。けれど、それと同じ位に、娘達の事を【父】として愛していると、心から言える。だからこそ、娘達がこれから幸せに暮らせる世界を、我は作ると誓おう。……娘達と、同じ立場になる事で』
『? クシャナ達と……同じ立場?』
『ああ、そうだ』
それがどれだけ困難な事かは分からない。
そもそも自分にそんな事が出来るかどうかも分からない。
もしかしたら、途中で重圧に耐えかねて、どこかで間違い、狂ってしまうかもしれない。
でも……それでも構わないと、ラウラには思えたのだ。
『……オジちゃん、だいじょうぶ? イタイ?』
麦わら帽子を抱えながら、いつの間にかラウラの傍に来ていたファナ。
まだ少し距離を図っている最中ではあるのだろうが、首を傾げながらそう問いかける彼女の言葉に、ラウラは涙を流す自分の姿を見て、ファナが心配してくれたのだと理解した。
『ああ……大丈夫。大丈夫だよ』
そう言って涙を拭い、少しでも早く安心させようとするラウラだったが……そんなラウラの膝に、ファナの手が乗って、優しく撫でる。
『イタイノ・イタイノ、トンデイケー!』
そう言って、ラウラの膝から手を離し、大きく身体を振るったファナに、思わずラウラはポカンと口を開けた。
『あのね、おねぇちゃんが、おしえてくれた! これね、まほーつかいのじゅもんなの!』
『……呪文?』
『うんっ! いたいのが、どっかにとんでくの! それでね、おねぇちゃんもファナも、えがおになるじゅもんだよっ!』
オジさんにもおすそ分け! と声を挙げて、無邪気に笑うファナの言葉に……ラウラはまた涙が。
けれど先ほどのように、悲しみで涙を流すのではない。
彼女の言葉通り、笑顔を浮かべながら、そうして無邪気に笑うファナの頭を撫でる。
『ありがとう。痛いのは、どこかに飛んでいった』
『えへへー、おねぇちゃんのじゅもん、スゴイでしょ!』
『ああ、そうだね』
僅かに、ファナの頭を撫でるラウラの手が、光った。
瞬間、ファナは少しばかり頭が熱い感覚を覚えて自分の頭を撫でるが、しかしラウラがそこで、麦わら帽子を雑にファナへと被せた。
『もう、我は行くよ』
『ラウラ様』
『ありがとう。レナ君とファナのおかげで、吹っ切る事が出来た。……我はもう、迷わない』





