王-03
少しばかり後ろめたさと気乗りしない部分もあるが……ミラージュは再生していく左腕の感覚を確かめながら、その眼を揉む。
「固有能力――【幻惑】か」
「理解してくれているのなら、話は早いね」
「止めておきなさい。確かに君の内部にある因子のエネルギーを適正に消費するというのは賛成であるが、それによって見る幻惑が我の深層意識とあっては、正気を保てぬやもしれぬ」
豪語するラウラに、しかしミラージュとて彼の言葉が真実に近い事など百も承知だった。
そもそもクシャナという少女はこれまで、この世界においても多くの深層意識を覗き見て、例えばミハエル・フォルテの深層意識を覗き込んだクシャナが吐き気を催し、幻惑能力を受けたミハエルがケロリとしていた事もある。(流石に「恐ろしい光景」であると認識していたらしいが)
ラウラという男がこれまで歩んできた人生に、決して平坦な道は無かっただろう。帝国王として生きる事を強制される人生、そして周囲からの尊敬や嫉妬の目もあり、王へすり寄ろうとする人間の浅ましさだって多く見てきた筈だ。
そうした中で、どれだけの悪夢が彼の中にあるのか……果たしてそれを見たいかと聞かれれば「見たくはない」と答えるだろう。
だがそれでも、クシャナは見なければならない。
そうして深層意識を見る事が勝機に繋がるかもしれないという、淡い期待が少しある事も否定はできないが、しかしクシャナが何よりも知りたいのは……ラウラという男がこれまで辿ってきた人生だ。
「お父さん。私達はさ、全然お互いの事を知らないんだ」
「我は君の事を知っている」
「いいや、知らないよ。そもそも私と貴方がしっかりと語り合ってさえいないのに、どうして私の事が分かるなんて言えるのさ。それはね、己惚れって奴だよ」
それはファナも同様だ、と。クシャナの言葉が続く。
「ファナはお父さんの事を、許さないと言った。けれど、あの子はあの後、お父さんをただ拒絶するだけしか出来なかった自分の言葉を悔い、反省したんだ。『お父さんの事を何も知らないのに、拒絶しちゃった』とね」
「気にする事は無い。理解して貰えずとも、家族の為に尽力する事に変わりはないのだからな」
「でもだからこそ、ファナはお父さんと語り合う役目を、私に委ねてくれたんだ。……その為に私は、お父さんの全てを知る責務がある」
目元を揉んでいたミラージュが大きく目を開き、ラウラと視線を合わせる。
その瞬間、ミラージュの有する幻惑能力が発動し、彼の脳内に存在する深層意識を引き出すと、その映像をミラージュと、ラウラ本人の目にしか見えない幻想として映し出されていく。
――そこは、低所得者層地区から、少しだけ離れた場所にある草原だろうと、クシャナには理解できた。
一面緑の草原が広がる空間、少し上を向けば青い空や照らされる太陽の光が眩しいと感じる程に天気は良好。日差しは少し暑く、帽子が欲しいと感じてしまうかもしれない。
そんな草原を、一人の幼子が走っている。
歩く事にようやく慣れて、走る事だって出来るようになった位の歳だろうか。その薄桃色の髪の毛が耳元まで伸びた可愛らしい女の子は、後ろから追いかける母親らしき女性に、声を挙げた。
『おかあさんっ、こっち!』
両手を挙げて自分がここだと示す少女の言葉は、まだ拙い。けれどそれで十分に意味は伝わり「お母さん」と呼ばれた女性はニコニコとした表情を浮かべながら、その麦わら帽子と白いワンピースという姿で、幼子を追いかけた。
『ファナ、待って。転んじゃうわよ』
息を僅かに荒げながら、ファナと呼んだ幼子に追いついた女性だったが、しかし幼子は満面の笑みを浮かべながら、まだ走り足らないと言わんばかりに、走り出そうとした。
そこで、足と足が引っかかってしまい、前のめりに倒れそうになった所で……幼子の身体が、ふわりと僅かに浮いた。
『お、おぉーっ! おかあさん、アタシ、ういてる! まほーつかい!』
何が起こっているか理解していないにも関わらず、本来地に足を付けなければいけないと本能的に察しているのか、浮いている事に対して興奮している幼子とは異なり、女性は僅かに驚き、目を見開きながら……幼子の駆け出そうとした方向からやってくる、白髪の目立つ男性に視線をやると、顔を赤めて苦笑した。
『……ラウラ様、お久しぶりでございます』
『ラウラ、で良いのだがね』
『お戯れが過ぎますよ。……私は、ただの庶民ですもの。次期帝国王候補様を、呼び捨てに等出来ません』
宙に浮かぶ幼子……ファナの身体を抱き留める女性、若き日のレナが、同じく若き日のラウラと顔を合わせ、互いに笑みを浮かべる光景。
――ミラージュはその光景を見据え、これがラウラにとっての「最も彼の深層意識に根付く記憶」なのかと、困惑した。
記憶に映る若き日のラウラではなく、今のラウラは懐かしむように目を細め、表情を僅かにうろんとさせている。
その様子が更に、ミラージュの幻惑能力が力を発揮していないのではないかという疑問を更に沸き立たせてしまうのだ。
「これが、我の深層意識に最も根付いた記憶だろう。間違いない」
「……この、記憶が……?」
「そうだ」
これまで、赤松玲の時代にも、クシャナ・アルスタッドの時代にも、幾度か他者の深層意識を覗き見た経験は多い。
だが基本的に、深層意識に根付いた光景というのは、得てして自分のトラウマや後悔、そして自分の行動原理を形作った思い出によって支配される。
それが、美しい光景である事の方が少ない。
確かにガルファレットの記憶やアスハの記憶は例外だったとは言ってもいいだろう。
けれどガルファレットは最終的に心を救われた過程が、深層意識に根付いてはいたが、しかしその大本にはやはり、自分の出生に関する苦しみがあった。
アスハの深層意識は、そもそも何もなかった。視界を得る事が出来ず、暗闇しかない意識の中で、僅かに聞こえる何か物音のようなものが彼女の心を巣食っていただけで、何があると理解できるものじゃなかったからだ。
例えば、ドナリアの深層意識は、それまで無駄に命を散らせてきた同志への罪悪感によって、彼自身が形作った光景だった。
例えば、メリーの深層意識は、幼い頃から実の父親に受けてきた屈辱が鮮明に描かれた光景であった。
例えは、ミハエルの深層意識は、遠き過去に自分が参加した戦争で起こった、殺し殺されの世界、侵略における罪と罰を自分に課すものだった。
このように、普通の人間ならば、喜びよりも悲しみや苦しみが、嬉しいという感情より怒りや劣情が、強烈に心の中で残り続けてしまうものだろう。
しかし、ラウラの見ているこの光景は、違う。
それは……彼にとっても、誰にとっても、ささやかだけれど幸せな光景に他ならない。
『……おじちゃん、だれ?』
幼き日のファナが、突然現れた初老の男性に怯え、自分を抱くレナの首に腕を回し、隠れるようにして問うと、レナが答えようとする。
『ファナ、この人は』
『良いのだ、レナ君。……我はレナ君の友達だよ』
『おかあさんの、お友だち……?』
『そうだよ、ファナ。我とも、仲良くしてくれるかな?』
『……うん』
緊張に加えて、見知らぬ大人の男性というのが怖いという感情もあったのかもしれない。
しかし母の友達と聞き、少し警戒心を持ちながら、上目遣いになりながら見てくる姿は、幼いから当たり前ではあるが、小動物のような愛らしさと、守らなければならないという庇護欲をそそられる感覚があった事と思う。
レナがファナを降ろすと、ファナはラウラにどう近付けばよいか分からず、レナの足に隠れてしまう。レナもラウラも苦笑した上で、近くに腰を下ろして、ゆっくりとした時間を楽しむ事に。
『ファナ。私達、ちょっとお話をしているから、いい子で遊んでいてくれる?』
『ん』
草原の只中へと駆け出そうとするファナに、ラウラが手を振ると、彼女も少し戸惑いながら、手を振ってくれる。
ラウラにとって、それだけでも十分に幸せな事だと言わんばかりに、微笑んだ。
『クシャナ君はどうだ? 元気でいてくれているかな』
『おかげ様ですっかり元気です。今じゃもう、昔の身体が弱かったあの子がまるで嘘みたい。これも全て、優秀な魔術師さん達に治療をお願いして下さった、ラウラ様のおかげです』
この時、クシャナは既に四歳、ファナは二歳という歳の頃。既にクシャナは赤松玲の魂を宿し、四年の歳月を過ごしていて、その記憶と特性を引き継いでいる。
つまり、クシャナがアシッドという特異性を持つが故に、その身体を病魔が蝕む事はあり得ない。それをラウラは良い兆候だと考え、話を逸らす事に。
『今日、クシャナ君は一緒じゃないのかな』
『あの子は家で新聞を読んで、えっと……経済? とか色々なお勉強をしています。あの子ってば凄くて、二歳で言葉をペラペラ喋られるようになったんですよ。私、子供の成長を間近で見るの初めてだったので、クシャナが普通だと思ってて、ファナがまだ二言三言しか言葉を喋らないのが、少し不安だったんです』
お恥ずかしい限りです、と顔を赤めながらも、楽し気に語るレナの事を、ラウラも楽し気に見据えると、レナは自分ばかりが喋り過ぎたと言わんばかりに口元を抑える。
『ラウラ様は、如何ですか? お変わりありませんか?』
『ああ、何も変わらないよ。帝国王への道は確固たるものとしてレールを築き上げてきたが……しかし、父が遺すだろう負の遺産が大きすぎて、我が生きている間に、それらを解決に導いて、この国をより良い形に発展させる事が難しいと実感している程にはね』
この時、ラウラはアシッド因子の研究を進めこそしているものの、まだ新種のアシッド因子……ファナの肉体に埋め込んだ因子の力を見極めている最中であり、自身に因子を埋め込んではいない。
まだ、人であった頃のラウラ・ファスト・グロリア。
彼は少し離れた所で草の柔らかな感触を確かめるように地面を転がって、楽しそうにしているファナを見つめ、その時間が永遠に続けばいいのに、とでも考えていそうな、哀愁に充ちた表情に思う。
クシャナには、そんな彼が今とは異なり、随分感情に富んだ表情を浮かべるとも感じた。





