獣-10
シニラ・ケオン・ハングダムは、前ハングダム家当主であるガナーと、側室の間に産まれた男の子である。
立場としてはメリーやルトの弟にあたり、行方不明扱いとなっていたメリーや、子宮全摘出手術の結果、子供を遺せないルトに代わって、後のハングダム家を継いでいく子供として育てられている。
彼は帝国城内にある十王族用邸宅エリアの一室に避難した大人達から離れた壁際に座り込み、唇を噛みながら、不安と恐怖、そしてこの場に自分がいる事の場違い感など、様々な感情を含めた涙を流していた。
シニラは、実の母であるエニスが目の前でアシッドに襲われていた時、母が喰われていた所を帝国軍人に救われる形で、この部屋に避難してくれと押し込まれた。
その時には既に、シニラがこれまでの公務で幾度か顔合わせをした事のある十王族関係者が多くいた。
殆どが十王族であったり、その妻であったり、使用人であったり。だからこそだろうか、シニラの方へと向けられている視線は冷たい。
この場にいる人間で、シニラの事を好意的な目で見ている者は少ない。
彼が元々側室の子であった事に合わせて、兄や姉にあたるメリーやルトが原因で、次期ハングダム家当主として宛がわれる為に生み出された子供だった、という理由が主なものだ。
まず、シニラの母であるエニスが、そもそも周囲から良い目で見られていなかったことが要因である。
十王族の妻になる女というのは、本来少なからず家柄が重視されるべきである。それ相応の教育と礼儀作法を叩き込まれてその地位にまで上り詰めた筈だ。
にも関わらず、エニスは大した血筋も持たず、教育や礼儀作法も大して受ける事も無く、ガナーの使用人であり美しく、魔術回路を持つ女性だったからこそ、側室として選ばれただけの女だった。
またエニスも、そうした自分の美貌を利用して、十王族の一人であるガナーに接近した。元々使用人としてこの城に仕えたのも、将来有望な男を捕まえる事が理由であったし、それが老い先の短い十王族の側室であったとしても構わなかったのだ。
エニスがそんな女であったからこそ、息子であるシニラも「汚れた側室の子供」としてしか見られなかったのだ。
それでもシニラは母を愛していたし、自分の姉にあたるルトの事も家族として愛していた。だから今日まで周囲の視線を気にする事無く、気丈に振舞ってきたけれど……既に母は亡く、怪物はそこらで暴れ回り、外では爆音と嬌声が、先ほどまで響いていた。
それに恐れぬ程、彼は怖いモノ知らずでもなければ、元々内向的な男の子が、周囲に味方もいない状況で強く居られる筈も無い。
「ハァ!? どういう事よ!」
そうして膝を折って俯いていたシニラの耳に、甲高い女性の声が響いて聞こえた。煌びやかな衣装を身に纏った四十代前半程度の女性が、帝国軍人の一人に詰め寄り、その胸倉を掴んだのだ。
「わたくし達に、窓から紐伝いに逃げろっていうの!?」
「し、しかし皆様方の御身をお守りする為には、それしか」
「嫌よ、そんなはしたない事! それに、わたくし達の安全を守るのは貴方達の責務でしょう? それを蔑ろにして、この高貴な身分であるわたくし達に、無様な姿を晒せと言うの!?」
帝国軍人は今の大部屋に二名しかいない。その二名はどうやら、この部屋の窓にあるカーテンを繋げてロープ状にし、三階建て建造物相当の高さがある部屋の窓から、一人ひとりを外へ逃がしていくという手段を考えたようだ。
シニラとしても正しい考え方であるとは思う。しかし……自尊心が強い女はどうやら、自分が死ぬ事と同等に、そんな姿を衆目に晒したくはないという恥じの概念があるらしく、それを頑なに断っている。
「大体、外が安全だなんて誰が証明できるっていうの!? ホラ、見なさいよ! さっきまで野蛮な連中が暴れていた大通りを!」
だが……確かに女の言う通り、窓を開け放った外の景色を見ると、帝国城の外が安全とも言い難い。既に多くの建造物が倒壊し、荒廃と化している。
先ほどまで響いていた爆音と嬌声、加えて時々肉眼でも確認できた、恐らく魔術師同士であろう、大男と美麗な女性による殺し合いは終わったようだが、しかしだからと言って、外が絶対安全とも言い難い。帝国城の中に蔓延っている怪物がもし外にいるとしたら、それより逃げつつ安全な場所に避難する事が可能なのだろうか、という疑問もある。
「大体、ハングダムは何をしているのよ! こういう時にこそ、人殺しの才能を使うべきでしょう!? 平時は全く役に立たない、野蛮な血を残す事に躍起となっているにも関わらずッ!」
「お、落ち着いて下さい。シニラ様の御前です……っ」
「役立たずのハングダムに、どうして遠慮しなければならないのよ!」
随分とヒステリックになっているな――そう考えると、何だか押し黙って不安と戦っている自分の方が、どこか大人びているんじゃないかと感じるようにもなった。
そう言えば、と……シニラは先ほど自分に微笑みかけてくれた女性の事が気になった。
どうやら帝国軍人に類似する立場の女性であったようだが、この場にいる慌てふためくしか脳の無い誰よりも、帝国軍人に当たり散らす事しか出来ない女よりも冷静に、シニラ達の安全をお守りすると、約束してくれた。
その姿が格好良くて、美しくて――シニラは思わず、顔を赤めて微笑みを浮かべた。
「……ちょっと、何を笑っているのよ。貴方の事を言っているのよ!?」
しかし、その微笑みに苛立ちを覚えたと言わんばかりに、先ほどまで帝国軍人に対して怒鳴り散らしていた女が、シニラの方を見て声高らかに叫んだ。
剣幕に驚きながら顔を上げたシニラの腕を強引に引っ張った女性は、その化粧に塗れた顔を歪めさせつつ、口から唾を大量に浴びてくる。
「貴方、ハングダムの次期当主でしょう? ならこんな所でジッとしてないで、さっさとあの怪物共を殺してきなさい。貴方にはそれ以上の価値なんて無いのよ、野蛮人の血を継ぐ汚れた子供がッ!」
「っ」
野蛮人の血を継ぐ汚れた子供――その言葉だけは、シニラの癪に障った。
自分は、シニラという人間は、ハングダムという家名は、どれだけでも乏してもらって構わない。
けれど自分を産んでくれた母や、シニラがハングダム家当主となるまでの間、懸命に家を支えようとしてくれている、ルトの事を馬鹿にされたようで……彼は思わず、女の頬に向けて、自分の手を振り込んでいた。
バチン、と叩かれた事で乾いた音を鳴らす女性の頬。
部屋にいる一同は皆、息を呑むしか出来ずにいた。
シニラは手に力もマナも込めてはおらず、その手は幼い子供なりの一打でしかなかったが……しかし女性はその一打さえ許す事は出来ないと、顔を真っ赤にして、シニラの小さな身体を突き飛ばした。
「――本性を現したわね、野蛮人!」
「ぃ、」
「そこの兵士! この危険思想の野蛮人を叩き切りなさい!」
出入口付近で一同を守る様に剣を携え、立ち塞がる兵の一人にそう声をかけた女に、一同がザワついていく。
指名された兵も、冷や汗を流して顔を青くしながら、しかし首を横に振った。
「しょ、承諾致しかねます!」
「何ですって……?」
生意気な事を、とでも言いたげに、兵の事を睨みつける女の眼力は強く、そして権威の差に恐縮するしか無い兵は、そのまま口内に溜まった唾を飲み込んだ。
「わたくしは紛いなりにも、カレストラーノ夫人なのよ!? 内偵と暗殺しか能の無い、ハングダムとは天と地ほどの差もある権威を持つわたくしが叩かれた! これは立派な国家への背信じゃない!」
「な、なぁシェリア。落ち着きなさい」
女の後ろに立って宥めようとするのは、女の夫である筈の、リングーム・ラル・カレストラーノだ。彼も兵と同じく表情を青くしながらも、薄ら笑いを浮かべて妻……シェリアの肩に手を置くが、しかし彼女は夫さえも強く睨みつけ、その手を払いのけた。
「貴方、貴方までハングダムの野蛮人を庇い立てようと言うの?」
「い、いや違う。私はただ非常時にする話では無いと言っているだけで、その……」
リングームとシェリアの間には色々と事情がある、とシニラも聞いた事がある。
十王族の権力というのは、基本的に帝国王と血縁が近い者から与えられていく。
既に直接血の繋がる人間が居らず、直系を持たぬラウラと血縁が近い家系は、一番近しいフォルディアス家、二番目に近しいエスタンブール家に次いで、カレストラーノ家が三番目に近い家系であるという。
しかしカレストラーノ家の現当主であるリングームは他の十王族当主とは異なり、昔から何か要職に就いていたわけではなかった。数十年前に妻のシェリアと婚姻を結ぶ事により、彼女の父が官房長官を務める帝国警備隊本部のエリート組として就任する事が出来ただけの、義父から引き継いだ七光りだけを利用した人間と聞いている。
つまりリングームは妻のシェリアに頭が上がらず、またそれを理解しているからこそ、シェリアはリングームの持つ権力を有効活用し、権威を我が物としてきたのだ。
「……もう良いわ。この非常時に何もしてくれない、貴方も兵士も信用できるものですか!」
床に尻餅をつくシニラの襟を乱雑に掴み、出入口の扉に向けて引っ張るシェリア。
彼女が何をしようとしているのか、それを一同は理解したからこそ、夫であるリングームはより表情を真っ青にして「妻を止めろ!」と兵に命じた。
その声に呼応し、先ほど怒鳴られていた兵と、扉の前で一同を警護する兵もシェリアに触れようとしたが、しかし彼女は鬼のような形相で「触れないで頂戴!」と声を荒げた。
「貴方達の顔は覚えたわ! もしわたくしに指一本でも触れようものなら、帝国軍の方にお父様から厳重抗議をして貰う!」
「お、お気を確かに!」
「いいから、退きなさい……ッ!」
シェリアが、その扉を開けると共にシニラの小さな身体を強引に部屋の外へと追い出し、自分も共に廊下へと出ると、彼の顔面をヒールで蹴り付けた。
「ぐぅ、っ!」
「今すぐ怪物共を皆殺しにしてきなさい! それが出来て、ようやく貴方は一人前の暗殺者でしょう? わたくしの恩情に感謝する事ね……!」
狂気じみた笑みを、鼻から血を流すシニラに向けて浮かべるシェリア。
彼女の言葉に唇を噛みながら、しかし何も言い返す事が出来ないと言わんばかりに言葉を閉ざしていたシニラが――そこで、目を見開いて大きく口を開けた。
「――オバさん、後ろッ!」
「誰がオバさ」
そこで、シェリアの声は途絶えた。
彼女の背後から近付いていた、動きの鈍い血だらけの怪物――アシッドが、彼女の後頭部を強く殴りつけ、その腕力によって頭部が変形した彼女は、そのまま意識を失うように、死亡したのだから。





