獣-09
(ドナリア――お前は、何時だって私の事を、一人の人間として見てくれていた)
振り込んだ拳がドナリアの顔面を歪ませる。しかし拳を振り込むと同時にドナリアの右足がアスハの股関節を強打してくるものだから、彼女は僅かに身体を後退させ、距離を取ってしまう。
距離を取ってしまえば、ドナリアの裂傷能力が有利だ。立ち上がったドナリアが地面を右足で蹴ると、花壇の土が隆起してアスハの足元まで近づいてくると、その足元から十本の爪が一斉に姿を現し、身動きを止めていたアスハの身体を突き刺し、彼女をその場で固定する。
(目が見えない私を、感覚が無い私を、特別扱いする周囲と違って……お前は、私を特別扱いしなかった)
歯をチラつかせ、両足を動かしてこちらへと迫るドナリア。だがアスハも、ただ喰われるわけにはいかない。
痛みを感じぬ利点を生かし、自分の身体を貫く爪など意に介す事無く、身体を後方へと動かす。地面から伸びた爪に自分の身体を斬らせ、全身を裂傷と血だらけにしながらもそうして爪から逃れた彼女は迫るドナリアの顔面に拳を突き出し、その歯を叩き割りながら口内、骨、脳を貫通し、後頭部を突き破る。
「a、aaaaaAAAAッ!!」
けれど、歯を多く失ったとしても、全てを失くしたわけじゃない。
ドナリアは奥歯と僅かに欠けただけの歯と、その強靭な顎の力を用いて強引にアスハの振り込んだ腕に噛みついた。
ブチブチ、と音を鳴らしながら、肉と血管、筋を全て引き千切りながらアスハの腕を引っ張りつつ、肘の関節を噛み砕く事で彼女の腕を噛み千切ったドナリアは、彼女の腕を抜きながら、再生を始める口で噛みついていき、その肉を咀嚼し始める。
(最初はムカついたし、未だに納得はしていない。ちょっとくらい私に優しくしてくれたって、バチは当たらないんじゃないか、なんてな。でも……お前はきっと、私の想いに、気付いてくれていたんだろう?)
やはりドナリアとアスハの間には、戦力的な差などほとんどない。
裂傷能力がアスハの身体をどれだけ傷つけようとも、彼女にはその傷に反応する痛みを感知できない。
アスハの固有能力が補助や支配に適していたとしても、今のドナリアが有する獣的本能を前に情報処理能力は殆ど意味をなさなければ、既に使者である彼に支配能力は通じない。
(お前は、私が普通の人間じゃないと、周りから区別される事に、疎外感を感じていると、気付いてくれていた。差別じゃなかった。周囲は私の弱点を理解し、その違いを埋めてくれようと努力してくれた。……けれど私は、そうして他者に気を使われる事に、少なからず息苦しさを感じていた)
その上で、二者の白兵戦能力は、ほぼ同等。
だがまだ……まだ、アスハはドナリアに勝る力がある。
その力が、同等の能力を有する二人に差をつける。
(でもお前は、私にとって『何時だって本音でぶつかり合える存在』としていてくれた。何も遠慮しないお前に、私も遠慮せず物を言えた。罵り合えた。腹立たしい時の方が多かったけど……でも、お前とぶつかり合っていた時の私が、一番本当の私でいられたんだ)
息を吸い込み、吐き出して、アスハは強く地面を蹴りつけた上で、二階の廊下に着地した。その上で身を低くして、廊下の壁に隠れるような形で駆け出すも、ドナリアは野性的な勘か、それともアスハの匂いでも嗅ぎ付けているのか、彼女の進行方向に、自分の爪を伸ばし、エントランス側の廊下を貫きながら、貫こうとする。
(だから今度は……私がお前に遠慮をしない番だ)
その爪から逃れながら、少しずつドナリアの真上に位置する二階廊下まで辿り着いた。
ドナリアは真上へと両手の爪を伸ばし、床を貫き、アスハをも貫こうとするが、しかしソレを避けながら……砕けた廊下の上から、アスハがドナリアへと迫る。
(これから私は、お前に私の全てをぶつけ――お前を喰うッ!!)
上方から襲い掛かるアスハ。彼女はドナリアの上向きの顔面を自分の右手で掴むと、そのまま床に叩き付ける。
ハイ・アシッドとしての腕力を有するアスハによって叩き付けられた頭部だが、しかしその程度で彼は死なない。あくまで意識を一瞬だけでもトばす事がせいぜいだろう。
しかし、今の獣同然であるドナリアには、その程度で構わない。
そのまま地面に倒れたままの、ドナリアの首を握る。本来ならば首という生命にとっての弱点となる部位は、必ずドナリアとて野性的無意識を以て守った事だろう。
だが、今は違う。今の彼は意識を失いかけている状態だ。つまり今ならば、その首を折れる――ッ!
「ウォ――オオオオオッ!!」
ゴギリ、と首の骨が折れる音と共に、アスハはドナリアの喉に再生し始めてまだ骨だけの左手をピンと伸ばし、そのまま手刀として突き刺す。
折れた骨に達するように挿し込めた手刀。それによって肉と筋、更には様々な血管などを断ち切る事に成功した彼女は、左手で顎を掴んで、そのまま頭部の方向へと引っ張り――彼の首を引き千切った。
血と唾を吐き出させながら、引き千切ったドナリアの首。
アスハとドナリアの戦い――最後まで獣としての本能だけでなく、知能を以て立ち向かったアスハの方に、戦略という差が生まれ、勝負を別った。
「……ドナリア」
ボタボタと、口や首の断面から血を流すドナリアの首。
ハイ・アシッドとしての彼を蘇らせているからこそ、彼はまだ死んでなどいない。
彼の頭部を全て喰い尽くし、自らの血肉とする事で、初めて彼の心は報われる筈だ。
けれど……アスハはその前に。
ドナリアの顔を、自分の胸に埋めて……ポタポタと涙を流しながら、言葉を投げかける。
「こんな形になってしまったけれど……私はお前と、こうして会えて、良かったと思ってる」
ドナリアは、何と答える事は無い。
ただ黙って、その口をダラリと開けているだけで……目の前にある彼女の肉を喰らう事も無く、ただ静かにしている。
「こんな事を、望んじゃいけないと、分かってる。……でも私は、こうしてお前に、お別れの言葉を伝える事が出来るんだ……それが何より、嬉しいよ」
強く抱きしめるアスハの力は強い。けれど、決して彼の頭を潰す程ではない。
最後の抵抗を、悪足掻きをする事も出来る状況で……しかし、ドナリアは何をする事も無い。
「お前の顔を見る事が出来たのもそうだ。これから先、私がどれだけの時間を生きるかは分からないけれど……おかげで私は、お前の事を……ずっとずっと、忘れない事が出来る」
本来は、それを望んではいけないと、理解している。
こうして死したドナリアを、仲間殺しの為に甦らせ、利用したラウラを、許せる筈も無い。
けれど、だとしても――アスハは、最後にそうして別れの言葉を告げる事も、彼の顔そのものを見る事も無く、別れる事となった。
今この腕に抱く彼は、本当のドナリアだ。ならば、この機会にそうして喜びを伝える事位は良いだろう。
「私も……お前の事が、好きだった。生意気で、ぶっきらぼうで、不器用で、馬鹿で……でも、どこか優しくて、憎めない……大切な、仲間として」
これ以上放置すれば、少しずつ再生を始めていく。アスハは、惜しむ気持ちを押し殺しながら、彼の両頬を掴み、その頭に食らいつこうとするが……その前に、ドナリアが口を開いた。
『A……日、ハ……』
微かな声、まるで空気が漏れる音をそう誤認識してしまっているのではないかと考える程に、か細い音だったけれど。
確かに、ドナリアはそう言った。
『O、レ……みTaイに……なRuンじゃ……Neえゾ……生……Ki、ツZuケ……ろ』
――俺みたいになるんじゃねぇぞ、と。
――生き続けろ、と。
意識を失い、獣同然となっている筈のドナリアは……しかし最後に、そう言葉を遺した。
他ならない仲間である……アスハの為に。
「ああ……っ、私は……生きるよ、ドナリア……ッ!」
涙が止まらない。アスハは、そんな口が塩っ辛い中でドナリアの頭を、噛み進めていく。
普段は絡みついて喰いにくいという理由で全て吐き出す髪の毛も、筋張ってて喰いにくいと理解しているからこそ丸のみにする肌も肉筋も、吐き捨てる血も脳髄液も、全て……味覚は無いけれど、それでも一秒だって彼との時間を続けさせたいと言わんばかりに、味わうように。
最後に、彼の口元だけが残り……アスハは、唇を僅かに立てながら、それに口付けるようにして、吸いつき、肉を口内へと運んだ後、それを噛み潰して、飲み込んだ。
「私は……お前の命を喰らって、生き長らえたんだ……絶対に、死んでたまるか……お前が望んでくれた幸せを……私は、絶対に掴んでみせる――ッ!!」
獣のように声高らかな絶叫。それが、帝国城全体に鳴り響く。
アスハにとっての幸せ――それが何かは分からない。
彼女自身にも、理解できているとは言い難い。
自分の想いを満足に露見させる事も出来ない女が、今まで他者の言葉に耳を傾け、ただ他者を支える事にしか意義を見出せてこなかった女が、今更どんな幸せを掴めるか、それは分からない。
けれど――それでも、アスハはドナリアに誓うのだ。
どれだけ時間がかかったとしても……ドナリアが望んでくれた、幸せな女になる、と。
それだけが、自分の血肉となってくれたドナリアに出来る、唯一の約束だったから。





