願い-03
その日は生憎の雨模様。まるで誰かの涙を覆い隠す為に降り注ぐ雨音を聞きながら、エンドラスはグロリア帝国営病院内に存在する集中治療室棟の廊下で、一人静かに椅子へ腰かけていた。
ガリアが倒れ、集中治療室へと運び込まれてから三日が経過し、その間は彼女と顔を合わせる事さえ禁じられていた。
既に骨や心臓へと進行していた乳がん。エンドラスは担当医からその言葉を聞き、彼女の命がどれだけ持つのか、少しでも延命治療を施す事が出来ぬのか、それだけを幾度も問うたけれど……しかし医者は「短い人生を少しでも悔いの無いように生きるべきでしょう」と答えた。
それだけ、乳がんの発見が遅れていた事を意味する言葉であり、またこれ以上の延命治療を施せば、彼女をより苦しめるだけであるという意味の言葉でもあると、エンドラスにも理解できる。
許可を得て、集中治療室の防護扉を開けて貰い、中へ入ると、そこは集中治療室の中を一望できる待合室のような造りをしていて、その待合室の中央に立てられた強化ガラスが、エンドラスとガリアの間を阻んでいる。
ガラスの向こう側、そこには真っ白な病室に青色の貫頭衣を着込んだガリアがいたのだが……その美しい銀色の輝きを放っていた髪の毛は抗がん剤治療と放射線治療によって全て抜け落ち、その端正な顔立ちだけがあるガリアの姿を見据えた。
『来て下さって、ありがとうございます。貴方』
これから、その儚くも短い命を終わらせると知っている筈なのに、ガリアは婚姻を結んでからエンドラスと交わす会話のトーンそのままに、声を発した。
エンドラスはそうした彼女に余計な気を使わせまいとしてか、僅かに笑みを浮かべながら「ああ」と短く答え、強化ガラスの前に椅子を用意し、腰かける。
ガリアもまた、エンドラスの前に椅子を用意して腰かけると、そのままニッコリと笑みを浮かべる。
『拙者のお願い通り、ヴァルキュリアを置いて来て下さったのでありますね』
「……本当に、良かったのか?」
ヴァルキュリアは今年十一歳となり、来年から聖ファスト学院への入学を取り付けていたガリア。
既に汎用兵士育成計画は頓挫していると言っても良い。しかしそれでも、彼女にはエンドラスとガリアの血が流れ、その技術を叩き込まれた天才だと、彼女は娘の事を誇りに思っていた。
だからこそ、母親という存在が死ぬ程度で気を紛らわせてしまわせたくない。
彼女の言葉を聞いて、エンドラスはガリアが危篤状態であるという事をヴァルキュリアに伝えず、こうして夫一人だけで出向いた、というわけだ。
「ヴァルキュリアとて、あれで人の子だ。実の母と死別する苦しみ位は、分かると思うのだが」
『……果たして、そうでありましょうか。あの子はこれまで拙者たちの教育によって、幸か不幸か、人として覚えておくべき最低限の知識さえ、知らずにいる。父や母という存在が身近にある命であるという認識さえ、持ち得ているか否か』
エンドラスやガリアが望んだ事であったが、そもそもヴァルキュリアは、人が生きていく上で持ち得るべき家族に対しての情や、そもそも人間として必要な教育さえもおざなりにされてきた。
あくまで父は、ヴァルキュリアに剣術を教えるだけの存在であり。
あくまで母は、ヴァルキュリアに知識を与えるだけの存在でしかない。
『ヴァルキュリアにそれを望んだのは拙者たちなのです。最後にあの子へ会えないのは、確かに少し寂しくありますが、しかし……ええ。あの子は、立派な汎用兵士として育ってくれました。拙者は一軍人として、それを人生で最も大きな武勲として刻む事が出来た。それだけで、拙者は幸せであります』
ガリアは結局、最後の最後まで、祖国を守るべき存在として、自らを定めていた。
女ではなく、母ではなく、ただ一人の軍人として生きる道を選んだのだ。
けれど、それの何が悪い? 何がいけない?
人が自分の幸せをどう定めようと勝手であり、彼女は自らとエンドラスの間に産まれた子供が、将来の国防を担うに相応しい存在として育ってくれている事を、一番の幸せとしただけだ。
エンドラスは、そうして長く連れ添った女性が、自分の幸せや願いを、しっかり最後まで抱き続けてくれた事が、少し嬉しく思えた。
だからこそ……エンドラスとガリア、ヴァルキュリアという在り方は、これで良いのだと、ホッとしたのかもしれない。
『確かに、あの子が帝国軍人として大成する姿を見れぬのは、拙者としても残念でありますけれど、拙者の役目はもう終わり、後は貴方に……エンドラス殿に、全てを託すのであります』
「……ああ。君がそうして最後まで笑顔でいてくれるのならば、それが一番良いのだろうな」
ガリアに手を伸ばす事は出来ない。無機質なガラスの板が、二人の間を遮って、その体温さえも通さない。
けれど、それでもエンドラスは、その手を可能な限り伸ばしたいと、彼女へ最後の温もりだけでも与えたいと、そう感じた。
ガラスに手を乗せ、僅かに感じる冷たさ。
ガリアもそうして手を乗せたエンドラスの大きな手に、自分の手を広げて合わせる。
『ふふ、子作りと婚姻の契り以来でありましょうか。こうして、触れ合おうとするのは。……拙者はもしかしたら、こんな在り方も望んでいたのかもしれませぬ』
「ああ、そうかもしれないな。私も君という美しい女を妻としておきながら、勿体ない事をしたものだ。もっと、もっと触れ合い、何気ない日常を送るべきだったろう。そこにヴァルキュリアも交えて、少しでも家族らしい事でも出来ていれば、あの子ももう少し、世俗に近い考え方が出来たのかもしれないが」
そんな景色を、二人は頭で想像する。
例えば自然を感じる事の出来る野原で、ヴァルキュリアの手を引きながら歩く、エンドラスとガリアなんてどうだろうか。
三人に笑顔があって、その三人の間を裂くような弊害など何もなく、何処にでもありふれた家族としての在り方。
剣術も魔術も必要ない、平和の中にある世界で――ただ三人が、共に居る幸せを享受出来る在り方を、もし果たす事が出来たなら。
ああ、それは――なんて美しい在り方だったろうか。
『――あれ?』
ふと、ガリアの頬に、一筋の涙が伝った。
『え……あ、はは……な、何故、何故……拙者は』
「……ガリア?」
『ち、違うのです。違うのです、貴方。拙者は……私は、違くて……っ』
幾度、涙を拭っても。
涙は溢れ、床に滴る。
『拙者は、今でも、幸せな筈、なのです……っ、でも、でも……私は……っ!』
それまで、彼女の心が留めていた涙。それが一度溢れ、溢れ出た事に気付いてしまえば、もう止める術などない。
『いやだ……っ、死にたく、死にたくない……ッ』
知識の範疇でしか分かり得ない、自分の幸せや願いを頭で考え、これと定めたとしても。
生命が有する根源的な願いは、そんな朧げな容でしか存在しない幸せや願いを、容易く砕き、姿を表す。
それ即ち、自分の残り少ない人生に対し、足りなかったモノを求める強欲さ。
強欲さが出てしまえば、人というちっぽけな存在は欲へ抗う術など持てる筈も無く、その魂に刻まれた生命の根源的な願いを理解し、それを求める。
『貴方と、ヴァルキュリアと……もっともっと、触れ合いたい……どうして、どうして私は、そんな在り方を、選ばなかった……ッ!?』
力の籠める事が出来ない手が振り込まれ、強化ガラスの表面を強く叩き付ける。
ビリビリと震えるガラス。そしてその声は反響し、目の前にいるエンドラスの耳に、幾度も届く。
『普通の、普通のお父さんと、お母さんと、娘として、生きれば良かったのに……汎用兵士育成計画なんてもう、果たす事が出来ないと分かった時に、どうして、どうして拙者達は、私達は、その道を選ばなかったのでありますか……!』
「ガリア、ガリア……ッ」
ガリアは、心の底から帝国軍人としてあった筈だ。
ただ自分の在り方を捉え、自分はこうして生きて、いずれ死ぬのだと自分で決め、その在り方に殉じようとしていた、高潔なる女性だと、そんな女を妻と出来て、彼女との間にヴァルキュリアという天性の子を授かる事が出来て、自分はなんて幸せな男だと思っていたのに。
「ガリア、落ち着け……」
――けれど、心の奥底では、そんな事を願っていたのか?
「落ち着くんだガリア、っ」
――心の奥底では、帝国軍人なんて存在ではなく、母として、妻としての自らでありたいと、願っていたのか?
「ガリア……ッ!!」
――この共に十年以上の月日を過ごし、言葉を交わしても、そんな事を一度も、一度も口にしなかったじゃないか!
エンドラスは、そんな責任転嫁と後悔の入り混じった感情を胸に宿しながら、しかし目の前で目を見開きながらボロボロと涙を流し、半狂乱状態の妻へ、彼女の名を告げ続ける。
『ねぇ貴方、ヴァルキュリア……ヴァルキュリアと、やっぱり最後に会わせ……、会わせて下さい……ッ! せめて、せめてあの子に、あの子に「愛してる」と伝えたいッ!! そんな、そんな些細な願いさえ敵わないなんて、イヤ……イヤ……ぁっ!』
肌を掻き毟り、服を握り、破って、奇声を上げる妻の姿を見て……エンドラスはそれ以上、声をあげる事さえ出来なかった。
急変に気付いた医師や看護師たちによって、エンドラスは部屋を追い出され、その防護扉が閉まる寸前まで……耳と閉ざしたい気持ちに抗いながら、ガリアの叫びを聞いていた。
呆気なくてありふれた……人生への後悔。
『――貴方と、ヴァルキュリアと、普通の家族として、過ごしてみたかった』
ガリアはそのまま、暴れ疲れたといわんばかりに眠りへ就き……帰らぬ人となった。
その悲痛な最後を目の当たりにし、エンドラスはもう、これからどうすれば良いのか、それさえも理解できず、ただ一人で病院を後にした。
彼の身を打ち付ける大きな雨粒に、痛いと感じる事は出来る。
けれどその痛みは……打ち付けられる一粒一粒が、ガリアの嘆きであるかのように、エンドラスは感じるのだった。





