役目-11
「……そうなのか、庶民」
フェストラの問いに、クシャナは何も言う事は無い。
彼を見る事無く、ただ前を見据え、ラウラの方を睨むだけだ。
「大量のアシッド因子を取り込む結果、何倍にも増幅された食人衝動――これだけならばまだ、君もその力を制御し得るだろう。だが問題は、君が元々持ち得る固有能力だ」
固有能力。ラウラの言葉を聞いて、フェストラは「まさか」と口を開いた。
クシャナ・アルスタッドの固有能力は【幻惑】――誰か深層意識に潜り込み、深層意識の奥深くに秘められた記憶情報を覗き見るだけでなく、その記憶情報を他者の脳内で再生させる事により、視覚情報としても幻惑を魅せる能力。
その力が如何に強大かは、これまでの戦いで明らかにされてきた。
かつて、ドナリアという男の深層意識を魅せ、彼が犠牲にし続けてきた者達の幻惑によって発狂させた事もある。
かつて、ビースト・アルファという存在の深層意識を魅せ、その苦悩にまつわる思い出を幻惑によって見せつけた事もある。
かつて、メリーという男の深層意識を魅せ、彼の内側にある情動と怒り、そして屈辱を幻惑として覗き見て、思い出させた事もある。
かつて、ミハエル・フォルテという男の深層意識を魅せ、遠き過去における戦争の歴史を振り返り、彼の中にあった恐怖を思い出させた事もある。
――かつて、アマンナ・シュレンツ・フォルディアスという少女の幼い記憶を、当人と顔を合わせる事無く、見たいと願う事無く夢として見て、その景色を脳裏に刻んだ事もある。
それだけじゃない。赤松玲としての時代を含めれば、彼女は数多の深層意識を覗き見て、それによって他者を惑わし続けてきた。
その力は、歴戦の戦士が集まるこの戦いにおいて真価を発揮した事はあまりないが、それでも十分な性能によって、僅かながらに戦況を動かしてきたと言ってもいい。
「幻惑能力は確かに、他者の思考に潜り込む事によって情報を引き出す事の出来る、便利で優秀な、他者の心を蝕むには十分すぎる能力だ。しかし深層意識に刻まれた記憶というのは、必ずしも幸せなだけの記憶ではない。……むしろ、心の奥底に秘めておきたい記憶なぞ、大概がろくでもない記憶でしかない」
かつ、かつ、と靴で音を鳴らしながら、ラウラが階段を下りていく。ゆっくりとした動きに、ミラージュもフェストラも構えこそ解かないが……しかし、その隙だらけな体に攻撃を仕掛ける事も無い。
「クシャナ。以前そのブーステッド・フォームを使ってから一週間余り……その間、どれだけの時間、眠る事が出来た?」
元々、目の隈が多かったクシャナの目元を、ラウラの指がなぞる。より深く刻まれた目元の皺と隈、加えてその充血気味の瞳は、ラウラとしても見ていて気分の良いモノではない。
「まさか、庶民」
「そうだフェストラ。我が娘たるクシャナは、お前が戦いに巻き込んだせいで、あのカルファスめから与えられた力のせいで、他者の深層意識を毎夜、夢で見る程までに能力を冴えさせた。この娘は以前の戦いから眠りに就く度、他者の深層意識を読み込んでいたという事だ」
そして、他者の深層意識に潜り込み、その末に見る夢など……それは悪夢以外の何物でもないものの方が多いだろう。
「誰の、どれだけの数、深層意識を夢で見た?」
「……そんな、大した人数は見てないよ。まだ三人程度だ。名前も知らない、どこかの誰かが経験した記憶を少し見ただけ」
「結果としてどれだけの睡眠時間を削ったのか、予想は容易いな」
通常の人間は、三日から四日ほど寝ずに過ごしていると、集中力の低下から始まり、幻覚や猜疑心などの精神的な不調を訴えるようになる。
クシャナの場合は適時睡眠をとるようにはしていたようだが……しかし、目を閉じて意識を閉ざし、レム睡眠へと移行すると、他者の深層意識を勝手に覗き見るようになってしまい、結局深く眠りに就く事も出来なければ、身体を休める事も出来ていなかった。
結果として彼女は身体を満足に休める事も出来なければ、そもそも心を安らかにして意識を閉ざす事さえ、許されていなかった事に他ならない。
「能力の暴走はこれまでも幾度かあった事だろうが、その頻度が問題だ。毎夜眠りに就く度に誰かの深層意識を覗き、その心を巣食っている闇を見る事を強制される事など、並みの人間ならば発狂している」
クシャナの有する幻惑能力は、普通の夢とは違って朧げなものでもなければ、その人物が本当に体験した事を基としている深層意識そのものを見るものだ。自然と現実味を帯び、また通常の夢と異なり短期記憶として扱われない事が厄介でもある。
目覚めても、その深層意識を読み取った時の記録は脳へ鮮明に残り、彼女の心を蝕んでいく事だろう。
「我は、確かにクシャナを戦いに誘った。しかしそれはお前を生かしておく為に、生へと執着させる為に必要な事でもあった。レナ君の為でもあったし、お前が望まぬとしても、娘を生かす責任のある、父としての行為であるとな」
勿論、それを正当性のある言葉にするつもりは、ラウラにもない。
彼女がこれまで負った傷については、彼女を生かすという目的を前には必要な犠牲として割り切っていた事も事実であるし、赤松玲として過ごした記憶を持つ彼女であれば、その辛さを乗り越える事は出来るだろうと、客観的かつ楽観的に考えていた事も事実だ。
けれど、それによってクシャナが負うのは、一時の辛さだけだ。大人めいた思考にはなるが、辛さを乗り越えた先で長きに亘って生き続けていれば、いずれ過去の事であると受け入れる事も出来るようになるだろうと、その辛さが長く続かない事を目的とした。
「だがカルファスは、そうして長きに亘って傷を背負わぬようにしていた我とは異なり、クシャナに、娘に一生残る心の傷を与えようという。それを許しておける筈もない――フェストラ、貴様もだ」
クシャナの――ミラージュの身体を押し退けて、ラウラはフェストラと相対し、その手に握る杖を今にも折らんかと言わんばかりに力を籠め、ギリギリと歯を鳴らす。
「貴様がクシャナを操り続ける限り、この娘はこれからも戦い続ける。ブーステッド・フォームなどと言う形態へと幾度も変身し、その度に心を蝕み続けていく。それを、父として許しておける筈もない」
杖を強く、まっすぐ地面に突き付けようとするラウラ。しかし杖の先端が地面に打ち付けられるよりも前に、ミラージュが彼の手を強く握り、止める。
「……それは、違うよお父さん。フェストラは悪くない。私の隣にいてくれる事を、覚悟してくれただけだ」
「何?」
「私が言ったんだ。お父さんに従う事を正しいと考えていないのなら、私はフェストラと一緒に戦いたいって。利害関係じゃなくて、色んな事を押し付けるんじゃなくて、一緒に肩を並べて……って」
シックス・ブラッドの解散を決めたフェストラに、クシャナはそう想いを告げた。
それまで二人は、互いに理解し合うでもなく、ただ利害が一致していたから、役割を決めて戦っていた。
フェストラはクシャナ達の命を借り入れ、彼女達を使役する事で皆の命を背負った。それまで生き残っていたからこそ、彼は心を蝕む事は無かったけれど……それでも、その両肩には彼自身の命を含めた六人分の命が乗っかっていた。
クシャナはそんなフェストラの言いなりになる事で、考える事を放棄した。全てはフェストラの命令を受け、仕方なくやっている事だと無理矢理納得して、だからこそ戦う事に集中出来た。
けれどあの時、色んな事で頭がぐちゃぐちゃになって、悩んで、それでも前を向く事にしたクシャナは、フェストラに願ったのだ。
――共に肩を並べて戦いたい、と。
「だから、こうして新たな力を手にして、その力をどう使うか、それを判断したのは誰でも無い、私自身だ。フェストラは、そんな私の事をただ信じて、共に戦ってくれる……大切な、男だ」
だから、殺させない。
ミラージュがそう誓うように声を整え、強くラウラを見据える。
しかし、それでもラウラは何時までも、フェストラの事を睨み続ける。
「ラウラ。お前の娘を誑かしている事が気に食わないというのなら、殺してみせろよ」
冷や汗を垂らしながら、それでもフェストラは不敵な笑みを崩す事なく、自分の心臓を示すように、親指で胸の真ん中を軽く叩く。
「だが一つ忠告してやる。お前がもしオレを殺したのなら、庶民の心に傷を残す事となる。そしてその傷は、庶民がお前を喰らう為に必要な力となる筈だ。……その為になら、心臓の一つや二つ、惜しくはない」
ここを狙え、と言わんばかりに挑発するフェストラに、ミラージュは「フェストラ……!」と声を僅かに荒げさせたが、対してラウラはそれまで見せていた怒りを、僅かに鎮静化させた。
「……そうか。ならば、それも良かろう」
ミラージュの押さえている杖、それから手を離し、彼女の身体を突き放すと、ラウラは左手をフェストラへと伸ばすように突き出して、その広げていた掌を握りしめる。
その次の瞬間――重く響くような重圧がフェストラの胸元を襲った。
一瞬の事で、何があったかをフェストラも理解できていなかったのかもしれない。
彼はただ、僅かに動かせる首と頭を使って、自分の胸元を見据えると……その胸元が綺麗な空洞を作って、その肉体の中身を曝け出していた。
ぴゅ、とフェストラの口や鼻から噴き出される血。
それと共に力無く倒れ出すフェストラの姿を……ミラージュはただ、見ている事しか出来ない。
バタリ、と音を立て、大理石の床に倒れたフェストラ。
最初は僅かにぴくぴくと身体を動かしていたけれど……やがて、指先一つも含めて動かなくなる。
――フェストラ・フレンツ・フォルディアスは、死んだ。空間消滅によって、彼の心臓を含めた肉を全て削ぎ取られる事によって、その生涯を終えたのだと、ミラージュは実感した。
……けれど、何故だろうか。
フェストラの最後、彼の表情は……僅かに、笑っているように思えた。





