弔い-07
ルト・クオン・ハングダムが現在主な任務としているのは、勿論フェストラに命じられた帝国城内に住まうレナ・アルスタッドの監視である。
が、それと同時に帝国城内の混乱に乗じ、ラウラ・ファスト・グロリア王の火消しに誰が、どう動いているか、それを具体的な記録として残す仕事も自主的に行っている。
残し方は多岐に亘り、彼女が持ち得る通常のメモ書きに加え、監視場所として選んだ建造物の屋上に、ハングダム家にのみ伝わる特殊暗号点字を地面の汚れに偽装しながら書き加える。
そして万が一ではあるが、ルトやメリーが殺された場合にも暗号を解読できるよう、メリーから渡された携帯電話のメモ画面を開き、その中に数字を入力していく。地球で多く用いられるアラビア数字である0から9までの数字が持つ意味をメリーから事前に教えられ、その数字列を用いた古典的な暗号だが、これならば残したメモをクシャナが読み、それをフェストラに伝える事が出来れば、暗号の意味を理解できるはずだ。
と――そんな監視を続けていた時。レナ・アルスタッドの住まう部屋の窓が開かれ、窓枠に足をつけたシガレット・ミュ・タースが、強く窓枠を蹴りつけながら、空へと跳んだ。
最初は低く跳んだかと思えば、重力に従い落ちるよりも前に自分の足元へ手を向け、本来足場がない筈の空気を蹴りつけた。
再び高く蹴り上がる彼女が、ルトと目が合うと同時にクスリと笑いながら、彼女と少し離れた建造物の屋上に足をつけ、手を振ってくる。
「こんにちわ、ルトちゃん」
「……ええ、どうも。見逃して頂いているようで、何よりです」
戦闘態勢を整える――事はしない。彼女に戦意は無いし、あったとしても現状での戦闘は好ましくない。フェストラの命令もあくまで可能ならばレナ・アルスタッドの奪還、そうで無くとも監視だけで構わないとしていた。ここでの交戦は、彼の思惑から外れてしまう事も想定しなければならない。
「帝国城の状況、どうかしら」
「どうもこうも、ラウラ王の火消しに手一杯、と言った感じですね。面白い位に混乱しています。……今なら、侵入もそれなりに容易かしら」
顎に手を当てながら、一時レナの護衛を離れて帝国城への侵入を検討するルトであったが、そうして悩む彼女にニッコリとした笑顔を浮かべながら屋上の床を蹴りつけてこちら側へと跳んできたシガレットが「今は止めておいた方が良いわよ」と忠告した。
「確かに帝国城の中に入る事自体は容易いけど、帝国警備隊も帝国軍も、重要な資料や記録が残る場所は厳重警戒してる。流石に貴女達ハングダムでも、厳重警戒されている場所へは入り込めないでしょう?」
それは確かにその通りで、混乱状態である帝国城内に忍び込む事はかなり容易になった反面、一部の場所は、普段よりも厳重警戒が敷かれている。この状態となった人間の集中力に介在できる程、ハングダムの認識阻害術というも万能ではない。
「だから、監視する者とされる者同士、少し仲良くお喋りでもしましょうよ」
「貴女と話す事など、何もないのですがね」
「あらホントォ? 例えば――アマンナちゃんの事とか、お話しした方が良いんじゃない?」
思わぬ言葉に、ルトが大きく目を開き、ギロリとシガレットを睨んだ。その強い眼光に、流石のシガレットも頬から冷や汗が流れ、親指で拭いながらも「怒らないでよ」と笑う。
「お婆ちゃんも、別にあの子へ面白がって全てバラしてやろうとしているわけじゃないわ。でも、あの子ももう立派に成長してる。……ルトちゃんの事を伝えても、決して悪い事にはならないと思うわよ」
「知ったような事を」
「知っているもの。だから、貴女の事が心配なの」
「それが老婆心のつもりですか? 人の傷に踏み込み、それでお節介を焼いているつもりでしたら、それはとんだ思い違いです」
ルトは自らの腹部を軽く擦りながら、シガレットに向けて声を荒げる。それだけ、シガレットの言葉には腸が煮えくり返る想いなのだろう。
「アマンナは、私にとって大切な教え子です。それ以上でもそれ以下でもない。余計な事を言って、この関係を崩す位なら……私は、このままがいい」
「それで良いと、本当に思っているの?」
怒り、声を荒げるルトの言葉を静かに聞きながら、それでも無闇に言い返すわけではなく、諭すように問いかけたシガレット。
彼女の言葉を聞いて、ようやく何を言いたいのか、ルトは理解したように、息を深く吐き捨て、頷いた。
「――ええ。良いに、決まっています」
「確かに、真実っていうのが何時だって人間を救うとは限らない。時に虚構を信じ続け、最後まで事実を知らずに終わりを迎える事だって、正しいのかもしれないわ」
真偽という存在が持ち得る価値に違い等無い。どちらにも理が存在するのならば、その理においてどちらが優先されるか、それを打算的に思考する事が、本来生きる上で正しい事なのかもしれない。
「けれど……それで救われるのは、真実を知らない者だけ。真実を知る者は、死の瞬間まで苦しみ続けるわ」
「苦しくなんてありません。ある筈がありません。あの子にとっての幸せが、私の幸せ。フェストラ君もそれを理解して、その上でのあの子を妹として受け入れてくれた。その幸せが、貴女なんて死者に理解できるモノか……っ」
「……ええ、そうかもしれないわね。死者がしゃしゃり出て、そんな事を語るのはおこがましい事なのかもしれない」
でも、と。シガレットは否定を口にし続け、今ルトへと近付いて、彼女の肩を両手で掴んだ。
思わずその手を払いのけようとしてしまうルト、だが彼女の手は力強く握られて、僅かな抵抗ではビクともしない。
「そこに貴女の幸せが、本当にあるの? 真実を隠し、アマンナちゃんとの偽りに充ちた関係を続け、そして何時の日か貴女は、それを口にする事無く死んでいく。それはとっても、辛い事よ」
「……私は」
「私にとっては、みんな息子・娘みたいなものなのよ。だから貴女にも幸せになって欲しいの。幸せの容が色々とある事は知っているし、その容にこだわる必要も無いと分かってる。けれど、それでも私は貴女がアマンナちゃんの」
「それ以上言わないで……ッ!」
ルトの肩を握る、シガレットの手。それを弾く程に大きく身体を動かしたルトは、シガレットの胸を強く押し、彼女から距離を開けると、幾度も幾度も、呼吸を繰り返す。
その息を吐き出す度に――ルトは頬より涙を流す。
「……ごめんなさい。お婆ちゃん、焦っちゃったわ」
「ぅ、っ」
「でも私は、貴女が苦しんできた事を、知ってたもの。何とかしてあげたいって思って、ずっと……」
しばしの沈黙。ルトは次々に溢れる涙を拭いながら、彼女に問うた。
「……どうして、そんな……お節介ばかり……!」
「ババァ特有の病気みたいなものと言いたいけれど……ちょっと違うわね。私は結局、人殺しである自分が幸せになる事を、自分自身で許す事が出来なかった。だから、自分以外の皆が幸せになれる事を望んだのよ」
「ラウラ王の幸せも貴女は望むというのですかっ!? 私なんかに説教垂れるより、貴女の立場からラウラ王の暴挙を止める方が、よっぽど多くの人間が救われる筈じゃないッ!」
「そうかもしれないわね。けれど、私はラウラ君の幸せも、それなりに見てみたいの。あの子にとっての幸せ……あの子にとって、愛すべきレナちゃんが悲しまない世界も、ね」
苦笑したシガレットは、自分の額に手を当てると「都合のいい事を言ってるわね」と、自分を自虐する様に、頭を叩いた。
「私は貴女達の幸せも、ラウラ君の幸せも、どっちも見てみたいと思っているの。けれど、皆の願いが相反するモノであるのなら、片方のどちらかしか見る事が出来ない。でも、どちらか片方の幸せは、容に出来るでしょう?」
「……それが、貴女の願望なのですか?」
「ええ、そうよ。私の願望は、どちらに転んだとしてもある幸せの容を、最後まで見届ける事。だからこそ、貴女にも貴女にしか手の伸ばせない幸せを掴んでほしいと、そう祈っているのよ。……本当に、自分勝手だとは思うけれどね」
再び手に入れた命を用いて叶えたい願いなどたかが知れているものだと、彼女は言う。
そして事実、彼女の願望はあくまで「自分は傍観者に近い立場で誰かの幸せを見届ける」という、些細な願いだった、というわけだ。
言うべきことは、語るべき事は語った。シガレットはそう実感して息を吐きながら、ルトに背中を見せた。
無防備な背中、今ならば彼女を殺せるのではないかと考える程に、殺気も警戒も感じぬシガレットへナイフを掴もうとするも……しかし、彼女の呆気の無い願望の露見に、その感情さえも薄れてしまう。
「例え結末が……ガルファレットさんの望まない容であっても、貴女はそう言えるのですか?」
ピクリと僅かにシガレットの身体が、揺れたように感じた。
「ガルファレットさんは、貴女の騎士である事を誇りにし、貴女がかつてしていたように、未来ある子供たちの為に戦おうとしているのです。なのに主である貴女は、彼の望む未来が訪れなくとも良いというのですか?」
「……ガルファレットはもう、私と言う存在の騎士じゃない」
「いいえ。彼はまだ、貴女の騎士で在り続けています。だからこそ、貴女を止めると誓い、その誓いを果たす為に、貴女の目の前に立ち塞がるでしょう」
止めていた足を動かし、少しずつルトの下から離れていくシガレット。しかしルトは、彼女の背中に声をかけ続ける。
「貴女がもし、本当に全ての人間が持つ幸せを願うのなら、何よりまずは貴女の騎士で在り続けるガルファレットさんの幸せを、真っ先に願ってあげてください。それこそが、彼の根幹を形作った貴女の責任でしょう?」
その言葉が聞こえていたかどうかは分からない。けれど彼女の言葉から逃げるように、屋上から降りて姿を消したシガレットに……ルトはまた、下腹部を擦る。
「今日は、雨が降りそうね」
子宮の全摘出手術の古傷が痛む時は、何時も雨が降る。
彼女は僅かに曇りになりかけている空を見上げて、呟く。
「……私の幸せ、か」
ぽつぽつと降り注ぎ始める雨に打たれながら……彼女はその言葉を、幾度と口にして、反芻するのである。





