決別-02
その時の記憶は、私にもある。
――プロトワン。それは遠い昔、生まれた時の名前。
成瀬伊吹という男によって作られ、産まれながらにアシッド因子を埋め込まれた存在の一体。その総計は私も含めて三十二体。
プロトワンからプロトサーティーツーに至るまで、アシッドとしての試験体が製造され、それらがこの街へ無作為に放たれたのだ。
「地獄ってこういう光景を言うんだと思ったものだよ。覚えているよね」
「……うん」
「正直どうして、あの戦いにおいて私が生き残ったか、未だに考えている。多分、ボタンのかけ間違いみたいに、何か一つだけでも狂っていたら……生き残っていたのは私じゃなかった。ただ、私は運が良かっただけなんだ」
元々私達、成瀬伊吹に造りだ出されたアシッドという存在には自我も思考能力も無かった。だからこそこの秋音市に放たれた後、人々を襲った個体もあれば……本能的にアシッドの肉体が有している動物性たんぱく質の方が優れていると察してアシッドを襲った、私のような個体も多かった。
そして私が同種であるアシッドを襲い、喰らい、ハイ・アシッドとして覚醒する時には、同様にアシッドを喰らっていた者や、多くの人間を喰らった者達も同様に、ハイ・アシッドとして覚醒を果たしたのだ。
「皆、自我を得て、自分たちの在り方を、存在を呪っていた。それでも、皆は生きようとしていたし……私も、あの時は『このまま死んでたまるかよ』なんて思ったものだ」
だってあの時の私は「幸せじゃなかった」のだ。
ただ辛い戦いを与えられ、人間を喰う為に放牧された私たち。
喰わなくとも死なぬ存在になったとしても、食人衝動は、動物性たんぱく質を得たいと言う欲求は容赦なく、私達の心を蝕んでいく。
喰えば喰う程、もっと喰いたいと感じるようになり。
喰わなければ喰わない程、食欲が抑えきれなくなる。
私が食人衝動を抑え込めたのは、ただ芽生えた自我が要因だった。私も美味しいとは感じていたけれど、肉というものが好きじゃなかったし、どちらかというとベジタリアンに近しい趣向を持っていた。
でも、皆はそうじゃない。既に幾体ものアシッドを喰い、中にはハイ・アシッドとして覚醒した者までを喰らったからこそ、得た快感に抗えることが出来ず……同胞へと襲い掛かる。
そんな阿鼻叫喚な現実を前にして、幸せであるなどと思える筈も無い。
――私は幸せが欲しい。その為に生き残る。
そう誓い、自らへと襲い掛かる同胞たちを返り討ちにし、喰らい……そうして居たら、いつの間にか一人だった。
「今の私は違う。今の私は、それなりに幸せな日々を過ごしてる。それこそ、何時死んでもいいと思える位にはね」
「……クシャナ・アルスタッドっていう女は、違うっていうのか?」
「違うでしょ。どんな戦いが向こうで起こってるかなんてわからないし、分かる気も無い。けれど、話を聞いている限りだと、君じゃないと対抗できない連中がいて、そいつ等を倒す為に、君は戦わなきゃいけないって事なんでしょ?」
そして、私じゃ無ければ対抗できない存在なんて、一つしかない。
「戦いなんてもので本当の幸せが得られる筈がない。何せ戦いなんていうのは、他者の幸せを奪う行為だからね」
私がかつて、同胞のアシッド達を喰らった時のように、彼らも彼らで意思があって、願いがあって、求めた未来が……幸せがあった筈だ。
でも私は、彼らを喰らい、生き残る事で、私なりの幸せを掴める土壌を手にした。
そう……土壌を手にしただけで、戦いにおいて幸せを見つける事なんてのは出来なかった。
あくまで、心を傷つけただけで、戦いは終わったのだ。
「クシャナ・アルスタッドちゃん。今の君にとって、心から欲する幸せって何だい?」
僅かに年を取り、十七年間もの時間を赤松玲として生き続けた彼女が、新たな命に魂と特異性を授けられ、クシャナ・アルスタッドとして人生を生き直した私の頬に手を伸ばし、触れた。
「それがもし、この世界で果たせる幸せなんだとしたら、向こうの世界で戦う必要なんてないじゃないか。……無理に戦って、傷ついて、他者の幸せを奪う必要だってない」
――ラウラ王にも問われた事だ。
私にとって、幸せって何だろう。
目の前にいる私と、この私は、同じ人間の筈だ。ただ身体が違って、十七年間の生き方が異なるだけで、中身は同じ人間なのに……どうして彼女と私は、同じ分だけの幸せを謳歌出来ていないのか。
「……自分の幸せさえ理解できていない子が、無理に戦う必要なんてない。私は、そんな戦いを認める事なんて出来ないよ」
ため息交じりにそう言葉を吐き捨てた玲は、左手の手首に付けていた腕時計に目を向けて「おっ」と声をあげた。
「丁度いいや。クシャナちゃん、良かったらちょっと付き合わないかい?」
「付き合うって、どこに?」
「うーん、内緒にしておいた方が面白そうかな。とはいえ、君が覚えているかは微妙だけどね」
キャトル診療所にあった時計を見ると、時刻は深夜を回り、既に日付も変わっている。こんな時間にどこかへと出向くと言えば、昔の私なら自殺を敢行する時間帯だったけど……。
「じゃあキャトル。今日はこれで失礼するよ」
「ええ。貴方向きのお仕事もありますので、お金に不自由があればお声かけ下さいな」
「それは当分必要無さそうかな。私、もう総資産二億超えたし」
キャトル診療所の診察室をさっさと出ていく玲。私も訝しみながらそれに続こうとするけれど。
「クシャナさん」
「……何さ、キャトル」
「玲さんはあれで、貴女を導こうとしているんです。口が上手いようで、自分の事とか人の為とか、そういう事になるとすぐに、口下手になっちゃう方なんです」
「……知ってるよ。そんな自分自身に、導かれる事なんて、無い」
「いいえ。彼女は貴女じゃありませんし、貴女もまた、彼女じゃありません。……貴女は、貴女でしかないんですよ」
またいらして下さいね、と。
優し気な微笑みと共に手を振るキャトルに、私も懐かしさを覚えて、つい笑いながら手を振ってしまう。
私の事を廊下で待っていた玲の僅か後ろを歩いていき、キャトル診療所を出てから、今一度駅の方へと向かっていく。
「何処に行くのさ」
「いいからついてきなって。君が知らない場所じゃない事は確かだからさ」
薄暗い夜道、しかし駅の方へと行くと人通りも街灯も多くなり、辺りの光景も見やすくなった。
けれど駅のホームを抜けて秋音駅南口の方へと出ると、彼女は人通りや街灯の少ない、清納通一丁目方面へと向かっていく。
清納通一丁目で目を引く場所は、所謂駅から少し離れた場所に存在するホテルや風俗店が多く経営されている地域だ。昔から治安はよろしくない場所で、通称【精の通り】なんて呼ばれている場所でもある。
未成年者だろうが熟女だろうが、ここで歩く女性は売女と見なされ、声をかけられる事となる。
現に今、ホテル街の道を歩く私と玲は、金を払って女を抱きたいと言う卑下た目的を持っている男に声をかけられそうになりながらも、人の流れを利用して上手く掻い潜っている。
「……こんな所、私はあんまり来た事ないよ。私が男嫌いだってのは、貴女も知ってるでしょ?」
「趣味趣向は変わっていないようだね。私も同様に、男に抱かれる位だったら女の子を抱く位に男は嫌いだけれど、ここは駅前から目的の場所に行く為に一番の近道だからね。遠回りしてると、彼女が帰っちゃうかもだから」
「彼女……?」
首を傾げながらも彼女についていくと、精の通りを越えて清納通二丁目へと移る。ホテル街も抜け、どちらかというと「ホテル街方面に住む人間が暮らす住宅街」という様相の、安いマンションやアパートが立ち並ぶ地域に来た。
「……この辺も、結構様子が変わってるね」
「そうだね。精の通りで違法風俗経営してる連中に対する一斉検挙が数年前にあって、若干治安の回復が見込まれたから、この辺も地価を上げる為に自治体が躍起になって開発を進めてるんだよ」
この辺りは幾度か来た事があるけれど、私が生きていた頃にはなかった場所に高層マンションが出来上がっていたり、昔アパートのあった場所が更地になっていたりと、それなりに時間的な変化があると感じさせる。
と、そんな風に周りを見渡していた時に、玲が足を止めて、とあるマンションを見据えたのだ。
「ここだよ、ここ。どこか分かる?」
「……えっと」
「ふふ、そうだよね。実はここもマンションのリフォームが行われちゃったからさ、外観が変わってるんだよねぇ」
分からないならいいや、と言いながらマンションの裏手に回り、鍵のかかっていない裏扉を開けて、マンション内へ。
そしてマンションのエレベーターに乗り込み、そのまま最上階十階のフロアに降りたと思ったら、エレベーター傍にある階段を使って、屋上まで向かっていく。
屋上の扉を開き、地上との高低差故に感じる風を受けながら、私がなびく髪の毛を抑えながら、前を向くと。
「赤松玲さん……ですか?」
赤松玲に向けて、スーツ姿の女性が声をあげた。
女性は栗色の髪の毛を肩程まで伸ばしたボブカット。歳はおよそ、二十後半から三十代と言った所か、決して中年というわけではないだろうけれど、十七歳の私よりは年上であると断言できる。
「最近、この屋上で私を探してる、稀有な女性がいると聞いていたよ。おかげで全然自殺も出来ずに困っていたんだからね。今日は、沢山お話をしようじゃないか」
玲もクスクスと笑いながら女性を目を合わせると、彼女にペコリとお辞儀をした。
頭を下げたのは、挨拶という意味合いだけではない。
先客だった女性に対し、その頭部を見せる為だ。
女性は玲の頭に触れると、その髪の毛をかき分けるようにして頭部をしっかりと見据え、その上で息を吐いた。
「あの時の傷、無いんですね」
「そりゃ無いよ。私はそういう人間だからね。でも、あの時君が落ちてたら、こんな風に治る事なく、人生が終わっていたんだよ」
「本当に、不思議です。あの時の事は、今でも夢だったんじゃないか、そう思っていたのに……こうして目の前に、また貴女がいる。触れる。生きて……こうして」
言葉を漏らすごとに、ボロボロと涙を溢す女性。
その女性の声や姿、そして涙を流す表情に、どこか見覚えがあった私だけれど、そんな女性は玲と共にここへ来た私に、視線を寄越す。
「……娘さん、ですか?」
「何でみんな娘っていうかな。彼女は……遠い親戚、みたいな感じ。クシャナ・アルスタッドちゃんっていうんだ」
「そうだったんですね。初めまして、クシャナさん。
――私は、篠田綾子。ここで昔、赤松玲さんに命を救って貰った者です」





