幸せの容-04
帝国の夜明けアジトとして設けられた建物。その小さな窓が複数取り付けられた広々とした部屋の一つが、シックス・ブラッドと帝国の夜明けに属する女性陣が寝泊まりする為の部屋である。
今、その部屋にいる人員は三人。アスハ・ラインヘンバーとファナ・アルスタッド、そしてヴァルキュリア・ファ・リスタバリオスだ。
アスハは部屋の壁に背を付け、座りながら意識を閉ざしているように思えるし、ヴァルキュリアはファナの横たわるベッドと隣接したベッドで静かに寝息を立てているが、その傍らにグラスパーが置かれている所を見ると、警護という役割を何時でも果たす事が出来るようにという考えがあるのだろう。
ファナは、ヴァルキュリアが寝静まった事を確認すると、そっと身体を起こして、音を立てずに立ち上がる。
「……ファナ殿」
「ファナ・アルスタッド」
しかし、そんな小手先の行動が、歴戦の猛者たちに通じる筈がない。ベッドから離れようとした段階でヴァルキュリアもアスハも同時に声を上げ、ファナは「にょあっ」と奇声を上げざるを得なかった。
「び、ビックリしたぁ……っ」
「拙僧はファナ殿の奇声に驚いたのであるが……」
「何処に行くつもりだった? 手洗いの場合は私かヴァルキュリアを起こしてから行けと伝えていた筈だが」
「え、えっと、……」
薄暗い中でも、二者が視線を自分に向けているという事を感じ取れたファナは、視線を僅かに外そうという無駄な努力をするも、しかし二者がその程度で誤魔化される筈もない。
「……その、やっぱりお姉ちゃんが、心配で」
「一人で帝国城へ出向くつもりであった、と?」
「だ、だってアタシなら、お父さんに殺されないんでしょ? だったらアタシだけでも先に中の様子を見て、皆が危険じゃない所を調べるとか、そういう事も出来るじゃないですか」
ファナ達は、クシャナ救出に関する情報を何一つとして与えられぬまま、休息を命じられて、今こうして眠りに就いている。
しかし、ファナとしてはたった一人の姉として、この十五年間共に過ごしてきたクシャナが、今日初めて顔を合わせたばかりのラウラに捕らわれているのだ。
なのに、呑気に身体を休めるわけにはいかないと、そう真っすぐな気持ちを二人へと声にする。
「……ファナ・アルスタッド、来い」
「え」
不意に立ち上がったアスハが、ファナの手を引いて女性用に割り当てられた部屋のドアを開け、そのまま外へと繋がる廊下を進んでいく。
ファナは良く知らないアスハに引き連れられながら、しかし何処に行くかも定かではない今の状況を怖がりながら、ただ彼女に従うしかない現状に冷や汗を流す。
外へと出て、木々の多い周囲から反響する虫の鳴き声が多く聞こえる。それ以外に何の音も聞こえないのは、これまでファナが経験した事のない夜であり、恐る恐る周囲を見渡すと、今にも何かが出てきそうな感覚を覚え、委縮するしかない。
「えっと、あの、アタシ、どこへ連れてかれるんでしゅか……?」
思わず噛んでしまったが、しかしアスハは気にする事無く周囲の位置情報を探る様に沈黙し、数秒後に「こっちだ」と、森の中へと進んでいった。
ファナがチラリと後ろを見ると、後方からグラスパーを構えた状態でヴァルキュリアが追いかけてきている様子が見受けられる。
協力関係にあるシックス・ブラッドと帝国の夜明けだが、アスハがファナを危険に晒す可能性があるという考えもあるのだろうが、単純に彼女の護衛を果たす為に追いかけてきているという面もある。
と、そんな中でふと、ファナは遠くから僅かに湿った空気を感じ取った。それと同時に、水の流れるような音が耳に入り、アスハが進む先の方を見据える。
僅かに、輝きがチラつくように映っている。少しだけ恐怖の気持ちが収まると、ファナは辿り着いた先の場所を見て「わぁ……っ」と歓喜の声を挙げた。
辿り着いた先には三段に構成された崖が印象強い小さな滝と、その滝から穏やかに流れる水流が造り出した、半径三キロ程度の小さな湖があった。
ザァア――と流れる心地良い水音、そして月明かりを反射して綺麗に輝く崖の苔や水面が、ファナの心を惹き付けたと言ってもいいだろう。
「小さく勢いも穏やかな滝と湖だが、水浴びには丁度いい場所だ」
僅かに布が擦れる音と共に、アスハが身にまとっていた衣服を脱ぎ乱雑に放置した後、水辺に近付いて、そのまま全身を湖に浸からせた後、バシャリと水滴をまき散らしながら、顔を上げた。
彼女の美しい銀髪が月明かりと水の滴りによって魅惑的に映るし……ファナは健康的に育っている、彼女の肢体に思わず目を向けてしまう。
「……ふぅ」
息を止めていた彼女が、取り忘れていた髪の毛を束ねていたヘアゴムを外しながら、髪の毛の汚れを落とすように、手ですくい上げた水をかけていく。
そんな彼女に、ファナの隣に立ったヴァルキュリアが問うた。
「アスハ殿は、確か全身の感覚が無いのであろう?」
「ああ」
「それでも水浴びが好きなのであるか?」
「好き、という程でもない。だがまぁ、確かに冷たい、温かい等の感覚は分からんし、自分が水に浸かっている感覚も無いが、しかし嗅覚はあるのでな。自分の身体が匂うのはあまり好ましくない」
脱ぎ捨てた衣服から小さな布巾のような物を取り出し、水に浸した後に水気を僅かに絞ると、彼女は自分の身体を布巾で拭いていく。
「お前達も浴びると良い。特にファナ・アルスタッドは、一度水浴びで心を落ち着けておけ」
「……そうであるな。ファナ殿、共に参ろうではないか」
「へ、へァ!?」
ファナは、アスハの誘いを受け入れてヴァルキュリアが脱いでいく光景に視線を全て奪われていたが、しかし水浴びしながら手招きをする二人の美女による誘いを無下に出来ず、生唾を飲み込みながら意を決して服を脱ぎ、身体を隠しながら湖に足を浸けた。
僅かに冷たい水温に、少しだけ身体が竦むような感覚。しかし水温と気温の差がそほどないものだから、すぐに身体が水温に馴染んで、ファナはそのまま胸元まで身体を浸からせる。
「私には分からん感覚だが、普通の人間は水浴びや湯浴びをする事によって、意識の切り替えを行う事もあると聞いた。それに、冷たい水は頭を冴えさせるともな」
「そ、それでアタシをここに……?」
「ああ。あまりアジトから離れるのは好ましくないが、このまま放置してはお前が何時また抜け出そうとするかも分からん。私とヴァルキュリアで護衛できる状況においてならば、構わないだろう」
「拙僧は熱い風呂が良かったが、たまには水風呂というのも悪くはない」
アスハとヴァルキュリアに挟まれながら、僅かにデコボコとしている水底に足を付けるファナは、未だに姉の救出に向かいたいという気持ちは勿論あるが……しかし、頭を冴えさせて、思考する事は確かに出来ているのかもしれない。
「……その、ごめんなさい」
「何に対しての謝罪だ」
「アタシ、焦っちゃってて……でも、お姉ちゃんの事が本気で心配で、少しでも早く、お姉ちゃんを助け出したいだけなのっ!」
「その気持ちは理解できる。しかし、ファナ・アルスタッドまでが敵に捕らえられてしまうと、こちらとしてはより窮地に追い込まれる事は、理解しておけ」
しかしアスハとしても自分の不手際でクシャナが捕らわれの身になってしまった事に対する、責任を感じている事も事実だ。
だからこそ、ファナの頭を慣れない手つきで撫で、ファナの両側面に結ばれるシュシュを外しながら、彼女の髪を降ろした。
「そら、髪は女の命というだろう。濯いでやるから、大人しくしていろ」
「あ、ごめんなさい」
「なに、ちょっとした罪滅ぼしだ。……とはいえ、人の髪を洗うなどした事がないのでな、髪を引きちぎらないように気を付けるが、もしそうなった場合はすまないとだけ先に言っておこう」
「それは止めて!?」
要らぬ言葉を付け足された事で、戦々恐々と言った様子のファナだったが、しかしアスハは優しい手つきで彼女の髪の毛に湖水をかけ、その汚れを落とすように濯いでいく。
「……ふふっ」
そんな光景を見ていたヴァルキュリアの口から思わず零れた笑みに、アスハが首を傾げる。
「いや、申し訳ない。ファナ殿とアスハ殿のやり取りが、どこか微笑ましくてな」
「微笑ましい? ただ罪滅ぼしとして髪を洗ってやる行為が?」
「少なくともそうして触れ合っている姿は、拙僧にとって好ましい光景である」
本来、ファナとアスハという二人の関係は、シックス・ブラッドと帝国の夜明けという二つの敵対組織に属する人間同士である、というもの以上の部分がある。
事実、アスハは一度はファナの事を殺す為に行動し、その身は凶刃によって貫かれた事がある。
しかし今の二者はそうじゃない。
ファナにはクシャナという姉がいるが……クシャナとファナのやり取りとはまた違う姉妹にも似たやり取りは、傍から見ていると微笑ましく思えたのだ。
「アスハ殿は以前までの印象として、堅苦しい軍人気質と思っていた。しかし、実際にはこうした気分転換を提案できるし、逸るファナ殿を無理矢理抑え付けようとせぬ所は、素直に尊敬できるのだ」
「……そう褒められるような事をしてもいないし、堅苦しい軍人気質である事は変わりない。一般常識が欠如している中、伝え聞いた事を何とか捻り出し、出来るのがこの程度だっただけの事」
アスハとしても、ファナの逸る気持ちを落ち着かせる為だけならば、もっと他に出来る事があるのではないかと悩んでいた。
言葉で諭す事も出来ただろう。もっと他に気分転換の方法などあっただろう。
だが、それを見つける事が出来なかった。だからこうして近い水場へと案内し、水浴びを提案する事位しか出来なかった。





