自らという存在-08
アスハ・ラインヘンバーが目を醒ました時、彼女は脳が揺れる感覚と共に身体を持ち上げ、その自分が横たわっていた場所が柔らかなマットレスの上である事を理解できないでいる。
目覚めると同時に周辺探知魔術の稼働が開始され、自分を起点としてどこに何があるか、その判別が行えるようになってようやく、彼女は自分が気絶していて、どこかへと連れていかれたのだという理解を果たし――そこでミハエル・フォルテという人物の固有能力により、聴力が封じられていた事を思い出す。
まさか、今も聴力は失ったままなのだろうか――そう心の中で思った時に、彼女の考えを否定するかのように、鼓膜を通って脳に響く声が聞こえた。
「アスハ、無事かい?」
コンコンとノックするような音と共に、男の声が聞こえる。彼の声を聴き違える筈がないと言わんばかりに、アスハは混乱した頭でもすぐに「はい」と、反射的に受け答えを行った。
「……メリー様、ですか?」
「ああ。ここがどこか、分かるかい?」
「いえ、予想は立てられますが――」
「普段君は、船か広間にいるからね。ここは何時ものアジトにある一室さ。今後はシックス・ブラッドの女性陣が使うように割り当てた」
何時ものアジト――帝国の夜明け主要メンバーであるメリーとドナリア、アスハの三人が会合を行う際に用いられる、シュメルの防壁に設けられた隠し扉から出たすぐ先の森林区画に建てられた小屋の事を、総称してアジトと呼んでいる。他にもアジト用に用いられる場所はグロリア帝国中に存在するが、しかしここが最近では一番よく用いられている。
メリーの言うように、普段からアスハはアジトの広間にいるか、転移魔術を用いて地球へと赴き、各地を転々としているメリーの所有する貨物船の一室にいる事から、アジトにある別の部屋へと来ることは一度も無かったのだ。
「申し訳ありません。少し、情報が錯綜しておりまして――何が起こっているのか」
「それは私が聞きたい所ではあるのだがね。ある程度察せられるが、何があったのかを思い出してくれないかい?」
メリーが自分の眼前に、何かを差し出した事を察したアスハは手を伸ばし、恐る恐る出されたものに触れる。僅かに触れた際のカツンという乾いた音と、中に入っている水のチャプッと雫の零れるような音が聞こえた事で、コップに注がれた水を差し出されたのだろう事は理解できたので、礼を口にしながら、それを飲み干す。
冷たい水の感覚によって多くの人間は起きたばかりの身体を覚醒させるのかもしれないが、アスハにはそうした感覚が無く、ただの水分補給という意味合いでしかなかったが、そうした動作をする事で、冷静さは取り戻せたのかもしれない。
「クシャナ・アルスタッドと共に、アシッド・ギア製造所の破壊とアシッド・ギアの回収を、行っていたのですが……そこで、ミハエル・フォルテを名乗る男と、交戦し……」
「ミハエル・フォルテ――第七次侵略戦争時に、シガレット様の帝国騎士を務められていた英雄か。つまり彼もシガレット様同様、ラウラ王によって蘇らされた人物という事か」
「はい。彼は、ハイ・アシッドとしての覚醒へ至っており……恐らく、奴の固有能力であると、思われるのですが……私の、耳が、聞こえなく、なって……っ」
思い出すだけでも、ミハエルの固有能力である【聴覚断絶】によって何も聞こえなくなる感覚が、途方も無く恐ろしいモノであったと身体が震えるようになる。
荒れる息と共に、今飲み干したばかりの水を吐き出してしまいたくなる程の衝動に駆られ、アスハが思わず胸を押さえようとした時……メリーが、アスハの身体を抱き寄せる。
「大丈夫だ、アスハ」
「あ……」
抱き寄せられる事が、彼女にとっての救いではなかった。
メリーが彼女の耳元に口を近づけ、その声を届けた事こそが、本当の救いだ。
そうして抱き寄せる事で声を伝える事で、アスハはようやく「大丈夫だ」という言葉の真意を理解できる。
「落ち着いたかい?」
「……失礼、しました。メリー様」
「いいや。失礼なんて事はない。君は美しい女性だからね。こうして抱き寄せる事が出来るのは、私にとっても嬉しい事さ」
その言葉を聞いて、アスハは――山口明日葉として生きた長い年月の事を思い出す。
山口明日葉として生まれた彼女が、やがて遠藤怜雄として産まれたメリーや、成田正吾として生まれたドナリアと出会い、そして見つけて貰った時の事を。
あの時の事が無ければ――アスハはずっと、一人ぼっちのままであったのかもしれない。
「どうやら、ミハエル・フォルテを名乗る者の能力は、私や君の持つ固有能力のように、未完成であるようだ」
「未完成?」
「ああ。私や君の有する養殖のアシッド因子では、アシッドの固有能力を完全な形で引き出していないみたいでね。事実【聴覚断絶】とも言うべき能力は、君に対しては非常に有効だが、それ以外の……例えば私やドナリアに対しては、大きく有効にはなり得ない能力だし、今の君にも付与が解除されている」
ハイ・アシッドとしての能力には、幾つか種類がある。
ドナリアの有する【裂傷能力】のように、自分の戦闘能力が底上げされる自己完遂型。
メリーの有する【情報置換】やクシャナの有する【幻惑能力】、そしてミハエルの有する【聴覚断絶】等の、他者の意識や神経系に介入する他者介入型。
そして、アスハの有する固有能力もまた他者介入型の【支配能力】であるが……しかし、アスハやメリー、ミハエルの有する能力はまだ未完成であり、所々に能力の穴が存在する。
ミハエルの固有能力である【聴覚断絶】にも能力の穴があり、今こうしてアスハの聴覚が正常に動作している所を見ると、常に付与し続ける事は出来ないらしい。
「そして、それを完全な形に昇華させる為には――どうにもこの新型アシッド・ギアの力が必要のようでね」
メリーがポケットから取り出し、差し出すギアは、アスハ達がこれまで使用してきたアシッド・ギアと、何も変わらない形に思える。
しかし、確かにこれまでのアシッド・ギアとは異なる何か異形な感覚……アスハには触覚はないが、しかし触覚を越えて何か強い感覚として脳を揺さぶるような気配は、恐ろしいモノにも思える。
「ドナリアはこの力を使って固有能力を完全なる形として昇華させたが……どうにも私は、恐ろしくてコレが使えない」
「恐ろしい……?」
「この力を授けてくれたのは、レアルタ皇国第二皇女であるカルファス・ヴ・リ・レアルタだ。彼女はこの力を我々に授け、何かを企んでいる可能性もある。……結果としてこの新型ギアは、ドナリアの事を実験台にするかのように、彼だけに使用させたまま、こうして懐で眠らせていた」
カルファス・ヴ・リ・レアルタ第二皇女は、第七世代魔術回路を有する特異な人間としてこの世に君臨し、それと同時にレアルタ皇国に仇成す存在を容赦なく排除する傾向にある人間……と、彼らは情報として有している。
そんな彼女が【帝国の夜明け】という組織へ与える新型アシッド・ギアに、何か裏があるのではないか。
何か副作用のようなモノがあって、それにより破滅へと誘われるのではないか。
そうメリーは懸念しているのだろうか?
「いや、違う。そうじゃない。確かにカルファス姫は恐ろしい。彼女の与えてくれたこの力に、何か裏があるんじゃないか、ともね。けれどそうじゃなくて……私は【死ねない】という事実が、酷く恐ろしい」
新型アシッド・ギアを用いて、クシャナやドナリアと同じ存在にまで昇華されたら、彼らは間違いなく強大な力を手にし、ラウラとも対等に戦える力を手にするかもしれない。
だが――そうなった時、メリーは自ら死を選ぶ事が出来ぬ存在となる。
文字通り、死ねない存在に。
「私は本来、君やドナリアを指揮する者に相応しくなかったのかもしれない。この国を変革させようと、志を掲げるに相応しくなかったのかもしれない。……結局私は怖がってばかりいて、何時も大事な所で、決断を下せない、弱い男だ……!」
自らの至らなさを嘆くメリーの言葉が聞こえる。
その表情は見えない。彼が涙を流しているのかも、分かる術は無い。
けれどアスハには、メリーが傷つき、嘆いている事は理解できたからこそ……彼の手に触れ、擦る。
それが何を意味するか、アスハにも上手く理解は出来ないけれど……普通の人間はこうされると、他者との繋がりや温かさを理解し、落ち着くのだという。
「メリー様は、弱く等ありません」
「……そう、思ってくれるかい?」
「はい。私は、メリー様に心を救われたのです。……山口明日葉として生まれ変わった私を見つけ出してくれて、共に生きる事を望んでくれた。そして、この世界に戻った後も、私の成したいと願った事を……普通の人生を送りたいという私の願いを叶えようとしてくれた。だからこそ……私は、メリー様に従うと心に決めたのです」
アスハの人生を変える為に動いてくれた者は、これまで二人いた。
一人は祖父。そしてもう一人はメリーだった。
アスハは普通である事を望めない少女だ。けれど普通を望めないからと他者の言葉に付き従うだけで、何もしようとしなかった彼女に「普通である事」の素晴らしさを説いてくれたのは、祖父だった。
祖父の教えを理解し、普通である事を願ったアスハだが、しかしどうすればいいのかもわからずにいた彼女を、彼女の望む方向へと手を差し伸べてくれたのは、メリーだった。
「メリー様が、この力を使う必要はありません。いずれ時が来て、私が必要だと認識した時……私はメリー様を守る為に、この力を使います。それが――私の存在理由です」
その手に握る新型ギア。アスハの願いを聞いて、メリーがどんな表情をしたかは分からない。
けれど、しばしの沈黙があって、その沈黙が彼の葛藤を意味していたのだろう事は、理解できた。
「……アスハ、ありがとう」
「お礼を言われるような事は何もしておりません。私は、ミスをしてばかりです。ドナリアの事をバカに出来ません」
「いいや。ドナリアも君も、私にとっては大切な同志……いや、友達だ。だからこそ、私は君達を未来へと導かないといけない」





