王たる者-09
アマンナは顔にかかる髪の毛を僅かに逆立てながら、時間停止の魔眼を発動できないか試すように、眼球へマナを投じた。
しかし時間停止の魔眼は上手く作用せず、一秒ほど周囲の流れが止まったように感じた瞬間、全身にドッと押し寄せる強烈な疲労感によって、時が止まった一秒よりも長い、三秒ほどその場で停滞を余儀なくされた。
逃げた先はまず、聖ファスト学院の剣術学部校舎内。早急に聖ファスト学院外へと逃げたかったというのが本音ではあるが、先日エンドラスから逃げる時と、ガルファレットの視界から外れる際に時間停止の魔眼を酷使し過ぎたが故に、身体が思ったように動かず上手く走れなかった事が原因で、ここに逃げるしかなかったと言う理由がある。
校舎内を進み、階段を昇って自分の所属する六学年教室へと逃げたのは、時間を稼ぐという意味でもそうだが、もしエンドラスが追いかけて来た際に迎撃できるよう、事前準備の整ったこの教室が有力だと判断したが故だ。
「はっ……ぁ、」
頭が痛いと感じ、こめかみを押さえる。疲労した状態で時間停止の魔眼を用いた反動が今更訪れ、血流の流れが非常に悪くなっている。下手をすれば魔術回路の一部も焼き切れている可能性も鑑みなければならず、となればより、以前隠していた『コレ』が重要になるだろうと、教室の隅にある荷物置き場に手を伸ばし、一つの黒い正方形型のモノを取り出した。
そこで、無人である筈の聖ファスト学院廊下を歩く音が、少しずつ近付いてくる音が聞こえた。
コツ、コツ、と一定のリズムで近付く足音。ゴクリと息を飲みながら、アマンナは荒れた息を止め、手に握る黒いキューブを強く握った。
足音が、教室の前で立ち止まる。
ゆっくりと開かれた扉、現れたのは、僅かに表情を血で塗れさせた男性で……見た所、男は大きく負傷しているようには思えない。
「……もしかして……ヴァルキュリアさまを……?」
「殺してはいない。あれでも娘だ、情はそれなりにあると自覚している」
男――エンドラス・リスタバリオスの言葉に、思わずアマンナは鼻から息を吹き出して、彼の首を傾げさせた。
「何か、おかしな事を言ったかな?」
「……いえ。お話しに、聞いていたより……人間的な、方なのだな、と思いまして……」
「そこまで非人間であるつもりもなかったが……周りにはそう思われても致し方ない生き方をしたと、私自身も思っているよ」
始末すると公言していた相手との語らい、本来であればおかしな事かもしれないが、そもそもエンドラスはアマンナに直接的な殺意は持たず、あくまで彼女を警戒したラウラの命であるからして、こうして出向いている。逃げられない状況に彼女を落とし込めているのならば、そうして話す事も良いと判断したのだろう。
だが、それは一時だけ。すぐに彼はグラスパーの刃を抜き放った後に、その切先をアマンナへと向けた。
「ヴァルキュリアはしばらく起きん。となれば君を助けに来られる人材などもういない筈だ。諦める事だね」
「……そもそも、わたしは逃げる気など……ありません」
「ほう。ではその手に握る、小賢しい兵装システムは何かな?」
彼の言葉と共に、アマンナは小さく「ゴルタナ、起動」と口にし、エンドラスは彼女の首を刎ねる為に足を強く踏み込み、剣を振るったが、しかし寸前、アマンナの右腕に展開された漆黒の装甲がグラスパーを弾いた。
アマンナの全身に展開されるのは、レアルタ皇国が誇る外部装甲システム・ゴルタナ。その黒に包まれたゴツゴツとした印象の強い鎧とは対照的に、身にまとったアマンナ当人は身体が羽のように軽く感じる感覚を覚え、グラスパーの刃を弾かれて僅かに姿勢を崩したエンドラスの腹部に向けて、強く拳を振るった。
ねじ込むように回転を加えて叩きつけられた拳が直撃し、教室の壁を破りながら殴り飛ばされるエンドラス。アマンナは修繕が終わったばかりの聖ファスト学院がまた破壊されていく様子に「ごめんなさい」とだけ言葉を残しつつ、これだけ壊したのだからと、ガラス片をまき散らしながら外へと飛び降りた。
落下する寸前に、操作魔術を駆使して衝撃を緩和させたアマンナ。しかしそれでもグラウンドに転がって僅かな痛みを覚えた彼女は、ゴルタナを展開したまま聖ファスト学院の外へ逃げ、人込みに紛れてしまおうと画策するが――そこでゾワリと殺気に見舞われる。
殺気の正体に気付く事は出来た。出来たが、その時には既に遅かった。
何故なら――殺気の正体は、音速を越えてアマンナへと飛来するグラスパーの刃。
リスタバリオス・参の型【グレイリン・グロー】によって射出された刃の先端が、ゴルタナを装着しているアマンナの背中を目掛けて一直線に伸び、その背中を強打したのだ。
あまりの衝撃に、アマンナはグラウンドを転がりながら自分の身体が無事であるか否かを確認するが、それは問題が無い。
ゴルタナはそもそも、受けるダメージを最小限に留めるシステムで、もしゴルタナでも受け切る事が出来ないダメージを受けても、展開を解除する事で衝撃を拡散させる機能がある。
グラウンドの仰向けで倒れているアマンナの目の前に、展開前と同様のキューブ状に形成されたゴルタナが転がった。つまり、殆どのダメージをゴルタナが吸収してくれた、という事だ。
「が、ぐ……ッ!」
だが、ゴルタナが拡散しきれなかった、一部の衝撃はアマンナの全身を痛めつけ、彼女は口から血を吐き出した。
「展開も早く、またダメージも大きかった。それにグレイリン・グローの一打にも貫けぬとは――レアルタ皇国のゴルタナ。なるほど、気に食わんが確かに優秀だな」
しかし、エンドラスも同様に、先ほどゴルタナを展開した状態のアマンナに殴られた腹部を押さえながら強く咳込み、血を含んだ唾をグラウンドに吐き捨てる。
「今度こそ、本当におしまいだ」
グレイリン・グローによって射出された刃がグラスパーに収まり、その刃を振り上げたエンドラス。
その刃が一直線に振り下ろされれば、アマンナの首と胴体は別たれ、二度と起き上がる事は無い。
――せめて、自分の歩む道を定めたかった。
心の底から湧き上がる後悔に、アマンナは抵抗する気概さえ奮い立たせる事が出来ず、ただ大人しく目を閉じた。
そうして目を閉じてくれた彼女に、せめてこれ以上の苦痛を与えないように――エンドラスは刃を振り下ろした。
しかし、そこで彼が斬った者は、アマンナではない。
エンドラスと同様の体格をした男性、屈強な体つきではあるが、その身体から漂う煙草の香りは、エンドラスにとっても嗅ぎ慣れた、友の匂い。
アマンナとエンドラスの間に割って入った男は、その振り下ろされるグラスパーの刃を左肩で受けると、肩の骨を斬り裂きながら自分の胸部付近まで斬り込まれた刃を抑え込むように、右手でエンドラスの腕を掴み、口から溢れる血を意に介する事なく、ニヤリと笑うのである。
その笑みを見た事は一度もない。しかし、男の表情は、エンドラスが一時は毎日と言ってもいい程に見た顔でもある。
「……ドナリア?」
「よぉ、エンドラス。また会えて嬉しいぜ……!」
エンドラスのグラスパーを握る右腕、その手首を強く握り潰す事で、苦痛に歪む彼の顔面に向けて、男……ドナリア・ファスト・グロリアは額を強く振り抜く事で叩きつけ、地面に背中から倒れるエンドラスが放棄せざるを得なかった、グラスパーを引き抜いた。
刃を引き抜いた瞬間、ジュゥウ――と音を奏でながら吹き出す血が蒸発していき、傷口が猛スピードで回復していく。
その回復スピードは、これまでの彼らとも違うように思えて……アマンナがアングリと口を開ける。
もう少しで肩が斬り落とされる筈だった傷を、ものの十数秒で再生を終わらせたドナリアが、グルングルンと肩を回しながら「こりゃいい」と口にした。
「再生にかかる時間も段違いに早い、加えて出せるパワーもな。クシャナ・アルスタッドはこんな素晴らしい力を出せないようにしてるのかよ。やはり、アイツは好かねぇな」
「……どういう事だ、ドナリア。何故君が、アマンナ君を守ろうとする?」
僅かに痛みを訴えているエンドラスが立ち上がりながら、ドナリアへと視線を向ける。ドナリアはドナリアで、本来彼が握っている筈のグラスパーを強く握り締めながら「どういうもこういうもねェな」と、弁明する気も無いのかアッサリと言い放つ。
「別に、アマンナを守るつもりはなかった。メリーから『君は自由に動けば良い。今後の事も気にせずにね』と命じられた。だから――お前の真意を聞きに来たんだよ」
「……真意だと?」
「ああ。俺は少なくとも、お前と盃を交わした間柄だと思っていた。俺達【帝国の夜明け】と、何時かは共に行動してくれる男だともな。……しかし結果として、お前は兄貴の側に就いた」
友として【汎用兵士育成計画】を立ち上げた彼の言葉に、想いに、どれだけ共感し、どれだけ信用していたか、ドナリアは言葉にする事も難しいと考えていた。
それだけ彼を信仰し、その末に――ドナリアは裏切られたのである。
けれど、それでもドナリアはエンドラスを恨む気にはなれなかった。
「今でも、イマイチ信じられねぇ。お前が俺に向けて剣を振るった事、俺の首を落とした事。そうする理由を聞きたいと思った」
何か理由があるのだと、友として過ごし、笑い合った日々を思い出し、蝕まれる気持ちを払う為に、こうして目と目を合わせて、殴り合う事も厭わぬ気概で、ここへ訪れた……というわけだ。
「今日は互いに納得できるまで、喧嘩としゃれ込もうじゃねぇか。こんな小娘の事は放っとけ」
「そうはいかん。アマンナ君を殺すように、君の兄君から命令を受けたのだ。……そこを退け」
「退かねぇよ。もし退かしてぇなら、実力で何とかしてみろ」





