ヴァルキュリア・ファ・リスタバリオスという女-01
それは、ヴァルキュリアがアシッドと言う怪物に襲われた日の、翌日朝の事である。
グロリア帝国首都・シュメルの住宅区画には、大きく分けて二つのエリアがあると言っても良い。
一つは過去、農耕地区として使用されていた開けた土地に建てられた木材を中心の家宅が所狭しと乱築する低所得者層地区。
広い土地がある代わりに街から離れていて、首都としては面積の小さいシュメルの中心に向かうには、それなりの距離がある。一番遠い場所からでは、同じ市内でも二時間は歩かなければならない場所も存在し、中心部から距離が離れれば離れる程、地価も安い事が特徴だ。
もう一つは、シュメルの商業区画とグロリア帝国城に近いエリアに、上流階級の者が住まう場所がある。低所得者層地区の家宅とは違い、人が住まうに最適な家宅環境が整えられた家が多く、高所得者層地区と呼ばれる。
さらにその中でも一部の限られた者達のみに居住許可が出される、特権階級居住地区という非公式の名称をした土地がある。
ヴァルキュリア・ファ・リスタバリオスは、その特権階級居住地区に建てられる家宅の中では珍しい、木造建築によって建てられた、長屋に住まっていた。
長屋と言っても、その広々とした空間の使い方や居住の利便性だけではなく、芸術的な様式美を追及した和風テイストの庭園は、見る者の心を落ち着かせる不思議な魅力がある。
ヴァルキュリアはその日、目を醒ますと同時に身体を起き上がらせ、太陽の光をまず真っ先に浴びた。
その上で、軽く寝汗を流す為に、グロリア帝国では珍しく浴槽のある浴室まで出向き、その滑らかな肌を全て曝け出した上で、浴槽に浸かる。
熱い風呂だった。朝一番に、浴室の給湯機を回すようにされているのが、この家唯一の美点だと彼女は考えている。
「……ふぅ」
風呂は良い。眠る前や、眠っていた時に感じていたモヤモヤ、そしてこれからに対する不安も、全てを洗い流してくれる。
そうして熱い風呂に長く浸かり、頭が少しだけぼう、としてきた時を見計らい、溜めてある冷たい水を、頭からかぶる。
するとぼやけていた頭が一気にスッキリとして、完全に目を醒ます事が出来る。
浴室から出て、身体を自分で拭き、その上で髪型も衣服も全て、全身鏡の前で整えて、庭へと向かう。
庭には、既にヴァルキュリアの父……エンドラス・リスタバリオスの姿がある。
その屈強な肉体を見せびらかすように、上半身は何もまとっていない。そして動きやすいように東洋から取り寄せていた袴を履いた上で、木刀を振るう彼の姿は、幼い頃からヴァルキュリアが目指した、正しき騎士の姿だ。
「ヴァルキュリアか」
「はい」
「何か用か」
「いえ、拙僧も素振りを、と思っただけであります」
「そうか」
それ以上、言葉のやり取りは無い。
彼の隣に立ち、構えを真似するように自分の剣――グラスパーを振るう娘の姿を、エンドラスは見てもいない。
一時間ほど、木刀を、剣を振り続けていた二者だったが、先に腕を下ろしたのはヴァルキュリアだ。
「拙僧はこれにて」
「ヴァルキュリア」
「はい」
「少し、お前へ言わねばならん事がある。あと五分だけ付き合え」
「……畏まりました」
一度下ろした剣を、また振るう事になるのはヴァルキュリアとしても不本意ではあるが、エンドラスは意味の無い事や、言葉のやり取りを嫌う。
故に、何か意味があるのだろうと、今一度鞘から剣を抜き、素振りを再開する。
「フォルディアス家の嫡子……フェストラ様にお会いしたそうだな」
「はい」
「彼がいずれ、この国を支配する王となる。それだけは覚えておけ」
「拙僧は、そもそもフェストラ殿の存在すら、初耳でありました」
「そうだ。お前にはこれまで、何も教えてこなかった。そしてこれからも、多くを教えるつもりはない」
ヴァルキュリアはこれまでの人生で、エンドラスと多く言葉を交わした事等、片手で数えられる程しかない。
多く言葉を語る時、常に横に母の姿があった。
しかし、今はいない。
彼が言葉を語らねば、ヴァルキュリアに意思を伝える方法が無いのだ。
「何故、拙僧を魔術学部から剣術学部へ編入させたのか、その真意をお聞きしたい」
父は口を開かない。だが、ヴァルキュリアは何も知らないわけではない。
「フェストラ殿の圧力でありますか」
「否定はしない。しかし、いずれはそうさせるべしと考えていた。想定よりも早い編入となった、それだけの事だ」
「父よ、拙僧には分からない。貴方は拙僧を、帝国魔術師にするつもりであったのではなかったので?」
またも、彼は口を開かない。
「父が目指した、帝国魔術師でありながら剣術にも優れた、汎用兵士育成計画……その完成形に、拙僧が至る事を望んでいるのではありませんか?」
「己惚れるな。お前にそんな大それた事など望んでいない」
互いに振り込んだ一打。
それが空を斬った瞬間、二人の動きは止まった。
「この国は今、低迷の只中を漂っている。先代の王・バスク様は何を血迷ったか、植民地の属領協定と軍縮条約を結んでしまった。以降、この国は他国からの圧力に屈する、弱い国となった」
木刀の柄が、折れるのではないかと言わんばかりに力を籠めるエンドラス。その実力は、一線から退いて指揮を担当する事となった今でも、衰える事は無い。
「今この国を統治なされているラウラ王もそうだ。何を考えているか分からん。政教分離を推し進めようとする動きも見受けられる。――フレアラス様の教えに従う事こそ、人々を律し、国を根底から支える基盤であると言うのに、だ」
エンドラスは、旧帝国時代から続く軍拡支持派閥の人間だ。
そして軍拡支持派閥全体に共通している考えは、一つしかない。
フレアラス教の教えによって全ての民が律され、一つとなる事。
その上で、整えられた軍備によって他国を牽制し、時に侵略を続けていく事で、真なる安寧と平和が待ち受けている、と。
「お前はラウラ王が去り、フェストラ様が作り上げる次の世代へ、技術と血を遺して行く為の繋ぎでしかない。お前の魔術回路は第五世代だ。第五世代以上の魔術回路を持つ男と交わる事で、その間に産まれる子供は帝国魔術師として、より高みへと至る事が出来る」
魔術を使用する際に必要とされる魔術回路は、遺伝的な改良によって強度や質を高める事が出来る。
第五世代魔術回路を有するヴァルキュリアの遺伝子と同等の魔術回路を有する男の間に子が産まれれば、互いの質と強度を兼ね備えた、進化した魔術回路を持つ魔術師が産まれる、という事だ。
「お前は何も考える必要は無い。全ては私が決める。お前の男も、お前の将来も、全てな。お前はただ、自らの魔術回路を、剣術の腕を磨き、子に遺していく事だけを考えていればいい」
「……はい」
「話は以上だ」
庭から縁側を昇り、仕事へ向かおうとするエンドレスの背中に、ヴァルキュリアは言葉を投げる。
「父上、一つだけお聞かせください」
「何だ」
「マホーショージョ、という魔術外装を、ご存じでしょうか?」
「知らん。在ったとして、どうせゴルタナのような、レアルタの連中が開発した下らん物だろう。それだけか?」
「はい」
「詰まらん事を聞くな」
去っていく父の背中は、昔ほど大きく感じなかった。
何故だろう。父は強く、何時だってヴァルキュリアの理想だった筈なのに――彼の背中は、どこか汚れて見えた。
「……昨日のクシャナ殿は……マホーショージョ、という姿は……綺麗だった」
ヴァルキュリアは穢れを知らぬ乙女だ。
故に汚れを、卑怯を、過ちを許せない。
クシャナ・アルスタッドという女は、お世辞にも褒められるような性格の女性ではない筈だったのに……その背中は、真っすぐで、綺麗で、美しかった。
「……彼女の強さを、拙僧は知らねばならない」
父の教えに背くつもりはない。
人は正しく律されていなければならない。
そして、次の世代へ技術を、血を遺す為に、彼女は誰よりも強く在らねばならない。
だから――ヴァルキュリアは前を向くのである。
**
「私は、赤松玲……またの名を【プロトワン】……人類を越えた新人類【アシッド】の実験体として……神に作り出された存在。つまり私も……アシッドというわけさ」
心臓に向けて突き刺したコンバットナイフの行方を見据えながら、全員が口を閉じている中。
ヴァルキュリアちゃんだけは、何かを言わねばならないという表情で、しかし何と言えば良いのか分からぬという風に口を開閉させている。
そんな彼女に……一つお願いをしなければならない。
「ヴァルキュリアちゃん……お願い、このナイフ抜いて……痛い……ッ」
「何故に刺したのであるかクシャナ殿!?」
「いや、こうしないと信じてくれないかなぁ……って……痛くて自分で抜くのヤダ……っ」
「し、しかし抜いても問題無いのであるか!? こうした傷口は、下手に抜くと出血多量で死する事になるのである!」
「そ、それは大丈夫、傷口に異物が無い限り、再生するから……思い切り引き抜いて……っ!」
「な、何が何だか分からぬが……了解したのである!」
覚悟を決めたようにグッと顎を引いて、コンバットナイフの柄を握り、引き抜いたヴァルキュリアちゃんに、返り血があまり行かないように傷口を手で押さえていると……私の胸元から溢れる筈の血が段々と勢いを弱めていく事が、皆にも分かっただろう。
「……ふぅ、再生は無事出来たね」
「そ、それよりクシャナ殿、クシャナ殿がその、アシッドと呼ばれる存在であるとは……真、なのであるか……?」
「うん。……正直、その事は思い出したくも無かったんだけどね」
ヴァルキュリアちゃんに抜いて貰ったナイフを返してもらって、和紙で血を拭った上で、鞘に戻す。
しかし床に落ちた血はどうしようもないけれど……と思っていた所で、アマンナちゃんとガルファレット先生が、私の血に近づき、触れる。
「……普通の血液ですね」
「ああ、特に人間のものと変わりはない」
「それはそうだよ。普通の人間にアシッドの因子を埋め込んで、人間より四十八倍優れている、というだけの存在だからね」
血が多く抜けた事で少し頭がぼうっとするけれど、昔と違って体力的にも衰えがほとんどない十七歳の今ならば、問題はない。
だが念の為、椅子には座って「どう話せばいいかな」と考えていると……そこでフェストラが口を開く。
「庶民、まずは基本的な事から聴こう。――アシッドは人肉を主食としていると聞くが、お前が本当にアシッドならば、お前にも食人欲求がある、という事か?」
フェストラの目は、今までとは異なり、私の事を敵か否かを見極める為の観察に入っている。
この男の事は嫌いだし、信頼はしていないが、この男よりも他者の隠し事や嘘を見抜く事が出来る人材は、少なくとも私は知らない。
……まぁ、だからこそ嫌いなのだけれど。





