クシャナ・アルスタッドという女-09
「あ……っ、く……クシャナ、クシャナ殿――っ!」
名を叫ぶ。
既に致死量の血液が彼女の身体から失われ、怪物によって肉ごと喉元を抉り取られた彼女が、生きているわけがないと、分かっていても――それでも、ヴァルキュリアは名を叫ばなければならない。
彼女は助けられた身だからこそ、その恩義を声に出さなければならないと、本能で感じてしまったのだろう。
だがそこで、怪物は動きを止めた。
自らが食した肉に、何か違和感を持つかのように。
『……分かるか、アシッド。そうだよね、分かってしまうよね』
既に喉も無く、発声器官をもたぬ筈のクシャナが――それどころか、生きている筈の無いクシャナが、声を上げた。
『肉に違和感があるだろう? そうさ、私は普通の人間じゃない。牛肉と豚肉しか食べた事の無い人間が、初めて人肉を食べた時の感覚もそんな感じさ。……きっと、ね』
自分の身体を喰い進めようとしていた怪物の顔面へ、腰の入った拳が見舞われた。
強く身体を吹き飛ばし、その身を通りの壁にぶつけた怪物は――衝撃に耐えるようにしつつ、声を発した。
『おマ……エ、ナんだ……!』
「へぇ。珍しいタイプだね、僅かにでも自我を持つ奴は。でも、人の喉を噛み千切っといて、良く平然と言葉を問えるなぁ――まぁ、いい。自己紹介をしてやろうじゃないか」
既に、噛み千切られていたクシャナの喉元は、再生を果たしていた。
その溢れ出た血の痕だけはそのままに、彼女がそっと首筋を撫でた後――右足の太ももに備えていたスリットから、一つの板にも似た機械を取り出した。
掌に収まるほどコンパクトな縦長の機械は、その側面に存在する指紋センサーに触れられる事で、画面の九割をバックライトで照らし、闇夜の周囲を明るく照らす。
画面には【Magicaling・Device・MODE】のという文字の表記があった。
〈Stand-Up〉
加えて、機械はスピーカーから機械音声を奏でる。けれどヴァルキュリアには、画面に表記されている文字も、奏でられた音声も、どの国の言語かを理解できない。
もちろん、理解できる筈も無い。
その言葉は、元々クシャナという人物が――赤松玲という人物がいた、地球という世界の言語であるから。
右手で持ったその機械――マジカリング・デバイスを口元まで持ち上げ、下部に存在する音声認識システムに向けて、クシャナは綺麗な声を吹き込む。
「変身」
〈HENSHIN〉
空中に向けて放り投げられたマジカリング・デバイスの、画面に向けて左足を軸とした回し蹴りを叩き込む。
するとデバイスそのものが強く発光し出すと共に、デバイスは光そのものへと変化し、やがて彼女の身体を包み始め、その姿は見えなくなる。
光に包まれながら変化する、クシャナの衣服。元々黒を基本とした学院用制服に身を包んでいた彼女が、基本色を白とした衣装へと変わっていった。
両腕は手から二の腕当たりまでを覆うスリーブが展開されるが、二の腕から肩にかけてまでは何も覆う事無く、彼女の素肌を曝け出している。
その首元から胸元辺りまで、フリルやリボンなどの装飾が目立つようになるも、彼女の豊満な乳房を強調するように、その上乳を出し、谷間を強調するデザイン。
下乳からスカートまでは一つの素材でまとまり、所々に朱色のラインとフリルがつき、スカートは彼女の膝上まで伸びるミニスカート。
白と朱色のラインが入ったニーソックスに合わせ、ヒールは朱。それがカツンと地面を打ち付けるように音を鳴らすと、足元に展開される魔法陣のようなものから、刃から柄までを黒で覆った一本の剣が顕現される。
その変身は、一瞬の出来事である。
怪物が強い光に怯み、身体を強張らせた一瞬の間に変身を終わらせたクシャナは、顕現し手に掴んだ剣を横薙ぎに振るい、光を散らす。
彼女の後ろ姿を見据えて……未だに尻もちをついていたヴァルキュリアは、思わず言葉を放つのである。
「……綺麗」
その言葉と共に、彼女は微笑みながら、剣の切っ先を怪物へと向ける。
「私は――【幻想の魔法少女】・ミラージュさ。覚えなくていいよ」
彼女が――幻想の魔法少女・ミラージュが左手を大きく広げた瞬間。
本来一人しかいない筈のミラージュの姿が、一瞬の内に三人へと増え、怪物は自分の前後を挟むように展開される、二人のミラージュに驚きながらも、その口を大きく開いた。
嬌声と共に、その両腕を動かしながら前方のミラージュを噛み千切ろうとする怪物だったが、しかし前面に展開されていたミラージュの一体は幻だったようで、その口が触れようとした瞬間に露と消え、呆然としている最中に、背後から強力な回し蹴りが叩き込まれる。
蹴りの威力は、元々のクシャナよりも数倍以上の威力を内包していたが、しかし何よりも怪物を惑わせたのは、自らに回し蹴りを叩き込んだ一体のミラージュも、蹴りを入れ込んできた瞬間に、消え失せたのだ。
「幻では、無い……っ!?」
「いいや、幻さ。一部を除いて、ね」
ヴァルキュリアに向けて手を差し伸べた、ミラージュの一体。
その手に触れながら、震える足で起き上がったヴァルキュリアだったが――しかし、手には触れる事が出来たのに、その衣服へと触れようとした瞬間、触れていた彼女は、触れた部位を中心に霧となり、消えてしまう。
何が起こっているのか、上手く理解できていなかった様子の怪物が、その腕を残る一体のミラージュに向けて振るったが、しかしそのミラージュも消え去ってしまう。
だが――既に彼女は怪物の上方を取っていた。
「こっちだこっち」
上空から襲い掛かり、その頭部を強く踏みつけながら地面へと叩きつけたミラージュが、そこで黒の剣を地面へと振るい、怪物の首を切り裂いた。
『ガ――ァァアアッ!!』
首だけになっても絶叫を上げる怪物。その身体が闇雲に身体を動かし、ミラージュへ迫ろうとするが、彼女は再び四体へと別れ、前面の一体は先ほど切り裂いて飛ばされた頭部をサッカーボールのようにヘディング。
左側の一体は左腕を突き出して怪物の脇腹を殴りつけ、左側にいた一体は右手に掴む剣を振るって肉体に傷をつけると、背後から迫る一体が、背中を蹴りつける。
「――四肢か!」
「ご明察だよ、ヴァルキュリアちゃん」
靄となり消えた四体のミラージュが、一つにまとまり、ヴァルキュリアの眼前に立つ。
彼女は右手の剣をダラリと下ろしながら、自らの術をタネ明かす。
「私のこの魔法少女体は、身体機能の向上は勿論だが、特徴的な能力があってね。自分の四肢を分離させ、分離させた部位だけは実体を有しているが、それ以外が全て幻、幻想なのさ」
つまり、右腕のミラージュは右腕を使った攻撃こそ出来るが、それ以外は全て幻故に、攻撃を受ければ消えてしまう。
左腕のミラージュは左腕以外に触れられれば消えてしまう。
そうして全ての幻想が消えると、それは自然と一つの集まり、全身を有するようになる。
「どうだい、面白い能力だろう? ぶっちゃけ私にはそんな大した戦闘技術が無い。でも、この能力を使えば、相手をかく乱する事など幾らでも可能なのさ」
「だ――だが、奴は再生するのだぞクシャナ殿!」
首を吹き飛ばされた筈の怪物、その身を切り裂かれた筈の怪物が、今その頭部を拾い上げ、切断面に無理矢理くっつけるようにしながら、その傷を癒していく。
ミラージュもそうした怪物にため息をつきながら「やるしかないよなぁ」と言い、黒の剣を怪物に向けて……そこでヴァルキュリアへ一つ、頼み事をする。
「ヴァルキュリアちゃん、少し目を閉じていて欲しい」
「な、何故、であるか?」
「ちょっと……ショッキングな光景になるからね」
その声にだけは、飄々としている彼女らしからぬ、真剣さを感じた。
ヴァルキュリアが息を呑んだ瞬間、ミラージュは動いた。
その右手に持った剣を強く突き出し、怪物の胸部を突き刺すと、動きを止めた怪物から刃を一度引き抜く。
だが攻撃は終わりじゃない。刃を引き抜くと同時に左肩で強く怪物を突き飛ばすと、怪物は背中から地面に倒れて――その瞬間、既にミラージュは上空を取った。
上空から刃を顔面に突き立てられた怪物は、それでも動きを止めはしない。
それは確かにショッキングな光景ではあったが――ミラージュはそこでヴァルキュリアへと視線を寄越し、睨むような細い目で、目を閉じる事を催促。
その視線に思わず目を閉じたヴァルキュリアを確認したミラージュは……ため息をつきながら、一瞬の内に刃を抜いて怪物の首を切り裂き、血に塗れた髪の毛をむんずと掴んだ。
そこからは、ミラージュも目を閉じていた。
ミラージュとヴァルキュリアの耳には、沈黙の中から僅かな咀嚼音が届くのみだった。
そうした時間が数分ほど流れると――それまで僅かにぴくぴくと動いていた怪物の身体も動かなくなり、沈黙。
口元を拭ったミラージュが咳き込んだ後に目を開くと、ヴァルキュリアが目を恐る恐る開いた様子が見えたので、一瞬だけ顔を逸らして口元の拭いを確認してから、向き直る。
「こらこら、目を閉じていてくれと言っただろう?」
「も、申し訳ないのである……その、怪物は……」
「死んだよ。今度は間違いなくね。頭部さえ完全に消滅させる事が出来れば、コイツは沈黙するから。でも、頭部の肉片が少しでも残れば、そこから再生を果たす。……厄介な奴だよ、コイツは」
フ――と、遠い目をしながら、首から下だけが残った死骸を見据えるミラージュの事を、ヴァルキュリアは観察する。
彼女は本当に、あのクシャナなのだろうか、と。
色々と常識外れな事が起き過ぎていて、もしかしたらいつの間にか自分もクスリをキメてしまい、幻覚を見ているんじゃないかと考えてしまう程に、頭が混乱していた。
「クシャナ殿……貴女は、貴女は一体……何者、なのだ……?」
「死ねない【魔法少女】さ。改めてよろしくね、ヴァルキュリアちゃん。……あ、他の人には内緒だよ?」
しぃー、と。口元に人差し指を一本立て、内緒をアピールする彼女がほほ笑んだ。
……その時、彼女の歯に残る僅かな肉のようなものがヴァルキュリアにも見えたが、彼女はそれを特に気にしていなかった。
「……マホー、ショージョ……?」
聞きなれない言葉に、困惑していたから。





