赤松玲という女-01
「君、こんな所から落ちたら死んでしまう。今すぐ離れた方がいいよ」
この人は、一体何を言っているのだろうと思った。
それは二千二年、三月十三日の秋、既に日付が変わって星も輝く晴れの夜だった。
秋音市清納通り二丁目に多く建てられた、安い集合住宅の屋上、転落防止柵前で靴を脱ぎ、足を上げて屋上の端に立った私に、女性はそう声をかけたのだ。
「君は今幾つだろうか。きっとまだ若い。私は今二十一なんだけど、君は……うん、制服からして零峰学園の子か。という事は若くて十五から十八という所だろう? そんな子供が夜遅く、こんな所にいるのは感心しないな」
女性は紺色のスーツを着込んだ人だった。肩程まで伸びる黒い髪の毛と、その端正な顔立ち、程よく施された化粧と、それでも隠し切れない目元のクマが、少しだけ印象強い。
体形も、スーツによって隠されているけれど、同じ女の私にはわかる。ブラによって覆われた乳房はおおよそ大きい。手で持ってもこぼれる程の大きさはあるだろうし、その腰回りも目に見えて細い。かと思えばタイトスカートがしっかりと丸く見える程、お尻も激しく強調しているから、その女体としての魅力は、私の拙い語学力で表現できているかも怪しい所だ。
対して私は、特に特徴の無い女学生だ。女性の言う通り、零峰学園高等部に在籍する三年生で、十八歳だ。
……もう、卒業式まで執り行ってしまっているが。
そんな子供の私がマンションの屋上、それも柵を越えて屋上から落ちる事の出来る場所に立っているのは、女性としても見過ごせなかったのかもしれない。
だが……。
「何かあったならお姉さんが話を聞こう。まずは落ち着いて、転落防止柵を今一度またいで戻るんだ」
「いや、お姉さんに言われたくないですよ」
「何故だい?」
「お姉さんも飛び降りようとしているじゃないですか」
「それとこれとは話が別だ。いいから飛び降りなんて止め、戻ろう。ね?」
「えぇぇ……」
そう、女性も今まさに、屋上から飛び降りようとしていたのだ。私もあまりに前以外を見ていなかったから気付いていなかったが、私から少し離れた先にある屋上の端で、柵に手をつきながら今にも飛び降りようとした所、私がやってきたという事だ。正直、声をかけられた時はその驚きで柵から手を離すところだった。
女性が柵を越えたと推察できる位置をよく見ると、彼女が脱いだと思われるハイヒールと、風で飛ばされないようにハイヒール二つを重ねられた、何か封筒のようなものも見える。アレ、多分遺書だ。
「あの、お姉さんも、自殺ですか?」
「うん。こんな所で奇遇だね」
「ええ、まぁ、はい。そうなんですけど……どっちが先に逝きます?」
「私が先に逝こう。そして君は続かない。これこそ完璧な結論だと思うのだが、どうだろうね」
今この人、キリッとした良い表情で片手を放そうとしたので、ブンブンと首を振って止める。正直この状況で何を私はしているんだと思うけれど、女性も恐らく意固地になっている状況だろう。
「……あの、どうして私は、死んじゃダメなんですか……?」
「それはね、君から【幸せ】って雰囲気が感じられないからさ」
「……そりゃ、幸せだったら死にませんよ?」
「それは駄目だよ、不幸の内に死んだらそれこそ駄目駄目さ。思い直した方が良い」
「じゃあ、お姉さんは幸せだから、死のうって言うんですか……?」
「そうだよ。私は超幸せさ!」
先ほど、手を放そうした時と同じく、良い笑顔でそう断言した女性に……思わず私は、興味を抱いた。
正直、私は死のうとしているけれど、同じく死のうとする彼女の自殺理由を、知りたいと思えたのだ。
「自己紹介が遅れたね。私は赤松玲、二十一歳の個人投資家だ。ヨロシク」
「えっと……篠田綾子、です」
「綾子ちゃんか。ふふ、顔立ちだけじゃなくて、名前も可愛いね。あ、ゴメン今嘘ついた。顔立ちは暗くてよく見えないや」
何なんだこの人、と思いつつも、それは無視する事にする。
「赤松さんは、幸せなんですか……?」
「そうだね。例えば毎日三食ご飯が食べられるなんて、凄く幸せな事じゃないかな」
輝かしい程に光らせた目で、彼女はキッパリと言い切ったのだ。そんな、当たり前の事を。
「それだけですか?」
「それだけ、とはね。第二次世界大戦、ほんの六十年位前には、満足にご飯が食べられない人たちがこの国にいっぱい居た事を勉強しているだろう? それに比べれて、私は何時だってお金を払い、コンビニでご飯が食べられる。これ以上無い幸せじゃないか」
「……辛い事とか、無いんですか?」
「辛い事かぁ。まぁ無い事は無いんじゃないかなぁ? でも、正直辛い事ばかり考えていても気が重くなるだけだし、そもそも辛い事なんか止めちゃえばいいよ」
え、と言葉を漏らすと、女性は微笑みながら、たとえ話をし始めた。
「そうだな、例えば君は学生だよね。テストの成績が悪くって、君がお母さんに怒られたとしよう。勉強して、努力して、それでも至らなかった事をお母さんに責められた。それはイヤな思い出かもしれない」
「……はい」
「でもテストの成績が悪い程度じゃ死なないよ。赤点さえ回避すれば学校は卒業は出来るし、赤点が出たら補習を受ければいい。それすらイヤだったら学校だって辞めちゃえばいいじゃないか」
「そんな、簡単に」
「事実、死ぬ程の事じゃない。死んでしまえば、もう何も経験する事が出来なくなる。幸せを二度と掴めなくなるんだ」
星空を見上げた女性が、高度のある屋上故の風を感じながら、目を閉じた。
「私はこの二十一年間、それなりに幸せな日々を過ごしたよ。若い頃には色々とあったけど、それを含めて私の人生は充実していたと思う。あー、強いて言えばこの年でまだ処女な事かな。でも私、どっちかというと女の子の方が好きだし、女の子は何人も抱いたよ!」
「じゃあ、どうして死のうとするんですか?」
「幸せのまま死にたいからさ。私も昔は色々とあったけれど、ちゃんと会社員になって稼いだ後、個人投資家としてある程度成功し、多くの美女を抱いてきた。色々と楽しませて貰った、素敵な毎日だったよ」
彼女の表情には、陰りなどない。
自分が口にする言葉が正しいと疑わず、自分は幸せだと、不幸などないと語る口調は軽く、明るい。
「今の私は幸せさ。でもその幸せは、きっと永遠に続かない。なら今の内に死んで、幸せのまま逝く事が出来れば、それは間違いなく最高の人生と言ってもいいだろう?」
「……逆にもっと、良い幸せがあるかも、ですよ?」
「そうかもね。でも、私は今、百点満点幸せなんだ。何時か来るかもしれない百二十点の幸せを享受しようと生きていても、もしかしたら辛さ百二十点のヤベェ不幸が訪れるかもしれない。それを考えたら、百点の時に死んじゃった方が良い」
でもだからこそ、君は死んでは駄目だ、と。
女性――赤松さんはその時、初めて表情を引き締めて、私を説得するように言葉を連ねていく。
「もし君が今幸せの中にあり、そして君が死んでも迷惑を被る人がいないというのなら、死ぬ事も良いだろう。けれど失意の中で死にに行くというのならば、その死は何も救わないし、救えない。――まぁ、もうちょっと簡単に言うならば『死ぬより前に出来る事がまだあるよ』って事さ」
死ぬより前に出来る事がある。
そんな、当たり障りのない台詞だったけれど――何故だろうか。
この人が言うと、何故かそれが説得力を感じさせられたのだ。
だからだろう。私が、思わず自分の事を口にしてしまったのは。
「……私、実は受験に、落ちてしまって」
「へぇ、大学受験かい? 確かにもう三月、一般入試の合格発表がある頃か」
「お父さんもお母さんも、東大以外は大学じゃないから、絶対に東大じゃなきゃ駄目だって」
「お父さんとお母さんは、君を警察のキャリア組にでもしたいのかな?」
「医学部です。でも、ずっと東大目指して頑張って、頑張って……でも、受からなくて……お父さんとお母さんに、合わせる顔が、無くて」
「なるほどねェ。まぁ確かに、私には分からない世界だ」
クスクスと笑いながら話を聞いていた赤松さんは、柵伝いに私へと少しずつ近付いて、少しだけ大きな手で、私の手を握った。
「で、綾子ちゃんはどうしたいんだい?」
「……どう、したい?」
「うん。例えば君は浪人をしてでも東大に受かりたいのかな? それとも浪人をしたくなくて、それがイヤで自殺したいのかな?」
「もう、分かんなくて……お父さんもお母さんも、きっと落ちた事を、許してくれない……もう、生きてても、何も出来ない……っ」
お父さんもお母さんも、私の受験をこの一年間、いっぱい応援してくれた。
でも私はその期待に応えられなかったんだ。
もう一年、浪人したいと言った所で、きっと二人は許してくれない。
どうしたいか……もう、分からないんだと、正直に打ち明けると、今度は先ほどまでと異なり、キョトンとした表情の赤松さんが、首を傾げた。
「その考えこそ、私には分からない世界だなァ。……例えばお父さんとお母さんが許してくれないなら、どうなるんだい?」
「え」
「もう何も出来ないと言っていたけど、十八歳ならアルバイトは出来るよ? 一年間バイトして、正社員の仕事を探せばいいさ。もし正社員が見つからなくても派遣だってある」
「で、でも、お父さんとお母さんは、医者になりなさいって、私に」
「そこが分からないんだよ。お父さんとお母さんは、君が受験に落ちた事を許してくれないんだろう? なんで許してくれない親の言葉に従う必要があるんだい?」
「それは……えっと……アレ……?」
そうだ、と思ってしまった。
もし仮に、お父さんとお母さんから、受験に失敗した事で怒られて、もう受験をさせて貰えないなら、もう医者以外になるしかない。
それすら許されないと言うのなら……二人は私にどうしろと言うのだろう。
「私なら、受験に一回失敗した程度で子供を見捨てるような親に、それ以上自分の人生にアレコレ言われたくないね。親の為に勉強するより自分の為に働いて、自分の為にお金を稼ぐよ」
「でも、そんな勝手な事」
「私は君の親御さんを知らないから、あまりものを言いたくないけれど、でももし本当に許して貰えないのなら、それは親御さんが勝手すぎる。親は勝手を許されて、子供は勝手を許されないなんてのは不公平だ」
彼女は、まるで自分自身の事のように腹を立てたのか、フンと鼻息を荒くしながら表情を僅かに怒らせる。
そうして怒ってくれる赤松さんだったが、やがてフフと笑顔に変え、握った私の手に、力を込めた。
「もう、こんな夜遅くだ。きっとお父さんとお母さんは、それについて綾子君を怒ると思う。でもそれは綾子君が悪いから、ちゃんと謝って、怒られなさい」
「……はい」
溢れる涙が、マンションの屋上から地に落ちていく。
その雫の行方は、もう見えない。
「その上で、お父さんとお母さんと顔を合わせて、ちゃんと話をしようね」
「はい……っ」
地上との高低差故か、少し強く風は吹きつけるけれど、その風もどこか、心地よく感じられた。
「それでももし、親御さんが本当に綾子ちゃんを許してくれないなら、その時から君は自由の身だ。自分勝手に生きて、親を見返してやる位の幸せを掴めばいい」
「はい……はい……っ」
「死んでしまえば、そうして見返す事も、幸せを掴む事も出来なくなるんだと、そう自分を奮い立たせていれば、どんな不条理な世界でだって、生きていけるよ。……幸せになって、その末に死にたいと思ったら、またここに来ると良い。その時は私も止めやしないから」
私の背中を優しく撫でてくれる赤松さんに頭を下げながら、私は転落防止柵を越え、安全に階段から降りようとした――その時だった。
つい、足を滑らせてしまい、私は背中から地面へと向けて、落ち始めてしまう。
「あ――」
瞬間、これまでの人生が一瞬の内に脳を駆け巡った。
フラッシュバック、走馬灯と言っても良いかもしれないが、そんな事はどうでもいい。
私の人生は、これまで勉強しかなかった。
友達も、恋人も無く、ただ勉強を強いる両親と、机にある膨大な参考書しか思い出に無くて――どれだけ今まで自分の人生が詰まらないものであったかを、その時初めて自覚した。
生きたい、死にたくない、こんな風に落ちて死にたくなんかない。
そう考えた瞬間――赤松さんが私の手を取り、腰に力を入れて私の身体を持ち上げる。
グ、と強引に引かれた腕が僅かに軋むような音を奏でるが、しかし赤松さんは身体全体を使う事で、私を柵まで持ち上げてくれたのだ。
――ただ、反動を使って私を持ち上げた結果、彼女は身体を横に倒しながら、屋上から地面へと向けて落ちていく。
「赤松さん――ッ!」
声を荒げ、叫んでも、意味は無い。
赤松玲さんは、笑顔のまま、地面へと向けて落ち、今まさに頭から、コンクリートに叩きつけられた。
ゆっくりと、今度は慌てずに、震える身体を抑えつけながら柵を越え、階段を駆け下りて、彼女の落ちた場所まで向かう。
しかし、その場所へ辿り着いた瞬間に鼻孔を刺激するのは、赤松さんの拉げた頭部から溢れる、血と脳脊髄液が合わさった、ツンと鼻に残る匂い。
頭蓋も砕け、美人だった顔は既に見る影も無く……月並みではあるけれど、彼女の頭は既に潰れたトマト、落ちたザクロと言っても良かった。
「あ……ああ……ッ」
私のせいだ、私のせいで、赤松さんは死んだ。
元々死のうとしていた彼女だったけれど、自らの意志で身を投げるのと、私のせいで死ぬ事は、全く意味合いが異なる。
私が殺したようなものだ。
「赤松さん……ぁ、赤松さん……っ!」
どうすれば良いか、何をすればよいか、頭はそんな事を考える余裕すらなく、私は彼女へと近付いた。
生きている訳が無いと分かっていながらも――しかしその現実を、受け入れたくなかったのだ。
しかし、現実は私の想像を、遥かに超えていた。
既に死している筈の……死していなければおかしい、赤松玲さんの身体が、ムクリと起き上がったのだ。
『いやぁ、痛いねぇやっぱり。投身自殺はコレで七回目だけど、スリリングかつ意外な出会いがあった事を差し引いても、痛さがマイナスかなぁ』
しかも、既にひん曲がっていた顎を僅かに動かしながら、喉を震わせるようにして放たれる声が、私を更に驚かせた。
――恐怖と言っても良い。
『綾子ちゃんは無事だったようだね。いやぁ、良かった良かった。ちなみにもし今後自殺するなら、なるべく投身自殺はやめた方が良いよ? マジで痛いから』
「ひ、ひっ、ひぃ――っ!!」
私を助けてくれた恩人、心を救ってくれた人、優しい女性、温かな人と、分かっていても、そうして頭を潰しても生きていて、眼球は飛び出て使い物にならない状況でも私を認識し、声を出すという、人ならざる彼女に、私は怯えてしまった。
我武者羅に足を動かして駆け出し、彼女から少しでも遠ざかる為に、何も考えず走ったのだ。
けれど、赤松さんはそんな私に、こう言葉を遺した。
『気を付けて帰りなよー』
そんな呑気な声色で……でも、優しく諭すように。
私はその日、家に帰ってお父さんとお母さんに怒られながら、何も考える事が出来ず、ただ全身を布団で包み、眠りについた。
少なくとも――自殺なんて二度とするものかと、思うようにはなったのだろう。