晴らし雨
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からりと晴れた青空に、さらさらと雨が降る。
その天邪鬼な空を、ひとりの青年が見上げていた。その身が雨に濡れることも厭うことはない。
そこは木々覆う山の麓の小さな村。青々とした田畑が広がり、村の端からは山へ入るための細い道が続いている。点々と立ち並ぶ建物こそ半分ほどは鉄筋コンクリートであるからこそ時代を間違わずにいられるが、そうでなければまだ人々が着物で暮らしていた時代と見間違いそうになる。
「そんなところで何をしてるのさ。こっちへおいでんさい」
青年に話しかけたのは恰幅の良い一人の女。黒髪を団子に結い上げたその女は、青年の手をとるなり近くの建物へと引っ張り込んで鍵をかけてしまった。
「そろそろこがみさまの行列だ。表へ出ちゃあいけないよ」
すっかり濡れ鼠になった青年へ、女は奥からタオルを取り出して差し出してきた。少しためらったが、ありがたく借りておくことにする。
「あぁ、えぇ、ありがとうございます」
そう青年はようやく心がこちらへ戻ってきたように言葉をこぼし、破顔する。
ようやくたどり着いたのだという達成感が青年の裡を満たしていた。
急にニコニコとし始めた青年へ女が怪訝そうな目を向けているのも構わずに、青年は鞄の中から手帳とペンを取り出した。
「なんだい、学者さんかい? 記者さんかい?」
「えぇ、まぁ。学者というほどじゃあありませんが」
まだ研究生の域を出ない。身分を証明するものは在学中の学生証くらいのもので、なおかつ自分の研究室にフィールドワークの申請もしていない。見つかったなら確実に教授の雷が落ちる。
「僕はずっとこの村をを探していたんですよ。よければお話をお聞かせいただけませんか?」
「探してた。こんな田舎をかい?」
変わった人間だ、という素振りを隠すことなくその女は視線を向けてきた。青年はこくりと頷いた。
雨は変わらずまだ降っているようだ。さらさらと、建物を隔てた外では水音が響いている。窓から差し込む明かりは晴天のそれなのに、少しちぐはぐとした印象を受ける。
ただ、その雨音に何か違う音が混ざり始めた。
濡れた砂利道を、何かが歩む音。ひとりではない。そしてそれを彩るように、断続的な鈴の音。
「あの、この音は?」
「こがみの御方の行列さ」
「こがみの御方、というのは?」
女は噛み合わない会話のテンポに少し困惑をしているように見えた。あまりがっついて物を尋ねてはならないと分かってはいるのだが、どうにも好奇心には勝てない。
青年は昔から、古い土着の物語を愛していた。外国の物語よりは日本の物語を愛し、それがいわゆる民俗学という分野にあたると知って、憧れを抱いてその世界へ飛び込んだ。
けれど、やらされることといえばただの小間使いのような雑用に次ぐ雑用。それに嫌気が差した頃、教授のデスクにあった文献に興味をもった。
その村は、天気雨のときにしか入れない、地図にない幻の村とされているらしい。
山奥へ迷い込んだ人間が一軒の空き家に遭遇し、再び赴こうにも決してたどり着けない、いわゆる「迷い家」に類する逸話かと青年は思っていたが、こうして人が実際に住んでいるとなればまた違う系統に当たりそうだ、と青年はメモをのこす。
そんな青年の態度に、多少気圧されながら、それでも追い出すようなことはしなかった。こがみさまはこがみさまだよ、と肩をすくめる。
「この村をお守りになる御方だよ。晴らし雨の日は、こがみさまが山を降りてこられる。私らのような者がお姿を見たら、目が潰れてしまうからね」
この辺りでは、今日のような天気を「晴らし雨」と呼んでいるらしい。
「明日の朝には雨も上がる。そんなに興味があるなら、少しここへ泊まっていくかい? うちはこれでも昔から宿をしていたから、部屋は余ってるよ。それに、晴らし雨ならまたすぐに降るさ」
観光業など望めないような立地であるからすっかり村も寂れてしまって、今はほとんど廃業したようなものだが、それでもいいならと女は申し出た。
青年はようやくその建物内を見回した。いわゆる古民家然とした佇まいのその家は二階建て。
他に宿に出来るところはないという。ここへ来ることを目的にはしていたが、これからどうするということは決めていなかったし、いずれにしろ拠点は必要だ。青年はせっかくの申し出だから、と彼女の好意に甘えることにした。
翌朝。女の言うとおり、雨はすっかり上がっていた。道の水たまりに陽光が反射しきらめいている。澄んだ空気に深呼吸をして、青年はこの村を散策することにした。
彼女らの言葉で「晴らし雨」と呼ぶあの雨の日はほとんど人の気配がしなかったが、今朝は早くから外へ人が出ていた。水田の様子をみたり、近くの家のものと井戸端会議を行ったり、その様子は田舎の暮らしそのものだった。
「あの山へは、入ってもいいものですか?」
この村に来て、五日目。青年はそう尋ねた。
もっと早めに一度戻るつもりだったのだが、せっかく文献に載るような村に来られたのだ。大学に戻る前に、もっと確かな成果を持ち帰りたかった。
村の人々の口ぶりだと、かの山はこの村を守る「ナニカ」が居る場所。神聖視されていてもおかしくない。禁忌を犯すつもりはさすがになかった。
「迷い込まなきゃあ平気だろうけど、山歩きの経験はあるのかい?」
迷って遭難でもされたら誰も探しにはいけないよ。女主人はそう付け加えた。
「お社より奥へ行かなきゃあ平気だろう。子どもでも入れるところさ」
最後にそう助言をくれた。
その社は山へ入って程なくして見つかった。白木の鳥居の奥に狛犬ならぬ狛狐が向かい合い、小さな社がひっそりと佇んでいた。こまめに手入れされているのか、古いものではあるだろうが寂れた印象は受けない。賽銭箱に小銭を入れ、その奥の社の中を覗いてみる。暗くてなかなか見通すことは出来ない。懐中電灯で照らしてみるも、それでも光源は足りないようだ。
この村の人間がいう「こがみさま」が一体どんな御神体として祀られているのか、分かればと思ったのだが。
「お兄さん、ちょいと頼みがあるんだが、いいかい?」
村内を散策していれば、そう声をかけられる。
この村の人間は、よそ者である青年に随分と親しげに話しかけてきた。この村に外からやってくる人間は珍しいそうだが、特に忌避することなく声をかけてくれるのはありがたいと思った。
ただの世間話をすることもあれば、今のように頼みごとをされることもあった。その大半は力仕事であって、まだ二十歳になったばかりの青年にとっては特別苦に思うようなことではなかった。
そうしているうちに、気づく。
この村にきて、青年はひとりも男性を見ていない。
急に、冷水を背筋に流し込まれたような気分になった。
借りていた宿から荷物を引っ張り出す。階段を駆け下りて、その宿を出た。
ぽつり、と頬に水滴が落ちてきた。山を背に、眼前には女主人が立っている。
「兄さん、あんた、こう言ったねぇ。晴らし雨のときにだけ、この村に入れるって」
からりと晴れた空から、さめざめと雨が降る。
「それは確かさ。晴らし雨の日だけ、この村はマレビトの世界と繋がる。何でだと思うね?」
シャン、シャンと音が鳴る。鈴鳴。
「晴らし雨はこがみさまへのお祝いだ。ここへきたマレビトとの婚姻の儀への空からの手向け」
近づく鈴鳴とともに、仄暗く青い鬼火の行列が見えてくる。
かつて、婚姻という儀式には、嫁ぐ女が夫となる家まで行列で向かう習わしがあったという。
「手向けのこの日に呼び込み、村に住まわせ空気に慣らせば、あとは契りを結ぶのみ。前の男は、もうダメになったらしい」
女主人がそっとその場から下がる。
男の前に楚々と立つ、白無垢の女。うつむき唯一覗くその口元が、ゆるりと嗤った。