第10話 山娘
農繁期を迎え、帝国の大地も黄金色に輝いていた。
柔らかな風が吹けば波となる。作業服を着た農夫たちは端から鎌で刈り取り、小さな子供たちは弾けんばかりの笑顔で麦束を抱え運ぶ。
そんなのどかな光景を黒衣の役人が見張るのだが、みな素知らぬ顔。かかしのようにしか見ていない。
「ええい、早くせぬか!」
「へえ。やっておりますよ」
ゆえに、農夫たちは返事ばかり。
作業の手が早まる様子は一向に見えなかった。
(連中め、金の使い方一つでここまで不貞腐れるか)
エドワードは馬に乗り、横目で眺めながら思う。
帝国に大鷹が降り、騎手が不透明な金の流れを指摘してから一ヶ月。杜撰な管理しかしてこなかった自国の役人よりも、厳正な管理が行われる敵国の言葉の方が信用できると、民草の不満は一気に爆発した。
国は何とか抑えようと奔走し続けているが、何せ民が言うことを聞かない。
愛妾を連れ帰った家が決起し、それを応援する古参の十貴族がついたことを受け、管轄する貴族や領主がどちらにつくかと窺い合うのも理由の一つだった。
民は未だに不信感を抱き続けている。
(だけど、いったいどこから財政事情が漏れたのだ。父はウェントスの暗部がと言っていたが……いやそれよりも、あんな意味不明な表と数字の羅列だけで、国の内情など分かるものなのか?)
彼女は城下町だけでなく、とある会計官に帳簿の写しが届けられていた。
数ヶ所に赤いチェックが入れられており、会計官がそれを見た瞬間、卒倒しかねんほどの驚きを見せ、こう叫んだと言う。
――神の宣告だ
それは完璧な帳簿だった。
バローナは計上すべき支出を記載していないことを指摘しており、言われた通りに再計算をしてみれば、恐ろしい財政赤字を弾き出したと言うではないか。
会計官はこの報告ののちに失踪。酒場で『帝国の金庫は空っぽだ……』と零したのが、最後の目撃情報だった。
(パルティス家の謀反といい、国が瓦解してゆくのが分かる……。金とはそれほどまで人を、国を狂わせるのか……)
エドワードは森に入っていた。
山道に落葉が積り始めているが、頭上を覆う木々はまだ鬱蒼としている。途中で馬を降りて目印をつけた草木の中に身を投じた。
もがくように掻きわけ歩いた先に、うら寂れた山小屋が。それを見た途端、エドワードは初めて胸が晴れるのを覚えた。
「――ジェル、いるか?」
毛皮を垂らした粗雑な玄関を潜り、中の様子を窺いながら入る。
念のため、警戒をしながら。
「やっぱりエド!」
建物の中に居たのは白い毛皮に身を包む女――山娘のジェルメーヌはパッと顔を明るく、手入れし中の弓を放り出してエドワードの傍にやってくる。
……が、顔を覗き込んだ途端その表情はすぐに曇った。
「エド。人を殺したか?」
「え? あ、ああ……少し前に大きな反乱があってな」
「黒い血の臭いがする。父様と同じ」
「黒い、血……?」
ジェルメーヌはエドワードの手を取ると、拭うように自分の手を擦りつけた。
「父様は言っていた。戦いに身を置かぬ女や子供を殺せば、呪いの血を浴びる。森にはそんな奴が多く逃げ込む。私はたくさん土に還した」
「戦いに身を置かぬ女や子供を……」
エドワードはおのが手を確かめる。
炎上する街の中。建物から武器を持った住民が飛び出し、帝国の兵士に襲い掛かった。
男たちだけではなく、女も――中には子供まで居る。
彼らは武器らしい武器を持っていない。女が半狂乱になりながらフォークで帝国の兵士を突き刺し続け、背後から槍で貫かれた光景など、戦場しか知らぬエドワードには悪夢としか思えなかった。
「生き残るには斬るしかなかった……」
繋がれている馬の下に向かうまで、たくさんの人間を斬った。
屋敷に向かう際も何人も斬り伏せた。
大鷹の騎手の弟を追った際、槍で太った青年の首を突き、メイドの胸を貫いた。
どうしても追いつかせたくなかったのだろう。槍の柄を握りながら、しかし女が『死にたくないよ』と涙しながら零したその姿は、酷く胸をえぐられる。
「――エドワード。また戦いに行くか?」
「……ああ。父上は残れと言うが、私は行く」
行くな、とジェルメーヌは言った。
「ダメだ。呪いの血は恐ろしい。殺された者が同じ苦しみを味わわせる」
「行かねばならないのだ。戦わねば我が国は敗れる」
エドワードの意志は固い。
勝機のない戦いだと言う者も多いが、到底そうは思えぬ。帝国の総力を挙げれば、たとえ非協力的なのが居たとしても六万の兵士が揃う。
ワイバーンもまた三体、うち一体は王だ。負ける理由がどこにあるのか。
不安だった気持ちが晴れてくるのが分かる。
気分が軽くなったその時、ジェルメーヌが抱き着いてきた。
「お、おい……」
「父様も呪いの血にかかった。私がこうしたら落ちたと言う」
だけど、とジェルメーヌが言うと、
「こうしていたい。お前ともっといたい」
「ジェル……」
エドワードは無垢な女の肩に手を置き、そっと口づけをした。
◇
二日後の昼間。屋敷に戻ったエドワードは、父がいることに気づき慌てて応接間に顔を出した。
次の戦争について打ち合わせにきたのだ。
……が、ちょうど終わったところであるらしく、酒を傾けて休んでいるところだった。
「森の妖精と愉しんできたか」
不意の一撃にたじろぐ息子に、ヴァンドはお見通しとばかりにニヤついている。
懇ろになったと言うのも気恥ずかしい。
「ち、父上には関係ないでしょう!」
まるで年頃の娘のようである。
くくっと笑う父であったが、その件について聞きたいことがあったと思い出し、口を開いた。
「ところで父上。黒地に狼と槍の旗印はどこの家か分かりますか?」
飲みかけた酒が止まり、父の顔から笑顔が消えた。
「黒地に狼、だと?」
「ええ。ジェル……いえ、さる者の家にボロボロの旗があり、聞けば『父が持ってきた』とのことでして」
「狼はいるが、槍だとアビガル家……いや、まさか……」
何かとエドワードが訊ねると、
「関係は分からぬ。しかしその旗印は、帝国に属していた小領主のものかもしれん」
と、切り出した。
「二十年、いやお前が産まれる少し前か。当時の領主が病死し、跡目争いが起こった。嫡子が選ばれるはずが、外に産ませた子がいたらしくてな……」
「すると、権利の主張を?」
「逆だ。その女は相手が領主であることすら知らなかった。仲立ちを頼まれた私は、女の家を訪ねて何か証がないかと訊いたのだ。無ければ誤報で済む」
これだけと見せられたのは、狼のエンブレムだった。
紛れもなく後継者の証だった。
「しかし、その子の性別は女だった。赤髪で男の子のような見た目だったが」
「領主が間違えたと?」
「もしくは女でもよかったか……。何にせよ、貧しい暮らしなので金さえくれたらいい、と母親はエンブレムとの交換を望んだのだが」
ヴァンドは口を押さえ、僅かに沈黙した。
「……私の伝え方が悪かったのかもしれん。本家にそれを話すと、長男の妻が『強請られる』と酷く憤り始めてな」
「まさか」
「そのまさかだ。独断で人を雇って襲わせたのだ。――井戸に毒を入れたことを自慢するような、唾棄すべき連中をな」
これにはエドワードも理解し、絶句した。
井戸はその地域の生命線。毒など入れれば、関係のない者まで死んでしまう。
「私は本家から金を運んでいるところだった。死が満ちた村を見て、肝が冷えたよ」
子供の母親はまだ生きていた。
ヴァンドを見るや、口元を血で染め、獣のような呼吸をしながら言葉を発した。
――それがお前たちの答えか
「憎念がお前たち帝国を喰らい尽くすと叫んだのち、息絶えたよ」
「……それで、子供は?」
「分からん。毒を飲んで気がおかしくなったとか、母親が馬にくくりつけて逃したとか……なんせ生存者がおらず憶測を出ない話ばかりだ」
妻の愚行が明るみに出ると、家は取り潰しとなった。
その後、当主となった長男は娘を抱えて行方をくらませたと言う。
「するとまさか、その娘と言うのが……」
山奥に隠れ住んでいたこと。
巡礼者や信徒に対する配慮があったこと。
すべて辻褄が合う。
問答無用で襲ってきたのは、報復や城の追っ手を恐れた父が教えたのでは。
「かもしれんし、違うかもしれん。まあ惚れれば過去なんか些細なものだ。大事にしてやれ」
「な゛……ち、違いますって!?」
「なんなら家に連れてきてもいいぞ」
エドワードは蒸し返され、顔を真っ赤に染めていた。
 




