第7話 ブレイクダウン
街は酒色に染まるお祭り騒ぎが始まっていた。
殿下・エリックの警護に就いていたヴァンドも『鬱陶しい』との命令を受け、息子と共に街に繰り出していた。
「見るに堪えませません」
帝国の兵士たちは商売女のみならず、年増の女房ですら人攫い同然に路地へと連れ込んでゆく。
そんな光景があちこちで見られ、エドワードは侮蔑の眼差しを向け、隣を歩く父に不満を零し続けていた。
「侵略者と謗られるのは仕方ありません。しかし、それを否定出来ぬ行動は恥というものです」
「ワイバーンの王という後ろ盾が大きいのだろう。力あるものが背後にある状態は、意識せずとも気持ちを大きくさせるものだからな」
「父上。それでは我が軍は、竜の威を借るだけの卑怯者ということになりますぞ」
「事実そうなのだよ。ワイバーンがいなければ、我々はただの鎧を着た人間だ」
お前はまだ日が浅いので分からんだろうが、とヴァンドは首を振る。
子供扱いされたようで、エドワードはムッと眉を寄せた。
「この蛮行、すべては領主の弱腰が原因でございましょう。女房まで犯されていると言うのに、男たちが何の抵抗もしないのが何よりの証拠。情けない腑抜けども」
「服従の意志を示したい領主の命かもしれん」
「なればこそ。民草までも犠牲にする卑怯者でございます」
「風見鶏とはそういうものだ」
あちこちの建物から女の悲鳴と、酒を求める声が後を絶たない。
酷いものになると、砂糖に群がるアリの如く黒い人だかりを往来の真ん中に作っていたりする。知性も品性も感じられない姿は、ヴァンドも困り果てた様子であった。
「殿下が慢心せず、将校や兵士を残していればこうはゆかないのだが……」
屋敷には三十名ほどの手勢しか残っていない。
エドワードは嘆かわしいと零すと、近くの改装中らしき建物の足場に手を添えた。
「……それにしてもこの街、やけに油臭くありませんか?」
「油臭い?」
エドワードはすんと手の臭いを確かめる。
「この足場の木材とか特に臭いますよ。雨が多いゆえ、水を吸わないようにしてあるのでしょうか?」
言われ、ヴァンドは初めて空気中の油臭に気づいた。
この臭いは浸水避けの油ではない。嗅いだことのない独特なものだが、仄かに戦争用に使う油香も感じられる。
「ふうむ……」
街の中心部を外れた住宅街。建物という建物から女の悲鳴が聞こえている。
……が、どこからも男と争うような声は何一つ聞こえてこない。
「――エドワード、近くに馬はあるか?」
「あちらの方に二頭見えます」
深刻な表情の父を見て、エドワードは恐る恐る西の方角を指差した。
距離は二百メートルほど。仕立て屋か糸巻とハサミが描かれた看板がかかっている。
ヴァンドもそれを確かめ、つま先を転じたその時――街のどこからか、鐘楼が鳴り響く。
「鐘楼? 今ごろ――」
エドワードが訝ると同時、
『うわああああ――ッ!?』
頭上から、男の悲鳴とガラスの割れる音がした。
反射的に落ちてくるガラス片を避けたエドワードとヴァンド。後ろに飛び退ったその場所に、続けて真っ裸の男が頭から落ちてくる。打ち所が悪かったらしく、男はピクリとも動かない。
エドワードとヴァンドは見上げ、窓から赤い光が漏れているのを確かめた。
尋常ではない明るさは、ひと目で『火が出ている』と分かる。
「――あっははははっ、金もなく女を抱こうとするからだよマヌケっ」
裸の女が酒瓶を片手に半身乗りだし、窓縁に肘をかけながら陽気な声で吐き捨てる。
そして平然と煙草を取り出して一服。火がついたままのそれをポイと――建物を囲う足場に投げ落とした。
するとどういうことか、
「父上ッ、これはいったい――ッ!?」
「〈船殺し〉……ッ、海でも燃える油だ!」
炎はあっという間に一ブロック先まで明るく照らす。
火が触れるや信じられない速度で足場板を走ったのである。
「エドワード、剣を抜けッ! 連中が来るぞッ!」
父の声にエドワードが振り向く。
見渡す限り、建物という建物から、鈍く光る刃物を持った男たちが飛び出してくる。
◇
屋敷もまた紅蓮の炎が取り囲んでいた。
「貴様、裏切ったなッ!」
殿下ことエリックは鍔競り合うカトゥスを睨みつけた。
背にする屋敷と取り囲む壁が燃え、そのさまは『炎獄』と呼ぶに相応しい。カトゥスは革の面覆いの下で冷笑を浮かべた。
「裏切る? 私は協力はしたが、お前たちに服従した覚えは無いぞ」
「き、貴様ァ……ッ! 死んだ方がマシと思わせてくれるッ!」
「残念。それは産まれた時から感じているよ」
屋敷から炎が上がると同時、屋敷から使用人たちが武器を構えて飛び出した。
敵味方入り乱れる戦場と化したその地では、あちこちから絶命と剣戟の音が聞こえてくる。
カトゥスの周囲には七つの死体。
屋敷の使用人が二つ。残り五つの死体は帝国兵で、殆どがカトゥスに斬り伏せられた。
勇んで斬りかかったエリックだったが、容易く剣先が弾かれた。
「ぐ……ッ」
太陽の日差しを受ければ命を落とす。人間の出来損ないと見下していたはずの男のそれは、まさしく武芸に通じた者の剣だった。
しかもそれは普通の剣ではなく。歴史の中で数多の指導者を屠ってきた、ウェントスの暗殺部隊のもの。
想像とかけ離れた姿はエリックの理解を越えていた。
『うぐあァーッ!?』
炎上する屋敷から兵士が飛び出してくるが、床に横たわる血だらけのメイドに足を掴まれ、転んだ上から追いかけてきた使用人が斧を振り下ろす。
エリックの意識が一瞬そちらに向いた時、カトゥスの剣が動いた。
「ぬぅりゃッ!」
「……しまッ!?」
カトゥスがエリックの剣を払い上げた。
隙が出来た。
横に旋回してその胴を斬り払おうとした瞬間――
「――ッ!?」
鈍い衝撃が走り、カトゥスはがくんと右膝から崩れた。
右太の腿の裏に突き刺さる矢。振り返ればそこに、使用人の死体を踏みつけ、弓を引き絞る帝国兵の姿があった。
「ふ――ははははっ!」
一変して形勢が逆転した。
剣を振りおろされたエリックの剣をカトゥスは剣を横にして受けたが、脚の踏ん張りが利かず勢いを殺しきれず身体が左に崩れた。
「ははは……はははッ、ハッハッハァーッ! 所詮は雑魚の集まりだッ! 貴様の首を門に飾り、その下で民を一人ずつ処刑してやろう!」
トドメだ、と両手に握った剣を大きく振りかぶる。
すると後ろから小さな断末魔と、『カトゥス様ッ』と叫ぶ声がした。
「我々の役目はここまでッ! お先に失礼しますッ!」
弓兵は背後から短刀で貫かれ、その後ろには灰色の商人服の男が。
そして、バタンと扉が閉じる音がした。
カトゥスは面覆いの下で薄く笑みを浮かべると、足を踏ん張り立ち上がった。
(私もやらねばな)
三か月――カトゥスは胸の中で呟き、剣を振る。
矢によって精細を欠いたが、エリックだけならまだ渡りあえる。
(三ヶ月……三ヶ月持たせられれば、ラウは勝てる……!)
エリックは両手で剣を握り、上段から左に振り下ろし、手首を返して右に払う。そしてくるりと一回転して、その勢いで上段から力任せに叩きつける。
カトゥスの剣はすべて凌ぐものの、矢が動きを阻害して身体が思うように動かない。ついに力の方向のまま身体が流れ、態勢が崩れた。
「はッ!」
カトゥスは剣を前に突き出したが、エリックは身体を横にして躱され。左腕を剣に巻き付けながら一気に距離を詰め、逆にカトゥスの首に向かって剣先を突き立てにきた。
上背を逸らすことでカトゥスはこれを避ける……が、剣はエリックの左腕に封じられたまま。
刃を胸に突き立てるか、首を撫でられれば終わりだった。
「終わりだ、出来損ないッ!」
エリックは首をかっ切る方を選んだ。
これに賭けていたカトゥスは迷わず剣を手離し、左拳を振るって相手の腹を殴りつける。
その衝撃に、くの字に身体が折れ。暴食の胃の腑が歪み、エリックは軽く嘔吐しながら二歩、三歩、後ずさった。
カトゥスはこの機を逃さず。
追いかけるようにその右腕を掴むと、
「貴様の執着と慢心が、破滅を呼ぶのだ――ッ」
カトゥスは腰に据えていた短刀を引き抜き、右腕の関節に刃を突き立てた。
「あ゛あああああああーーッ!!」
深く埋まる刃。逆手に握られたカトゥスの短刀は右腕をえぐり、ぐしぐしと切断にかかる。
「ぬうゥゥゥーッ!!」
「う゛あ゛ああああッ!? あ゛ああーッ!?」
腕関節をから血が吹き出し、びちゃびちゃと石畳を打つ。
絶叫する様子に、勝利を確信したその刹那――鈍い衝撃が胸を叩いた。
「……ッ!?」
胸から飛び出す鈍色の刃。
槍の穂先と気づくに合わせ、カトゥスの右膝が再び崩れた。
『殿下ーッ、殿下ーッ!』
馬を馳せ、猛烈な勢いで向かってくるのはヴァンドだった。
その後ろを走るのは息子のエドワードである。
カトゥスの姿を認めると、父を追い越し、握っていた剣を振りかぶった。
(ここまで、か……みな、よくやってくれた)
だが、と迫るエドワードを見据える。
(木の葉から水が落つ、その一瞬でも長く……止めて、見せる……。逃げよ、ロイン……!)
父のヴァンドは「止めろッ」と叫ぶが聞かない。
「この、裏切り者がァァァァァッ!」
刃が走り、胸を深く斬り裂いた。
カトゥスの面覆いはその衝撃で飛び、炎の中で若き領主の素顔が露わになった。
黒髪の顔半分が焼けただれた青年だった。
背中から倒れながら、その目はじっと燃える夜空を見つめている。
「裏切りの報いを受けよ――ッ!」
「エドワードッ、手負いを討って誇るなッ!」
「し、しかし、この男は! この男は大罪者、裏切り者ですぞッ」
「お前に言ったことを忘れたか! この混乱に乗じてダイアホークの騎手の弟を逃がしているのだッ! 恐らく裏の山だ、早く残存兵を集めて征けッ!」
やはり厄介な男である。場数を踏んだベテランゆえ、街の混乱に巻き込まれて死んでいれば――いや、もう少し到着が遅ければ、この戦争の勝利はより確実なものとなったはずなのに。
カトゥスは笑みを浮かべようとしたが、口は動かなかった。
(ラウ……もし私が、君と青空を眺められる身だったなら……)
若き将が悔しげに駆けてゆく音がする。
暗闇の中に沈む中で、カトゥスは『見事なり』と称える声を聞いた。




