第1話 変わりつつある日常
初夏の爽風が吹き、ターリースの平野に新緑のさざ波が浮かぶ。
水の都・ステルダムでの決戦を終えてから二年。その大敗が響いているのか、帝国の動きは著しく鈍化していた。
このまま穏やかな時が過ぎてゆくと思われたが、時流と言うものは、常に人の願いや想いに反するものである。
「うーん」
この日、ラウは腕を組み、窓の外を眺めていた。
隣には同僚であり親友のルーシーが立つ。手にハタキを握り、パタパタとラウの横で鎧戸のホコリを落とし続ける。
「風情なんてあったもんじゃないわ」
「また言ってる。愚痴っても消えやしないんだし、手を動かしてホコリを落としていた方がよほど有意義よ」
「それはそうだけどさ」
ラウはため息を吐いた。
目の前には、木組みの塁壁が屋敷を取り囲むように連なっている。元々この場所は、地平線が望める絶好のスポットのはずだった。
「木造は維持管理費がかかり過ぎるわ。カトゥス様もそうだけど、どうして石造りの建築を推奨しないのかしら」
「言われてみると確かにそうよね。石造りが出来ない理由なんてのもないし」
それに、とルーシーは思い出すように言う。
「ここって湿気と雨が多いのに」
昨年、カトゥスは領主の座を降りると正式に発表した。
街は一時騒然となり、『病が悪化したのでは』と様々な噂が飛び交うのだが、彼らの専らの感心は次の領主のことである。
屋敷に構築された“壁”は様々な憶測を呼んでいるが、次男のウォークスが次の領主であることは、ラウとごく一部の者だけが知る。
「次の領主の方針が嫌なら、ラウがカトゥス様の子を産めばいいのよ」
「なっ!? そ、そんなの無理に決まってるじゃない!」
ラウは顔を赤く染め、ぷいとそっぽを向いた。
領主と商人の娘――精錬されたその美貌ゆえに、を口実にした身分違いの関係にある。
一応は伏せているのだが、メイドたちはみな分かっていた。
「両家のお嬢様だけが候補なんて建前で、娼婦や村娘、顔や身体が魅力的ならベッドに誘われるんだから」
「もう。カトゥス様はそんなのじゃないの」
唇を尖らせるラウであったが、窓から漂う芳しい香りに矛が降りた。
ルーシーも気づき「あら」と目を閉じ、窓に向かって鼻をかざす。
「弟くんがパンを焼いているのね」
「そうみたいね」
「やっぱり弟くんのパンは格別よね。香りからして全然違うもん」
街で弟のパンを知らない者はいない。
その発端となったのはルーシーで、彼女が街で他の食べ物と交換したところ、たちまち話題となったのだ。
「まったく。早く店を持ったらいいのに、意固地なんだから」
ラウは小さく首を振った。
昨年、カトゥスは『店を出してはどうか』と提案したのだが、ロインはまだその域ではないと固辞した。
自身が納得出来ないパンを売りたくないとのことだが、小麦の仕入れ代や燃料費なども馬鹿にならないと諭し、折衷案として『屋敷の余りもの』という形で商人に卸している。
理想とする味を求め、やっとここまでこぎ着けたのは分かる。
だけども、姉としては早く落ち着いて欲しいところだった。
「弟くんって可愛いわよねー。お年頃になって、真っ暗な中でも顔赤くしてるの分かるんだもん」
「あまり刺激しないでよね。あの子、パン以外のことはてんで無知だから」
「んー、確かにウブだったわね」
「……なんで過去形なの?」
「うふふ、それはナイショかなー」
ルーシーは意味深に言うと、次の掃除場所へと向かう。
ちょっと、と姉は慌てて追いかけるのだった。
◇
一方。帝国・バローナは慌ただしく、円卓を囲う貴族たちが騒然と顔を見合わせていた。
十ある席のうち、三つが空席となっている。その部屋の最奥に位置する席には王子・エリックが座しており、それぞれの反応を確かめるように眺めている。
「――エリック様、あのターリースの領主は信用してはなりませぬ!」
腰を浮かせながら声をあげたのは、エリックの右隣に座るヴァンドだった。
他にも三名が同意するように視線をエリックに向ける。
「私も今回ばかりはヴァンド殿に同意しますぞ。あのコウモリ男は得体が知れず、いくら偵察を送ってもロクな情報がない。脛に傷のある男の方がまだ信用できますぞ」
正面に座る、灰色髪をした初老の男が援護する。
細い口ひげをいじりながらの不本意そうな態度であったが、ヴァンドは気にせず男の言葉に何度も頷く。
「ダイアホークの騎手を街に留めることに成功し、いつぞやの約束を果たしたいと申し出があったとしても、あれは口約束のみ――信ずるに値すべきか、念入りに調べるべきかと」
貴族たちは反論しない様子だったが、
「言いたいことはそれだけか」
中心に立つエリックは声低く言い渡した。
「我が軍が敗れるはずだ。どいつも逃げ腰で死ぬことを恐れている」
「しかし――」
「その代表であるお前の言葉なぞいらぬ」
エリックにひと睨みされ、ヴァンドは言いかけた口を噤む。
部屋の空気が張り詰めた。他の貴族たちは飛び火がこぬよう目を伏せている。
これにエリックは嘲笑するように鼻を鳴らし、席を立った。
「必要なのはあの街だ。ターリースに乗り込む際は、我がワイバーンに乗り、コウモリとタカの両方を噛み殺してやろう」
あれを見れば服従するだろう、と笑みを浮かべて部屋を出る。
完全に姿が見えなくなってから、貴族たちは長い息を吐いて緊張を解いた。
「また血生臭い戦争になりそうですな」
灰色髪の男が疲れたように言うと、
「しかし戦費はどうされるつもりか。我が領は昨年の不作が響いておるぞ」
「うちも余裕はあまりないぞ」
「また債権を出すか」
「領地の者が不信感を抱いておる。前回のステルダム戦はどうにか賄えたが、ワイバーンの損失はあまりに大きい」
それぞれの顔は暗い。
しかし一人だけ、丸々と肥えた男だけは素知らぬ顔で扇を仰ぎ続けている。
「ほっほっほ、どことも資金繰りに困っておるのう」
「よくも言えるなラバーグ伯よ。貴殿のところだけだ、戦費も兵も殆ど出しておらぬのは」
「そりゃあ戦争をしても腹が膨れぬからの。それにそのお陰で、今も円卓に座れる者もいるはずだがのう」
目を細め、愉快げに笑う仕草に二名の貴族が歯がみする。
「動けば腹が減る。人を使えば金が減る。わしは戦争の仕方を知らぬが、ターリースを攻めるのは愚策であろうと思うのだがの」
これに、うむと頷いたのはヴァンドであった。
「領主が次男のウォークス公に代わるとの情報がある。街もそれに合わせ、要塞化しようとしているらしい。王子としては今のうちに潰しておきたいのだろうが」
少し考え、壁にかけられた地図に目を向けた。
「リュイエールで暴れていたダイアクラスが討伐され、こちらに集中出来るようになった。後顧の憂いを断つためにも、余力がある内にリュイエールの堅城を抑えるべきだ」
「貴様ッ、西部諸侯を信頼しておらぬと言うか!」
言うなり灰色髪の男がいきり立つも、またも呑気な笑いが横やりを入れる。
「実際、成果を挙げておらぬからの。早く墜としてくれないから、わし、予定を変えて東部に荘園を作っちゃったぞ。ほっほっほ」
「ぐっ……この役立たずのデブが……!」
いつまでも足並みの揃わぬ様子を前に、ヴァンドはやれやれと首を振るのだった。
 




