第2話 大鷹と少女
もう陽が昇っているはずだが、灰色の雲に遮られてるせいでどんより暗い。しかし雨の気配はなく、雲の薄いところは白々と明るかった。
途上にある山の分岐点に、下界を一望できる開けた崖がある。ラウと使用人のマーサは、そこで父たち行商の隊列と別れた。
「ねえマーサっ、あそこに見えるのがリンデ村だよねっ」
崖から景色を眺めていたラウは、小さな集落を指差しながら後ろを振り返る。
マーサは敷物に座り、昼食のサンドイッチや果物を用意していた。
「ええ、その通りでございますよ」
その手を止めて、にまりと笑みを浮かべる。
「ここから西の山を越えればルデラ国。さらにその向こうにゆけば、かの商業都市・ジェヴァでございます」
「ジェヴァ! わたし知っているわ。ヒト、モノ、カネがすべて揃う地よ! ああ、あの向こうにあるのね!」
「並の商人なら恐れて近づかぬ、獣の地でもあります。お嬢様ならきっと、ジェヴァをはじめ世界を股にかけた大商人になることでしょう」
うっとりする少女に目元を緩めたマーサだったが、ふと何かを思い出したように「ああ」と片手を持ち上げた。
「お嬢様、崖っぷちにはゆかぬようにして下さい。雨続きのあとですし、乾いているように見えても水を含んでいて、崩れやすうございますから」
「分かってる。大丈夫よ」
山を甘く見てはならないことは、重々承知しているつもりだ。
するとその時だった。景色に見入っているラウの耳に、ピィピィと鳥のさえずりが聞こえてきたのは。
周りを見渡すも営巣地となりそうな樹木はない。離れた場所にはあるが、はっきりと違うと分かる。鳥のさえずりは、もっと近くからしていた。
(もしかして)
ラウは足下に意識を向けた。
(やっぱり。崖の下からだ)
ラウはマーサが後ろを向いているのを確かめ、崖際にそっと両膝をついた。
「うっ、ひゃあー……っ」
身体中を這う畏怖心に、ラウはぶるりと身震いした。
自慢の遠目をもってしても、崖下の緑土は遥かに遠くにある。しかし起伏の激しい岸壁には桃色の花が咲いていたりして、これまで見たこともない世界でもあった。
もっとよく見てみよう。
この時、ラウは肩まで身を乗り出したのがまずかった。
「あっ――」
気づいた時はもう手遅れだった。
右手をかけていた崖縁が崩れた。咄嗟に左手に力を込めるも、小さな身体はとっくに、宙へと放り出されていた。
このまま死んじゃうのかな。
浮遊感に包まれながら、灰色の空に向かって腕を伸ばす――すると突然、パシッと何かがそれを掴んだ。
(え……?)
落下が静止したのも一瞬のことだった。
今度は浮上しながら世界が回った。
あるいは空がひっくり返ったのかもしれない。
いずれにせよ、それは膝に何かがぶつかるまでの短い出来事で、すぐに、どすんと背中に鈍い衝撃が走った。
「い、ったぁぁーい……っ……」
そこはゴツゴツしたところだった。
「ううー……さっきから、なんなのー……」
痛みに顔をしかめ、ラウは涙目で打ちつけた場所を撫でさする。
するとそのすぐ傍から、
「ピュ、ピュイィィ……」
自分のではない呻くような声がし、えっと顔をあげた。
「……」
ラウは“それ”に目を瞠った。
黒に近い焦げ茶色をした鳥だった。頭を打ったのか、両翼で押さえるような格好をしている。
琥珀色の宝石のようなまん丸の瞳は愛嬌のある顔だけど、いまは少し不機嫌そうだ。
いやそんなことよりも――
「わ――」
ラウは、その鳥が『自分よりも大きな鷹だ』と分かるや、
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
「ピュェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェッ!?」
大鷹も悲鳴に驚き、互いに両手・両翼を広げた。
「……」
「……」
しかし、そのまましばらく何も起こらず、
「……」
ラウは手をパンパンと叩いてみると、
「……」
大鷹もバサバサと翼をはためかせる。
「……」
「……」
ややあって。
ラウは腕を下ろし、大鷹もすっと翼を畳んだ。
「……あなた、鷹なの?」
訊ねてみると、大鷹は言葉を理解するように一拍置いて、
「クルックー」
ハトのように鳴いた。
その顔は得意げだった。
「“バカ”ってことは分かった」
「ケェッ!」
なんだよと、言いたげに大鷹はぷんすかと頭を揺する。
先ほど鳴いていたのはこの子か。おおかた餌が落ちてきたと思い、捕まえて引っ張り上げたものの、その勢い余って頭をぶつけたのだろう。
背後は岩壁、前方には険しくも雄大な自然が広がる。隔てるものがない巣には、ヒュウヒュウと風が絶えず吹き流れるだけだ。
見上げると、落ちた崖までかなりの距離があった。
「とても登れないなあ……」
ラウは小さくため息を吐き、その場で膝を抱えた。
大鷹も真似るように翼を畳んでラウを見る。
「あなた、ダイアクラス……だよね?」
「ピ?」
「でも、村長さんから聞いた話とは全然違う気がするけど……」
それは世界における驚異と呼べる獣の王者のことだ。
国の歴史はダイアクラスとの戦いと言っても過言ではなく、討伐に向かったまま戻らぬ騎士団の話や、果敢に立ち向かった英雄譚が多い。どちらにせよ彼らは非常に獰猛で、遭遇すれば命はないものとされている。
ラウはそこまで分からない。実際に目の当たりにして分かったのは、目の前のダイアクラスはとても人なつっこく、愛嬌のある顔をしていると言うことだった。
「わああっ、ふわふわしてるー♪」
「ピュイッ♪ ピュイッ♪」
ラウの手は自然と伸びていた。
大鷹も嬉しそうに擦り寄ってくると、もう抱きつくように猫かわいがり。
だがそれも、足下が不気味な音を立てるまでで――
「……ふぇ?」
「……ピュイ?」
落下の衝撃でヒビが入ったのだろう。
次にがくんと傾く巣は、今まさに岸壁から剥がれようとしていた。
「……」
「……」
無言で頷き合う少女と大鷹。
断続的だった音が続く。もう手のほどこしようがなく、それは間もなくして倒れ、再び大地に向かって放り出された。
「わああああああああああああああああああーーっ!?」
その刹那、びゅうと風が吹いた。
(……え?)
それは、森の木々を撫でる一陣の風のように。
滑空していると分かったのは、ピィーと鳥の高鳴きが聞こえた時のことである。
頭を上げてみれば、大きな翼で風を受け止める鷹の姿。ひとたび羽ばたけば、身体が浮かんで眼下の森がみるみる遠のいてゆく。
――大鷹
耳にひびく細い風音に、ラウはやっと『大鷹の足に掴まれている』と理解した。
「わ、ああー……っ……」
風は峨々たる山嶺よりも高くまで舞う。雲間から一筋の陽光が大地を照らし、煌めく川が沃野を這う。
揺蕩う草花は土を彩り、生物はいまを謳歌する――心の琴線を奏でるその景色の名は、『今日』という希望であった。
(これが世界……)
ラウは一瞬にして、“空の世界”に魅了された。
「ピュイ」
空と大地を分ける地平線の向こうには紺碧の海が望む。
何かを探すように森を眺めていた大鷹であったが、しばらくすると旋回をし、元いた崖に向かって空を滑り始めた。
ラウもこの頃になると空に慣れていた。
自慢の遠目を凝らしてみると、そこに唖然と立ち尽くす家政婦に気づいた。
「ねえ、あそこに降りられる?」
「ピュイッ」
悲鳴を聞いて、まさかと駆け寄ってきたのだろう。
大鷹はその頭上を越え、彼女が用意していた敷物の傍に、バサバサと両翼をはためかせて降り立った。
「マーサっ!」
「お嬢様……!」
ラウはマーサの下に駆けた。
「おお、お嬢様……お嬢様……」
「ごめんなさい。私、私……っ」
「ええ、ええ、分かっておりますとも。それ以上は何も言われなされますな。このマーサ、お嬢様が寂しくならないようずっと傍におりますから。我が人生に一片の悔いはなし、いざお嬢様の下へ――!」
「待ってマーサっ!? 私まだ生きてるからねっ!?」
崖に向かうマーサのスカートにしがみつき、必死で引っ張るラウ。
大鷹はその後ろで、サンドイッチや果物を美味しそうに啄んでいた。




