第1話 天秤を手に
カネを得る、モノを買う……何の変哲もない日常のやり取りも、帳簿の中ではとてつもなく難解で、そして複雑な手順をもって記される。
帳簿はいわば文化や人々の息づかいを記す歴史書であり、繁栄と衰退の両方において会計という影は必ず存在していた。
「――ふむ。良いでしょう」
ジェヴァの監査官・エルメラに師事してから四年。
緊張の面持ちでページをめくる音を聞いていたラウは、胸に手をあて、はーっと安堵の息を吐く。
「ラウ。いつも言ってますが――」
眼鏡の向こうが鋭く光り、ラウは慌てて取り繕った。
「問題集とは正解することが目的ではない。承知しているのですが、苦手だった決算書の連結でしたので、つい……」
エルメラはふふっと笑みを浮かべ、ソファーに身体を沈める。
「私の目に狂いはなかった。これなら近い内にも教鞭が執れそうね」
「私には務まりませんよ。まだまだ自分の帳面だけで手が一杯ですし」
「相変わらず欲のない子だこと。私はそうなって欲しいのだけど」
ラウは壁に立て掛けたモップを手にすると、拭き拭きと部屋の床掃除を始めた。
会計を学ぶ傍ら、屋敷にいるあいだはメイドとして勤めている。
「ところであなた、今年でいくつだったかしら?」
「十二歳になります」
「あれから四年か……。ここの女王もババアになったわけだ」
「先生、聞かれてたら極刑ものですよ……」
「その時は帳簿で罷免してやるわ」
エルメラはくくっと肩を揺らして笑う。
エルメラは肘掛けに身体を預けながら、床を見るラウの横顔を覗き込んだ。
「本当に美しくなったわねラウ。いつ貴族の嫁にやってもおかしくない」
「先生の教育のお陰です」
「だけどちょいと気合い入れすぎたよ……その物腰は四年目のレディではなく、四十年目の行き遅れだ」
「あはは……訓練所でも『年齢を偽ってる』って言われてます……」
四年の歳月は、ラウの女ぶりを格段に上げていた。
黒のワンピースに白いエプロンをしたメイド姿。背は同世代の男に負けないくらい高く、身体つきは柔らかな曲線で描かれた起伏が出来ている。大人びた顔立ちもそのままに、気の強さが目や鼻に現れていた。
しかし何より、
――メイドを見れば家の格式が分かる
ラウの“美”は表層的なものばかりではなかった。
かつては家庭教師も勤めていたエルメラにより、淑女としての心得・礼儀作法を仕込まれたのだが、ラウは物覚えがよすぎた。
教え子がメイド服に着替えれば、たちまち貴族邸のメイド長を彷彿とさせる、気品と風格が備わってしまったのである。
「ところで、街の様子には気づいていて?」
「……ええ」
ラウは視線を窓の外に向けた。
春から夏へ、汚れのない雲が浮かぶ青空――しかし、その下に息づく町並みはどんよりと重苦しい雰囲気に包まれている。
「翼竜の影が平和を覆う世界……やはり、帝国が攻めてくるのでしょうか」
「間違いなくね」
「帝国はどうして侵略を繰り返すのでしょう」
それは、口をついて出た言葉であった。
「帝国・バローナは荒野地帯にあり、食糧らの生産性が低いからですよ」
使役するワイバーンの営巣地のため離れられない。
ゆえに周辺各国を攻め滅ぼし、掠奪と支配によって腹を肥やしてきた。
師は頬杖をつきながら極めて冷静に説明をし、
「これを二人で食べれば満腹になるでしょう」
と言って、テーブルに置かれたミートパイを指した。
それは朝食にとラウが焼いたものだった。
「しかし、十人で食べれば満腹には至らない。分かりますね?」
「はい」
「これが二十人になれば空腹に喘ぐ――あなたはこれをどう解消しますか?」
パイが足りないから飢える。つまるところ『貧困』だ。
単純かつ手早く解決するならば、パイを増やせばいい。
「私ならパイを増産します」
エルメラは小さくうなずく。
「その理由は?」
「理由は『なぜパイは不足することになったのか』にあります。原因は恐らく、食い扶持が増えたことで収支のバランスが崩れたものと考えます」
「では、どのように増産しますか?」
「まず収支報告書および帳簿を確かめ、詳しい原因の調査します。そして無駄がないかを調べたのち、原材料の調達手段を考えます」
「支出が増えると生活への影響が懸念されるわね」
「もちろんです。しかし食い扶持が増えて困窮するということは、お金の流れに支障が生じていることになります。労働者の環境や意識改革が必要となれば、それも同時に進めるべきだと私は考えます」
よろしい、とエルメラは柏手を打つ。
「一つアドバイスをするならば、ラウは現状を維持する方針でしたが、ここでは改善について――新たな収入を模索する方向で考えるようにすれば、及第点を越えられるでしょう」
「あっ……!」
思わぬ指摘にラウは口元に手をやった。
確かに、現状維持による長期の停滞は衰退を招いてしまう。
少人数であれば改善も見えてこようが、国という規模となれば僅かな躊躇が命取りになりかねない。
「まだまだ勉強不足でした……」
帳簿は経済活動を記録するのみならず。
人と時代、あらゆる息づかいを遺した歴史書と呼んでも過言ではない。そこにある“因果”は綿のようなもので、会計官は帳簿を通じて一本の“糸”に紡いでゆくのが役目だと師は考える。
実力をつけてきたと思ったものの、まだまだ小さな山に登っただけらしい。
「食い扶持を減らす、パイに代わるものを生み出す、どこかから奪う……どれも正解、不正解はなく、何が最善であるかを選択せねばなりません」
「つまり帝国は、飢えをしのぐために『奪う』を選んだ、と言うことですか?」
「その通り」
ですが、と言葉を続ける。
「草食の獣が山を食い潰し、棲まう小鳥たちを死滅させるように。いかなる最善の手段を選んだとて、一人でも不当に肥え太る者がいると失敗します」
師は言って、窓の外に目を向けた。
そこには物欲しげな目でパイを見る大鷹がいた。
「――それを抑止するのが肉食の獣、ひいては空から均衡を守る猛禽類は“自然界の王者”と呼べるでしょう。天秤を持つ会計官の役目もまた同じです」
「自然の鷹ならそうでしょうが……あれはただの空を飛ぶ惰鳥ですよ」
「ふふ、まあそうかもしれないわね」
資源を貪る翼竜に対し、正義を図る天秤が大鷹なのだろうか。
借方と貸方、善と悪、太陽と夜、若さと老い……会計は天秤の役割を持ち、その両皿に置かれるのは対となるもので、どちらも釣り合うことで『健全』となる。
それは金色に輝く太陽の下、誠実さと良識がなければ導き出せない。
(先生は会計官として、帝国を“草食の獣”と見ている)
人間の欲望には限りがない。
両手に持てる金貨はどれだけなのか、限界を知る術が会計となる。
ラウは『お腹空いた』と、頭をふりふりする大鷹を見ながら、
(まさかね)
と、肩をすくめて微笑んだ。




