フェイズ 8
「どう、ここまで辿り着いて目にしたものの感想は?」
「ば、馬鹿な…そんな…はずはない…な、何なんだ、これは…!?」
彼が立っていた場所から二階分ほど高い通路から見下ろすように女が大声で言い放った。内部に何もない丸屋根状の屋根の内側に彼女の声が見事に弾け、施設内に反響していた。
「そりゃ、そうよね…私だって…今さっき、あなたと同じように唖然としたわよ」
彼女は、経済産業省の役人と思しき男の背中に拳銃を突き付けながら、高い場所から通路を二度ほど折れながら下り始めた。
「まさかね……局内からの超極秘任務で、こんな場所を侵入しろ、だなんて…夢にも思わなかった…」
まるで役人の背中に話し掛けているようだった。
「入手した報告に誤りがあった…若しくは故意に情報操作されて、まんまと罠に……嵌まった?」
「ちょっと待て……ラングレー……だと!?」
男は声を張り上げた。
「そうよ」
「はっ!?……どういう事なんだ、意味が全く判らない」
彼が立っている‘がらんどう’の広大なフロアまで彼女はようやく役人と下りて来た。
「それに、その男は?」
男の声質に幾らか動揺が表われていた。
「この施設の責任者…かしら?…経済産業省のお役人様…よね?」
役人の背後で惚けるみたいに首を傾げながら問い掛けた。
「不幸にも、あなたが事故にあって、記憶なんか失って全て忘れてしまうからよ…本来の任務から何から何まで一切合切ね。でも笑っちゃうわよね、あなたも私も苦労してここまで辿り着いたというのに、蓋を開けてみれば、こんな馬鹿にした結果…だなんて」
打って変わって女の言いようは、気持ち悪いほどに淡々としたものになっていった。
「それで?」
「記憶を失って用なしになったあなたを抹殺して、この秘密施設の調査と、場合によっては破壊する、という仕事を引き継いだの…あなたを抹殺する、という部分以外は、あなたが与えられた任務と同じのはずよ……それなのに」
彼女の視線は、男の内側にある本性を抉り出すようだった。
「ふふふ、ちょっと待て、今何て言ったんだ…オレを抹殺する、だって?」
「えぇ」
彼女は、眉一つ動かさずに「当り前じゃない」というように反応した。
「さっき、オレが叩きのめしたのを、もう忘れたのか?」
「I forgot…忘れたわ」
まるで巨大な体育館の内部のような何もない空間で二人は距離を取って睨み合った。役人は、恐怖心と居心地の悪さで、二人の間で挟まれるように背中を丸くしているしかなかった。
「…ていうかさ、あなたまだ判らないの…私達二人、正確に言えばあのあなたが殺した女も入れれば三人とも騙された、っていう事に…いえ、私達に限って言えば、本当に騙されたのは局内の情報収集担当がまんまと誰かに騙された、という事なのを…」
男はベルトから引き抜こうとしたナイフの手を止めていた。
「ふ…ふふふ…」
ははははぁ、と役人が丸めていた背を反らせていきなり高笑いを上げた。
「いやぁ、色々とスゴいものを、いや、非常に興味深いものを見させてもらったよ、君達の能力や、米国の諜報機関が持つ最先端のIT技術による高度なセキュリティ侵入能力の粋を集めた結果を全部ね…」
「全部…見た!?」
彼は、こいつ何を言っているんだ、というような怪訝な視線を役人へ向けた。女は役人の背に拳銃を押し当てたまま、執務室にあった幾つもの液晶モニターと、ブロック分けされた画面を思い出していた。
「偶然にも、君が殺したあの魔女の身体能力も、特筆するほどに強烈だったよ。君らのように最先端の生物工学で身体改造など施されていないにも関わらず、彼女の格闘能力はまさしく異常だった」
残念だったよ、と俯き加減に零した。
「だが、彼女の事も、君達の事も、今後の重要な研究課題の資源とさせてもらうよ、我が国の国防と、屈強な兵士を育て上げる為にね」
「待て…防衛省の人間でもないあんたが何故…それに魔女の事をどうしてあんたは知っているんだ?」
「ぼくが代理人に化けて、彼女を招聘したからだよ。この壮大にして前例のない‘仮想訓練作戦’の大事な隠しコマンドの一つとなってもらう為にね」
役人は、恐いほど鮮やかな笑顔を浮かべて男と対峙した。
「仮想訓練…作戦だと!?」
「君らだってシミュレーションの隠しコマンドなんだよ。それに何かみんな勘違いしているみたいだけど、ぼくは経済産業省とか、防衛省とかの役人とか官僚ではないよ。ましてや、世界を股に掛けたその筋の闇社会で著名な暗殺者を仲介する代理人でもない…」
「ちょっと待って…あなた、何処かで見覚えのある顔だと、さっき執務室で思ったけど、ま、まさかコウズ、作家の神津良吉…じゃないの、テレビの討論番組とかに出ていた!?」
背後から神津の顔を確認するように覗き込んだ。
「ご名答…日本に来たこのたった半年で、ぼくの地味な顔と名前をよく覚えられたね。気が付いてくれて嬉しいよ」
神津はご機嫌な笑みのまま振り返った。背中に押し当てられている拳銃には全く怯える素振りもすでになかった。
「で、その有名な作家のお方が、何故ここの執務室にいたわけ? まるでわざわざ役人の振りをするみたいに…」
まるで意味が判らない、というように苛ついていた。
「実はね、その‘神津良吉’というのは、まさしくペンネームみたいなもので、それも本当は正しくないんだよ。作家稼業を建前上しているのは、真実のぼくの立場や存在を世間から欺く為なんだ」
「何なのそれ、じゃ、あなたの正体は?…一体何者なのよ!?」
三人がいる広々とした何もない施設内の床に、真夏の朝だというのに身を切るような冷気が忙しなく這いずり回っていた。
「そんなぼくの事よりもさ、君達には先に片を付けなければならない事があるんじゃない?」
まるで子供が興味津々というような目で、神津は交互に二人へ何度も目配せした。
「そうね」
彼女が冷淡にそう吐いたのと、神津の右脚目掛けて発砲したのはほぼ同時だった。放たれた九ミリパラベラム弾は、すねの真横を掠めて床に穴を開けていた。グレンチェックのスーツパンツが大きく裂け、裂傷から出血を始めた。
「う、うっ!!…な、何でこんな、ひ、酷い事を…」
「掠めただけだから大丈夫よ。この男を殺している間に、あなたに逃げられても困るし…ここから出るのにあなたが必要でしょ、人質として…」
彼女は痛みに苦しむ神津を素早く振り向かせ、絞めていた青いネクタイを左手だけで手際良く緩めて首から引き抜いた。
「これで太腿をきつく縛るの…いい?」
屈み加減で額に脂汗を浮かせた神津にネクタイを差し出した。彼は「判った」というふうに震えるように頷き、奪うように取ってすぐに太腿に巻いた。その仕草からは小馬鹿にした生意気な態度はすでに綺麗さっぱりと消えていた。
「どうせすぐにケリは付くわ」
「ほぅ…そいつは大した自信だが……さぁ、どうかな」
「大抵の場合、最初に出来上がったものよりも、その次の二番目に出来たものの方が、更に性能向上が施されている、というのは一般的な定説なの…知っている?」
神津から離れた彼女は、男との間合いを計るように躙り寄った。
「あなたは、局内で計画された最重要機密計画の検体成功例一号、私は、奇跡的にその後に続いた成功二例目の最重要機密計画二号よ…」
「だから?」
「思えば、私達って奇跡の存在に近いわよね。だって、人間の体内にある、いえ、身体を構築しているDNAは約二億五千万もの数の塩基対で成り立っている。そんな膨大な遺伝情報や免疫情報の塩基配列に対し、まさしく人体改造と云える最重要機密の為の免疫改善薬剤が、全くのピンポイントで蛋白質核酸ウィルスの拡張をDNAに促して身体能力と筋力を大幅に書き換えようとするのよ。普通に考えたって成功する方が、まず有り得ないわ。これまで一体何人が廃人になったり、無駄に死んだりしたか…今でも日々、ヒトの身体情報に問題なく書き換えが出来る核酸の研究は機関内で密かに続けられているけど、私達みたいに適切に‘適合’出来る事例は今後も極めて難しいわ…でも、何故か奇跡的に成功した事例の私達二件が偶然にも東洋系だった、というのは、何か意味があるのかも…知れないわね」
「そんな能書き、今はどうでもいいじゃないか……ただ、君は二号?なんだっけ」
男はシースナイフを抜きながら、突然の速い動作で女に取り付こうとした。
「だからよ…今判るわ、二例目の二号、私の方が間違いなく優れているという事を…」
言い終えるかどうか、というタイミングで男が出し抜けに疾風怒濤な速度で襲い掛かった。
「何!?」
彼女の絶妙な反応速度は、彼がナイフで狙った首元を掠めて空を切った。背後へ避けながら、返す刀でナイフを握っていた男の右手を右足で蹴り弾いた。思わぬ反撃に油断したのか、ナイフは彼の手を離れて冷たい床の上で乾いた音を数度響かせ、跳ねて飛んだ。
「ふふ…さっきの事は忘れた方がいいわ。今となればさ、私の息の根をあの時に止めておけば良かった、ってこれから嫌でもあなたに思わせてあげる」
「それはこっちの台詞だ!…オレが記憶を失っている間に殺しておけばよかった、と後悔させてやる!!」
睨みを利かせて対峙する二人は、これまで約一年の間に同じ場所で寝食を伴にして来た早乙女慎司という人物や、沢渡香織と偽っていた女とは全く別人の表情を浮かべていた。
「ここは、私達にとって、まるで…ローマ帝国時代の円形闘技場のようだわ」
呟いた直後に拳銃の引き金を男へ躊躇な連続して引いた。彼はまさしく超人的な速度で側転しながら回避運動を行い、放たれた全弾を見事に回避していた。彼女は、弾倉が空になった拳銃を躊躇わずに捨て、瞬きする間もなく腰からシースナイフを抜いて男に飛び掛かった。
ナイフの先端が男の左目を貫こうとした一刻、まるで光のような反応で女の右腕を彼の左手で掴んだ。怯んだ彼女の隙を狙って、男は右手の人差し指と中指をV字に開き、容赦なく両眼を潰そうと狙って突いた。彼女はその動きを予測していたかのように顔を右へ避け、左の手刀で掴まれていた右腕を解いた。二人は瞬時に再び飛び離れて間合いを取った。
「ふふふ、そうよね、こういう接近戦の闘いでは、相手の目をまず潰す、っていうのは鉄則よね」
「戯れ言を喋り過ぎだな…」
男は、氷のような眼差しを彼女に送った刹那、床に転がったナイフを認め、それを拾う為に素早く側転した。
「もし、君を殺してオレが生き残った、としたら、局内はオレの事を一体どうするのかな? 今はこうして塵のように始末されかけているが…まさか、無事に情報を持って…偽情報でした、という結果を携えて帰国したら、もしかして更なる英雄として祭り上げてくれるのか…な?」
再び携えたシースナイフを見詰めて呟いた。
「絶対にそうはならないから、余計な事は考えなくていいわ」
憎しみを込めて馬鹿にする男を睨んだ。低い姿勢から側転し、そのまま跳ね上がって彼の背後へ疾風のように回り込んだ。ナイフで男の背中から心臓を一撃で狙うが、あたかもその動きが端から判っていたかのように彼は振り返り、襲い掛かって来た女のナイフを自身のナイフで弾いて防いだ。鋭利な刃金と刃金がぶつかった乾いた金属音が辺りへ拡散して飛び散った。
彼女は隙なく背後へ見事な後方転回で回避した。男の反撃に備えたのかと思ったら、間断なく前傾姿勢で男に向かって跳ねた。ナイフが男の身体の何処かへ迷いのない狙いを付けていた。一直線に飛んだナイフの尖った刃が、男の視界で見る間もなく目前で突出した。それを寸でのところで右腕を交差させて退けた。
「まただ、甘い!!」
決めた、と確信していた彼女の逆手を取って、左肘の肘鉄を容赦なく顔面に見舞った。彼の肘が飛んで来た瞬間に反応良く避けたつもりだったが、女の鼻柱に接触し、鼻骨が乾いた音を立てて砕けた。
「残念だが、これじゃ、さっきの二の舞だ…」
鼻血を噴き出して女が怯んだ隙に、手刀で右手のナイフを叩き落とした。すかさず首根っこを押さえ、背後から羽交い締めにしてしゃがんだ。
「今度は見逃さない」
ナイフを持ったままの右腕で裸締めにし、容赦なく首を締め上げ始める。
「定説は、どうも正しくなかったようだ…」
締め上げる右腕に彼女は悲痛な爪を立て、両脚を猛烈にばたつかせた。
「な、何故一思いに刺さない!?」
絞り上げた擦れ声で叫んだ。
「安心しろ、最後は一思いに、このナイフでメッタ刺しにしてやるから…」
凍えるように冷淡に耳元で囁き、ゆっくりと、そして着実に右腕に力を込める。顎下の前腕が喉にしっかりとはまって、無慈悲に彼女への大気と血液の流入を堰き止めていた。早朝の悪夢と恐怖心が、非情に閉まり続ける喉元を駆け上がった。意識が遠退き掛けた中で、悪あがきだと判りながらも左右の肘鉄を男の腹部へ向けて本能的に乱打した。
「無駄だ…」
じわりと更に喉が絞めあげられ、血液が脳内から遮断されていくのを感じた。視界が歪み、薄闇から漆黒へと緩やかに変移していく事に恐れた。
「今、楽になる」
男は裸締めの姿勢のまま、ナイフを左手に持ち替えてしっかりと握った。
「望み通りに心臓を刺して、そして、切り刻んでやる…」
逆手に握ったナイフを頭上へ振り上げ、口角から涎を垂らした女に狙いを付けた。
「残念だな、定説通りにならなくて」
薄れていく意識の中、死が大きな口を開けて手を拱いていた。身体が弛緩し、自ずと生への執着心が減退仕掛けていく。
「さらばだ…」
頭上に上げたシースナイフを、彼女の胸目掛けて一気に振り下げた。弧を描きながら鋭利な先端が彼女の左胸に容赦なく落ちた。
「はっ!?」
ナイフの先端が、女が纏っていた黒い革スーツに触れた辺りすれすれで止まっていた。彼女の左腕が動き、逆手持ちに落ちて来た男のナイフの腕を紙一重のところで掴んで止めていた。薄れた意識の中でも女の最重要機密二号の異能者としての潜在本能が、自然と彼女の身体を突き動かして防御していた。
信じられない、という表情のまま固まった男を余所に、彼女は残された力を振り絞って顎を絞められた前腕から僅かにずらした。そのまま男の前腕に迷いなく噛み付く。
「うぅ、痛っ、な、何を!?」
やめろ、と男が非情な叫びを上げる中、彼女は噛み付くのをやめなかった。残酷非道にも彼女は思い切り食い縛り、彼の右前腕橈骨筋辺りの肉を部分的に噛み千切った。
「うおぉー、何をするぅ!!」
即座に彼女は男をはね除けた。息がまだ荒かったが立った勢いで振り返り、躊躇う事なく強烈な横蹴りを鳩尾に見舞った。男は見事に背後へ勢い良く蹴り飛ばされてひっくり返った。
「幾ら最重要機密計画の異能者だとしても、痛みを感じるのは常人と同じ…」
口に咥えたままだった肉片を、唾を吐くみたいに傍らに吐き捨てた。噛み千切られた前腕部は見る間に激しく出血し出し、痛みに耐えられなかったのか、彼は倒れた瞬間にナイフを落としてしまっていた。
「攻守が、いえ、主従が入れ替わったわね」
血が溢れた前腕を左手で必死に押さえ、男は苦悶に顔を歪めてゆっくり立ち上がった。額には大粒の脂汗を数限りなく浮かべていた。それを見届ける以前に彼女はすでに男に飛び掛かっていった。勢い良く床を蹴り、空中で前転した後に両脚を男の首へ息つく間もなく巻き付けた。そのまま横へ回転してから背後へ飛び込み、梃子を効かして彼の身体を間断なく倒し込んだ。前腕の痛みに囚われている男は、女にとって全く無抵抗な円筒砂袋と化していた。
着地した彼女はそのまま前転してからしなやかに体勢を整え直して起き上がった。振り返りざまに再び男へ素早く走り寄り、立ち上がり掛けた男の脚目掛けて滑り込んでいった。狼狽えない勢いで果敢に男の脚を引っ掛け、身構える猶予すら与えずにまたしても倒し込む。倒れる男の身体を通り越した刹那、落としたままのシースナイフが目の隅に留まった。
小気味良く直ぐさま立ち上がり、床に放置されたままのナイフへ近付く。速やかに拾い、背後の男に対して憎しみの眼光を放った。
無言のまま彼女は駆けた。右手のナイフを逆手に握り、姿勢が戻る前の男に向けて疾風の如く切り掛かった。対峙した彼の右上腕と胸を一気に切り裂いて駆け抜ける。血飛沫が無残に噴き出した後、足の爪先に荷重を掛けて軽快に急停止し、その反動でバク転を宙で決めて男の背後へ飛んだ。
「簡単には息の根は止めない」
目を見開いたまま驚愕する男の背中を十文字に裂く。飛び散る鮮血を浴びる前に回避し、連続した次の攻撃に備える。不様にも、女に対して何の反抗も出来ないままに血みどろとなっていた。
「苦しむのね」
そんな状況の最中でも、男は刃向かう意思を示すように彼女へ左腕を伸ばして掴み掛かる。彼女はそれを軽やかなステップで避け、伸ばした左手の親指以外をナイフで容赦なく切り落とした。直後に掌の先から鮮血が容赦なく溢れ出した。一際高い絶叫が施設内に反響する。
彼女には攻撃の手を緩める気は全くなかった。指を切断されて苦しむ男を尻目に、今度は真横から左耳を切り落とす。その勢いで逆手の握りのまま瞬時に腹部を深く抉るように刺した。素早く抜き、間を置かずに首の頸動脈へ走らせて切り抜ける。直後に男の腹部と首筋から血が多量に流出した。
「もう、あなたはお終い…」
女が、苦しそうに身体を屈めた男にそう呟いた事は、離れた場所で裂傷に苦しむ神津の耳には全く届かなかった。だが、彼の目の中には、女が屈んだ男の背中へ鋭利なナイフを容赦なく勢い良く突き刺すのがはっきりと見えていた。