フェイズ 6
幾らか朝陽が漏れて来た森の中で、相原一等陸曹は警備任務に就きながら欠伸をひたすら堪え続けていた。鬱蒼とした森の中を一人で巡回するのは苦痛以外の何物でもなく、胸に抱えた八九式ライフルが自身の屈強な体格に似合わず妙に重く感じていた。
敷地の大半を常緑針葉樹と広葉樹で覆われていた研究施設の総面積は、二十三・五haで、東京ドーム約五個分あった。その中心部分に、三棟に分かれた鉄筋鉄鋼製の研究棟や、丸屋根状の巨大な施設、原子力発電所を想起させるような巨大な排煙棟を伴った建造物が、樹木に隠されるように集中していた。それらと森林を含むこの敷地内を五つのエリアに区切り、迷彩戦闘服に通常武装した五人の陸上自衛隊員がそれぞれに警備していた。
相原達がここに配置されてすでに一ヶ月が過ぎていた。彼は、何故こんな施設の監視任務なんかに就かなければならないのか、未だに全く理解出来なかったし、本当は受け入れられていなかった。通常の自衛官とは一線を画し、選抜きの特殊部隊要員としての一撃必殺を想定した厳しい戦闘訓練で鍛えられて来た自分達‘選良階級’の任務だとは思えなかった。
何よりも一番面白くなかったのが、この施設の詳細を自分達に全く明かさなかった経産省の役人と思しき奴の事だった。判っているのは‘ネオ・エネルギー総合研究所’という名称だけで、内状に関しては説明してもどうせ理解が出来ないだろう、という余りにも馬鹿にしていて突っ慳貪な応対がどうにも許し難かった。その苛立ちは、部隊内でまことしやかに流布されていた、特殊部隊から更に上級選抜されて編成された真のエリート部隊‘特務部隊’が実は存在するのでは、というのと何処か似ていた。
細かな枯れ枝だらけの褐色森林土を踏み締めた音で、相原はミリタリーブーツに視線を落とした。アスファルト舗装がされた施設中心部から踏み出した時、境界線に設置された制御盤で赤外線センサーの起動コードをテンキーで打ち込んだのを不意に思い出した。
昨夜一ヶ月振りに突然来訪した小太りで長髪のその役人が、警備の際には「セキュリティシステムを必ず作動させろ、絶対に忘れるな」と口を酸っぱくして言っていたのが頭を過ぎった。研究所内部の情報は一切明かさずにいるくせに、施設の侵入監視に関してはやけに神経質過ぎるほどだった。
システムは、エリア毎の舗装がされた境界線内を囲うように多方向から放射状に幾つもの赤外線が走っていた。目に見えない蜘蛛の巣のように張り巡らしたセンサー網をすり抜けて、森林側からの侵入は完全に不可能だった。
強固に施されたセキュリティシステムさえあれば、あえて自分達が仰々しく施設内を巡回して監視する必要など全くないように思えた。こんな場所に誰が何の目的で侵入するのだろうか、とそれさえも判らなかったし、不可解にも感じていた。
緊張感が途切れ掛けていた相原は、胸に抱いていたライフルを右手だけに持ち替えて肩に担いだ。余りにも不用意で不様な佇まいだった。その態勢のままのんびりと施設から離れ、夜明けの白み始めた森の中に歩を進める。隣接するマンション群はその位置からはまだ遠く、常緑針葉樹に頭上を覆われた相原の目にその姿は全く映らなかった。枯れ枝と土を踏み締める音を立て続けながら、住宅地の近くでライフルを持って警備に当たるのは余りにも物騒だよな、という感慨が曖昧で無責任に脳裏を掠めていった。
しばらく森の深部へ進むと、急にそこだけ周りの風景から切り取られたような違和感のある場所に辿り着いた。木々に囲まれ、褐色森林土が敷き詰められた仄かに薄暗い情景の中に、膝丈ほどの五メートル角の白い立方体が忽然と置かれるようにあった。地下に埋め込まれた上下水道管の管理用メンテナンスハッチだった。この敷地内の唯一ここだけに、地下管理区画がある施設地下中心部へと繋がるメンテナンス用地下坑道の出入口があったのだった。
小太りな役人がエリア担当の相原に耳打ちしたのは、そこを潜り抜けられれば研究施設の中心部まで連絡する事が可能だが、地上以上に厳しい集中管制セキュリティシステムが通路内に待ち構えている、という話だった。
「あのシステムはね、そう簡単には侵入出来ない代物なんだ。だからその周辺にはあえて監視カメラは設置していないんだよ…」
奴の生暖かい息と、淡々とした声が今でも中耳に張り付いたままのようだった。そしてそれは、まるで誰かがすぐにもそこから侵入して来るかのように聞えたのだった。
「それにしちゃ…」
随分と頑丈そうで大きな南京錠が掛けられているな、と直径一メートルほどのマンホールみたいな鋼鉄製の蓋の把手を見て相原は思った。ライフルを担いだまま中腰になって鍵に触れ、何度かそれを弄ぶみたいにした。
「ま、いいか」
相原が立ち上がって巡回を再開しようと振り返った時、自分以外の動きで枯れ枝が踏み締められた音が背後から微かに伝わった。
「何だ!?」
疾風が背後で右から左へ吹いたように首筋に何かが走った。
「ん?」
呆然と後ろ首に左手を当てると、何やら冷やりとしたものが指先に付着した。見ると指先が赤く染まっていた。
「!!」
驚愕する間もなく、今度は左から何者かが一瞬にして近付き、相原の頸動脈を鋭利な何かで素早く裂いて離れた。
「うっ!?」
相原はどうする事も出来なかった。何が起きているかも判らず、余りのショックでライフルを地面へ落としてしまった。血飛沫を上げ始めた首を必死に両掌で押さえるが、指の隙間から溢れる夥しい出血の勢いを抑える事は不可能だった。泣き笑いみたいな表情を浮かべる事しか相原には出来なかった。
立ち尽くし、身動きが全く取れない相原の視界には何者も映っていなかった。が、その素早い脅威は残酷にも攻撃の手を緩める気配を全く感じさせなかった。相原の身体は無残にも休む事なく四方八方から切られ続け、腹と胸が裂け、両耳、鼻、両手の指全てが無残に切り落とされた。最後は背中から心臓を抉るように刺し突かれて惨めに崩れ落ちていった。
辺りを鮮血の噴水で染めていた。ゴミ屑と化した相原を見下ろしていた男は、自身の身体的能力が以前と同じように完全に復活していると確信して安堵した。それは、さっきまでマンションの室内で沢渡香織と名乗っていた女との格闘の最中で完全に呼び覚まされて蘇ったのかも知れなかった。最重要機密計画の被験者として人体改造された彼の潜在能力は、自衛隊が鍛え上げた特殊部隊員の能力の比ではなかったのだ。
先を急がなければならなかった。彼は無残な屍となった特殊部隊員を侮蔑するように一瞥し、左脚部の大きめなポケットから片手サイズのボルトクリッパを取り出した。それで蓋の把手に付けられた南京錠の頑丈そうなツルを簡単に切断し、何事もなかったみたいにポケットに戻した。鋼鉄の大きな蓋を左から右へ持ち上げると、金属が軋む音を不規則に響かせて大きな丸い口を開いた。円状のとば口から下を覗くと、地下メンテナンス坑道へ下りる少し錆びた梯子が端に設置してあった。
下りる前に、右脚のポケットから折り畳んであった見取り図を取り出し広げた。その見取り図は、地上施設の配置と地下施設の配置の位置関係を斜め状に並べて二段に立体描画してあった。重ねて畳まれていたもう一枚が、地下管理区画と地下道の仔細な平面図だった。その二枚を彼は素早く舐めるように見回し、目標ポイントに記憶の食い違いがないかどうかを確認した。軍事的脅威は、局内の掻き集めた情報が間違っていなければ、丸屋根状の研究棟に隠されているはずだった。
手早く畳んでポケットへ押し込み、地下へ繋がる円状の開口部から梯子を下った。十メートルほど下ると梯子の下端が、幾らか汚水が溜まるように流れる地下坑道の床へ触れていた。辺り一帯が汚水の臭いとかび臭さに満ちていた。
薄暗い地下坑道内に立つと、その中は刳り貫かれたような直径二メートルほどのトンネルになっていた。それが立っている彼の前後に伸びていた。照明は全くなかったが、目標の方向は、まさに彼が今向いている正面の方だった。左胸ポケットからペンシル型の小型ライトを掴み、広角照射可能なLEDを点灯する。仄かに白く浮かび上がったのは、細かな罅だらけのコンクリート製の内壁だった。
照らしたままベルトのフックに引っ掛けた携帯液晶端末を左手に取った。電子方位磁石モードで目標の方位を再確認し、汚水がさらさらと漏れ流れる地下坑道を躊躇なく進み始めた。
しばらく進んだ先のトンネルの内壁が、円状から四角状へと変わったようだった。更に通路が三段階の踏み段に変化して、坑道は下へと向う。一つの段の踊り場が五、六平方メートルはある広い階段で、三段伴にその中心に幅広な浅い溝が掘られていた。その溝の中を汚水が変わらず控えな音を立てて流れ落ちていた。彼は視界の悪い湿った足場を慎重に下った。見取り図や事前情報通りの道筋だった。情報の正確さからすると、問題はこの後に待ち受けていた。
頭に叩き込んだ地上との位置関係でいえば、そろそろ森と施設の境界線辺りに差し掛かる辺りだった。侵入者を警戒した第一段目の強烈な対人セキュリティシステムがそこには待ち構えているはずだった。
歩き進んだ地下坑道内の高さも徐々に狭まって来ていた。手を上げれば簡単に天井に触れるほどの高さになっていた。流れていた汚水は、トンネルが更に狭まった手前で不自然に切られた横に細長い床溝に全てが流れ落ちていた。注意深くそれに見入る。
「なるほど…ここから…か?」
思わず呟いて立ち止まる。再び携帯端末を目の前に続く床に翳した。カメラモードから液晶画面に床の画像を映し、続けて画面上に幾つか示されたコマンドアプリケーションをタップした。直後に映像が一瞬だけ緑がかった暗視映像となってから、精細な透視映像情報へと変換された。
映し出された透視映像には、約十五メートル先にある頑丈そうな鉄扉の前まで床一面に圧力計測パッドが敷き詰められていた。
端末を壁側へ翳し直す。一呼吸置いてから変換された透視映像が示された。両側の壁内部には高電圧線と抵抗器や放電装置らしきものが彼方此方に埋め込まれていた。更に、側面から頭上を囲うような骨格に幾つもの透視可能と思われる監視カメラが取り付けられていた。その骨格は、天井に二本、両側の壁に沿って一本ずつ内部に敷かれた軌道で鉄扉側まで移動するようだった。
カメラの性能は、ほぼ高精細認証用だと認識した。パッドに圧力が掛かると全カメラが起動し、鉄扉へ向う間に登録された人間かどうかの生体認証確認を、光速大容量通信で集中情報保管庫と接続された大型汎用演算機が行なうのだと察した。登録情報と合致しない場合は侵入者と見做され、高圧電流を放電して撃滅する、というシステムのようだった。
「危ない…危ない…」
彼は周囲をペンライトで素早く翳しながら堪らず呟いた。続けて液晶端末で内壁を透視する。特段に変わったようには感じられなかったが、この罠を解除する制御盤が何処かに必ず隠されているはずだった。
メンテナンス用の坑道だから、作業時にはセキュリティをシステムから遮断させなければならないはずで、その為の制御盤が何処にもないというのは余りにも不自然だった。
《そんな馬鹿な…》
辺り一帯を透視画像で探索したが、不思議な事に制御盤は何処にも隠されていなかった。気が付けば携帯回線の接続状況も全く不可になっていった。それは、この坑道自体が外界の電波や電磁波から完璧に隔絶されているという事だった。
《なるほど…4G、5G回線からのシステムへの侵入は不可能、というわけか…中々やるじゃないか…》
念の為に坑道内の先の方までペンライトを翳して様子を窺う。暗闇の中に真っ白な光の円形が細かく震えるように上下左右に飛び交った。明かりを数度泳がした時、鉄扉の右脇に小さな四角い切り込みがあった事に気付いた。明かりを少し左へずらすと、正方形の生体指紋認証パッドらしき出っ張りが扉と切り込みの間で目に留まった。
《ちょっと待てよ…》
鉄扉の横に、更に認証パッドが存在する事に違和感を覚えた。そして考えられる可能性に想像を巡らせ、携帯端末を右脚ポケットへ一度仕舞う。
《変な話だ…手前の罠を解除出来なければ、生体パッドには誰も辿り着けないのに…まるで誰かを…いや、オレが試されているみたいだ》
まぁいいさ、と呟きながらベルトにぶら下げていた発射器を手に取り、新たなワイヤー巻き器を取り付けた。
《今日はこいつが大活躍だ…》
射器先端に殊更鋭利な鉤爪を差し込んでワイヤーに繋げ、鉄扉へ狙いを付ける間もなく発射した。狭い坑道内に耳障りな発射音が反響し、瞬く間に鉤爪が前方の扉上部へ食い込んだ。手慣れた手付きで巻き器を外し、更に鉤爪だけを発射器に再セットする。片耳を塞ぎ、少し屈んで避けるような姿勢から低い天井へ鉤爪を撃ち込んだ。突き刺さった鉤爪にワイヤーが弛まないように括り付ける。
《さてと…完璧に防御している、という気でいるらしいが…それならそれさ…》
張り具合に納得した彼はペンライトを横に咥えてから手と脚をワイヤーに掛け、さっとぶら下がった。レンジャー隊員のようにそのまま頭からするすると進み、十五メートルほど先の鉄扉へ向う。ワイヤーが自重でしなって掌とふくらはぎに食い込み、痛点が脳へ訴え始めた。背中やベルトに釣った機器が床に幾らか擦れていたが、圧力パッドへの影響は考えられなかった。
男は無言のまま鉤爪の手前で動きを止めた。ぶら下がったまま横に咥えていたペンライトを縦に咥え直し、顔を動かして認証パッド周辺を照らした。出っ張ったパッドの枠は樹脂製のようだった。躊躇いなくホルスターから拳銃を抜き、左手に持ち替えてから銃把の角で思い切り叩いた。枠は簡単に砕けて割れ落ちた。
銃をホルスターへ戻し、パッドの内部を側部から咥えたペンライトで照らす。彼は電源接続部分を探った。タッチパネルの裏側は平行に薄い電子回路基板で覆われ、僅かな隙間の中を細かな配線がのたうち回っていた。ふくらはぎと右掌にワイヤーが更に食い込み、只でさえ面倒な作業をより困難にしていた。額に浮き出た汗の粒を感じ、ペンライトを咥えている口からは涎が垂れそうだった。
彼は堪らず、小動物の内蔵を抉るようにパネルとボードの狭い間に左手の人差し指と中指を突っ込んだ。そこから無作為に数本のコードを引っ張り出す。ペンライトに照らされたカラフルなコードの束は薄くて長い集線器らしきものに繋げられ、偶然にもそこから二本だけが再び回路の中へ向っていた。光に照らされたそのコードの色は赤と青だった。
これだな、と彼は察しを付けた。腹筋だけで身体を支え、シースナイフで慎重にコードに被っている色の付いた双方の絶縁ビニールカバーを切り取る。一筋の汗が額から流れ落ちた。
ナイフを鞘へ戻し、左腕の上腕と前腕でワイヤーを挟んで身体を固定させた。少し楽になり、一度だけ右手の甲で額と口を拭う。
深呼吸をしてから再び携帯端末を右脚ポケットから取り出す。端末を持ち替えて更にポケットを弄り、同じくらいの大きさの板状のものを右手に取った。その板の厚み部分の真ん中に親指を差し込むようにすると、開くように二つに割れて長方形の一枚の板になった。小型の薄型簡易キーボードだった。
中から薄く潰されたような二本の長い線が垂れた。双方のその先端に付いた小さなクリップ式接続端子を、絶縁ビニールを剥がした二本のコードへ、支える腕を器用に左右交互に入れ変えながらそれぞれに繋いだ。
ワイヤーを挟んでいた左上腕と前腕が痛んだが、彼は左手の携帯端末と右手に持ったキーボードをようやく接続した。その姿勢のまま新たなオペレーションソフトを起動させた。両手の親指だけで小さなキーを弾き、高速電力線通信接続ソフトも立ち上げる。連続して素早く原語キーを叩き、侵入用の双方向通信を実行させた。まだ今の段階では、この施設のネットワーク・セキュリティは、脇から違法に接続されたこの端末の事に反応は全く出来ていないはずだった。つまり、彼が生体認証を突破する事自体もまだ不可能な状況だった。
まずはネットワーク上での認証擬装が必須だった。ネットワークの中へ、CIA技術システム開発部の粋を尽くした64KBの極小圧縮ファイルを紛れ込ます。現在の高速回線では有り得ないが、仮に回線網がISDN回線だったとしても、ぎりぎり通り抜ける圧縮ファイルサイズだった。
ファイルには、施設ネットワーク全体内で高速拡散させた後、この液晶携帯端末が認証されたクライアント・システムウェアとして装う為の、緻密な不正制御情報を忍ばせていた。
携帯端末の液晶画面に打ち込まれた原語の羅列が垂直移動を素早く繰り返す。文字符号が一定量入力されると画面が突然暗転し、立体的に分析表記されたネットワーク・システムの階層と脆弱性を示すグラフィックが幾重にも色鮮やかに構築されていった。その中で圧縮ファイルのネットワーク内での侵入状況も小さな液晶画面に示されていた。
グラフィックに圧縮ファイルがシステム内に侵入し、張り巡らされた防火壁に差し掛かった事が表示された。
ここのシステムの専用OSのセキュリティレベルを開発したシステムエンジニアの頭脳と、CIAの技術的積算量担当エンジニアの勝負になっていた。
通常は、メインフレームを中心としたネットワーク内の各システムのセキュリティ権限は分散していて、認証された利用者、或いはシステム内のプログラムは基本的にその領域以外のアドレス空間には接続が出来ない。それはメインフレームの運用上、プログラマーはOSの指令を使う事はまずなく、オペレーターはプログラムを作る事もない、という風に階層的に分離されているからだった。
それら二つを一時的に唯一干渉させられるのが、実は一般的なSSI(Server Side Includes)技術の応用だった。
SSIは、HTML(Hyper Text Markup Language)ファイルに特定の記述を書き込んで実行させる事により、狙ったあるサーバー側から認証者へ内部情報の応答に反応させ、権限事前登録後に擬装した特定アドレスを誤認証させる事が出来た。
システムの回線をメインフレームから遮断し、プログラムが麻痺し続けるその誤情報を擦り込む為に、苦痛な姿勢のままバイトシーケンスをひたすら叩き続けた。両親指だけでキーを叩き、システムの速度についていくのは至難の業だったが、ウィルスを拡散させるまでネットワーク上で圧縮ファイルの存在を絶対に隠匿しなければならなかった。
八桁の二進数の羅列を相当数入力し終えた。すると、ネットワークの状況を表すグラフィックの中で、忍び込ませた圧縮ファイルがシステムの防火壁に不正パケットとして反応した事を示した。
不正侵入検知システムは、続けて圧縮ファイルを疑わしいパケットだと完全に認知する信号を全ネットワーク内へ即座に発した。彼は情報を打ち込みながら僅かなそのタイミングを計ったように待っていた。それは逆に施設内全ネットワークがほんの一瞬だけ脆弱性を曝け出し、開放された瞬間だった。それを逃さなかった。
攻撃だ、とEnterキーを躊躇なく叩くと、信号が拡散するタイミングで圧縮ファイルが高速解凍された。ファイル内に潜めた数限りない書庫が復元されながら展開する。IDSが発した通知信号に抱きつくように取り付いて、施設内のネットワーク全体に拡散されていった。拡散されたウィルスは、彼が使う携帯端末と彼自身を、ネットワーク内で正式な認証者として認証擬装するキーロガー・プログラムを隅々まで送り放ったのだった。
男は、抜かりなく拡散ウィルスがネットワーク全体に感染していった事を示すグラフィックを確認しながら安堵した。汗が浮き出ていた額とペンライトを咥えたままの口元を再び拭う。サーバーとメインフレームに繋がる施設内全てのネットワークが、各階層を示したグラフィック上で次々と‘不接続’から‘接続’と、オセロゲームの駒がひっくり返るように切り替わっていった。
ようやくだな、とペンライトを咥えたままぼそぼそと呟いた。まず彼がやらなければならないのは、保存された施設内の誰かの生体認証記録を、ネットワークのメインデータ・ストレージから複製する事だった。
硬質なワイヤーにぶら下がったままの態勢で侵入作業を続けるのは、鍛え抜かれた身体を持つ彼にとってもいい加減に苦痛になっていた。戦闘服の上からでも筋肉に幾らかワイヤーが食い込んで、血が僅かに滲み始めていた。嫌でもすでにそれを感じ取っていた。
うんざりしたように、さっさとやっつけるか、とネットワークからメインデータ・ストレージへの侵入を始めた。
個人情報記録全てが収められているメインフレーム中枢部の更なるセキュリティレベルが如何ほどなのかは判らなかった。だが、上手くすれば潜入せずとも、ネットワーク上の侵入だけである程度の軍事的脅威の情報も得られそうな手応えがあった。
男の携帯端末は、すでに施設内関係者としてネットワーク使用を認証されているので、苦もなくメインサーバーに接続出来た。そこからメインフレームの記憶庫に侵入を試みる。パスコードを高速展開予測するソフトウェアを起動させながらEnterキーを叩くと、拍子抜けするくらいに、それは掴み取りが出来るくらいに簡単に入り込めた。すでに生体認証されている関係者の一覧が、目まぐるしい速度で垂直移動を執拗に繰り返した。
無作為に一つのコードを選んで、携帯端末の記憶域へドラッグする。新たなウインドウからファイルを開くと、研究施設内のある人物の生体情報と個人情報を含む数字とアルファベッドの羅列が表示された。その人物の顔写真さえファイルには含まれていた。そのコードを複製し、この認証パッドから確認したようにメインフレーム・セキュリティへと送り返す。一、二秒で電子ブザーと機械音が連続して小さく響き、ドアの解錠とこの区間のセキュリティが簡単に解除されたのが判った。ドア上部から一条のダウンライトが灯った。
彼は溜息を付きながらようやく床へ足を着けた。咥えていたペンライトをポケットへ戻し、端末機を持ったまま引っ掛けていた左腕の前腕を何度か揉んだ。
「さてと…」
立ち上がった彼はすぐに鋼鉄製のドアを潜らずに、二本のコードがまだ繋がったままの端末機の操作を止めなかった。
「とりあえず、第一段階は……突破…と…」
呑気に呟くのとは裏腹に、ネットワークのシステム階層を表記したグラフィックを凝視する。彼はこの先に待ち受けている更なるセキュリティへの侵入を、有線でネットワークに繋がったままのこの場所ですでに試みていた。
このドアを潜った先には、目的の研究施設の地下にある上下水道のメンテナンスルームがあった。そこからは、直接に施設内に上がれる階段がある事を彼は見取り図で理解していた。キーボードとタッチスクリーンを駆使してメインフレーム・セキュリティの深部へと踏み込んでいく。
「このドアにはこれ以上の罠は隠されていないようだが…やはりそうだな、この先には更なる……難関か」
グラフィックを見詰めている彼は殊更面倒臭そうにぼやいた。ネットワーク上のメンテナンスルームの場所を示す場所には、その前にもう一枚の‘防御壁’がある事を表していた。点滅を繰り返していたのは、顔の輪郭の中に鍵の絵が横に串刺しされた目印だった。
《顔認証に…別のPINコード十桁…の組み合わせ…》
複製した個人情報と生体情報が示されたファイルのウインドウを再び開き直す。タッチスクリーンをスクロールさせ、幾つもの生体認証情報が登録されている事を確認した。彼がこの状況で知り得たかった最優先の情報は、顔認証の立体画像を構築するデータと、虹彩認証情報だった。
舐めるように幾列もの八桁の二進数の羅列を確認し、新たなアプリケーションをタップした。複製したそれこそ数限りない数字の配列を、立ち上がったソフトの演算ウインドウに貼り付けする。瞬く間に情報が吸い込まれるようにプロセッサーへ読み込まれ、画面が暗転した後に、演算中の表記の点滅がしばらく繰り返される。
男は、プロセッサーが演算する僅かな時間さえ苛つきを隠せなかった。セキュリティコードの罠が外れた床上を、爪先で何度も細かく叩いていた。
三分ほど経ってから液晶画面の点滅がいきなり止まった。暗転した後、数秒してから‘complete’という表示と伴に、浮かび上がるように複製した個人情報主の顔の復元画像がゆっくり回転しながら全方位で描画された。それはモニター内で、生きた人間の顔と全く違わぬ不気味さを醸し出していた。眺める男の目が、薄闇の中で閃くような輝きを放った。
《こいつはすごい!》
思わず溜息を付いた彼が目にしていた顔の復元画像は、複製した生体認証情報を元に最先端の数値的な遺伝子解析と蛋白質解析技術の粋を尽くした結果から生み出されたものだった。
「ここまで万能で膨大な情報解析の作業まで簡単にこなすとは…この端末、どんな頭脳を搭載している、っていうんだ…ふふ、ハリウッドの嘘臭いスパイ映画顔負けだ」
呟かずにはいられなかった。値段を付けるとしたら一体幾らになるのだろう、などとどうでもいいような事が一時だけ頭の中を通り抜けた。早速に出来上がった顔認証情報と、盗んだPINコードでこの先に待ち構えているセキュリティに対して侵入を試みた。口笛を奏でるみたいに軽快にキーボードを叩く。
《おや!?》
ネットワークを手繰った先に、PINコードの電子的セキュリティが見つからなかった。キーボード操作とスワイプを何度も繰り返し、更にその周辺の経路も細かく探るが存在しなかった。
「物理的…スイッチだと!?」
顔認証セキュリティへの侵入は、この場所からでもネットワークを通じてシステム内に潜り込む事が可能だったが、解錠するには顔認証、虹彩認証と同時に物理的なスイッチとなっているキーパッドへのPINコードの直接な打ち込みが必要のようだった。
「物理キーパッドに仕組まれた圧力センサーの反応が必要、ってわけか」
この手のアナログな装置を搦め手にしたシステムは、まず間違いなくたった一度の失敗でも完全遮断にしてしまう可能性が非常に高かった。良く出来たイスラエル製のトリプルロック式防犯耐火大型金庫の印象が頭を掠めた。下手にこの場からのトライは避けるべきだった。
《ならば、こちらも‘搦め手’でいくとするさ》
彼は、出来上がった顔の立体画像を端末内に保存した事を確認してから認証パッドに繋いだ二本のケーブルを外した。ネットワークへの侵入はすでに必要なくなっていた。
キーボードを携帯端末から引き抜き、二つに畳んで右脚ポケットへ戻した。枠が壊れたままの認証パッドを一瞥し、鉤爪が刺さったままの鋼鉄製のドアを勢い良く開いた。
潜った先の通路には、これまではなかった仄かな昼光色のダウンライトが直線状に連なっていた。その下を慎重に歩を進める。不思議とこちらには汚水臭さは満ちてなく、空調さえされていた。一直線状になった幅の狭い通路の内壁も清潔に見えた。
百五十メートルくらい進んだろうか、先程のドアとは打って変わって、同じ鋼鉄製でも横へスライド収納する自動ドアが目前に現れた。案の定、ドアの右手にはテンキーの物理的動作ボタンを備えた小振りな認証制御盤と、その上の確認モニターに埋め込まれた小さなセンサーカメラが睨みを利かせていた。
男は、カメラの小さなレンズを睨み返してから周辺をぐるりと素早く伺った。認証制御盤の真下辺りに、ここへ立て、というような外に開いた両足の印が書かれていた以外、特別変わった仕掛けはなさそうだった。
すでに、目的の丸屋根状の研究施設の真下に到達しているはずだった。見取り図と事前情報が間違っていなければ、このドアの向こう側に上下水道の集中制御室があり、そこから上階に入れるはずだった。
「ふぅ、いよいよだな……最後の仕上げにかかるとするか…中々の手強さだったが、俺達の持つ最先端で多角的、かつ圧倒的なセキュリティの破壊力を今ここで思い知らせてやる」
嘲笑するように囁き、彼は胸ポケットから小さく白い塊を取り出した。丸まっていたそれを平らに引き延ばそうとするが、何故か反発して上手く伸びきらない。
《以外と面倒臭いな…》
平らに伸ばそうとしていたのは真っ白なゴム製マスクだった。
ふふふ、と薄気味悪く笑う彼は、それがある程度平たく伸びきった状態になってから、親指で中を二つに割って広げた。ぱりぱりと粘着力が効いているような音を立てながら奥まで広げた後、躊躇なくそれを頭からすっぽりと顎周辺まで覆うように被った。その姿は、二つの鼻腔と口だけに僅かな穴が開いただけの、のっぺらぼうのようだった。白く薄いゴムの膜の先に、ぼやけたような視界が何とか確保出来ていた。彼は被ったそのマスクの装着具合を触りながら確認し、それが終ると目の上まで一度戻す。
《電源の残存量は?……何とかぎりぎり間に合うな》
不安が幾らか過ぎった。だが、セキュリティの壁を強固に諸処へ張り巡らせたネットワークへ侵入した携帯端末機の性能にただただ満足していた。尽くシステムを瓦解させ、施設内に常勤する人間の最重要秘匿事項とされた生体個人情報までをも盗んだこの小さな機器に、畏敬の念さえ抱いた。
彼は新たなアプリケーションを立ち上げた。立て続けにタップとスワイプを細かく繰り返すと、次第に発光する液晶画面がのっぺりとした白い顔面に目まぐるしく映り込んだ。極彩色で複雑な模様が繰り返し彼の顔に向って回転しながら投影され続け、その間にプロセッサーがシステム内で何かの醸成を淀みなく繰り返していた。顔の細かな形状や差異を計測しているようだった。
《よし…出来た》
数分経っただろうか、真っ白な彼の顔に映っていた色鮮やかな光がぴたりと止み、液晶画面が突然暗転した。それに納得し、薄い端末機の横の小さなボタンを二度連続で押した。直後に長方形の液晶画面の真上にあった内側カメラが盛り上がるように一段飛び出した。先端のレンズ部分が端末機を手にした彼へ向って幾らか角度を付けて傾いた。
「いくぞ…」
準備が整ったのか、男は画面上の赤く表記されたスイッチをタップした。認証制御盤の示された場所に立ち、再び白いゴム製マスクを顎まで下げて被り直す。右手で顔面を満遍なく触ってマスクが表面にしっかりと密着しているか再確認した。
左手に持った端末機の内側カメラ部分から赤い光線がいきなり男の顔目掛けて走った。赤い光線は、一本、二本、三本と増え続け、彼の細かな顔位置や部分を認識するように慌ただしく四方八方へと動き回った。最終的に、真っ白な顔面全体に赤く細い光線で縦横の細かな方眼を詳密に描画していた。
認識終了と思しきブザー音が小さく唸った。その途端に赤く描画された顔面の方眼へ向け、端末機から更に一条のスポットライトが照射された。それは細かに区画された方眼の中で個別に煌めきながら軟体動物みたいにうごめき、あたかも顔面の表面で何かの化学反応を起しているようだった。やがてそれは方眼の中でそれぞれにはっきりとした色合いや質感を醸し出し始め、パズルのピースみたいに細かい方眼内を徐々に埋め尽くしていった。
十数秒後に男の顔面は、立体ホログラフで緻密に造られた仮面で完璧に覆われた。全く別人の男がそこに立っているようだった。眼球の虹彩まで精細な再現が行き届いたその顔は、ネットワーク内の記憶庫から盗んだ男の生体認証情報が元になっていた。
彼は試しにわざと何度も瞬きしたり、左右の頬や顎を歪めたりして、二進法原語で造られたホログラフのプログラムが描画内で抜かりなく追従出来るかどうかを試してみた。数値的に構築された顔面皮膜が破綻すれば、即座に真っ赤なレーザー操作線が反応する仕組みとなっていたが、幸運にもその事象は現われなかった。
完璧な出来具合に納得した。男は電子処理マスクで顔を覆ったままで、認証制御盤の認証開始物理ボタンを押した。
認証センサーカメラが縦横二軸の緑色の操作線を放出し、立体ホログラフの顔を舐めるように捉え始めた。男の輪郭、鼻や目や口の位置、特徴的な皺などの部位を数値的に確認しているはずだった。そしてそれが認証されたら、第二段階として眼球内の瞳孔の周りにある色と模様を示す虹彩の照合を行なう。
虹彩には指紋と同様に人それぞれに細かな模様があり、そのパターンは胎児の間にランダムに決定される。その為に、仮に一卵性双生児だったとしてもその模様は全く異なる。立体ホログラフ・プログラムは、眼球内の生体認証情報も数値変換して緻密に再現し、虹彩の最小直径も二百万画素以上で立体再描画が行なわれていた。
認証ブザーが響いた。思った通り、数値的認識センサーは実在の顔と、眼球の虹彩がそこにあると誤認識を起した。ブザー音の後に、物理ボタンのテンキーパッドによるコード入力を促された。彼が記憶していた十桁のPINコードを素早く打ち込むと、難なく機械的な解錠音が伝わった。
男はゴム製マスクを手早く剥ぎ取って捨て、薄笑いを浮かべて鋼鉄ドアを足早に通り抜けた。マンションの七階から潜入してからすでに一時間近くが経過していた。ダウンライトが連なるクランク状の通路を小走りに進む。制御室と思しき部屋のドアを通り過ぎると、突然に上階へ向う階段へと繋がる広い踊り場に出会した。何故か急に外の喧騒が上階から漏れ伝わって来る。
《ここだな…だが、何だ…妙なこの騒がしさは?》
まぁ、構わん、と約三メートル幅くらいの折り返し階段の上方を睨み、一気に駆け上がり始めた。折り返し階段を二回反転して、登り切った踊り場で立ち止まった。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか…」
静かにドアへ近付いて耳をそばだてると、喧しさは忍ように伝わった。ゆっくりとドアノブを回す。 研究施設の心臓部へようやく到達したというのに、全く施錠されていなかったドアは拍子抜けするくらいに何の造作もなく静かに開いた。
一体どういう事なんだ、というように白い明かりが漏れる施設内へ、彼はドアの僅かな隙間から染み入るように中へ押し入った。
「何!?」
そんな馬鹿な、と思わず呟いた彼の目前には、全く想定外で、完璧に想像し得なかった光景が拡がっていた。
「随分と苦戦したみたいじゃない?」
「ん……何だと!?」
動揺したまま立ち尽くす彼の耳に、間髪を入れずに聞き覚えのある声が構内中に響き渡った。