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ブラックサイト ー秘密施設ー  作者: アツシK
6/10

フェイズ 5

 その美しい女がとても危険な人物だという事は、彼には良く判っていた。正確には思い出した、という方が正しかった。そして本物の江川冴子ではなかった。

 思い出せたきっかけとなったのは、記憶が虚ろなままに彼女に蹴り飛ばされ、折り返し階段の踊り場の壁に叩きつけられたからかも知れなかった。

 彼女の事は、以前に英国で見掛けた覚えがあった。これもまた記憶を必死に辿れば、見掛けたのではなく、彼女を監視していた、という方が正しかったような気がした。


 折り返し階段の広い踊り場で目が覚めた時、物騒な男達が何人も慌ただしく階段を駆けて上っていったのは判っていた。死んだように壁にもたれていた見慣れぬ彼を注視する輩が一人もいなかったのは幸運でしかなかった。騒がしい中で緩やかに意識を取り戻していく最中、目覚めたというよりも、生き返った、というような不思議な感慨を抱いていた。

 頭を振りながらゆっくりと立ち上がった。首にナイフを突き刺さったまま横たわる男を尻目に何とか手摺りに身を委ねる。のろのろと輩達の後を追って見上げた階段を上った。上階フロアが近付くに連れ、聞き苦しい悲鳴や銃声が混ざった騒がしさが伝わった。

 廊下をのろのろと進んだ。エレベーターホールに近付くと、辺りは凄惨な臭気と火薬の臭いに満ちていた。転がる屍から漏れ出た鮮血や体液、更に肉片が周辺に散り、フロアは修羅場と化していた。

 ホール対面の壁を背にし、角から九十度右手を覗いた。覗いた左手に連なる窓からは、広い廊下の半分だけが薄闇で灰色に覆われていた。その中でレスラーのような体躯のスーツ男二人が、脳髄を粉々にされて倒れていた。伝わる絶叫や銃声を織り交ぜた凄まじい喧噪さは、右手の更に先からだった。

 ふと視線を落とした。彼の足下の先に、手前の大男が持っていた思しき拳銃(ハンドガン)が転がっていた。

「Beretta…92…?」

 名称が自然な英語発音で口を衝いたが、それが不思議だ、という感情はすでになかった。

 彼は辺りの気配を気にしながら緩やかに屈んだ。その先で陰惨な殺し合いを繰り広げている女と輩達に気付かれないようにベレッタをひっそりと引き寄せた。素早く手に取ると、壁に背を当てたまま慌てたように立ち上がった。

 角の向こう側を覗いた時、男達と立ち回っている女が一瞬垣間見えた。その細面の美しい顔に見覚えがあった。

魔女(ウィッチ)?」

 その女に対して何故かその名詞が不意に出た。どういう意味なのかも判らなかったが、さっき彼女は彼を殺そうとし、踊り場へ蹴り落とした。その時ははっきりと思い出せなかったが、あの女はそんな簡単には殺す事が不可能な女、と曖昧に想起されていた。

 壁に背を這わせたままこっそりと再び右手奥を覗いた。狡猾で手練れの彼女にとっても、兵士姿とダークスーツの男が入り乱れた二十数名との闘いは熾烈を極めていた。それでも次から次へと男達は血煙を上げながら不思議とばたばた倒れていった。まるで彼女には腕と脚が常人の倍は生えているかのようだった。

 すでに結果は見えていた。優勢だったはずの男達は次々に息絶え、白い壁と床は醜く斑模様に赤く塗り替えられ、常軌を逸した生臭さに溢れかえっていた。

 彼の背に、自動小銃(マシンガン)の容赦ない乾いた連射音が病院内の大気を震わせて伝わった。その破壊音はほんの数秒くらいのはずなのに、何時間にも感じられた。

 約三十発の弾倉(マガジン)が空になり、僅かに静寂が訪れた。壁伝いに彼女の息遣いと小声が微かに伝わった。そして、その場にいるはずのない誰かと話しているようだった。相手が男なのか女なのか、誰だか彼には全く見当が付かなかったが、会話が終ったようだった。一呼吸間を置いて、こちらへ歩んで来るのが感じられた。九十度曲った壁に身を潜め、彼女が目の前に現われるまで待機した。不思議と何の緊張感もなかった。

「さ、早乙女さ…」

 角を颯爽と曲って来た途端、驚愕の表情を浮かべた彼女の眉間に躊躇なく弾丸を撃ち込んだ。彼にとって、殺す事が困難な女、と認識している相手を仕留められたのは単なる偶然でしかなかった。そう、偶然だった。今回の彼に与えられた本当の任務は、彼女を抹殺する事ではなかったはずだからだ。

《そんな偶然…オレの…本当の目的は…何でここにいるんだ?》

 記憶を失う以前の幾つもの出来事が、薄れ掛かった靄の先で痙攣を起したみたいにそれぞれが蠢いていた。それらがもがきながらどうにか鬱陶しい靄を取り払おうと徐々に露わになって来た。その矢先、どうにも早乙女慎司としての生々しい記憶が何処にも見当たりそうにない事に気付いた。

《何故だ!?》

 それなのに、彼女の事は知っていた。

《そうだ、オレはこの女の正体を知っていた…危険な女だ…だから、今、殺した…んだ》

 この女を知っている。しかも危険な女として認識している。それなら、この女との何らかの接触性や関係性があるはずだ、と戻り掛けた記憶の尻尾を必死に辿る。ジグソーパズルの空いたピースがもどかしく埋まっていくように、消え去った靄の先で抜け落ちた記憶のかけらが彼の頭の中でゆっくりと接続されていった。その目まぐるしい間に、握りしめたベレッタを念じるみたいに凝視し続け、そこから視線を逸らす事が全く出来なくなっていた。

《英国だ!》

 彼が思い出したのは、旧ソビエト連邦国家領のウクライナから、英国に亡命した高級技術官僚(テクノクラート)を彼女が暗殺する為に付け狙っている時の事だった。

 標的(ターゲット)になっていた初老のウクライナ人は、中長距離ミサイル開発を担っていた旧コロリョフ試作第一設計局の元主任責任(ラージプロジェクト)技術者(エンジニア)だった。旧ソ連時代に若くして大陸間弾道弾(ICBM)開発の責任者までに抜擢された天才(エキスパート)だったのだ。

 監視を続けていた彼に与えられていた指令(オーダー)は、状況によっては女との間に介入し、ウクライナ人とその家族を保護しなければならい、という案件(ケース)だった。

指令(オーダー)…誰から…一体…誰から?》

 何も書かれていない真っ白な紙を火で炙ったら、立ち所に隠された文字があらゆる場所に浮かび上がって来たかのように、彼は記憶を蘇らせつつあった。

《保護…保護しなければ…ならない…》

 当時の記憶の細い糸を闇雲に手繰り寄せる。

《F…S…B…FSB?》


 本来なら、こういった暗殺事案は旧ソ連国家保安委員会(KGB)が前身であるロシア連邦保安庁(FSB)が行なうのがこれまでの慣習だった。だが、ソビエト連邦国家崩壊後に、一度は主要国首脳会議(サミット)の一つに数えられ、先進国の仲間入りをした経緯もあるロシアが、FSBを使って他国で亡命者の息の根を止めるというのはさすがに憚った。だからロシア政府は、FSBを経由して‘魔女’に接触(コンタクト)したのだろう、とその‘業界’に関わる人間達は察しを付けていた。

 その当時、闇社会(アンダーグラウンド)で噂が一瞬にして駆け巡ったのが、彼女が標的に実行した暗殺の方法だった。

 白系ロシア人の老いた元技術官僚と、たった一人の家族だった四十代の娘は、ロンドン近郊の自宅近くの公園のベンチで、腰掛けたまま寄り添って眠るように死んでいた。

 肌寒い薄曇りの日だった。夕刻になってから不審に思った通行人が警察に通報し、二人とも心臓麻痺で死んでいるとようやく確認されたのだった。

 幾人もが二人の前を通り過ぎたが、日中には誰の目にも死んでいるようには映らなかった。親子が仲睦まじく日向ぼっこしながらうたた寝してしまったのだろう、というような光景にしか見えなかったのだ。

 余りにも不自然な亡命者の死に、国営BBCを筆頭に、ITV、チャンネル4など各放送局や専門ニュースチャンネルは、その日のイブニングニュースのヘッドラインからこの事件を除外する事が出来なくなっていた。

 更に英国政府は、自国内で亡命者の暗殺行為が平然と行なわれた事に対して憤慨した。ロシア政府が侵入させたFSB対外諜報(インテリジェンス)工作員(オフィサー)に行なわせたと嫌疑を掛け、即座に世界へ発信したのだった。内閣は、外務・英連邦大臣から在英ロシア大使へと猛然たる遺憾の意を示しさせた。それだけには留まらず、英国首相が緊急直通回線(ホットライン)を通じ、ロシア大統領へ直接の怒りの抗議を行なう、という異例の事態にまで発展した。一時は二国間が一触即発とも云うべき緊張状態に置かれたのだった。

 暗殺された人物が人物なだけに、二人の遺体はすぐにロンドン市警で高精度な検視解剖が行なわれた。案の定、どちらの体内も血液中のカリウム濃度が異常な数値を示していた。薬物作用が敏速に体内へ影響を与える静脈へ、塩化カリウムを故意に大量投与しなければまず示されない数値だった。

 その殺害方法の可能性しか考えられなかったが、前腕部分や手背、更には足背部分にも注射痕は全く見当たらなかったのだった。仮に小児の一型糖尿病患者がインスリン注射時に使用する極細注射針が使われたとしても、僅かな痕は残ってしまう。

 どのように親子に接触し、どうやって二人の静脈へ、若しくは二人の体内へそれを投与したのかがまるで誰にも考えつかなかったのだった。だが、亡命して来た二人のウクライナ人親子は間違いなく暗殺されたのだし、暗殺を実行したのはFSBの工作員ではなく、彼女だったのだ。

 常に監視を続けていたはずの彼自身にとってもそれは解明不明な謎だった。英国保安局(MI5)に協力を仰ぎ、ロンドン中に配置した全監視カメラを時系列で何度も詳細に精査したが、彼女の姿は記録された映像の何処にもなかった。どう暗殺したのか全く判らず仕舞いで、まさに‘魔女’の仕業としか思う他なかった。

 暗殺者として百戦錬磨のそんな女が今、頭を撃ち抜かれて崩れ落ち、彼の足下で飛び散った脳味噌と鮮血で床を汚していた。

 本来であれば、こんな簡単に殺す事が出来る相手ではなかったはずだ、とおぼろげな記憶の喚起が立ち上った。


 断片化していたパズルが、英国で彼女を張っていたところまでどうにか組み上がった。

《だが、オレは何で…彼女を…監視していたんだ?……あの時》

 辿っていた記憶の紐が、まるで雪崩の決壊を誘発する装置(スイッチ)のようだった。それは言い表しようのない苦痛だった。

《英国…ロンドン…ロシア…ミサイル…老人…要人保護…魔女…FSB…英国情報部…公園…ベンチ…注射器…塩化カリウム……い、いや、それだけじゃない…》

 幾つもの記憶の欠片が執拗に折り重なって、それが突然に弾けた。記憶という記憶の全てを覆い隠していた布が更に取り払われ、鮮明に掘り起こされていった。それはまるで緑色に輝く財宝の在処を見付けた途端に、両眼を潰されたような恐怖心も同時に彼に植え付けたのだった。

「な、何だ!?」

 これは一体何なんだ、という感慨が叫びになって、一気に脳天から頭上へ突き抜けた。何処からともなく吹いて来た突風が、覆っていた深々とした霧を隅々まで完全に吹き飛ばしていったみたいだった。抜け落ちていたピース全てが見事に埋まったと感じられた。それは自身の正体が定かでなかった期間の事まで何一つ脳裏から不思議と抜け落ちてもいなかった。

《抹殺…本当の指令(オーダー)は…亡命者(ウクライナ人)の保護だけではなく魔女(ウィッチ)の抹殺!?》

 英国で彼女を監視していた本当の目的は、彼女の抹殺だった。英国ではまんまと逃げられた苦い記憶までもが思い出されたが、偶然にもそれはたった今成し遂げられていた。

 闇社会での彼女の通称(コールサイン)が‘痩せこけた魔女(ボーンウィッチ)’だった。珍しい東洋系の暗殺者(アサーシン)だが国籍は不明、だが実績は超一流(スペシャリスト)流暢(ネイティブ)にこなせる言語は数知れず、本当の素性を知っている人間は皆無だった。

 一体何処で暗殺の技術と、冴え渡った武術や格闘技(マーシャルアーツ)の訓練を受けたのかさえ謎だった。日本人なのか中国人なのかどうかも定かではなかった。もしそうでなく混血だった場合は、他国の、特に旧共産圏東ヨーロッパ諸国の何処かの特殊部隊か諜報機関に属していた可能性も考えられた。そんな噂の域を出ない話だけが常に女の周りを覆っていた。

 そんな彼女にとっても、最精鋭(スーパーエリート)戦闘員(ソルジャー)として鍛え上げられた男達三十人近くを相手にした殺し合いは相当に強烈(タフ)だった事には違いなかった。たとえそれが彼女以外だったら、あの状況において、大抵は間違いなく―それはもしも男だったとしても―たやすく殺されてしまっていただろう、と思われた。しかし、彼女はそうとはならなかった。逆に彼ら全員の息の根を、鮮やかなまでに仕留めたのだ。

 その暗殺者(アサーシン)としては史上最強な女が、何故か何処の誰だか得体の知れない奴にまんまと罠に嵌められた。そして体力(スタミナ)の限りを使い果たしたところで不運にも彼と出会した。無意識の内に彼は握っていた拳銃を彼女へ向け、引き金を絞っていた。

 その罠は、彼女にとって己の死という全くの想定外な敗北を受け入れるしかない事態に陥らせてしまったのだった。


『な、な、んで…』


 超一流(スペシャリスト)の殺し屋と噂された女の、余りにも拍子抜けの最期だった。だが、罠に陥った女の不運がなかったとしても、彼女と対峙して殺すだけの潜在能力(ポテンシャル)が自身には備わっている、と記憶を呼び起こしていた。その記憶の端緒は、任務を下した米国中央情報局(CIA)の存在へと見事にいき着いた。

「米国…中央…情報局…CIA……?」

 幾ら早乙女慎司の記憶を辿ろうとしても、思い出せないのは当然だった。日本人ではなく、米国籍の日系人だと嫌でも気付かされていた。

「イ、イラク…戦争…」

 自然と言葉が口を衝いた時、遙か遠くから突然に言い表しようのない激痛が彼を襲ったようだった。知らぬ間に自然と腹部へ手を添えていた。

 元来の彼の素性は、米国海軍特殊作戦集団傘下の世界最強の特殊部隊‘海軍特殊戦部隊(ネイビーシールズ)’中東全域担当‘グループ三’の隊長(リーダー)だった。

 イラク戦争時に、部隊(チーム)が北部油田地帯キルクークへ現地強襲部隊とともに派兵された時、イラク地上軍から想定外の猛攻を受けて部隊は一時後退を余儀なくされた。不運にもその任務中に彼は、部下をかばう為にイラク兵が連射したライフル弾で腹部を被弾し、瀕死の重傷を負ってしまったのだった。

 すぐに後方部隊へ搬送された彼は、そこから空軍の輸送ヘリで南部バスラの英国空軍管理下の前線基地へ緊急移送された。そこで大規模な外科処置を受け、奇跡的に一命を取り留めたのだった。しかし、前線へ復帰出来るほどの回復が見込めるわけがなかった。そのまま‘名誉’の帰国の途に就くしかなかったのだ。

 空軍の移送機で帰国した彼を基地で待っていたのは、赤毛が白いワンピースの背中まで伸びた魅力的な女性だった。

 CIA(エージェンシー)上席諜報分析官(シニアアナリスト)だと自己紹介した中年の細りとした美しい女は、長身にイタリア製のブランド物と思しき濃紺のスリーピース・スーツの若い男を連れていた。

 その女性諜報分析官(アナリスト)は、鼻に引っ掛けた四角い黒縁眼鏡の奥からいやらしく彼を覗き込んだ。車椅子に腰掛けたままの彼に、連れていた金髪を短く刈り上げた痩身の白人男性が、CIA(エージェンシー)科学技術部所属の‘最重要(MK)機密計画(ウルトラプロジェクト)’担当上級技術者(シニアエンジニア)だと紹介した。

最重要(MK)機密計画(ウルトラプロジェクト)!?」

 CIAが秘密裏に進めていた‘MK’という機密コードが付けられた精神制御支配(マインドコントロール)技術を利用した洗脳と、化学的薬剤投与による超人的強化(サイキック)兵士(コマンド)諜報(インテリジェンス)工作員(オフィサー)育成の実験の事は、彼も都市伝説(フェイクニュース)的な噂話として軍部内で耳にした事があった。だが、その計画や実験そのものが遙か遠い過去に、当該時のCIA長官によって大部分が一方的に破棄されてしまい、計画の全豹は未だに連邦議会内でも明らかにされていないはずだった。しかし、女性上席諜報分析官の口振りによれば、その機密計画自体と研究は、長年に渡って人目を避けながら極秘裏にCIA(エージェンシー)科学技術部内で現在も存続している、という話だった。

 その女の言い分は、患部の完治と同時に機密計画の被験者(サブジェクト)として中央情報局に参加協力して欲しい、というほぼ強制に等しい依頼だった。海軍(ネイビー)海兵隊(マリーン)を統治する海軍省長官の承諾もすでに得ている、と彼に断る隙や術を全く与えなかったし、自宅に戻る事も許さなかった。帰国してそのままバージニア州ラングレー近郊の遺伝学医療(ジェネェティクス)実験施設(センター)へと‘拉致’されたのだった。

 特殊戦部隊(シールズ)の戦闘員として、群を抜いて能力が秀でていた彼は、腹部患部の治癒と、筋力の強化生成が成されていく過程の中で、これまで難関だった薬剤投与による遺伝情報(DNA)不適合(ミスマッチ)や、精神疾患にも奇跡的に陥らなかった。CIA(エージェンシー)主導による最重要(MK)機密計画(ウルトラプロジェクト)の唯一の被験者成功例となったのだった。

 異能者(サイキック)として‘生まれ変わった’彼は、それ以後に暗殺任務が主体で難易度が極めて高い人為的諜報(ヒューミント)活動に従事した。世界中のあらゆる地域に派遣され、幾多の困難な任務を尽く成功させていった。だが、英国での魔女殺害の案件だけが彼にとって例外的な汚点となってしまったのだった。だが、図らずもそれもたった今完了していた。

《そうだ…》

 この女は実在する日本の公安捜査官、江川冴子警部に成り済まして長期間潜伏し、何処かの代理人(エージェント)から依頼(オファー)された要人の暗殺をようやく決行したのだろう、と察した。

自身が記憶を失っているうちに、よくもまあ、本物と上手くすり替わったものだ、と感心した。その反面、依頼(オファー)は結果的に彼女を騙して抹殺する為の罠だった。そんな焦臭さも現状から感じられた。

 潜入捜査の着任直後の大事故で記憶を喪失し、女が偽物の江川冴子だと気付く余地など彼には全くなかった。だからこそ、相容れないお互いが偶然にも長期間に渡って一緒にいた、という信じ難い事が成立していたのだった。

 本物の江川冴子も入れ替わる寸前で殺されて、すぐに処分されたのだろう、と無慈悲な憶測をした。だが、外部には秘匿した潜入捜査だったのだ。証拠さえ出なければ、誰にも気付かれない。

《一体誰が?》

 彼女と本物の江川冴子を入れ替える為には、警察庁内部の機密情報に精通(リレイト)した人間の関与がなければ不可能なはずだった。

 そんな想いを巡らせている間にも、刻々と閉ざされていた記憶が目覚めていく。

「まるで…コンピューターの再起動(リブート)…みたいだな…」

 呟いた一言が、まるで何かの制御解除(リミッターオフ)のスイッチを入れさせたようだった。これまで忘れていた以前の記憶(メモリー)人間性(ヒューマニズム)までが、大きな書棚に大量の書物が綺麗に整理(デフラグ)されたみたいに、時系列ごとに隙間なく整っていった。情報機関(CIA)主導の最重要(MK)機密計画(ウルトラプロジェクト)被験者(ファースト)一号(サブジェクト)で、自分は鍛え抜かれた諜報(インテリジェンス)工作員(オフィサー)なのだ、という事も彼の中ではっきりと鮮明に蘇り始めていた。

 脳内に入れてあった早乙女慎司の個性(キャラクター)は、情報(データ)としてCIAが捏造したものと判っていた。そんな人間の記憶は、彼の頭脳の領域には元々なかっただけだったのだ。早乙女慎司などという公安捜査官はそもそも存在せず、虚偽の個人情報を、米国大使館諜報部赤坂支部の機関員(オフィサー)が警察庁のデータベースに紛れ込ませただけだった。

 思い出されたのはそれだけではなかった。派手な自動車事故の瞬間までもがありありと脳裏の中で克明に再現されていった。その時に抱いた驚愕に慄いた恐怖心と痛みさえ、たった今現実に体現している事のように思えたほどだった。その事故によって任務(オーダー)決行が大幅にずれ込んでしまったのも、今思えばやむを得なかった。

 彼は日本語も流暢(ネイティブ)な日系人だったし、人体改造に唯一成功した事も含めてこの機密指令には最適な人材だった。だが、これまで完全な日本人に扮した任務経験など皆無だったのも事実だった。今にして思えば、健常のまま扮装に失敗してボロを出すよりはましのような気さえした。そんな諸般な事に思いを巡らせているうちに、遠退いていた一年前の事さえ今は問題なく思い出していた。無事に記憶が戻り、与えられた任務(オーダー)の遂行に移れる事に彼はただ安堵した。

「そうだ…任務の…決行…だ…」

 廊下の連なる窓から忍ぶ夜明け前の薄らとした明かりが、不気味に彼の顔半分を灰色に照らした。その照らされた側の眼球が異様な光を放っているようだった。

 彼が腕時計へ視線を落とすと、完全な夜明けまでそう遠くない時刻を示していた。男達の死体が山となった右側廊下奥の窓には、北東から射す一筋の陽が水平方向へ拡がり掛けていた。

 眼下で朽ちた黒い革スーツの女の事はもうどうでもよかった。不幸な事にこの女は、彼が本物の早乙女慎司警部補だと何も疑わないままに死んでいった。それにしても、魔女(ウィッチ)が、偶然にもその冴子本人とタイミング良く入れ替わっていた、という幸運は、彼には少し不自然で、出来過ぎているようにも思えてならなかった。

「ちっ…夜明け前を狙って決行(アタック)するしかない…か…」

 明けて来た空を睨みながら、仕方なく舌打ちをした。担っていた自身の本分を今になって完全に蘇らせていたが、何か大事なものを取り返せないようなもどかしさも強烈に覚えていた。

《ハヤカワ家に残したままの装備を回収、その後‘ネオ・エネルギー総合研究所’へ向け、夜明け前の隙を狙って任務を手早く実行に移す…》

 ここでのんびりしている場合じゃない、と苛立った。握ったままのベレッタを、憎しみをこめたように睨む。貯め込んでいた怒りをぶちまけるように、崩れ落ちた女の頭部目掛けて九ミリ弾を躊躇なく連射した。直後に女の頭部は複雑で艶めかしい色彩のままに見事に瓦解して消し飛んだ。その動作全てがまるで人工知能(AI)でコントロールされた自律汎用機(ロボット)のようだった。

 米国政府が一年前に彼に与えた任務は、日本に返還した都内の接収跡地に、マンション住宅街や病院と併せて新たに建造するという大規模な国立のエネルギー研究施設の調査、及び、場合によっては施設そのものの破壊、というものだった。

 CIA(エージェンシー)は、数年前から日本が米国を欺いて、密かに核武装の開発、及び準備を始める、或いはすでに始めているのでは、と考え、日本国内各地に散る現地協力者(エージェント)、並びに情報提供者(インフォーマー)などの調査報告を元に、日本政府と防衛省に嫌疑を掛け続けていた。

 日本における無人ロケット開発技術は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)によってすでに確立されていた。更に数多くの原子力発電所で燃焼させた核燃料から、核爆弾の原料となるプルトニウム239を生成する事は、現在の日本の核技術力からすれば容易な事だった。それがもしもすでに存在するなら、広範囲な社会(インフラ)基盤施設(ストラクチャー)通信情報(インテリジェンス)機器(ハードウェア)を機能停止へ追い込む高高度核爆発を利用した電磁パルス(EMP)攻撃も可能という事だった。現代の国際紛争では、直接的な核攻撃などすでに必要がなくなっていたのだった。

 公に次世代のエネルギー開発と研究を行なう国内唯一無二の拠点の創造、と称しながら、実はその影で核兵器の開発を行なう為の施設なのでは、という疑心暗鬼が国防総省(ペンタゴン)にはどうしても拭えなかった。その憂いは、戦後一九五二年のサンフランシスコ講和条約締結以降、条文の中で米国が日本に対して認めた航空宇宙開発、及び原子力に関する開発の解禁を許した時から患う、慢性の喘息(ぜんそく)のようだった。米国自らが全てを与えながら、その‘飼い犬’にいつ手を噛まれるかも知れない、というような軍事的脅威の有りようは、戦後直後の米国政府内では簡単に想像しえなかった。

 更に情報機関が懸念したのは、現在の米国も含め、世界中で血眼になって研究開発が急がれているその‘電磁パルス(EMP)’を流用した携行可能な小型、中型の最新兵器の開発に、日本がいち早く成功したのでは、という猜疑心だった。もしそうなると、軍事白書(ミリタリーバランス)においての対日本、対自衛隊の戦略を、米国のみならず、世界中の軍部が見直さなければならない、という事態を意味していた。

 嫌疑が解けない以上、現地に忍び込んで調査(リサーチ)、そして報告が正しかった場合は破壊、或いは殲滅活動へ直ちに移行する、というのが諜報工作の鉄則(セオリー)だった。

 事前情報がかなりの精度なら、施設そのものに施された警備(セキュリティ)システムは並ならぬ難易度で、最新なものと容易に想像出来た。もっともそれらの解読(デコード)変換(エンコード)、及び突破(ブレーク)を想定した装備の準備を局内(ラングレー)側は抜かりなく用意していた。ただ、予想外の大事故で記憶を失ったまま、ハヤカワ家の自室に彼が放置したままだったのだ。

 ここはもう使い物にならないだろうし、病院全体を休診にするしかないな、というような事が脳裏を勝手に()ぎった。だが、これだけの大騒ぎになっても、警備員や病院関係者、或いは入院患者の誰一人として騒ぎに気付かないのは変な話だったし、警察にも通報しないのは余りにも不自然だった。

果たして本当に入院患者がいるのだろうか、病院として機能しているのだろうか、と逆に疑念を彼に抱かせた。どう見ても、最先端医療の診療を行なっている病院とは思えなかった。まるで大掛かりで精巧に作られた映画のセットのようにも感じてならなかった。

 非常階段を急いで下りながら、試しに病室の一つでも覗いてやるか、というような悪戯めいた感情が脳内を駆け巡ったが、それこそ彼にとってはどうでもいい事だった。

 死体と鮮血で汚された廊下を裏口へ向った。正面に見える救急搬送の出入口付近や救急救命(エマージェンシー)(ルーム)と思しき辺りには、救命医師や看護師の姿はまるで見受けられなかった。機材や設備は十二分に整っているようだが、使用感が余り感じられないようにも見受けられた。やはり、何かがおかしい、と思わずにはいられなかった。

 立ち止まることなく一瞥し、狭い職員廊下を音もなく影のように通り抜けた。非常扉から病院施設と隣接したマンションの狭い通路へ抜け出ると、グラデーションを起した紫色の天上が細長く覆っていた。

 素早く公園の中央通路近くまで進み、辺りの気配を窺う。何処かで密かに、沢渡香織が執拗に監視し続けているように思えてならなかったからだった。

 それは、魔女の深夜の不審な行動に偶然に気付いて尾行した時だった。いきなり目の前に現われた香織に、深追いの追跡を制止させられた時の事をはっきりと覚えていたからだった。

 あの女は、魔女(ウィッチ)の事をしつこく見張り続けていた。囮捜査班の捜査官の一人という事だったが、後からチームに合流した時点で端から江川冴子を疑っていたようだった。或いは、冴子が魔女だという情報を何故か事前に持っていたのかも知れなかった。

《日本の公安が魔女(ウィッチ)の詳細情報など持っているだろうか?》

 何かが不自然だった。薄暗いマンションのリビングで、あの女の右腕にあったミリタリーウォッチのバックライトがその顔を青白く照らした時、彼女が左利きだった、という事に気付いた。だが、その事を彼は忘れていたわけではなかった。ただ元々知らなかった、というだけだった。本当は一度も会った事のない女なのに、彼女は何故か早乙女慎司と過去に面識があると言っていた。

《そんなわけはない》

 実在しない人間同士が会うわけはなく、彼女は間違いなく嘘をついていた。沢渡香織という名も偽名だと思えた。そして、彼女はただの嘘つき女ではなく、何処かで相当に高度(ハード)過酷(タフ)訓練(トレーニング)をこれまで積んで来た事に違いない、と見受けられた。

 彼自身の視界の範疇に‘その’沢渡香織を未だに見付けられないのが気に入らなかった。まさか呑気にマンションで眠り込んでいるわけはなく、間違いなく何処かで目を光らせているはずだった。院内での魔女が行なった兵士や自警員との残虐な殺し合いも、しっかりと高みの見物を決め込んでいたに違い、と思えてならなかった。

 そんな感情を彼は無理矢理に(どぶ)へ吐き捨てるように消し去り、薄闇の公園中央通路をマンションの自室へ急いだ。

 記憶が戻った事で、ロビー入口のオートロック暗証キーも難なく思い出せた。先日の深夜に香織と行動を共にした時のようにエレベーターは待たず、非常階段から一気に七階まで駆け上がった。廊下を急ぐ彼の心情は、出来れば香織と顔を合わせたくなかった。手早く装備を整え、本来の任務である‘ネオ・エネルギー総合研究所’への情報収集、若しくは破壊活動を仕掛けたかった。

 ハヤカワ家の前に立ち、ドアノブに手を添える。冷やりとした金属独特の感触が掌に伝わった。夜明け前の静寂(しじま)に細かな(ひび)が入らないように心掛けて慎重に冷たい把手を捻る。予測していた通りに施錠されていた。香織は戻っていないな、と確認出来た時、幾らか緊張が和らいだ。薄闇の周囲へ速やかに気を配ってから持っていた鍵で解錠した。

 玄関ドアを素早く、そして静かに開けてから中に身を潜めた。室内の廊下は暗く、人気(ひとけ)は感じられなかった。彼は音を立てないように優しくドアを閉じた。

「お帰りなさい……早乙女さん」

「!?」

 ドアノブを握ったままの彼の背中で言葉が弾け、僅かに時間が動きを止めた。彼は、高速度(ハイスピード)カメラで撮られた映像が、ゆっくりと再生されたように発せられた言葉の方へ振り返る。と同時に、一息に廊下のLED照明が一丈の閃光を放った。視線の先には、ガラス戸が開いたままのリビングを背にして拳銃(ハンドガン)を構えた香織が容赦なく狙いを定めていた。

「随分と遅かったじゃない?」

「何故、銃を向ける?」

 全く隙を窺わせない香織に対して、彼はゆっくりと両手を挙げていった。

「彼女は……あの女はどうしたの?」

「気になるか?」

 手を挙げたまま問い返し、じわりと一歩前へ出た。

「動かないで!!」

 身体を(はす)にしたウィーバースタンスの射撃姿勢を更に緊張させて構え直す。

「死んだよ」

「今、何て!?」

「何を惚けているんだ、どうせ何処かで高みの見物でもしていたんじゃないのか?」

 彼は違和感を覚えずにはいられなかった。目の前で銃を向けている女は、自身を未だに早乙女だと少しも疑いを抱いていないようだったからだった。そう感じた心理的優位性が更に一歩前へ歩み出させた。

「動かないで、って言っているじゃない!!」

 香織は素早く狙いを定め直す。細長い廊下の僅か数メートルの間が只ならぬ緊迫感で埋め尽くされた。

「オレが殺した」

「そう、殺したの…」

 気にした割には「本当はどうでもいいわ」とでもいうように動揺するわけでもなく淡々としていた。

「つかぬ事を尋ねるが、おまえ…本当に沢渡香織か?オレを知っているという本物の沢渡香織なのか!?」

「今更何を言っているの、記憶を失っていたからといって、それは……あんまりだわ」

 白々としたまま顔を歪めた。

「じゃ、何故、銃をオレに向けたままなんだ?」

「それは…」

 香織が息を呑んだ僅かな隙に彼は咄嗟に前へ飛び出した。常人では考えられぬ速度で反応し、爪先から勢い良く滑り込んで廊下の左手にあったトイレのドアを大きく開いて彼女の動勢を制した。

「何!?」

 木製ドアは香織に激突しそうになり、それを避けるのが精一杯だった。その束の間に彼女は銃口を僅かに逸らしてしまった。

「甘い!!」

 余りにも急な状況変化に拳銃の引き金を絞る事すら出来ず、更に滑り込んだ彼の脚で下半身を逆に引っ掛けられて倒されそうになった。彼は香織が瞬時に避けた最中に上半身を素早く立ち上げ、向けられていた拳銃を掴んでいた両手を目にも止まらぬ速さで締め上げた。そのまま右側の壁へ香織を押し付ける。

「君は……いや、おまえは、本当は何者なんだ?」

 応えない香織の大きく見開いた両眼(りょうまなこ)の奥には、冷ややかな憎しみめいたものが潜んでいた。

「生憎だが、オレは…思い出したんだよ…全てを…」

 銃を握っている香織の両手首の関節を逆方向へ締め上げた。彼女は、真綿で締め上げられていくみたいな苦悶の表情を浮かべ始めた。

「だって、君はオレを知っているんだろ?」

「……」

「だが、変だな…オレは君の事を知らない…全く知らないんだ」

 どうしてだか判るか、という彼の表情が、何かに取り憑かれたみたいに薄気味悪く歪んだ。

「嘘だよな…オレの事を知っている、なんて…そんな事、絶対に有り得ないよ、何故ならオレは、実在しない人間だからだ……早乙女慎司なんていう公安の捜査官は、本当は存在しない…」

「うぅ…!!」

 彼は左手だけを素早く外し、香織の喉元を逃げ場がないほどに強く掴み直した。

「吐け、お前は何者なのか、すぐに吐くんだ!!」

 香織は呼吸すら苦しくなり、微かに意識が遠退き始めた。死への恐怖に覆われ掛け、表情を歪めたまま天命に任せたかのような悪あがきの頭突きを咄嗟に彼へ見舞う。苦し紛れの不意な一撃は幸運にも男の鼻柱へ激突し、彼はたまらず呻き声を漏らした。

 締め上げられていた両手首が僅かに緩んだ。彼女は廊下の狭い空間の中で間髪を入れずに男の鳩尾(みぞおち)へ右の正拳突きを出す。その動作を察していたかのように彼はすかさず右手を腹部辺りへ持っていったが、香織の予想以上の敏捷さに間に合わせられなかった。不覚にも受けた痛烈な突きは内蔵を抉るような衝撃を彼に与え、一瞬だけ苦悶に嘔吐(えず)いた。

 香織は立て続けに右肘で顔面へ二発目を狙ったが、彼は顔を歪めながらも本能的にそれは素早く左腕で払った。逆に隙が少し出来ていた左手を反射的に叩き、彼女が握っていた拳銃(ハンドガン)を廊下へ弾き落とした。即座にそれをリビングへ蹴り飛ばす。

 不意に反撃された悔しさが香織の感情を煽った。叩かれた左手を強く握りしめて男の顔面目掛けて素早く放つが、彼は軽々とそれを右手で避けた。即座に男の左膝が今度は電光石火の素早さで彼女の腹部へ飛んだが、寸でのところで腰を引きながら右腕で阻止する。

 廊下の狭間(はざま)で繰り広げられた二人の全身を駆使した死闘は間断なく続いた。一進一退の高度な武術の応酬は破綻の兆候を二人に全く感じさせなかった。だが、それはお互いの中で猛烈な不満(ストレス)へと徐々に姿を変貌させ、体力(スタミナ)と集中力を間違いなく削り取っていったのだった。

 縫い目が解れるような攻守の誤った判断は出し抜けに訪れた。

 幾度かの応戦の後に香織の防御が微かに乱れ、男の手刀打ちが香織の左頬を掠めた。時間が止まったかのような一刻に彼女は目を丸めた。彼はその僅かな合間を逃さなかった。即座に屈んで懐へ飛び込み、右の肘鉄を香織の鳩尾に叩き入れた。彼女の身体が不意に浮き、怒濤の勢いで男はその姿勢から痛烈な横蹴りを見舞った。香織はリビングの中へと真っ直ぐに蹴り飛ばされ、深夜早朝のマンション内に蹴り倒された振動が轟いた。

 彼は攻撃の手を全く緩めずそのまま飛び掛かった。意識を失わずに済んだ香織は身の危険を察して直ちに上体を起そうとするが、飛んで来た彼に制された。首根っこを押さえられ、背後から裸絞め(チョークスリーパー)で羽交い締めにされてしまった。

「何処で鍛えた?」

「うぅっ!?」

「間違いなく警察、公安の人間じゃ…ないな?…このオレとここまで闘えるのだから…」」

 男の左肘の間に顎下がきつく締め上げられ、声を出そうにも出せなかった。それはまるで問い質しているにも関わらず、もう何も答える必要はない、と彼女に思わせた。

「うぅ……!!」

 彼が無言のまま更に締め上げると、息が出来ない香織は男の腕を激しく何度も何度も叩いて抵抗した。そんな死に際に等しい反応も余所に、彼は無情にも肘を締め上げ続けて彼女をあっという間に昏倒させた。香織の手足から力が抜け、だらりと床へ垂れた。

 男は泡を吹いた香織の身体を静かにフローリングの床へ横たえさせた。ゆっくりと立ち上がり、リビングの壁に掛かった時計を確認する。もう夜明けだった。

「まぁ…いいだろう…」

 やはり一思いに殺すべきだったか、と自問しながら気絶したままの香織を一瞥し、玄関横の充てがわれた自室へと向った。

 部屋の隅にパイプベッドしかない六畳間だった。入った左手にある作り付けのクローゼットを開く。がらんとした中の戸棚の上からキャンバス地の大柄なボストンバッグを手に取った。

 チャックを開け、中からプラスティック爆薬や拳銃を含めた数種類の中小様々な機材を取り出す。それらをフローリングの床へ二列に分けて綺麗に並べた。バッグから最後に取り出したのは、幾重にも折り畳んであった紙だった。それを勢い良く開いて並べた機材の横へ敷く。A二サイズほどの見取り図だった。彼は何かを手繰り寄せるように、それの隅から隅まで逃さず見入っていた。

 並べた機材と見取り図を納得したように見下ろしながら、クローゼットの中に唯一掛けられていた真っ黒な上下一体の戦闘服(コンバットウェア)を引っ張り出した。着ていたシャツやチノパンをそそくさと脱ぎ去り、素早くそれに袖を通した。

 戦闘服の腕部や脚部、胸部には幾つものポケットが備わっていて、そこへ一度並べた小さな部類の機器を押し込めた。腰部に通したままだった多目的(ユーティリティ)ベルトのホルスターには拳銃を挿し、幾つかぶら下がったフックに予備の弾倉(マガジン)数個とナイフ、スマートフォンのような液晶端末機、小型のワイヤー巻き器(リール)を数個引っ掛けた。最後に見取り図を畳んで右脚のポケットに仕舞う。

「まさかこれを使うとはな…」

 思わず呟き、床に一つだけ残ったショットガンを小さくしたような発射器を手に取って部屋を出た。

 白んで来た空を望む廊下をリビングへ歩を進めた。倒れたままの香織の横を通り過ぎ、サッシ戸まで進む。

 今更だよな、と嘲笑しながらサッシ戸を静かに開けてバルコニーへ歩み出た。幾らか冷やりとした大気が彼の鼻先を煩わしく幾度か撫でた。

 手にした発射器の太い銃身の先台(ハンドガード)辺りに、ベルトのフックから外した巻き器(リール)を接続する。巻き器からワイヤーを引き抜き銃身に通し、脚ポケットから取り出した鉤爪になった小さな矢を銃身に挿して繋いだ。それらの接続を確認する間もなく、隣接する研究所の針葉樹が生い茂った森目掛けて発射器を構えた。七階のバルコニーから出来るだけ急角度にならず、ワイヤーの最長距離三十五メートルの範囲で、比較的幹の太いしっかりとした木を探す。空が白んで来たとはいえ、まだ薄闇に覆われた森を彼は左から右へと舐めるように素早く見回した。

 動きがやや斜め右方向で突然止まった。直後に、何の躊躇もなく発射器の引き金(トリガー)が絞られた。火薬の小さな爆発音と伴に、鉤爪に繋がれたワイヤーが勢い良く森の中へ射出された。巻き器の軸受け(ベアリング)が猛烈な回転音を発したと思ったら、僅か一、二秒でワイヤーの動きはぴたりと止まった。鬱蒼とした森の中の何れかの木に鉤爪の矢が刺さったようだった。

 彼は巻き器(リール)を発射器から外し、それをバルコニーの天井からぶら下がった物干しの金具(ブラケット)の一つにしっかりと固定した。ワイヤーがきちんと張っている事を即座に確認すると、胸部のポケットから小さな貨車と繋がったナイロン製と思しきバンドを取り出し、それをベルトのフックへ引っ掛けた。貨車をワイヤーに乗せたと思ったら迷う事なくバルコニーの柵を乗り越え、貨車に身を任せて研究所内の森の中へ勢い良く降下していった。

 ワイヤーの上を走る貨車の擦れる音が、早朝のマンション街と森との間で染み入るように紛れて消えてなくなった。

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