フェイズ 4
今宵の月は、冴子の目には妙に青白く輝いているように見えていた。満月から幾らか欠け始めていた月は、それでも深夜の公園内を照らすには十分な輝度を保っていた。それは彼女にとっては全く都合の悪い事だったのだ。
今夜に限って冴子は公園の通路隅の茂み近くを低くうずくまった姿勢で小走りに進んだ。それはここ毎夜の行動に、自身の背後が妙に気になって仕方なかったからだった。そして今晩こそはこの‘契約’に絶対に決着を付けなければ、という想いに駆られていた。
この一年間、彼女は自身の素性を捨て、江川冴子として毎日を過ごして来た。そんな事は、これまでの仕事と全く同じだったはずなのに、何故か今回だけは簡単にそう割り切れなかったのだった。身分を偽っている期間が、いつもより極端に長かったからかも知れなかった。
自身の本名など、初めてお金を貰う為に人を殺した時に捨てたはずだった。今では本当の自分の名前が何だったのか、それさえ忘れていた。だが、通称はあった。彼女は‘痩せこけた魔女’が闇社会で通り名になっていたが、この日々の中でその事自体も忘れ掛けていた。だから、今の自分は間違いなく‘江川冴子’という女に違いない、そう信じられたのだった。
それなのに、あの若い女、自分の娘を演じている沢渡香織の存在が嫌でも気になって仕方なかった。どう見ても、あの女は普通の公安の捜査官のようには思えなかったし、間違いなく自分に疑いの目を向けている、と思えてならなかった。その根拠が何処にあるのかさえ判らないのも気に入らなかった。
だが、冷静に考えたら、世界を股に掛けた暗殺の超一流と自負する自身の素性が、他に絶対に知られるわけがなかった。しかも、あんなチャラい女に、簡単に正体を見破られるはずはなかった。仮に知られたとしても、あの女を葬り去るなんて、赤子の手を捻るようなもの、としか思えなかった。
この依頼は一年半前に突如舞い込んだ。中核派団体の代理人だと名乗る男が、秘匿している携帯電話のベルを鳴らしたのは、香港でとある結社の要人暗殺の仕事を行なっている最中だった。
その見知らぬ代理人は、日本政府や警察機構の中枢に接触出来る立場にあると言い、その証拠として数年前から現在進行形で進められている秘匿された都心特区計画の詳細や、最新の警察庁や防衛省の諜報情報網の脆弱性を彼女に事細かに伝え漏らしたのだった。
なによりも報酬が魅力的だった。契約で拘束される期間は気が遠くなるくらいだったが、支払われる額は通常の暗殺報酬のざっと三倍ほどだった。しかも報酬額の半分は、手付金と仕事の準備金という事で、突き止められるはずのない架空名義のクレディ・スイスの秘匿口座に振り込まれていた。代理人がその口座番号を見付けた事で仕事を請け負おうと思ったのだった。
その時に引き受けていた香港マフィアの要人暗殺でさえ、準備期間を含めて約二ヶ月ほどだった。身辺に近付いて愛人に成り済まし、標的を濃厚な性的関係で虜にした後に、身辺警護の連中諸共に全てを殺害する、といった仕事でもその程度の期間だった。
今回の暗殺依頼では、異例の建前上一年から二年の長期間拘束の契約内容だった。ただ、殺害を予定よりも早く達成出来れば、ほぼ通常の仕事の期間で報酬は三倍だったのだ。だが、最初に行なわなければならない面倒臭い事は、本物の江川冴子の殺害だった。
代理人の情報提供によれば、同じ任務に当たる夫役の相方の男性警部が、着任早々にある人物の追跡中に不慮の事故に襲われ、確実的に病院送りになる予定、という事だった。しかしそれは想定外の大事故となってしまい、その相方が記憶を失ってしまうという事態にまで陥ってしまった。だが、すでに発動された特別時限編成ユニット‘Decoy and Undercover Investigation Team’による夫婦役の潜入捜査を突如中断出来るわけもなく、夫を介護するという新たな展開で潜入捜査を継続するしかなかった。
彼女は、その‘やむを得ない新展開’を伝える為に本部から派遣された、という触れ込みで正真正銘の江川冴子本人と接触した。事態の細部を本人から事細かに聞き出して、油断したところを背後から絞殺したのだった。
本物の江川冴子は、自身とは似ても似つかぬほどの太った中年女で、お世辞にもボブカットが全く似合っていない無器量だった。こんな女がこの地上から一人消えたところで、どうという事はないだろう、と思えるような女だった。
体は風呂場で人体と判らないほどにばらばらに切り刻み、生ゴミに紛れ込まして数回に分けて捨てた。
仕上げは、本物との印象を少しでも近付ける為に、背中まであった長い髪を切り、近所には心労でみるみる体重が激減して別人のようになってしまった、という印象をあからさまに前面に出した。
そして、なんやかんやで結果的にすでに一年が経ってしまっていた。さすがに元内閣総理大臣まで成り上がった男の身辺警護レベルは、そう簡単に隙が出来るような半端な体制ではなかったのだ。
大沢祐一郎が個人的に雇っている私的自警員達は大凡三十人で、誰もが屈強な体格を成していた。厳しい訓練が行き届いた黒い背広を纏っている傭兵のようだった。全員が日本人の男だったが、刃物や銃器さえ与えれば誰もが躊躇なく簡単に人を殺めそうな威圧感に満ちていた。 そんな連中が二十四時間三交代で一階から、大沢が滞在している六階の特別室までを、隙なく院内の要所で警護しているのだ。その警護の‘抜け穴’を見つけ出す為に、何度も何度も試験的に院内へ侵入したりして、想像以上に時間を食われてしまったのだった。
最初はもっと簡単に考えていたのも事実だった。公園の通路を挟んで建つマンションのどれか上部層の一室を占拠して、ライフルによる狙撃で済まそうとしたが、そう甘くはなかった。三つある特別室はどれも通路に面してなく、六階の東側の窓という窓は全て内側から目張りされていた。つまり、大沢がどの病室にいるのか、本当に東側の特別室にいるのか、はたまた実は西側の幾つかある個室なのか、という地道な情報収集の作業から始めなければならなかったのだった。
警察庁の諜報情報網‘Hot eye’に『国立帝東大病院内で密かに憲法九条改正後を睨み、軍需目的利用で国際禁止法になっているクローン開発に必要な酵素の免疫研究が密かにに行なわれている』という誤情報を紛れ込ませたのも彼女だった。それは、もしも大沢祐一郎暗殺の情報が漏れてしまった時の陽動としての保険だったし、中核派団体の代理人による‘Hot eye’の脆弱性を利用しろ、という提案もあったからだった。
それがどう上手く作用するかなど、確実的な予測は立てていなかった。ただ、その誤情報が世間に知れれば経済特区は一時的に社会的な非難を浴びるはずで、その隙に身を紛らわす為の‘煙幕’のようなものにもなる、と考えた。
それらの事が断片的に頭の中を駆け巡った。彼女が病院の壁際まで辿り着いた時、そのせいで珍しく集中力が幾らか欠けている事を初めて自覚した。羞恥心に似たちょっとした衝撃が否応なしに頭から爪先まで突き抜けていた。
綻び掛けた気持ちを再び集中する。気を取り直して素早く身を屈め、聳えた塀の上部を見上げた。警護の交代時間に出来るセキュリティの‘抜け穴’を見つけ出し、今宵に暗殺を実行出来る段階にまでようやく辿り着いたのだった。だが、許された時間は僅か一分三十五秒。一日の中で三度目の警護の交代が行なわれる深夜二時、人数は七人に減るが、これまでの侵入調査ではおおよそ三十人の中で、体付きからしても自警団最精鋭といえるような七人だった。 その七人が詰所となっている一階の使われていない診察室から出て、夕方から夜間の警護班十一人と交代の為に各警備位置までそれぞれが出向く。一番遠い六階のエレベーターホールまでの距離が一分三十五秒だった。
三基並んだ各階のホールとも、非常階段までが素通しで覗ける位置にあった。そして、そのエレベーターホールに立つのは、深夜は大柄な男一人のみ。獰猛なゴリラみたいだったが、俊敏性はなさそうだった。
彼女は左腕のデジタル腕時計のバックライトを仄かに点けた。深夜二時まであと五分だった。病院内の部屋、廊下、階段などのレイアウト、防犯カメラの位置や向き、設置個数は全て頭の中に叩き込んであった。
侵入経路も、最初は建物裏手の二階多目的トイレの窓と決めていたが、ピッキング可能な職員専用出入り口に急遽変更した。そこから侵入した事はなかったが、何度か多目的トイレから侵入を試みていたせいで、何らかの痕跡を残してしまったかも知れない、或いは誰かに見られていたような不安を拭えなかったからだった。
塀上方を睨んだまま、彼女は腰に巻き付けたベルトのポケットから手製のワイヤー巻き軸式小型鉤縄を取り出し、勢い良く上へ向けて放った。軸のベアリングが小気味良く回転音を発したが、すぐに引っ掛かった反応と伴に回転音が収まった。ワイヤーを引きながら間違いなく引っ掛かった事を確認すると、塀に足を掛けてワイヤー伝いに息もつかせずよじ登った。塀を乗り越えて素早く中へ飛び降りる。着地して立て膝のまま動かずに辺りを窺った。身体にぴったりと馴染んだ黒い革製戦闘服は、深夜の仄暗い闇にしっとりと溶け込んでいた。
静寂の中でゆっくりと立ち上がり、救急搬送用の出入口がある側とは逆の、塀と建物の狭い間を正面玄関の方へ密やかに向う。
左手の先のドアの上に、項垂れるような角度で防犯カメラが出入口付近を狙っていた。
時間を再度確認する。全てが予定通りに進んでいた。彼女はベルトの別のポケットから丸められた粘土みたいな粘着剤を掴み、それを両手で挟んで潰して平らにした。潰した粘着剤を右手で持ち、壁伝いに防犯カメラの死角の位置から静かに近付く。壁を背にしたまま意を決し、一気に飛び跳ねてから手にした粘着剤をレンズの正面に貼り付けた。防犯カメラのモニターは警備室にしかないはずだったし、この時間帯に警備員は例によってうたた寝を決めこんでいるはずだった。
原始的手法で防犯カメラを無効にした彼女は、ベルトに差してあった細いピックツールを二本抜いて鍵穴へ突っ込んだ。何度か双方を器用にこじって鍵を解錠するのに三秒と掛からなかった。
ドアを静かに、そして素早く開いて中へ忍び込む。壁で挟まれた細い廊下は薄暗く、右方向へL字型に曲っている。中腰のまま角まで進み、その先の気配を窺う。長く伸びた廊下の先は、病院玄関に接した広い待合室だった。待合室の右手に受付カウンターがこちら向って伸び、その手前に警備室がある。 その為に一階待合室付近には自警員は立っていない。
狭い職員用廊下を出た左右に院内廊下が拡がり、角の警備室に挟まれるように右手奥に非常階段があった。その右手並びに自警団の詰所があり、院内廊下の左手はエレベーターホールだった。そこには一人の自警員が常に目を光らせていた。更にその先廊下には救急搬送用の出入口があり、もう一人がそこに立つ。
再度時間を確認する。彼女はまず交代直後のエレベーターホールの男を昏倒させ、非常階段から上階へ上がるつもりだった。
深夜二時まで後二分というところだった。これまでの下調べでは、二階にもエレベーターホールに一人、非情階段に一人、何故か三階には一人も立たせず、四、五階に一人ずつ、そして最上階の七階には自警員はいなかった。
この仕事が完了した後の事が、ふいに彼女の脳裏を過ぎった。このまま姿を消した方が良いのか、ひっそりと何食わぬ顔で江川冴子に成り済ましたまま任務期限まで待つか、或いは自分の顔を見ているあの二人を殺してから身を隠すか、だった。だが、沢渡香織だけはどうであれ、どうしても殺したい衝動に駆られ続けていた。年下のくせに自信満々の生意気な態度と、明らかに自身に対する何かの嫌疑と確信を掴んでいるように思えてならなかった。だから、あの女だけは絶対に始末したかった。ということは、任務完遂後にやはり部屋へ戻らなければならないのだと悟った。
「な、何を…」
まだ完了したわけでもないのに、又しても油断している、と自身に対する腹ただしさが思わず吐き出された。先程からやはり集中力を珍しく欠いたままだった。その苛立ちを払拭させるようにデジタル腕時計を再び見やると、もうすぐ連中の交代の時間になろうとしていた。深夜の院内に慌ただしい物々しさが漂い始めていた。
廊下対面の詰所から人が動き出す気配を察知した。引き続き狭い職員用出入口廊下に身を潜めたまま動向を窺う。ひっそりとL字型廊下の先を覗くと、ダークスーツ姿の自警員一人が仄暗い待合室へ、数名の男がエレベーターホールへとそれぞれに向っていった。程なくして一人が待合室から、もう一人がエレベーターホールから戻って来る。それを確認すると彼女は小走りに狭い廊下を急いだ。右側の壁を背に当てて戻っていった自警員二人の背中を窺い、素早く視線を反対側のエレベーターホールへと移す。三基並んだエレベーターのうち、中央のかごへ数名が上背のある一人を残して入っていった。これからの一分三十五秒が成否を分ける勝負だった。腕時計のストップウォッチ・タイマーを素早く押す。
残った自警員一人が、エレベータードアがゆっくりと閉じていくのを見送っていた。そのタイミングを見逃さずに彼女は院内廊下へ飛び出し、中腰のまま男の背後へ足音を立てずに突進する。男が振り返るかどうかという寸前で後ろから腕を男の首へ掛けてぶら下がるように容赦なく締め上げ、じたばたさせる余裕も与えずに昏倒させた。音もなく床へ崩れ落ちた男は泡を吹いていた。死んだかどうかは、どうでも良かった。
屈んで振り返った彼女は、電光石火の如くに反対側の非常階段へと急いだ。待合室へ向う廊下と、詰所の前を通り過ぎる時だけ立ち止まって、辺りに気を掛けた。のんびりとしているわけにはいかず、大丈夫だと確信する間もなくすぐに動きだし、非常階段を密やかに駆け上がった。
一階と二階の間の踊り場で身を屈め、一度止まって様子を素早く窺った。見上げた先では、非常階段を見張る担当の自警員が丁度交代したところのようだった。だが、運悪く見張りを終えた自警員がそのまま階段を下って来ようとしていた。
「やばい…!」
心なしか呟いてしまった彼女は、踊り場から一階へ下がるステップと手摺りの陰へ背中越しに身を潜めた。右のブーツに仕込んだ鞘から鋭利で小型なシースナイフを取り出す。
ステップを下って来る足音が段々と近付いて来た。焦りからなのか、自然と腕時計のタイマーを気に掛けていた。スタートしてから二十秒がすでに経過していた。
気配で男が階段の踊り場を折り返したのを察した。屈んだまま更に身を潜めてべったりと背中を内側の手摺りの下へ押し付ける。時間が無駄に過ぎていくようで内心苛ついていた。
男の脚が踊り場から一段、二段とようやく下り掛けたその刹那、彼女は素早く立ち上がって背後から襲い掛かった。振り返りざまに驚愕して目を見開いた男の口を左手で押さえ、右手に持った小さなシースナイフを首の頸動脈へひと思いに突き刺した。ナイフを刺されたままの男は目を真横に見開いたまま、出血も大してせずに事切れていた。脱力した男の亡骸を彼女は静かに横たえ、上階にいる次のターゲットに狙いを定めた。シースナイフは左のブーツにももう一本仕込んであるが、無駄には使えない。
急がなければならなかった。四階、五階、六階で見張りを終えた輩がエレベーターを下ったら、一階のホールで倒れている男に気付いてしまう。その前に六階にいる最も肝心な要人暗殺の目的が達成出来なくなってしまったとしたら、自身の命も危ないだろう、と否応なく思い知っていた。
彼女は這うように急いで二階への階段を上がった。上がりきる数段前で視界に入った二階の非常階段担当の自警員は、何故か落ち着かない様子で廊下を彼方此方に歩き続けていた。考える間もなく、ポケットから侵入した時に使った手製のワイヤー巻き軸式小型鉤縄を取り出した。狙いを定め、自警員が彼女に背を向けた瞬間に投げ付ける。鉤爪は見事に男の首に巻き付くように引っ掛かって締め付けた。すかさず力一杯に引っ張ると、ワイヤーが男の首に食い込んで肉が切れ、身体は糸が切れた操り人形みたいにでたらめに階段を転げ落ちた。踊り場まで落ちた男を一瞥すると、食い込んだワイヤーが頸動脈を切断し、血を溢れさせてすでに死んでいた。
エレベーターホールで見張っていたもう一人の大柄な男が異変に気付いて何かを絶叫した。それに反応するように彼女は鉤縄を捨て、階段を一気に駆け上がった。向って来た大柄な男に対して正対した彼女は、エレベーターホールへ一気に走り出した。
「〇X#△%?*&!!」
何かわけの判らない事を喚きながら突進して来る男と交錯する寸前に、彼女は床に滑り込みながら左脚のブーツからもう一本のシースナイフを抜き取った。男の大股な股間を滑り抜けながら、ナイフで両太腿の動脈目掛けてX字を描くように鮮やかに切り付けた。
「うっ!?」
男が呻く最中、彼女が股間を滑り抜けた直後に両膝を急激に立ててから素早く姿勢を立ち上げた。大柄な男が振り返るような仕草を示した後に、手で押さえた両内腿の箇所から夥しい出血が急速に始まった。溢れ出した血液は交差する噴水のような勢いで溢れ出し、男は怯えた表情を凍らせたままに一面が血の海となった床へ倒れ込んだ。
背中越しに男が倒れ込んだ事を確認してから彼女はナイフを鞘へ戻し、エレベーターホールへと全速で走った。
中央のかごは詰めていた男達と交代する為に上階へ向っていた。すかさず上昇ボタンを押して、一階で停止したままの左側のエレベーターを呼び出す。この動作で不穏に階数表示が点灯され、上階で交代を待っている連中に異変を気付かれてしまうかも知れなかったが、今はそんな悠長な事は言っていられない。時間は容赦なく刻々と過ぎていく。
何故か突然に軽いチャイムが響き、左側のエレベーターの扉がゆっくりと右へスライドして開いた。
「えっ、何で!?」
彼女はかごの中を見詰めて不覚にも固まってしまった。固まってしまったのは、その中に誰かがいたという事で、その人物の視線が彼女を真っ直ぐに射抜いていたからだった。
「さ、さ、お、早乙女……さん?」
何で普段着姿のままのこの男が今ここにいるのかが全く理解出来なかった。そして、この男の想定外の出現によって、彼女の大沢暗殺計画は完全に狂ってしまった事を悟らされた。顔から血の気が引いていくのを彼女は嫌というほどに感じていた。焦りから来る早鐘が、頭の中で時の刻みと皮肉にもぴったりと同期していく。
「な、なんでここにいるのよ…い、一体ここ…ここで…何しているのよ!」
「済まない…君の後を…付けて来た…」
「付けて来た?」
間抜けなオウム返しだったが、この男にそんな事は不可能なはずだった。自分に気配を気付かせないままに背後を追って来るなんて絶対に有り得なかった。何者だか疑わしきあの若い女が、深夜に何度もこっそりと後を追って来た時でさえ、その気配はしっかりと察していたし、目的を気付かせないように煙に巻いていたはずだった。
「う、嘘…下にまだ男がいたはず…」
僅かな視線の動きだけで腕時計を確認した。この男にかまっている時間は全くない、と焦れた。
「倒した…というか、多分殺した…と思う。な、何故、そんな事が出来たのかも良く判らないし…実はここ二、三日の記憶も全く消えていない。まるで、ぱっちりと目が覚め……」
この男は危険だ、そういう信号が根拠なく彼女の体内を瞬く間に駆け巡った。本能的に素早く早乙女のストライプ柄のシャツの襟首を掴み、かごから引きずり出す勢いでホールへ投げ飛ばした。だが、投げ出された早乙女はホールの床に叩きつけられず、肩で衝撃を受けてから一回転してすぐに起き上がった。
こんな防御がどうして出来るのか、全く判らないままに彼の身体が勝手に反応していた。頭を振りながら早乙女が戸惑う最中にも、彼女は容赦なく奇声を発しながら右脚で矢のような速さの横蹴りを見舞った。早乙女は動転する事なく目を見開いたままに物ともせずに左手ではね除けた。その一刻、早乙女の瞳孔が大きく開き、まるで両眼から異様な光を放ったように見えた。
「何、何なの!?」
馬鹿にされたと感じたのか、憤怒した彼女は間髪を入れずに左に右と、回し蹴りや横蹴り、そして正拳の連続コンビネーションを颯爽と何発も繰り出す。非情階段の方へ徐々に追い詰めるが、今の早乙女にはどれもこれも決め手とはならずに尽く防御されていた事に苛ついた。息を僅かに切らせた細く整った顔が薄闇の中で曇り始め、これまで生きた人間には絶対に晒した事がないほどに歪んで醜くなっていく。
「どうしたっていうんだ、冴子さん……いや、そうじゃない、あなた、本当は冴子さんじゃないよね、本物の江川冴子は、あなたみたいな美しい女じゃなかった……ような気がする…はっきりとは…思い出せないが……いや、もしかしたら会っていないのか?…き、君は一体何者なんだ?」
彼女にいきなり襲われたにも関わらず、早乙女は何故か冷静でいられたし、異様な威厳さえ漂わせていた。
「あ、あんたこそ…」
隙のない身構えのままの彼女は、突如と甲高い雄叫びを上げながら早乙女に飛び掛かった。そこには、美貌という表現が相応しかった端正な面持ちはすでに綺麗さっぱりと消失していた。瞬く間に単なる獰猛で醜悪な野獣と化していた。
跳躍した彼女の両脚が早乙女の首に巻き付いた直後、そのまま彼の背中へぐるりと回って勢い良く倒れ込んだ。早乙女の身体はたまらずに彼女の動きに倣って宙に浮いて一回転させられ、背中から廊下の上に叩きつけられた。彼の両肩の上にまたがったままの彼女がすかさずブーツからシースナイフを抜き取いた。ひと思いに顔面へ突き刺そうとしたが、早乙女が寸前で命からがら何とか突き飛ばした。必死に横に転がりながら立ち上がって回避したが、即座に彼女の跳び蹴りが彼の顎を容赦なく捉える。予期出来なかった早乙女は苦痛の呻きを発し、運悪く非情階段の踊り場へ一気に蹴り落とされてしまった。
彼女は、二階フロアから踊り場の壁に凭れて項垂れたままの早乙女を一瞥した。一時だけ迷うような表情を浮かべたが、すぐに思い直してエレベーターホールへと慌てて駆けた。ドアが開いたまま待機していた左のエレベーターに飛び込む。残り時間は二十秒を切っていた。
「あんな男の為に…」
無駄だと判っていても、六階のボタンを押した後に、閉ボタンを忙しなく何度も押し直した。ゆっくりと閉じられていくドアに、どうする事も出来ない歯痒さと怒りを同時に感じていた。
かごが微妙に揺れてから上昇し始めた。ドアの上で階数表示がみるみる変わっていく。すでに上階で警護している自警員達は、動くはずのないエレベーターが移動している事で、何らかの警戒をしているだろうと簡単に想像した。そして、六階には特別室が三部屋ある。大沢がその三部屋のどれにいるかは定かとなっていない。
エレベーターが到着したチャイムが薄闇で静まり返ったホールに低く響いた。エレベータードアの前では、屈強で大柄な自警員が異変を察してすでに身構えていた。
スライドドアが、気が遠くなるほどの速度でのんびりと格納されていく。身構えた男の前に、空っぽのかごが大口を開けていた。かご内の白い照明光が、仄暗いホールの床と男を微かに浮かび上がらせていた。
ゴリラみたいな屈強な男は怪訝な表情を浮かべ、恐る恐るかごへ歩を進めた。ゆっくりと、まるで地面を踏み固めるような足取りで近付きながら、右手をダークスーツの内側へ滑らせた。懐を確かめるようにして取り出したのは、事あろうか自警員にも関わらず自動拳銃のグロッグ17だった。
グロッグを右手に握りしめた大男はエレベーターの中へ慎重に入った。恐々と上下左右をきょろきょろ確認したが、何の異常も感じ取れなかった。不意に安堵の溜息を漏らす。その直後だった。タイマーの耳障りな電子ブザーが大男の背後で小さく数度響いた。
「えっ!?」
間抜けな呻きを吐きながら音の出所の方へ振り返る。見上げると、天井近くの右手の壁と階数表示ランプが設置されている入口上部の角に誰かが窮屈そうにへばりついていた。
「何ぃ!!」
黒い革スーツ姿の女と目が合う。驚愕した大男は慌ててグロッグを女目掛けて構えようとしたが、天井の角に引っ付いていた女の動きの方が僅かに速かった。
彼女は大男に向って飛び掛かる寸前に左脚のブーツからシースナイフを抜いた。飛び降りた刹那に右手で向けられたグロッグを退けて、左手のナイフを大男の右眼に容赦なく深く突き刺した。
まるで時間が止まったようだった。彼女はかごの床へ着地する寸前で刺した右眼から素早くナイフを抜き取る。
大男はグロッグを落し、何が起きたのか判らずに戸惑う仕草を示した。次の一瞬で強烈に苦しみながら大声で喚き、押さえた右眼からは大量の血吹雪が舞った。彼女は床へ落ちたグロッグをさっと拾ってベルトの腰の隙間に差し、かごから慌てて出た。
夥しい出血をどうする事も出来ない大男は崩れるように両膝を突き、自身の大量の血液で汚された床に倒れ込んでいった。ナイフを戻しながらそれをホール中央から一瞥した。彼女の暗殺者としての敏捷な接近戦での動きは、そんな血みどろの状況でも返り血を一滴も浴びずに済まさせていた。
彼女は奪い取った自動拳銃を腰から抜き取り、グリップ内の弾倉を手練れた手付きで抜き落して残弾を確認した。九ミリ・パラベラム弾が十七発フル装弾されたままだった。素早く弾倉を押し込んで安全装置を掛けてから腰へ戻す。早乙女のせいで時間が超過し、計画がまるで崩れてしまった彼女にとって、僅かでも装備が増えたのは幸運だった。
そんな最中、目の隅で右端のエレベーターの階数表示が動いた事に気付いた。異変に勘付き階下から他の自警員が上がって来たようだった。現在の当直自警員だけなら二人、そうでない場合は二十人以上だった。
エレベーターホール正面先にある非常階段にも注意を払う。もし詰所にいる自警員達も気付いて動き出したとしたら、詰所にいる半数の連中が非常階段からなだれ込んで来たとしても不思議ではなかった。
三つある特別室は、非常階段方向ではなく、そこから左手九十度の廊下沿いだ。そう思うが早いか、彼女が左手の特別室がある廊下へ向って走り出した最中、小さなチャイムが響いたのを背中で感じ取った。途轍もない焦燥感が、駆ける足下から同じ速度で脳髄まで這い上がって来た。
幾つかの検査室や治療室、病室を通り過ぎたところに、一つ目の特別室のドアが廊下の右側にあった。階下には、救急搬送用の出入口や、集中治療室が並んでいるある辺りだった。
特別室のドアノブを捻ると簡単に開いた。簡単に開いたという事は空室だ、という直感が駆け巡りながらもドアを開けて素早く室内を確認する。中は予測どおりに空室だった。
ドアを閉めた刹那、右手に慌ただしい気配を感じ取った。ソフトモヒカンとスキンヘッドの大柄な体格の輩二人が、何かを大声で喚きながら物凄い形相で向って来た。大柄な割には動きが速い。彼女は腰のベルトに挟んでいたグロッグをすかさず引き抜き、二発連続して躊躇なく斉射した。深夜の静まり返った病院内に、乾いた銃声が間髪を入れずに轟いた。
弾頭が柔らかい九ミリ弾は見事にめり込むように二人の眉間を貫き、弾丸が抜き出た後頭部はその一瞬で脳髄諸共に粉砕した。白いリノリウム製の廊下の上に、血煙とウニの実のような脳味噌が辺り一面に抽象画のように飛散した。
それを見届ける間もなく、二番目と三番目の部屋のドアノブを連続して捻る。二番目の部屋は鉤が掛かっていて開かず、三番目は簡単に開いた。彼女は二番目の部屋だと確信した。ピッキングしている余裕はなかった。持っていたグロッグで躊躇う事なくドアノブの根元ごと撃ち砕いた。ノブは砕けて床に落ち、彼女は続けざまに荒っぽくドアを蹴り飛ばした。蹴飛ばした勢いでドアが壁に激しく叩きつけられ、埋め込まれていたガラス窓に一気に罅が走って細かく砕けた。耳に障る破砕音が床に拡がる。緻密な作戦や手立てはもうすでに彼女にはなかったし、どうでも構わなかった。ただ大沢を間違いなくその手で仕留めるだけだった。
真っ暗な室内に急いで忍び込んだ。砕け落ちたガラスの破片がブーツで更に踏み砕かれて乾いた音を引きずる。気にも留めず壁に手を這わせて照明の電源を探った。出っ張った片切りスイッチはすぐに指に触れた。彼女は戸惑う事なくスイッチを入れた。室内が昼光色に何度か瞬いてから照らされると、仕切り壁が左手奥まで廊下に沿って続いていた。グロッグを低く構えたまま摺り足で途切れる隅へ素早く向い、仕切り壁に背を合わせた。グロッグを胸に構えて迷わず飛び出した。
「はっ!?」
暖かな色に照らされた室内は、彼女の予想以上に広かった。ざっと見ても三十畳以上は有りそうだった。
「な、何なの……これは一体、何なの!?」
グロッグの銃口を向けた特別室の先には、その部屋の為に特別に誂えられた豪華な病床や、リビングテーブルにソファ、化粧台や書斎机などの有るはずの調度品は何一つ置かれていなかった。
女の両眼に映っていたのは、アラミド強化繊維製と思しき真っ黒な戦闘服姿の男達だった。小型暗視ゴーグルを備えた無線付きヘルメットを装着し、消音機装備のM4カービン・ライフルを彼女に向けて立つ特殊部隊らしき兵士が十人ほど並んでいた。
『よし、そこまでだ』
室内に通常の院内放送のスピーカー音とは明らかに違う音質の声がいき渡った。
「ま、まさかその声…?」
『そう、君にしては全くの皮肉なんだけど、そのまさかなんだなぁ…君に仕事を依頼した…』
「代理人!?」
現在の自身が置かれている状況が全く飲み込めないままで、部屋の四隅上部を素早く盗み見た。通常の院内放送用スピーカーは、彼女とライフルを構える兵士達の間の右壁の天井近くに設置されていたが、音声は明らかにそこからではなかった。
『音源の出所を探しても無駄だよ。君には絶対に見つけられない場所に隠してあるし、今こうやって僕は君の姿や動きを事つぶさにみていられるけど、同じようにカメラの位置さえ一つも判らないはずなんだ』
「悪いけど、何なのこれ……これは一体何の冗談なのかしら!?」
幾つものM4が狙って離さなかったが、彼女はグロッグの銃口を降ろし、肩を竦めて声の主に苛立った素振りを示した。ちょっとした隙さえ見つけられれば、目の前にいる兵士の人数なら全員殺せる自信があった。
『冗談ではないよ…』
「じゃ、これはどういう事なの、何で大沢はここにいないのよ…これじゃ、殺ろうにも契約不履行、いえ不成立という事になってしまうじゃない。受け取っていない残りの私の報酬はどうなるのよ、ねぇ、これじゃ、プラス違約金が発生する、っていう事になるけど、いいわね、しっかりと払って貰うわよ…」
あからさまに辺りへ怒りを放った。
『契約不履行というのは、言い過ぎだと思うよ』
「はぁ!?」
M4カービンを構える男達をねめつけながら、部屋の中央を何度かいったり来たりしながら苛立ったまま声の主へ感情をぶつけた。
『大沢さんには………実は、昨日のうちに、密かに転院して…もらったんだ』
「はっ、何で!?」
『君なら簡単に殺してしまいそうだったからだよ、これまでの経緯でね。実は彼にはまだ死なれては色々と困るんだよ』
代理人だという男はまるで緊張感がないように淡々と続けた。声は部屋の壁という壁に反響して出所がまるで判らない。
「何言っているのよ、大沢を殺せという依頼をしたのはあなたじゃない。それが今になって、大沢には死なれては困る、って、一体どういう事なのよ。このM4を私に向けている仰々しい連中といい、意味が全く判らない…」
『意味はちゃんと判っているよ……だって君はこの地上の中でも指折りの暗殺者でテロリストの一人なんだから。君のその優秀な頭脳が、こういうシチュエーションにおいてどういうふうに反応するのか、つまり調査段階から大沢祐一郎と警護の連中をどうやって追い込んで、実際に暗殺をどう実行するのか、という事は、今回しっかりと見せさせてもらったし、今もこの男達相手に君がどう対処するのか、これから見させてもらうから…』
男が喋り終るかどうかというタイミングで、彼女は幾つかの照明目掛けてグロッグを素早く連射した。M4の全ての銃口が電光石火の勢いで反応したが、瞬く間に光源の残像を僅かに残しただけで室内は漆黒の闇に囚われた。
『はははっはー、油断も隙もあったもんじゃない…そうこなくっちゃねぇ、そうだ、そうでなければ君をあえて雇った意味がない。だが、彼らが最新の暗視ゴーグルを装備している事を忘れてもらっては困るね』
男の声が響く真っ暗な室内で、何かの罠に嵌められた事を悟った彼女は、膝を着いて仕切り壁へ向って勢い良く滑り込んだ。暗視ゴーグルのシステムが起動するまでの刹那にグロッグの残弾を兵士の方角目掛けて闇雲に連射した。銃声に連鎖して幾つかの呻き声が細々と漏れた時、彼女は仕切り壁を回ってドアへ急いだ。とにかくこの場から逃げ出さなければ、という真っ赤な点滅信号が彼女の脳内を占拠していた。
「うっ!?」
開いたままの特別室のドアから飛び出た途端、何か猛烈な力と威圧感で仕切り壁へ背中から弾き戻された。ぶつかった衝撃音と、床に砕け散ったガラスの破片が更に粉砕し、破砕音が連鎖する。
「ちっ!!」
舌打ちした彼女の眼前には大柄な自警員がはだかっていたが、仕切り壁に背中を打った反動を利用して男の鳩尾へ痛烈な蹴りをすかさず見舞う。大柄な男は腹部に手を当て低く唸って後退った。矢継ぎ早に男の顎へ無慈悲な横蹴りを入れた彼女は怒濤の勢いで薄闇に包まれた廊下へ飛び出した。
「ふん…そういう事…」
特別室の周りは、一階の詰所から駆け付けた残りの自警団員二十人ほどが、月明かりに照らされて取り囲んでいた。低く身構えたままの彼女は隙を与える事なく連中を見回した。男達の手には余すところなく拳銃やナイフなどが握られていた。だが、囲んでいるせいで同士討ちになってしまい、下手に発砲は出来ない。
「何が自警団よ、笑わせるわね、これじゃマフィアやギャング、暴力団と大差ないじゃない…まぁ、私も余り偉そうな事は言えた立場じゃないけど…」
自嘲した束の間、残弾が空になったグロッグをエレベーターホール側に立つ男達へ向けて投げ付けた。ナイフを握っていた自警員が怯んだ隙に、素早い側転からバク転でその男へ上方から襲い掛かって蹴り飛ばした。姿勢を乱して呻く男の手から寸刻の間も置かずにナイフを奪って背後へ回った。羽交い締めにしたまま奪ったナイフを男の喉に突き付けて、盾にしたままゆっくりと後退する。自警団員達は手立てなく、怯えた男を盾にする彼女へ慎重に詰め寄るしかなかった。
『いやぁ、まさにお見事、という他ないね……』
再び代理人の声がしたと思ったら、自警団員達の間を割って、特別室から被弾してないか、怪我が浅いと思われる黒い兵士数名がM4を構えながら現われた。どうやらケブラー製の戦闘服に小型で高感度なスピーカーとマイクが装着されているかも知れなかった。カメラもヘルメットに搭載されているのだろう、と勘付いた。
『この屈指の男達を相手に、しかもこんな窮地の中でも何処かしらに隙を見つけて危機を切り抜けるという、君の精神力と戦闘力は、今後のデータベースにおいて素晴らしい下敷きとなる事でしょう』
「はぁ? 何の話かしら…」
消音器が付いたM4の銃口の狙いを寸分も逸らさない黒い兵士の方へ惚けたように首を傾げて問い返した。
『いや、いいんだよ、君は判らなくても……ちなみにだね、今、君と対峙している黒い兵士と、ダークスーツ姿の、そう大沢祐一郎の私設自警員という事になっている…今、君が捕まえて怯えているその恥ずかしい男も、悲しいかなそうなのだが…実は防衛省、及び警察庁で秘匿共同運用を開始した‘特務部隊’の最精鋭達なんだな、これが…』
「特務部隊?…だから…何なの」
『今の状態もそうだけど、君の今回の働きは、私が提示した報酬以上の内容だったし、収穫があった、と個人的にはちゃんと納得しているよ…』
生々しい緊張感に溢れた廊下を一団は睨み合ったままじりじりとエレベーターホールへと背進した。何処からともなく伝わる男の声だけが、差し迫った感じが全くしなかった。
『建物への侵入経路の複数路の調査、実際の侵入の仕方も地味だったけど正統的で完璧だった。それに、彼ら特務部隊隊員を相手に…一体彼らを何人殺したんだい?…一般人からは想像を絶するような、血反吐を吐く壮絶な訓練を日々繰り返して鍛え上げた、暗殺任務や爆破活動の専門知識、どんな環境下においても発揮させられる生存力、そしてゲリラ行為などを含む対テロ作戦の粋を叩き込まれた…殺しと破壊のスペシャリスト達だ……その彼らを、何人殺したっていうんだい?』
「知らないわ」
わざと素っ気なく淡々と反応した。この状況においても自身が何に巻き込まれたのか見当さえ付かなかったからだった。ただ、とにかくここから生きて脱出しなければならない、という焦燥感だけがあった。
『そうじゃない……君は完全に勘違いしているよ…私が言いたいのは、君は素晴らしい、予想以上に素晴らしかった、という事だよ。君を選択して間違いはなかったし、まさしく提示した報酬以上の仕事内容だったよ』
「私を…騙したのね…まさか…この冴えない輩達の評価基準の為だけに、私を利用した…だなんて…有り得ないわよね?」
侮辱されたようで、羽交い締めのまま盾にしていた男の首を更に締め上げた。這わせたナイフでそのまま喉を切り裂きたい衝動に駆られるが、もしそうしたならその瞬間に身体が蜂の巣になるのも目に見えていた。
『騙した、というのも言い過ぎだと思うよ。だって、残りの報酬の半分は、ちゃんとさっき君の架空名義のクレディ・スイスの秘匿口座に振り込んだんだから。契約不履行ではなくて、契約満了、という風に理解しているし、それに関しては騙してはいないよね。あんな金額、安いもんさ、今の君にしたらね。ただ……ね…』
「ただ…何?」
『その架空名義の口座だけど、もしかしたら、いや、もしかしたら、じゃなくて……ほぼ絶対だね、きっと…』
彼女と睨み合う一団は、ほぼエレベーターホールまで下がって来ていた。放置されたままの先に殺した大柄な自警員二人の死体の横を過ぎた。もしも向けられているM4カービンの銃口全てが一斉に火をふいたら、盾にしている男が一体何秒くらい五・五六ミリ弾の一斉連射に耐えられるか、経験値や実戦の感覚から予測計算を懸命に繰り返していた。
『きっとね、その架空名義の口座は、その架空名義人が近々死亡する事になっていて、いずれ休眠口座となってしまう可能性が非常に高いんだよね。ふふ…治癒が不可能な重い心臓病を患っているらしくてね、ふふふ…はははっはー、だから亡くなる前に私がその名義人の後見人としての届け出を提出して、クレディ・スイスから承認のメールを先程受け取ったばかりなんだよ』
何かが堪えようがないほどに可笑しい、というような高笑いが廊下とホールに響いた。
「何が、重い心臓病よ」
『だからね、殺すには惜しいが、やっぱり君には死んでもらう事にするよ』
黒い兵士全ての消音器付きの銃口と、拳銃を持つダークスーツの男の銃口が一斉に向けられた。
「あんた達の仲間のこの男ごと、私を殺るっていうのね」
『そんな人道主義者的な事を急に言い出さないでよ。仲間といっても、おめおめと捕まったその男がだらしないんだよ。仕方がないね、能力がない奴は粛清されても』
「な、何で私が殺されなければならないの!?」
『何だ、珍しく怖じ気づいてしまったのかい? 君らしくないじゃないか。でも仕方ないんだよ、君は私の声を覚えてしまったし、秘匿している特務部隊の事も知ってしまった。今はまだ、この事を知っている人間が私達以外にいるのは、ちょっと都合が悪いんだ』
「わ、私なら大丈夫よ、これが終ればすぐにでも地下へ潜るし、誰とも接触しない。だから、この事がバレる事もない。逆に、生かしておいたほうが、今後のあなたにとっても都合が良いはずよ」
話が長引いて男達の標的に対する集中力が幾らか散漫になりつつあった。
『駄目だよ、駄目、確かに君は女性としても、暗殺者としても、非常に魅力的だが……!』
代理人が喋りに夢中になって油断した僅かな隙とタイミングを彼女は逃さなかった。盾にしている男ごと前方へ疾風の如く飛び出して、取り囲んでいる黒い兵士の包囲網に割って入った。不意を突かれた兵士と自警員の男らは、突然に飛び出して来た男と彼女に一瞬戸惑い、発砲する事がまるで出来なかった。その勢いで盾にしていた男を正面の兵士へ思いっきり押しぶつけた。狼狽した兵士の唯一生身が露出していた右の首根っこへナイフをピンポイントで瞬く間に走らせると、直後に血飛沫が白い壁や床に激しく大量に飛び散った。兵士は何かを叫びながら手で傷口を必死に押さえ、噴き出した血で黒い最新の戦闘服を汚して倒れていった。
返り血をまともに浴び、誰よりも早く我に返った太った自警員の一人が、彼女達の右側面からコルト・ガバメントで頭を狙った。彼女はすかさず盾の男をコルトの前へ差し出した。その刹那に引き金が近距離で引かれ、男の鼻を無残に吹き飛ばして弾丸が顔面にめり込んだ。突き抜けた弾丸はぎりぎり彼女の頬を掠め、粉々になった後頭部の肉片と髪を降り掛かた。
その隙に左後方の自警員がナイフで彼女の背中を刺そうとしたが、左脚で見事な横蹴りを顔面へ見舞った。右脚を支点にしてそのまま間髪を入れず、右手の太ったコルトの男の腹部にナイフを深々と刺す。男が悲鳴さえ出せない素早さだった。左脚を戻すのと同時に容赦なくナイフを引き抜き、死にかけた盾の男ごと回転して横蹴りを入れた男の頸椎へ続けざまにナイフをめり込ませた。素早く抜き、背後の一団を飢えた野獣の如く睨み付けた。
兵士達は、鍛えられている割には複雑で極端な近接戦には全く不慣れなようだった。血の海と化した廊下で兵士の一人がようやくM4の銃口を彼女へ向けて発砲しようとした。それを気配で察し、血塗れでボロ雑巾みたいになった盾の男を自身の前面へ躊躇なく摘まみ出した。怒濤の勢いで前進する彼女の左腕に、消音器で抑制されたM4の連射音と着弾する振動が同期する。その間にも他方から自警員と数名がナイフで側面から襲い掛かる。
彼女は事切れた盾の男を無理矢理支柱にし、その兵士目掛けて目にも留まらぬ速さで左壁を横に傾けて駆け上がった。アクション映画のワイヤーアクションの如く、男をぐるりと回って壁上部からM4を連射した兵士目掛けて強烈な跳び蹴りを入れた。兵士が昏倒するのと同時に盾代わりの男から手を離し、倒れた兵士に膝蹴りを続けて見舞う。即座に容赦なく首の頸動脈をナイフで裂くと、鮮血が噴射した。
抜く手も見せずにM4を奪い、真っ先に残った兵士達の顔面目掛けて連射した。ケブラー製と思しき戦闘服は貫通阻止力が高く、致命傷には至らないと彼女には判っていたからだった。五名の兵士がヘルメットの中で顔面を炸裂させて崩れ落ちた。
弾倉が空になったM4を彼女はあっさりと捨てた。顔面を失って息絶えた兵士達から二丁のM4を息つく間もなく奪い取り、振り向きざまに、十数人は残っていた自警団員達へ向けてでたらめに連射した。コルトやベレッタ、グロッグを握っていた自警員達はまるで応戦する間も出来ず、大量に浴びた五・五六ミリ弾で簡単にぼろ切れと化していった。
二丁の弾倉が空になった時、ようやく静寂が訪れた。気が付けば、彼女が佇む薄暗い六階の廊下と壁、そして天井は鮮血で抽象画みたいに塗り替えられ、その中に生々しい臭いと伴に大柄な男達の死体が溢れていた。
この病院はもう使い物にならないだろうな、と曖昧に脳裏を過ぎた。他の入院患者達は、深夜の今の騒ぎに気付かないわけがなかったが、院内は妙に静か過ぎた。まるで他の入院患者なんていないんじゃないか、という空気さえ感じられた。だが、侵入経路を見出す為に、患者に扮して日中に何度か訪れた時は、医師や看護婦に外来患者、入院患者で院内は溢れていたのを彼女は覚えていた。だが、今はもうそんな事はどうでも良かった。そんなつまらない事を気にするのは、疲れているせいだと感じた。
この状況で生き残れたのは、彼女にしてまさしく奇跡だ、とやはり思わねばならなかった。過去に経験した幾つかの窮地と照らし合わせても、これほどに自身の生命に危険が及んだ事などなかった気がした。
ここを出たらマンションへは戻らずに、このまま姿を眩まそう、と思った。とりあえず隠れ家へ戻って地下へ潜り、しばらく休養を取ろう、南太平洋上の静かな孤島にでも身を潜めてリフレッシュするのも悪くない、と真剣に考えた。二、三年なら派手に遊んで暮らせるだけの蓄えは十二分にあった。
『わ、私は、決して君をこのまま逃がしはしないし、許しもしないからね。何処へ逃げても必ず見つけ出し、そして殺す…忘れないでいてくれ……』
屍となった黒い兵士の何処かから、代理人の声が静まり返った廊下に伝わった。
「まぁ、頑張って頂戴よ…私はしばらくの間、あなたが入金してくれた報酬で姿を消す事に決めたわ。どうもあなたに騙されたみたいだし…誰かに騙されるなんて、私も少し焼きが回ったのかしら…まぁ、良いわ……思惑通りに休眠口座に出来なくて残念ね。ここを出たらすぐに別の口座へ移すし、多分、今度は私を絶対に見つけられないと思うわ。だから…これで最後のお別れね…」
嘲笑した彼女は黒い兵士の屍の群れを、冷え冷えとした視線で振り向きざまに見回した。満足したというように頷き、エレベーターホールへ向ってゆっくりと歩を進めた。
歩きながら彼女は、南の島へいったら男でも作ろう、と何気なく、そして意味なく想像した。男がいた方が間違いなくよりリフレッシュ出来そうな気がしたのだった。問題は、好みの男に出会えるかどうかで、それが叶わなければ相手が女でも全く構わなかった。彼女にとって性の嗜好と満足度は男だけに限らなかった。
そんな自分勝手な恋物語の事を思うと、不思議と自然に顔がほころび、下腹部が妖しく疼いた。何の緊張感もないのんびりとした日々など、これまで一度も過ごした事などなかったからだった。日常の中での普段の食欲、性欲などは常に緊張した毎日の中にしかなく、女として無垢に解放された心情で悦楽の陶酔など味わった経験がなかったのだ。
心地良い自己満足な思いを馳せながら、エレベーターホールから非常階段へ向う角を左へ曲ろうとした時、誰かが曲った先に静かに佇んでいた。その事態に対して、少し油断し過ぎていた事に彼女自身が後悔したのも遅すぎた。
「さ、早乙女さ…」
立っていたその男は右腕を真っ直ぐに彼女へ向けて差し出し、その先に握られていた拳銃の引き金を躊躇なく絞った。刹那にその動作を回避させる余裕と体力は、すでに彼女には全く残されていなかった。
乾いた炸裂音が辺りを一瞬だけ支配し、音速に近い秒速八百メートル以上で打ち出された弾丸が彼女の眉間に吸い込まれてから後頭部を著しく破壊した。
「な、な、んで…」
脳味噌を吹き飛ばされた彼女は一言だけそう呻き、仄暗く鮮血で汚された廊下へ静かに崩れて落ちた。