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ブラックサイト ー秘密施設ー  作者: アツシK
4/10

フェイズ 3

「ここは…?」

 真っ暗な空間で早乙女は緩やかに覚醒していった。軽い頭痛を伴っていたが、相変わらず自身が何者なのか、そして一体何が起こったのか、ここが何処なのか、が上手く理解出来なかった。

 柔らかなソファのクッションの上で、暗闇の中をぐるりと見回して記憶の糸を必死に手繰り寄せる。そして、しばらく思考を死にもの狂いで巡らせた結果、今いるこの場所が、日中の間に連れてこられたマンションの部屋(リビング)だと、ようやく樹海の出口を見付けられたような気になった。

 辺りが暗いのは、陽が暮れてすでに夜になっていた、というのと、室内の照明が全く灯されていなかったからだった。サッシ戸はレースのカーテンだけで、正面には施設の奥深く真っ黒な森林が月夜に照らされて拡がっていた。

「そうだ……確かオレは…サオトメ…とかいう‘コーアン’の捜査官なんだ、と、あの女に突然告げられたんだった…」

 呟くように独り言を吐き出しながら暗闇の中でゆっくりと立ち上がった。裸足のままでフローリングの床をバルコニーと接した全面サッシ戸の窓際へ注意深く近寄った。眼前に拡がる広大な森林の先に、点滅する小さな赤い警戒(ビーコン)灯だけがそこに階層建造物があるのだという事を示していた。

 月明かりで少しずつ暗さに目が慣れて、室内の状態がそれとなく判って来ていた。液晶テレビの上方に掛けられた壁掛け時計が午前二時三十分を示していた。


《随分と寝込んでしまったんだな…》


 頭に手を当て、記憶の糸を更に手繰り寄せる。この部屋へ連れてこられた時は、まだ陽が煌々(こうこう)としていたはずだった。


《そうだ、シオリとかいう女にここへ連れてこられたんだ…いや、シオリ…ではない…サ、サ、エコ、冴子、江川だ、江川冴子という女……警部……コーアン…やはり公安の捜査官だ…》


 何かから急に目覚めたみたいな爽快感が、爪先から脳天まで一息に突き抜けた。この感覚が連続したら、本当の記憶が今にも取り戻せそうな気がしてならなかった。その答えが、目前に拡がる漆黒の森林の何処かに隠されているに違いない、というような願望が早乙女の脳内を揺らし続けた。


《もう一人…もう一人いたはず…女が…若い…女だ…細い女…》


 玄関を通った時、若い女がいたはずだ、とおぼろげな扉が少しずつ開いていった。

ジーンズのホットパンツから伸び出たカモシカのような長い脚と、細りとした輪郭に茶髪のボブカットが脳裏に浮かんだ。

 早乙女は、ふと何かに気付いたように振り返り、右手の壁に掛かった液晶テレビの下へ目を凝らした。月明かりで薄らと照らされた視線の先に、ローサイドボードの上の写真立てが目に付いた。足下に気をつけながら、L形ソファの脇をサイドボードへ回った。幾つか立ててあった中のひとつを手に取る。薄闇のせいで、三人の上半身が寄り添うように写った写真の顔部分がはっきりとしない。

「昭明のスイッチは…?」

 思わず呟き見回す。薄暗いリビングとダイニングの昭明の電源スイッチの在処を探った。スイッチの場所は判らなかったが、液晶テレビが引っ掛かった壁伝いの正面に、四枚合わせの(ふすま)がある事に気付いた。壁紙(クロス)と同色のそこの僅かな隙間から、仄かな光りが細長く縦に漏れていた。写真立てを持ったまま、早乙女はサイドボード伝いに光りの漏れ出している隙間へ引き寄せられた。忍ぶようにゆっくりと近付く。

「あっ!」

 隙間を覗いた瞬間に、言葉にならない嘆息を慌てて吞み込んだ。


《あ、あれは…》


 白い表面の襖の隙間から窺ったその中は、十畳ほどの江戸間の和室だった。左の壁沿いに立派な和箪笥と、その隣の奥には趣のある縦長な鏡台が置かれていた。部屋の中央に敷かれた布団を挟んで反対側に、行灯(あんどん)に似せた照明(ライト)が暖かな昼光色で室内を程よく浮かび上がらせていた。

 敷かれた布団の上に、寝間着代わりだろうと思われた浴衣姿の冴子の凜とした後ろ姿が立ち尽くしていた。こんな深夜に一体どうしたのだろう、と早乙女が(いぶか)しんで覗き続けていると、彼女が唐突に腰帯を緩めた。水色地に椿柄の浴衣がはらりと布団に落ちる。


《えっ!?》


 再び息を呑んだ早乙女の目の先に、白いレースのショーツしか身に付けていない冴子の美しくS字形に反った背部があった。息つく間もなく屈むように裸の背中を緩やかに前方へ丸め、両手をショーツの細い腰紐に掛けた。ゆっくりと片脚ずつショーツから抜き取って、それを布団の上へ落とす。線の細い身体の割には大きくて卑猥な尻臀(しりたぶ)が、襖の隙間から大写しになっていた。早乙女の口内に淫靡な唾液が猛烈に湧き始め、喉仏を何度も揺らした。事あろうか、下腹部が堪えようもなく波打ち始めていた。


《な、な、何なんだ!?》


 何が起きているのか全く呑み込めない状況を目の当たりにしている早乙女に反し、冴子は全裸のまま布団の上で膝を着き、行灯の背後へ手を回して何かを手繰り寄せた。きちんと畳まれていた黒っぽい塊と、重厚的(ヘビーデューティ)な靴底と(ヒール)を組み合わせた真っ黒な膝丈のブーツだった。

 彼女はその黒い塊の方を手に取って立ち上がり、それを上から下へ振るように拡げた。畳まれていた黒い塊は、革製かラテックス製と思しき上下一体(ジャンプスーツ)になった戦闘服(コンバットウェア)のようだった。

 スーツの背部らしき部分のジッパーを拡げ、冴子は全裸の痩身を右脚から左脚へと中へ忍ばせていく。上半身部分を持ち上げるように両袖を通そうと前屈みになった時、淡い明かりの中で垂れた乳房の先端の突起が覗いて(みだ)りがましく目に刺さった。反射的に飲み込んだ生唾を聞かれて気付かれはしなかったか、と慌てていた。年甲斐もなく下着の前部が湿りだしていたのを恥じた。

 冴子は着衣し終えると両腕を背面へ回し、尻の割れ目が始まる腰の辺りから開いたジッパーを器用に首まで引き上げた。戦闘用と思しい服は、身体のラインにぴったりと合わせて造られた特注(オーダー)品のように見えた。肩から胸、背中、腰、太腿、足首と、痩身な上に見事なボディラインに張り付いた黒光りのフォルムは、どうしようもなくエロティックな印象を醸し出していた。だが、見た目に伸縮性が高そうな素材は行動性や運動性に貢献してそうだったし、肘や肩、膝など数ヶ所は防護具(プロテクター)で内部が強化されているようだった。

 着心地を確かめるように両肩を軽く回し、行灯の先から同色のベルトらしきものを持ち上げた。しっかりと腰に巻き付けたそれには、幾つかのポケットのような膨らみが見受けられた。

 ベルトの装着状態と、ポケットに忍ばせた装備品を注意深く確認しているようだった。納得した彼女はそのまま屈んでブーツを掴み、廊下に面したもう一方の(ふすま)から静かに歩み出た。

「あの恰好で、一体何処へいくというんだ…?」

 腑に落ちない早乙女は小声で独り言ちた。廊下へ歩み出た冴子が襖を閉じたのを認めてから密やかに和室へ忍び込んだ。爪先立ちで慎重に歩を進め、敷かれた布団の脇で一度止まる。行灯で仄かに照らされた布団に脱ぎ捨てられた浴衣と、白いレースのショーツが嫌でも目に留まった。今にも何かが匂い立って来そうな生々しい妄想を振り切って、未練がましく一瞥してから廊下側の襖へ急いだ。

 廊下の気配を窺う。冴子がブーツに脚を通しているだろうという事を細かな物音で察した。気付かれぬように少しだけ襖を開け、左手の玄関を覗く。立ったまま見事なバランス感覚としなやかな所作で、ブーツに手際良く脚を滑らせている彼女の背中があった。大した物音も立てず、ブーツサイドのジッパーを締めた彼女は、元々そこに存在していなかったかのように玄関の外へ消えていった。

 早乙女は、冴子の余りの敏捷の良さに面食らっていた。垣間見たその身のこなしのしなやかさは、どう見ても一般の警察官や捜査官とは思えなかった。

 もう一人の若い女の捜査官の事が気になったが、早乙女はどう仕様もなく冴子の事と、その行方が気になって仕方なかった。気が付けば自然と玄関へ向い、三和土に並べてあった灰色のエスパドリーユに無意識に足を突っかけていた。

 玄関ドアを静かにゆっくりと開く。和室から室内の廊下を覗いた時と同じような動作で供用廊下の左右をこっそりと、そして素早く見渡した。湿度の高い真夜中の鬱陶しい大気に覆われた廊下に、冴子の姿はすでに見受けられなかった。

「どっちだ?」

 右にはエレベーターホール、左へいけば緑色の警告版が非常階段を示していた。あの出で立ちでエレベーターホールに立っているわけがなかった。反射的に急ぎ足で左へ向った。湿度が異様に高い不快な大気が、緊張した早乙女の顔や腕や、露出した部分の汗腺を気持ち悪く撫で始めた。息苦しい大気を否応なく浴びながら非常階段を勢い良く下り始める。その直後に‘ハヤカワ家’の玄関ドアが静かに開いた事に気付く余裕など彼にあるはずがなかった。

 早乙女は、出来る限り足音を立てずにコの字型に続く折り返しの非常階段を急いで下り続けた。階下に人の気配を全く感じられなかったのが彼を不必要に不安にさせていた。

 一階まで下った早乙女は、外側からはキーロックされている非情階段扉を簡単に開けて建物外へ出た。植栽された通路の左側が幾らかざわついたような気がした。躊躇なくそちらへ足を向ける。等間隔で設置された橙色のLED照明灯が辺りを照らしているが、冴子と思しき人影が見当たらない。

 左手にエントランスロビーを見ながら、橙色の小道を右へ公園内に向って曲った。焦りからなのか、自然と急ぎ足から小走りに先へ進んだ。額に汗の粒が幾つも浮く鬱陶しさを嫌でも感じさせられていた。

 早乙女は息を切らせながら公園内の広い中央通路に出た。左右を素早く見渡す。公園を取り囲むように両脇に建ち並ぶ周辺のマンションに明かりが灯る部屋は皆無だったが、園内はLED照明灯で淡く照らされ仄かに明るかった。物騒な感じは全くしなかった。真夜中の静寂(しじま)に包まれた周辺一帯は、平和そのものだった。

 ゆっくりと、注意深く辺りを見回す。左手先にある大きな円形の噴水付近に動く黒い影が見えたような気がした。

「あれか…?」

 身体がそちらへ自然と動き、気配を察しられぬように通路の隅へ身を屈めながら後を追う。

 深夜の三時近くに、公園内に他の人の気配は全く感じられなかった。橙色の明かりで密やかに照らされた冴子と思しき人影が、公園入口へ向っていた。両側を茂みで囲われた広い中央通路を隠れるわけでもなく躊躇なく進んでいく。警戒心が微塵も見受けられなかったが、彼女の後ろ姿は何故か敏捷に見えた。その身のこなしの素早さや、今の特異な服装が、公安捜査官として適切なのかどうなのかは、今の早乙女にはまるで判らなかった。

 公園入口の付近で、姿が突然消えたように見えなくなった。左手にある大学病院の中へ素早く紛れ込んだようだった。早乙女は慌てたように彼女の影を追って深夜の公園内を駆けた。

 隣接した病院横まで来たが、建物は公園とは高く大きな塀で囲むように隔てられていた。とてもここから院内へ入る事など出来そうになかった。

「ど、どうやって…?」

 冴子の姿は間違いなく今いるこの辺りで消えたように見えなくなった。慌てて見渡すと、病院の建物とその隣に建ち並ぶマンションとの間にあった隙間に気付いた。そこは奥へ向って狭い通路になっているようだった。考える間もなくその中へ入っていく。

 しばらく奥に進むと、病院側の塀に非常口みたいな扉が備わっていた。ここから入ったのだろうか、などと考えながらドアノブを捻って押すと、何の造作もなく扉が内側へ開いた。


《いや、きっと違うな…》


 非常口らしき扉を通り抜けながら、何故か冴子がここを同じように潜ったようには思えなかった。だとすれば、まるで消えたように視界から見えなくなったというのはどういう事なのか、彼にはまるで想像が出来なかった。改めて塀を見上げてみるが、普通に考えたらとても乗り越えられる高さではない、と再認識させられただけだった。

 入った塀の中は病院の裏手だった。建物に沿って左手に角まで進む。身を潜めて角の先を覗くと、救急搬送用の車寄せと出入口のようだった。

 もし冴子がここへ忍び込んだのだとしたら、一体何の為に、そして病院内の何処へ向かったというのだろう、と疑問は次から次へと溢れ出した。だからといって何か答えが思い浮かぶわけでもなかった。 脳裏にちらつくのは、偶然に見てしまった冴子の全裸の後ろ姿ばかりだった。そんな興味本位だけで深夜にこんな馬鹿げた追跡劇に興じている自身を吐き出すみたいに嘲笑った

 見た感じ、前方にある救急搬送口から中へ簡単に忍び込めそうだった。

「どうせなら試しに入ってみるか…」

 意を決した早乙女が搬送口へ向おうとしたその時だった。

「うっ!?」

 背後からいきなり誰かに口元を押さえられたまま力強く引っ張られた。突然に心臓が早鐘を急速に打ち始めた。気が動転して気絶しそうになる。そのまま建物の壁に押しつけられ、再び口を押さえられた勢いで後頭部を思いっきり壁にぶつけられた。

「き、き、君は…!?」

 驚いた事に押さえつけていたのは香織だった。激痛で朦朧としていた早乙女の目に映った彼女は、今にもそのまま首を絞めて(あや)めかねないような冷淡な目付きをしていた。

 口を押さえている手袋から、革独特の匂いが彼の鼻を衝いた。気が付けば、何故か彼女は冴子が纏っていたのと似たような黒い上下一体革スーツ姿だった。大写しに見える香織の顔の下に、開いたジッパーの中の薄い胸元がちらりと覗く。

「静かにして! 早まらない方が良いわ」

 小声で口早に伝えた。香織だと気付いていたが、慌てふためいたように抵抗しながら革手袋の手を払い除けた。

「い、いっ、一体どういう……」

「しっ!!」

 人差し指を縦に唇へ当てて更に強く促した。

「とにかくここから出ましょう、いいわね?」

 言うが早いか早乙女の腕を強く掴んで、非常扉の方へ引っ張っていった。

「あれが見える?」

 非常扉に向いながら、横方向に少し離れた公園に面した塀の上方を示した。

「えっ?」

 月明かりで照らされている程度の明るさの中で「あの傷よ」と示された場所など早乙女に判りようがなかった。

「あそこよ」

 香織が非情扉を開ける寸前にもう一度促した。それでも早乙女にはそれが見えなかった。

「あの(ひと)、どうも自前(オリジナル)鉤爪(クロー)付きワイヤーの小型侵入道具(ガジェット)をいつも携帯しているようなのよ…それで深夜のこの時間帯になるとね、外からあの塀を一気に飛び越えてここへ侵入しているの。何かの…個人的に内密な調査の為にそんな事をしているのか何なのか、私には知りようもないけど…」

 一体何を調べているのかしら、と素っ気ない説明だった。それで理解出来たかどうかもお構いないしに、非常扉を引いて早乙女の肩を外へ引っ張りだそうとした。

「そうだ、ちょっと待って…それとあそこよ」

 一瞬だけ動きを止め、今度は病院建物の壁を示した。二階部分の大きめな上げ下げ窓の辺りを指差したが、姿勢を崩された為に上手く認識が出来なかった。

「あの窓の下部分にも、幾つか爪か何かで引っ掛けたような大きな跡が残っている…」

 あそこから何度も侵入しているに違いないの、というような一方的な言いようにしか捉えられなかった。

「緊急搬送口からの侵入は有り得ない。深夜とはいえ待機している救命士に非常勤看護師など、簡単に人目に付いてしまう。あの窓の中は、健常者も障害者も使える多目的(ユーティリティ)トイレルームなのよ」

「ち、ちょっと待ってくれ、わ、私は今までにこうやって何度もここへ彼女を追い掛けて来ているのか?」

 急に思い出したように詰め寄った。そんな早乙女を余所に香織は眉ひとつ動かさずに、彼の感情の全てをその細い身体全身で冷静に受け止めた。

「いいえ、私が知っている限りでは、今晩が初めてよ」

「本当に…か?」

「えぇ」

 怯えたような早乙女の(まなこ)を見詰めたまま香織が淡々と答えた。

「でも、彼女は…あの女は何度も今みたいな深夜にここへこうやって侵入しに来ているけどね。或いは、昼間には、何気なく患者を装って訪れたりしてね」

「一体どういう事なんだよ? そ、それじゃ、き、き、君はいつもこうやって彼女の跡を付けているっていうのか…昼夜関係なく、見張っているのはテロ犯罪の息吹を摘む為の街の動静だけではなく、彼女も、江川警部も、君にとってはその対象…だっていうのか?」

 香織の固まった両眼が無感情なままに早乙女を射抜く。

「そういうわけじゃ…」

「公安の…捜査官、囮捜査官、潜入捜査官なんだよな、君も…彼女も…わ、私も?」

 視線を逸らし、今度こそは、というように早乙女を強引に引っ張って、非情扉の外へ連れ出した。

「あなた、もしかしたら記憶障害の病状が少し快方へ向っているようね、今でも昼間に話した事、私達の事、名前までちゃんと覚えているなんて…」

 早乙女のシャツの両襟首を掴み、凄みながら彼の疑問を断ち切るみたいに塀へ押し付けた。マンションと塀の僅かな通路に月明かりが射して、明暗のコントラストが香織の顔半分を不気味に浮かび上がらせていた。

「お・ぼ・え・て…いる…」

 自然と二人の名前が出て来た事が彼自身にも驚きだった。だが、夜が明けて朝になったらまた綺麗さっぱり忘れてしまいそうな恐怖心がたちまち覆う。

「とにかくこの場から離れましょう」

 腕を掴んで狭い通路を外へ引っ張る。細い身体には不釣り合いな力強さだと彼は感じた。

「私が事前に聞かされているあなた達のこの‘任務’に関する情報は、実は…そんなにはないの…」

 香織の背中越しに小声が両側に聳える壁に幾らか反響した。

「ない?…でも、君は私の事を…」

「あなた達二人に関して実際に目にした事実は、後から任務に就いた約半年前からで、それ以前に関して私は全く知り得ない。その期間の事を知っているのは、あの江川冴子警部だけ」

 香織は慌てたように捲し立ててから「来て」というように顎を杓った。それは又もや話を強引に終らせたようでもあった。どうにも腑に落ちなかったが、言われるままに月明かりの公園内を小走りに進んだ。

「部屋へ早く戻りましょ…彼女は三十分ほどで戻ると思うから」

 月が明るい上、点在する橙色のLED照明が先程よりも早乙女には鬱陶しく感じた。その薄闇の中を、低い姿勢で足音も立てずに素早く走る香織も只者ではない感じが明らかに漂っていた。そんな事が彼の頭を()ぎっていったが、有無も言わずに黒い革スーツの後ろ姿を追い掛けるしかなかった。

「こっちよ」

 ロビーのオートロックを素早く解錠した香織が、正面のエレベーターではなく、向って左手奥の非情階段を示した。休む間もなく間引き点灯された薄暗い廊下を素早く走り過ぎる。大丈夫だと判っていても、階段を駆け上がる前に早乙女は背後を見回した。その隙にも香織は一足飛びに階段を駆け上がっていった。

 寝静まったままの七階廊下を駆け「入って、早く」と玄関ドアを開けたまま促す香織の元へ急いだ。辿り着く寸前に、隣の住戸の‘鈴木’という表札が早乙女の目の隅に引っ掛かった。

「ふぅ…」

 ドアが閉まった途端に二人の身体中の汗腺が全開になったようだった。むっとした暑さがたまらなかったのか、照明を点ける間もなく香織は革スーツ前部中央のチャックをへそ下まで一気に下げた。縦長に割れた細い腹筋とへその穴が暗がりの中で露わになり、生々しい匂いが微かに早乙女の鼻を衝く。小振りな乳房がスーツで絶妙に隠されたままのそこへ嫌でも目が引き付けられた。

「さすがだわ、早乙女さん、歳を取っても、記憶をなくしていても、身体の動きは…きっと昔のままなのね…」

 黒いブーツのチャックを手早く緩めて脱ぐと、上がった廊下の左手ドアを開けてそれを中へ放り投げた。香織は袖で額の汗を拭いながら「いいのよ、私の部屋だから」と呟いて廊下を進む。

「私の部屋の反対側が、早乙女さんの部屋…というのは……覚えてないわよね?」

 少し小馬鹿にしたような言いようが黒い背中越しに伝わった。後を付いて廊下を進む早乙女は、昼間から着たままだったストライプのシャツをたまらずに脱いだ。履いていたチノパンにも汗の染みが出来そうだった。

 突き当たった正面の扉を香織が開けると、心地良い冷気がリビングから漏れ出した。

「照明は念の為に点けないわ」

 肩越しに香織が呟いた。エアコンが掛けられたままの部屋の中は、月で照らされ程良く仄暗かった。

「出来るだけ手短に話すわね、でも、朝になったら忘れちゃうかも知れないけど、早乙女さん…」

 キッチンから冷えたミネラルウォーターのボトルを持った香織が出て来た。左右に拡がったリビングとダイニングの間で立ち尽くす早乙女のところへ戻る。スクリューキャップを外し、喉を鳴らして流し込むと満足したように大きな溜息をついた。それから半分ほど水が残ったボトルを早乙女に差し出した。早乙女は、ボトルの飲み口を艶めかしく一目してから残りを飲み干した。

「ここに着任してすぐに冴子さんの、いえ、江川警部の不審な行動には気付いたわ」

「すぐ…に?」

 空のボトルを差し出された香織が状況を話始めた。何か躊躇いがあるのか、受け取ったボトルにスクリューキャップを付け直して締めたり緩めたり、手持ち無沙汰みたいな仕草を示した。

「さっきも道すがら言ったけど、私が(・・)ここへ着任する以前(・・・・・・・・・)の半年間の事は全く判らないし、知りようがない。でも、江川警部の現在の不審な行動の要因がその辺に有りそうな気がしてならない…」

 空っぽのボトルをキッチンのゴミ箱へ捨てにいきながら、静まり返った室内で香織が小声で話し続ける。

「本当は、早乙女さんが健常な状態なら…私が(・・)ここに着任する必要も(・・・・・・・・・・)なかったかも知れない(・・・・・・・・・・)…だろうし…私の中で何の疑念も生まれようもなかった…もしかしたら江川警部の謎の不審な行動も起きなかったかも…知れない」

「どういう事?」

「つまり本当の事、事実、経緯、を知っている人がこの三人、このチームの中に一人もいない、という状況なのよ」

 再びキッチンから出た香織の顔半分に、薄闇の青っぽい月明かりが当たった。

「そ、それで?」

「江川警部は、偽物かも知れない…」

「まさか!?」

 只でさえ記憶や意識そのものに問題を抱えている早乙女にとっては、言われているその事自体が上手く理解出来なかった。

「も、もしそうなら、ほ、本部とか、け、警視庁とか警察庁、そういったところに聞いてみれば…し、しょ、照会してみればいいんじゃないのかな…?」

「それは駄目、出来ないわ」

「出来ない、って?」

 青白く照らされた香織の顔面から、感情というもの全てが瞬く間に流れ消えていったようだった。

「私達が配属された特別時限編成ユニットは、身分を秘匿した完全な囮捜査班の為に、配属中の期間内は警察庁の中にあるあらゆる警察、公安の全体照会ファイルの中から個人情報のアクセスをシャットアウト、完璧に照会不能(ロックアウト)にしてあるのよ、場合によっては、正体が外部に知れてしまうと、私達の身にかなりの危険が及ぶ可能性だって否定出来ないでしょ…」

「そんな……そ、それじゃ、私達が警察関係者、捜査官だという身分証明も出来ない、という事じゃないか?」

「えぇ」

 そんなの当り前じゃない、というような冷めた返事の後、じろりと早乙女の両眼を覗くように一瞥した。

「も、もし、彼女が偽物だというのなら、ほ、本物の江川冴子警部は、い、いっ、一体何処にいるっていうんだ?」

「すでに殺されて、何処かに遺棄されているでしょうね」

 無感情で口だけ動く人形のような香織が、間髪を入れずに冷酷に続ける。

「そして問題は彼女、江川警部、いえ、正確には江川冴子警部らしき女よね、その女は何故、毎度毎度深夜に抜け出してあの病院に侵入しているのか、という事なの」

 早乙女の横を通り過ぎ、バルコニーに面した大型サッシ窓の前で香織は止まる。漆黒の森の先に、研究棟の屋上や端々に取り付けられた赤い非常(ビーコン)灯が瞬いていた。

「彼女が忍び込むあの病院、国立帝東大学付属病院には現在、経産大臣、厚労大臣、そして総理大臣にまで成り上がった悪名高き大沢裕一郎が入院している噂がある、という昼間の話は覚えている?」

 問われて怯えたように頷いたが、早乙女は確かに忘れてはいなかった。

「大沢は、経産大臣時代の原発問題でも、厚労大臣時代の薬害問題でも、政治的な対立者や民間のあらゆる人権団体に遺恨を持たれているわ。引退したとはいえ、恨みを持っている人間なんて至るところに存在している」

 後ろ手を組んで仄暗い外を眺めていた香織が、ゆっくりと早乙女の方へ振り返った。

「もしそうなら、労組系の人権NPO団体を騙った反社会的勢力や政治結社、或いは新興宗教系犯罪ネットワークが雇った政治的暗殺者とか、の可能性も考えられるわね」

「政治的…暗殺者?…彼女が?」

「あくまでも可能性、の話だけど…ふふふ…けど、こうまで挙動不審なんだから、そう思われても仕方ないし、何某かに怪しいのは明らかよね…もしそうなら、全くの本末転倒な話よね、テロリストの動静を見張る側がテロリストだった、なんて」

 嘲笑しながら、右腕にしていた大きなミリタリーウォッチを気にした。バックライトを点灯させて時刻を確認すると、香織の顔中心部が発光したように真っ白になった。早乙女はその仕草を見て、彼女が左利きだという事に初めて気付いた。

「もう余り時間がないわ」

 何気なく開いたままの廊下との扉の先を気にして覗いた。

「大沢があの病院に本当に入院しているのだとしたら、院内の警護の網や壁(セキュリティ)は相当なもののはず。たとえ大沢に近付けなかったとしても、毎回ああやって簡単に中へ忍び込むだけでも、暗殺に関連する高度な技術(スキル)を持っていると思われるわ」

 小声が段々と無意識に早口になっていった。

「何度も深夜に侵入しているのは、時間帯による警護の僅かな隙や油断を探っているのかも…もしそうならね」

 話を聞いているだけでは何が起きているのか、全く現実感が早乙女には湧かなかった。自身が記憶を失ってしまう病状も含め、全てが長い悪夢を見続けているだけなのでは、とどうしても思いたかった。

「それと…」

「えっ?」

 香織が突然に戸惑うように呟いた。

「もう一方で庁内の秘匿された、それは警察庁内の限られた幹部達の中で噂されている事なんだけど…」

「何?」

 急にトーンダウンしたように躊躇した。香織の表情が見る間に尽く陰鬱に変化していった。

「実は……庁内には通称‘Hot eye’という極秘の暗号化メールの情報網があるらしいの。コードもスクランブル化されていて、一時間毎に随時入れ替わっていく、本当に一部の高級官僚しか閲覧出来ない情報網で、国家機密レベルの秘匿された情報交換や共有の場にもなっているという…」

「それで…?そのホット何とか、が何なの……?」

 記憶障害を患っている早乙女に、何を馬鹿な話を始めようとしているのだろう、と香織は躊躇いながら自身を呪う皮肉そうな笑みを浮かべた。

「あの帝東大病院は、最先端医療を扱うこの経済特区の目玉の一つになっているけど、実はそれは隠れ蓑になっていて、施設の中では国連で採択されたクローン国際禁止法に反して、ヒトに対するクローン技術の研究や、それに必要なゲノム解析が密かに進められていて、その研究機関の中枢なのでは、という噂があるの」

「クローン……技術?」

「そう」

「そう…って、一体何の為に…?」

 早乙女にとってはまるで雲を掴むような話の筈だったが、何故か何かが(いかり)を海底の奥底に打ち込むみたいな引っ掛かりが胸中を貫いていた。

「もしもそうだったとして、仮にその事実が明るみになった場合には、最先端医療の方策の一つ、再生医療の施術としてゲノム解析やクローン技術の有効性を唱える事が可能だと思うの、臓器とか欠損した部位の修復とか、のね…」

 香織は一息に吐き出してから、何かを後悔するみたいに首を左右へ小さく振った。

「でも、それはもっともらしい真っ赤な嘘で、政府は秘密裏にその技術を軍需産業、つまり将来的には自衛隊、あるいは自衛軍の‘クローン・コマンド化’というレベルの領域の事を想定して研究開発しているのでは、という、全く宜しくない噂がまことしやかに囁かれているのよ」

「それと、彼女の病院への侵入とどんな関係があるっていうんだよ?」

「テロメラーゼ…酵素よ」

「酵素?」

「えぇ…私にも詳しい事は判らないけど、その酵素がテロメアとかいう生物の寿命に大きく関わる染色体の老化を防ぐらしいの。クローン技術にはその酵素の新しい技術が不可欠で、その解析と開発に成功したとか、どうとか、って事らしいわ」

 薄闇の中で香織の両眼が早乙女を睨んで離さなかった。

「そのデータを盗む為かも知れない」

「あ、暗殺だのクローンだの、そ、そんな馬鹿な話は嘘だろ……それに、おかしいじゃないか、何で君がそんな超極秘の情報を知っているんだよ、ただの公安の捜査官のはずなのに……本当は、君がそうなんじゃないのか、ただの捜査官じゃなく…?」

「しっ!!」

 病院の裏手に潜んでいた時と同じように、慌てて強く制した。

「き、君は、私が‘知っている’という沢渡香織警部補じゃないのか…えぇ、ど、どういう事なんだ?」

「彼女が戻って来る」

急いで、と話をはぐらかすように廊下の先を促した。

「私は部屋へ戻るわ。あなたはここのソファでさっきのように横になっていて。それがお互いの為よ、お願い!」

 そう言い残して足早に香織は姿を消した。早乙女は腑に落ちないまま廊下の扉を閉め、仕方なくソファを回る。脱いだシャツを羽織り直し、寝そべっていた場所へ腰を下ろして横になった。

 程なくして玄関ドアが静かに開いた気配が伝わった。直後に、密やかな足音がゆっくりと廊下から近付いて来た。咄嗟に目を閉じて寝ている振りをする。微かな音でリビング・ダイニングに繋がる扉が開いた事に気付いたが、中に人が入って来る様子は何故か感じられなかった。心持ちしてから静かに扉が閉じられたようだった。

 冴子が、リビングの隣の自室へ戻った雰囲気を感じてから早乙女は目を開けた。気が付けば、レースのカーテンだけで遮られたサッシの先は、すでに薄らと明るくなり始めていた。壁掛け時計を見やると、早朝の四時近くだった。目覚めてから、一時間半も経っているようにはとても感じられなかった。全ての出来事が余りにも慌ただしく、そして現実離れしていた為に、時間の感覚が幾らか麻痺していたのかも知れなかった。

 上半身を起き上げ、背後のリビングと和室を隔てている白い襖を凝視する。この襖の向こうでは、戻って来た冴子が再び黒いボディスーツ脱いで、全裸の美しい痩身に浴衣を羽織り直しているのかと思うと、妙な欲求の渇きをどうにも禁じ得なかった。

「だが……本当はどういう連中なんだ……この二人」

 唇だけ動かすように思わず呟く。涌き出た淫靡な情動を抑制したかった。

それにしても、冴子の深夜の不審な行動、そして余りにも仔細な極秘情報に接近している香織、更に二人の常人以上の身のこなしの良さといい、どうにも只の警察庁配下の公安捜査官だとは合点がいかなかった。

 外が一層と白みを帯びて来た。それに反するように、疲弊していた早乙女は、エアコンが心地良く効いた中で微かな眠気を感じ始めていた。

寝てしまうと、今この時の事を全て忘れてしまいそうに思えてならなかったが、一方では忘れてしまった方が良いように思えたのも率直な気持ちだった。

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