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ブラックサイト ー秘密施設ー  作者: アツシK
3/10

フェイズ 2

 何故このベンチに腰掛けているのだろうか、と彼は突如に慌てたように気が付いた。ちょっと前までの記憶が綺麗さっぱりと脳裏から抜け落ちていて全く思い出せなかった。

 知らぬ間に落とし物をしたみたいに、前後の記憶がまるで定かではなかった。何処をどう探し回っても、それはとても見つけられそうにない探し物のように思えた。

 腰掛けていたベンチは三人掛けくらいの大きさで木製だった。男の目の前には丸い噴水があり、その噴水を円状に取り囲むように同じベンチが幾つも配置されていた。

 情景から察して、腰掛けていたのは公園のベンチだった。だが何処の、何という公園なのか、これまたさっぱり判らなかった。意味もなく気だけが急いて、落ち着かなかった。

 眩しい晴天の下、辺りには幼児とその母親と思しき親子連れが何組か、噴水の近くで楽しそうに戯れていたり、同じ大きさのベンチの上にお弁当を拡げていたりしていた。親子連れの大半は彼の事を知っているのか、何故か煙たそうに遠くから会釈を寄越していたりしていた。それらの煩わしい光景が男の視界を占領したままで、余計に記憶の‘捜索’の障壁になっているように思われた。


《今、何月なのだろうか?》


 時季さえ見当が付かなかったが、紺碧に澄み渡った空から注ぐ日差しの強さからすれば、初夏か、或いは梅雨明けしたばかりの七月中盤くらいなのでは、と感じられた。蝉の鳴き声の騒がしさがなかったのは幸いだったが、初夏かと思うと、背中や腋に薄らと汗が沸き立つのを感じずにはいられなかった。

 何気なく自身の足下の方へ視線を落とすと、素足のまま灰色のエスパドリーユをつっかけ、駱駝色のチノパンに緑色のチェックのシャツを纏っていた事に、今更ながらに気付いた。全くの軽装で、何処かへ出掛けるような服装ではなかった。


《こんな軽装なのだから、この公園は私の家の近所なのではないだろうか。きっとそうだ、そうに決まっている。私は、こんな軽装なのだから。だが、私が住んでいる家の場所は何処なのだろう。こんな軽装なのだから、この公園の近くに決まっているに違いない。そうだ、そのはずに違いない。だが、私の家は何処なのだろう。私は何処に住んでいて、何処からこの公園に、どうやって来たのだろう。どうやって、どうやって、何処から、何処から、来た、のだろう、何処から、来た、のだろう》


 男がそう願う最中にも、ふと思えば自身の名前や、年齢すら判らず仕舞いだった。

「いや、ちょっと待てよ、大体私の住み家自体がちゃんとあるのだろうか」

 そんな得体の知れない怖じ気が、嘔吐感が喉元を駆け上がるみたいに止めどもなく湧き出した。

「それなら家族は? そうだ、住み家があるなら、家族がいるはずに違いない…そうだ、そうに違いない…」

 知らぬ間に次から次へと独り言が口からこぼれていた。


《私の家族は、或いは、私に親や兄弟がいるのだろうか。私は、私は誰なのだろう》


 考えているうちに、途轍もなく巨大な海原へ一人だけで放り込まれたみたいな恐怖感と孤独感が、突然に男を覆い被せた。

 彼は、自分が何処の誰かも判らないようなやつなのに、と自虐感に陥っていたが、とにかく無理にも落ち着こうと心掛けた。

 まるで綱渡りをするみたいな精神状態だった。どうにか冷静さを保ちつつ、とりあえず周囲をゆっくりと見渡そうとした。

 男の背後、そして噴水を囲むベンチの周りには樹々が青々と生い茂っていた。腰掛けているベンチの反対側は、噴水を挟んで外の通りに面した入口へ向かって一本の広い通り道が真っ直ぐに延びていた。園内の中央を貫いている通路のようだった。

 樹々が立ち並んだ更にその外側には、中層のマンション群が公園の両側に軒を並べて聳えていたが、それなりの距離を公園と保っていたので視界の周囲に閉塞感は感じなかった。北側の入口左手にだけ、病院と思しき白く幅広な七階建てが、公園入口周辺へ睨みを利かせるようにマンション群に連なって建っていた。

 だが、ここが何処の公園なのかがやっぱり思い出せないし、自分が何故このベンチに腰掛けているのか、そしていつどうやってこの公園に来たのかも全く思い出せないままだった。

 そう思うと、穏やかな微笑ましい風景を目にしている、とはとても思えなかった。その光景そのものが彼にとって例えようのない煩わしさや、苛立ちを想起させるものへと変貌していくだけだった。

 仕方なく、それらから慌てて視線を無理矢理に逸らした。噴水周辺の全景を落ち着きなく見渡す。その刹那、船酔いでもしたみたいに彼の頭の中が突然にぐらりと揺れて眩暈が襲った。軽い吐き気を伴い、視界がゆっくりと回転し始める。上下左右の感覚が麻痺し、何が自身の中で起こっているのか全く判別出来なかった。ひたすらに気味悪さだけが畳み掛けるみたいに襲って来るだけだった。

 焦燥感と暑い日差しのせいで、粘ついた汗が更に額や背中や腋に滲み出していた。こんな不愉快さを以前にも感じた事があるような曖昧な感慨だけが彼の中を貫いた。


《私は誰なのだろう、私は誰なのだろう、私は誰なのだろう、私、は、誰、なの、だろう?》


 意味もなく自然と念じて繰り返した。涌き出る汗を拭うのも忘れたまましばらく虚空に視線を留めていた。不意に思い立ち、このままではいけない、という焦りだけでベンチから立ち上がった。自身の事と住み家を、帰る場所を探し出さなければ、と急いたように心中が煽られた。だが、そう焦ったところで、何をどうして、何処をどうやって探し出せばいいのか、その目星さえ立てられなかった。

 彼は何度もベンチから立ち上がったり、座り直したりを繰り返した。端から見ても挙動不審なそんな男に、一人の女性が近寄っていった。その女性は、そよ風が緩やかに吹いたみたいな滑らかな所作で、いつの間にか男の隣へそっと腰掛けていた。

 三十代なのか、はたまた四十代くらいなのか、年齢がはっきりとしない女性だった。卵型の輪郭と、目鼻立ちが魅惑的に整っていたその女性は、下から覗き込むように男へ微笑み掛けた。それだけでパニックに陥っていた彼は、何故だか一瞬だけ爽やかな風に包まれたみたいな錯覚を抱いた。

 女性の艶のある長めのボブカットが(すだれ)のように垂れた。

「気分はどう、あなた?」

「えっ!?」

 女性は、とても親しげに、そしてにこやかに彼へ話し掛けた。袖を少しだけ捲り上げた青いダンガリーのシャツと、白いワイドパンツに茶色いパンプスが、細身(スレンダー)な体型にとても似合っていた。蒼穹からの陽射しを心地良く感じているのか、涼しげな笑顔を携えたままだった。

「あ・な・た……? 今、あなた、って、私のことを呼びました……よ…ね!?」

 その問い掛けに女性は、優しく微笑んで頷いた。

「と、ということは……あなた、私のことをご存知なんですね?」

「そうですよ、だって私は、あなたの‘妻’なんですから…決まっているじゃないですか、シュウヘイさん」

 和やかなままにそう話す女性は、失念したままの男のことをそう呼んだ。

 彼は、放り込まれた真っ暗な海原で彷徨い続けた挙句、ようやく灯台の仄かな明かりを見つけ出せた、みたいな不思議な安堵感を抱いた。その美しい女性とは既に何処かで会った事があるような、都合の良い感情さえ芽生えていた。曖昧で身勝手で、不思議な感情だけが彼の中を通り抜けていた。

「シュウヘイ……」

 オウム返しで呼ばれた名を口ずさんでみた。

「そうです、あなたは、ハヤカワシュウヘイ……私、ハヤカワシオリの夫です」

 そのハヤカワシオリと名乗る女性の言葉が、彼にはまるで聞いたことのない何処かの国の言語のように思えてならなかった。

「あの……一体、どういうことなのでしょうか…恥ずかしい話なのですが、何も思い出せない、というか、自分が何処の誰なのか、年齢も全く判らないままなんです。一体何処から来て、何でこの公園のこのベンチに座っているのか…あなたは私があなたの夫だというが、今の自分にはとても信じられないし、自分が何者なのかまるで見当も付かない……」

 シュウヘイという名の男は、隣に腰掛けている妻だという女性から視線を逸らし、意気なく悲しげに吐き捨てた。羞恥心が滲み出てしまったせいで、言葉が所々震えてしまったことに、彼は悔しさを滲ませた。馬鹿なことを吐露してしまったと殊更に後悔した。周辺にいる人々の遠回しな視線が気になって仕方なかった。

「仕方ありません……あなたは、一年前にここへ引っ越して来たばかりのころ、不幸にも大きな自動車事故に遭い、頭部に致命的な損傷を負ってしまったのですから……今、こうして元気にしていらっしゃることさえ、本当に奇跡に等しいのですよ」

 彼女はわざとそうしているのか、男の経緯を話す声は淡々としていて、気持ちの起伏のようなものが余り感じられなかった。芝居の台詞を喋るような雰囲気だった。

「一年前?…交通事故?…頭部に致命的損傷?」

「えぇ」

 独り言のように呟き、自然と右手で側頭部や後頭部を確認するみたいに、何度もゆっくりと撫で回していた。

「その事故の目撃者の証言や、警察の事故処理監察者、救助に当たった消防隊のス―パーレスキューの隊員さんの説明によれば、あなたは、車での朝の通勤途中、三車線ある国道○X△号線のN区元町交差点で信号待ちの最中、背後から迫って来た居眠り運転の大型トレーラーに激突されて、前方に停車していた車数台と絡み合うように潰されたのですよ。その事故で生き残ったのは、信じられないことにあなただけ。スーパーレスキュー隊の人がこう言っていたわ、まるで肉片(ミンチ)のようにグチャグチャになった車体群の中で、あなたの身体だけが偶然にぽっかり出来た隙間の中に収まっていて、奇跡的に腕や脚が切れ切れになっていなかった。それは、まさしく神のみわざとしか思えなかった、って…それでも破断した車体フレームの一部分が、あなたの右側頭部にダメ―ジを与えてしまっていた…」

 シオリの明瞭な説明に男は寒々とした薄気味悪さを覚え、再び右側頭部を確かめるようにゆっくりと撫でた。だが、不思議なことに何度撫でても、傷跡らしき部分は指先に伝わってこなかった。何故か直感的に女性の話が少し芝居じみているようにも思え、嘘みたいにも感じ取れた。

「包帯で覆われてしまった顔と頭部の傷自体は、高度な医療的整形再建技術で何事もなかったように表面的には治癒出来たのよ。でもシュウヘイさん、あなたはその事故で負った頭部の損傷によって、脳にダメ―ジを受け、高次脳機能障害に陥ってしまったの。病名は、前向性健忘、又は前向性記憶障害、つまり、昨日やったこと、昨日友人が来たこと、今やったこと、今朝朝食をとったこと、つい先ほど話したことなど、全てを忘れてしまう障害なの……」

 だからよ、何も思い出せないのは、仕方ないことなのよ、と妻だという女は言い結んだ。

「さぁ、あなた、お家へ帰りましょう」

「えっ!?…ど、何処へ……ですか?」

 傷があったと思える頭の部分を無意識なままに撫で続けていた彼は、まるで何事もなかった感じで促す彼女に戸惑った。

「何を言っているんですか、自宅に、ですよ、決まっているじゃないですか。あなたの自宅は、あのマンションの七階よ」

 シオリと名乗った女性は、左手のマンション群の中にある、赤茶色のタイルを壁に敷き詰めた洒落たマンションを指で示した。他の建物と比べても、とても特徴的な派手な色だった。

 彼女の指先に釣られて視線を移した時、今いる場所が何処なのか少しだけ判ったような気になったのが不思議と不快だった。

「さぁ…」

 淑やかな所作でシオリはゆっくりと立ち上がり、帰りましょう、というように彼へ細い右手を差し伸べた。

 シュウヘイは彼女の魅力的な笑顔に見惚れ、抱いた不快感は忘れたようにすぐに消え去った。呆けたようにその手をとってベンチから立った時、さっきまで気になって仕方なかった人々からの辱めの視線や、周囲の雑踏なども全く耳に入らなくなっていた。

 彼が立つと、彼女は確認するみたいに微笑んだまま頷き、繋いだ右手をしっかりと握り返した。余りにも冷やりとした掌にシュウヘイは驚きを隠せなかった。

「こっちですよ、さぁ」

 幼児に接するようにシュウヘイの手を引いた彼女は、噴水の広場から離れ、公園の入口とは逆の方向へ園内の通路を歩み始めた。

 近くで母親とフリスビーをして遊んでいた五、六歳くらいの女の子がシオリとシュウヘイに気付き、大きな声で「こんにちは」と挨拶しながら手を振った。知り合いか、ご近所の母娘だったのか、彼女はその女の子と、その子の母親と思しき女性へ遠慮がちに手を振り返したり、会釈したりした。彼は何故か突然に気恥ずかしくなって、視線を逸らして俯いた。

「気になさらないで大丈夫よ」

 繋いだシュウヘイの掌に、微かに汗が沸き立ったのをシオリは察した。

「ご近所の方々は、あなたが大きな事故に巻き込まれてこうなってしまった、という事に理解を示してくれていますから…」

 そう言葉で擁護されても、言い表しようのない気恥かしさと歯痒さが、防ぎようのない速度で彼の全身を覆っていった。

「わ……私は…」

 何がどうであれ、自分が誰なのか思い出せないというのは、コミュニュケ―ションが全く取れないという事であり、その恥ずかしさから来る悔しさを嫌という程に思い知らされていた。

繋いだままの掌に、更に汗が沸き立つのを彼は感じ、シオリに対する羞恥心は、嫌でも拍車を掛けていった。

「あなた、気になさらないで」

 気まずそうにするシュウヘイの雰囲気を女は気遣ったが、俯いたまま足下を凝視したまま歩んだ。本当は判っているはずのような気がするのに、全く自分の事に見当がつけられない惨めさは、何に対しても、誰に対しても言い訳が一切考えられなかった。まるで蟻地獄か、底なし沼へ落ちたみたいな息苦しさを感じさせていた。

「喉が渇きませんか?」

 少しして、シオリは、微笑みながら再び覗き込んだ。

「は、はい!?」

 思いがけない彼女の問い掛けに、彼は突拍子もない間抜けな返事を返してしまった。

「え、えぇ…そ、そうですね、日差しもかなり強いですし……」

 慌てて無理に会話を繋げようとした事に、尚更に恥ずかしさが何重にも被さっていく。本当は渇いていなかったはずの喉が突然に喘ぎ、急速に水分を所望し始めた。

 そのまましばらく進むと、右に折れる小道に出会(でくわ)した。その小道は、公園の中央を奥へと突き抜けている広い通路から離れ、さっき彼女が示した赤茶色のタイルに覆われたマンションへと続いていた。

「こっちですよ」

 シオリはその小道に入った。両側を溢れんばかりの緑で鮮やかに植栽したその小道は、どうにか人と人がすれ違えられるほどの道幅だった。

 前方に、今まで木々で隠れていたそのマンション一階部分とエントランス付近が見えた。彼が改めて何階建てなのだろう、と数えると、九階建てのマンションだと気付いた。

 エントランスのアルコープは、上部が大きく半円状に刳り貫かれ、左右開きのそのガラスドアの前には、数台の自転車が無造作に横付けにされていた。彼女は、そのアルコープの所で一度立ち止まり、ガラスの自動ドアが開くのを待った。

 男を促してドア内へ導く。彼女に付いて、両脇に銀色の郵便受けが連なった涼しげな薄暗い通路を進むと、オートロックのガラスドアが口を閉ざして待ち構えていた。

 ドアに備え付けられたキーパッドを彼女は素早く幾つか続けて打った。解錠された事を確認してから振り返り「どうぞ」というようにしなやかに促した。

 片側開きのドアを彼女が押し、エントランス内へ入る。彼も続いて通ると、そこには二基のエレベーターが大きな口を開けて正面に並んでいた。凡そ三十畳ほどの広さで、壁が煉瓦調の洒落たエレベーターホールはダウンライトで程よく調光されていた。外からの直射日光が全く当たらないせいなのか、一階の各戸へ繋がる左右に伸びた廊下も含め、ホ―ル内の空気は冷やりとしていた。開いていた汗腺が緩やかに閉じていくのがシュウヘイには心地良かった。

 彼女は、躊躇なく向かって左側のエレベーターへ進んだ。後に続いてシュウヘイが籠に入った時、初めてここに来たような気がしなかった。それが彼の内面で再び不愉快な情動となり、全身へねっとりと拡散していった。シオリはそんな彼を余所に、籠内右手の操作パネルの七階のボタンを押した。押してから再び振り返り、魅力的な笑顔で見詰め直した。

 右側から二枚の扉がゆっくりとスライドして籠を閉じた。直後に一瞬だけ小さく揺れてから上昇し始める。上昇音が仄かに伝わる籠内に、甘い香りが緩やかに漂った。その香りは微笑んだまま彼を見詰め続ける彼女が発していたのは明らかだったが、不思議と馴染みは感じられなかった。

 パネル上部のデジタルの階層表示が‘7’を点灯させ、軽いチャイム音と伴にエレベーターは微妙に揺れながら停止した。

「着きましたわ」

 二枚の扉が畳まれるように操作パネルの裏側へモーター音と伴に収納された。パネルの横に立っていた彼女が「さぁ」というように、男を外へ案内した。

 歩み出た七階のエレベーターホールは、階下のロビーとほぼ同じ広さだった。唯一違うのは、エントランスドアがあった辺りが、左右に伸びる廊下になっていたのと、そこが外の暑い日差しと大気に晒されている事だった。

「あなた…こちらよ」

 清掃が行き届いた灰色の絨毯が敷き詰められたホールへ先に歩み出た彼女は、和やかに振り返って彼を丁寧に案内した。彼は見取れたまま頷き、向って左側の廊下へと進む彼女に黙って続いた。

容赦ない日差しが、燦々と七階の高さにある廊下を照り付けていた。だが、地上より風の通り抜けが良いのか、身体に当たる風が彼には爽快だった。

 気が付けば、妻だという女と公園のベンチで出会い、ここまで歩いて来た僅かな間だけでも、自身が何処の誰なのか、という恐怖心や不愉快さは不思議と消え掛かっていた。せき立てられていた気持ちも何となく落ち着いていた。それは、彼女の身体から香り立つ甘い匂いのせいなのかも知れない、とさえ思えた。

 エレベーターホールから六軒ほど進んだ玄関アルコープの前でいきなり立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

着いたわ(・・・・)

「えっ?」

 喋り方が何の予告もなく冷淡になったように感じられた。示された玄関には‘早川’という全く飾り気のない表札があった。

 カメラ付きインターホンを彼女が押すと、聞き慣れたチャイム音が二度繰り返されたのが漏れ伝わった。少し間を置いてから、廊下より幾らか奥まった玄関ドアが解錠され、ドアが中から押されて開いた。

「お帰りなさい…」

 開いたドアを押さえたのは、淡いピンクのタンクトップにジーンズのホットパンツを穿いた二十代前半くらいの身の細い女性だった。シオリよりも短い茶色のボブカットが、生まれた時からそのままだったのではないだろうか、というほどに細面の輪郭にとても似合っていた。

「コトミです……一様(・・)娘よ(・・)

 彼が不思議そうな表情を浮かべて見ていたからだろうか、シオリの言い方が冷淡さに加え、妙に面倒臭そうだった。

「あっ」

 おもむろに一軒先の玄関ドアがゆっくり開いた。廊下に出て来たのは隣の奥さんのようだった。煙たそうにシオリとシュウヘイに目を留めた。

「あら、ハヤカワさん……こんにちは…」

「えっ!?」

 唐突に認められてしまった事に、シオリは何故か狼狽した。

「こ、こんにちは、ス、スズキさん…お、お買い物へ、これからお出掛けですか?」

 公園での凜とした美しさや気丈さ、そして今し方の急な冷淡な感じは何処かへ突然消え去っていた。何故か目の前の小太りな中年女性に対してしどろもどろになっていた。

「え、えぇ…御主人もお元気そうで、何よりですわね…毎日大変でしょうけど……ハヤカワ…さん?」

 隣に住む中年婦人は遠巻きに嫌味な冷たい言葉で「それでは」と言い残し、エレベーターホールへと足早に立ち去った。

「さぇ、気にせず入りましょう…」

 暑さのせいなのか、羞恥心のせいなのか、幾らか表情を歪ませていた彼女は、額に細かい汗の粒を幾つも浮かばせていた。羞恥心のせいなら、やはり自分のせいなのだろう、とシュウヘイは思わずにはいられなかった。

「さぁ」

 シオリがそう促すと、ドアの傍らに立っていた娘だという若い女が、気を利かせて更にドアを大きく開いた。ドアを押さえたまま傍らに立つ女にシュウヘイは何故か余所余所しく一礼し、戸口の中へ入った。

 決して広いとはいえないマンション特有の三和土には一足の靴も並んでいなかった。そこでシュウヘイは振り返ってから靴を揃えて脱いだ。仄かにエアコンの乾いた冷気が廊下に漏れ出て、フロ―リングの冷やっとした感触が足の裏に感じられた。それがとても快適に五感へ伝わった。

 彼に続いてシオリも玄関に入ってパンプスを倣って脱ぎ、上がり框に上がった。

 フロ―リングの廊下に立つシュウヘイの横を静かに通り過ぎ、真っ直ぐに伸びた廊下の奥の曇りガラス戸の方へ導いた。彼は無言のまま目で頷き、左右に二つずつドアが並んだ廊下を奥へと彼女の後に付いていった。

「来て…こっちよ(・・・・)

 曇りガラス戸を押して開け、中へ招くシオリの雰囲気が再び人が変わったみたいに邪険になった気がした。シュウヘイには、漏れ伝わる冷気も相まって、彼女の背中が、突然に屈強で冷たい鋼鉄の板に変わってしまったように思えてならなかった。

 ドアの中は、廊下と同じフロ―リング床のダイニングとリビングが左右に分かれて拡がっていた。大凡二十畳ほどの広さがあった。

 右手のリビングには、テレビのニュース映像が流れたままの五十インチ以上はありそうな液晶テレビが白い壁に掛かっていた。その下には純白で幅広なローサイドボードが置かれ、その手前には、やはり真っ白なL字型の大型ソファが鎮座していた。

 大きな楕円形の大理石調テ―ブルと、四脚の洒落たダイニングチェアが設置された左手のダイニングは、六畳ほどのキッチンと対面の木製カウンターを挟んで繋がっていた。部屋全体の印象が白で統一され、とても綺麗に片付けられていた。余計なものは何一つ置かれていなくて、とてもシンプルで清潔な印象だった。

 サイドボードの上には、小さな写真立てが幾つも並べて飾られていた。どの長方形の小さな額縁の中にも、彼をここまで連れて来た女性と、同年配くらいの長髪の痩せてやつれた男性が並んで写っていた。それは間違いなくシュウヘイ自身だった。どう見ても健康そうには見えず、怪我を負った後に撮られたように思われた。

「嘘よ…」

「えっ?」

 シュウヘイは、シオリが発した言葉が余所の国の言語みたいに全く理解出来なかった。

「全部、嘘…」

 T字型に拡がったリビングとダイニングに面した全面ガラス戸に向いたままのシオリの背中がシュウヘイに呟いた。

「嘘って、何が、ですか?」

 全く意味が判らないシュウヘイが問い掛けた。シオリは一呼吸置き、振り返る事なく横顔だけで応える。

「私が、あなたの妻、っていう事と、あの()、コトミがあなたの娘っていう事よ」

「あの…す、すいません…只でさえ自分が何処の何者かも判らないゆえに、今あなたが話している事自 体が全く理解出来ないんですけど…今まであなたにそこの公園で話された事、私とあなたが夫婦関係にあるという…だって、そこの写真立てにも、あなたと私、それに娘だという彼女も現に一緒に写っているじゃないですか…」

「偽装に決まっているじゃない」

「はっ!? ギ・ソ・ウって…な、何なんですか…何の為に、何で偽装が必要なんですか?じゃ、事故の事も嘘なんですか?」

「いえ、あなたが事故を起して記憶をなくした、というのは本当。でも、出勤途中で、というのは嘘」

 シュウヘイの額とこめかみにねっとりとした汗が突然に幾つも湧きだした。

「も、もしそうなら、私やあなた、あの娘の名前さえ嘘、という事なのでしょうか、そ、そうなんですか? そうすると、自分が誰かも判らない私は、一層に何者か判らない…い、一体何者なんですか、わ、私は!?」

 曇りガラス戸の近くで、しどろもどろになっていた男の傍を、コトミと呼称していた若い女が通り過ぎ、サイドボード前に置かれた白いL字型のソファへ手前から回り込んで隅へ腰掛けた。組んだ白い脚が、カモシカのように細かった。

「えぇ、そうよ、当然偽名よ」

「ギ…ギメイ?」

 シオリと名乗っていた女が、振り返ってから少し面倒臭そうに顔を歪める。

「まぁ、今のあんたに何を説明しても無駄だと思うけど、私達はみんな‘公安’の人間なのよ。警察庁の特命で、私達三人を偽装家族としてこの旭ヶ丘経済特区マンション街へ擦り込ませる為に、各地の県警本部公安課、そして警視庁公安部から集められた捜査官の‘特命チーム’なのよ…」

「コーアン…ギソウカゾク…トクメイ…何の為に、一体何の事なんですか?」

 記憶を失って戸惑っていたシュウヘイと呼称されていた男は、自身が渦中に巻き込まれた現在を殊更に受け入れられなかった。君も本当に警官なのか、というような懐疑的な眼差しで、コトミと紹介された女をじろりと見ていた。

「これの為よ、こちらへ来て、早乙女慎司、警部…」

「サオトメ…シ・ン・ジ…?」

 女は、呆気に取られた男に再び背を向け、空調で室温を整えられたリビングのサッシ引き戸をゆっくりと開けた。多分に湿気を含んだ暑苦しい大気が間髪もなく室内へ忍んで来る。

サンダルに足を突っ掛けた女は、広い横長のバルコニーへ歩み出た。早乙女と呼ばれた男もそれに倣った。付いて出て来た男へ女は外に向けて顎を杓った。

「こ、これは、い、いや、ここは、ここは一体、何ですか?」

 早乙女と女の視界の先には、針葉樹で覆われた広大な森林が眼前一杯に拡がっていた。その森林の先に、学校の校舎みたいな鉄筋鉄骨コンクリート造で出来たと思しき五階建ての建造物が三棟並び、採光ガラスで覆われた渡り廊下で各棟の各階中央部でそれぞれが結ばれていた。更にその横には楕円ドーム状で大型の、あたかもSF映画に出て来る未来的な奇抜な施設が鎮座していた。その更に先には、巨大な排煙棟のような構造物が空へ向って伸びていた。

「この旭ヶ丘地区、次世代エネルギー経済特区の目玉‘ネオ・エネルギー総合研究所’よ」

 そう話されても、早乙女という人間だと一方的に諭された男には理解のしようが全くなかった。

「私は、神奈川県警公安第一課所属、江口冴子警部、彼女は、千葉県警公安第三課所属の沢渡香織警部補…」

 促されて男が振り返ると、気付かないうちに細りとした沢渡香織が裸足のままバルコニーに出て来ていて、彼の背後で静かに立っていた。

「き、君が…警部補?」

「そして、あなた早乙女慎司警部は、警視庁公安部所属のエリート捜査官なのよ、今は全く思い出せないでしょうけど」

 どうでもいい他人の事を客観的に伝えられているようだった。

「あの…どんなエネルギーの研究をしている施設なんですか?」

「さぁね、私にも詳しい事は判らないけど、そうね、原子力やら核融合やらの決して安全な研究施設ではない、というのは言い切れるわね、多分だけど。幾ら米軍が戦後に接収していた返還地とはいえ、よくもまぁ、都内にこんな巨大で、危険かも知れない、いえ、やはり危険に違いない研究所を造れたものよ、だから……」

 冴子は、早乙女に対して自嘲的に応えた。

 早乙女にとっては、目の前に拡がる研究施設もまるで現実感を伴っているようには受け止められなかった。それは終わりのない映画か、はたまた悪夢を無理矢理見せられているようでもあった。

「事の始まりは、一年前にこの研究所の存在がメディアを通して広く知れ渡った後、幾つかの反政府勢力や、監視対象となっている新興宗教を騙った武装教団から犯行予告を匂わせる文言の書き込みがSNS上で早速あった。更に、ここを狙ったテロの犯行準備を進めているという急進的な過激派(テロリスト)の秘匿情報を当局が入手したの。本当は共謀罪を適用したいところだけど、それには余りにも確証が少なすぎる。そして、北側の公園入口の横にある国立帝東大学付属病院は、この経済特区のもうひとつの目玉で、高度先進医療の臨床試験を世界に先駆けて積極的に行なっている最先端施設よ。実は、ここは政界や財界の重鎮といわれている面々が、重篤化してしまった各々の持病を、お忍びで治癒しに訪れる最秘匿した専用医療機関にもなっている、という話よ。現在も表向きは海外へ療養しに渡航した事になっている、経済産業相、厚生労働相を歴任してから首相まで上り詰めた‘大沢裕一郎’が、密かに入院中だわ」

 警部補の香織が、冴子に変わって概要を一息に伝えた。その際に、立場上は上司の早乙女に対し、全く敬語を使わずに率直(フランク)に、そして不気味なまでに淡々と話した。

「そのご老人の暗殺予告らしき見過ごせないものもネット上に出回っていた…大沢は、経済産業相時代に原子力発電所の導入を官僚に言われるままに強く推し、厚生労働相の時は、血友病患者が投与する非加熱製剤でのHIV感染による薬害訴訟で多くの被害者を無慈悲に切って捨てた過去があった……そんな男が、よくもまぁ総理大臣まで上り詰められたものだと、不思議でしょうがないわ。政治の世界、領袖と派閥の関係って、私には全く理解出来ない。殺されても仕方ない(・・・・・・・・・)ような奴なのにね、大沢って…」

 瞬きもせずに針葉樹の森を見詰めたままの冴子が、概要を香織から引き継いで吐き捨てた。

「それはさて置き、この現状の流れに対応すべき警察庁は緊急な討議を行ない、警視庁配下の公安部とは全く別の‘対テロ対策捜査班’を特別時限的な組織として緊急に創設、人員の選任と招集を決定した。それが私達のチーム‘身分秘匿囮捜査班:Decoy and Undercover Investigation Team’通称‘DUIT’なの」

「ドュ…イット?」

 何処か芝居めいていて、語呂合わせみたいなふざけた名称に思えた。それに何か重要な意味でもあるのだろうか、と記憶喪失の早乙女にでさえ少し滑稽で愚かに感じられた。

「その名の通り、私達は警察庁の特命により、この特区に住む普通の家族に扮して日常に紛れ込み、この辺りの施設でテロが起きるか起きないか、不穏な人間が潜入していないかどうかの動静に目を光らせて日々監視しているのよ」

 だから、ここのいるのよ、決まっているじゃない、何度同じ話をすれば済むのよ、と冴子の面倒臭そうな言いようは変わりなかった。

「ちょっと待って下さい、そんな重要な任務に就いているのに、私みたいな人間がそのまま任務を遂行している、というのは、余りにも変じゃ…不自然じゃありませんか?」

 早乙女は、何度このような同じ場面を、失った記憶の中で繰り返して居るのだろう、と羞恥との狭間で苛立った。急に興奮したように捲し立て、語尾が所々聞き苦しいように震えてしまった。

「あなたが事故によって記憶障害になったからといって、夫を急に取り替えるわけにはいかないでしょ…近所に対して夫が姿を全く見せなくなった、っていうのも不自然じゃない。仕方ないのよ、今のあなたのままで、私の夫、記憶障害を患っている夫、ハヤカワシュウヘイとしていてもらうしかないし、それが一番自然なの。特命を受けて、いやでもすでに一年近くここで建前上は三人家族として一緒に暮らしているのよ…どうせ、すぐにまたこの説明さえ忘れてしまうでしょうけど」

 長期の潜入捜査って、本当にキツいわ、カレに合う事も出来ない、と香織が何度目かの溜息を吐き出した。バルコニーの手摺りに背を凭れて項垂れた。

「早乙女警部みたいに全部忘れて、なーんにも判んなくなっちゃった方が楽かもね」

「沢渡警部補だけが半年前に、米国での二年間の交換留学から帰国して来た、という事で、後から潜入に合流したのよ。ふっ…覚えてないでしょうけどね。彼女、服装からして大学生くらいにしか見えないけど、実年齢は二十九歳なのよ」

「に、二十九歳!?」

 早乙女のその反応に、冴子が鬱陶しそうにした。

「あなたが‘毎回’そういう反応示す度に、警察官学校での彼女の恩師であるあなたに対し、どんな気持ちになると思う?」

「警察官…が、学校……恩師?」

 どちらの事実にも目を見張ってしまった早乙女を、香織は侮蔑を含めて微笑んだ。それなのに、見詰めた彼女の猫のような瞳と、歪められた薄い唇に妙なエロティックな気配を感じてしまった事を強く恥じた。

「潜入囮捜査の鉄則は、出来る限り指揮系統の人間と接触、又は擦れ違わない事。それは、何処で誰が私達の事を見ているかも判らないからよ」

 香織が再び諦めの溜息を付いた事で、冴子は不自然なほどに話を任務の事へ戻した。

「任務に入ってすでに一年が経とうとしているわ。あなたはここへ着任して間もなく、身分を秘匿されているあなたへ、どういう理由で接触しようとして来たのか判らない情報(タレ込み)屋と合う為に車で池袋へ向った。だけど何故かその情報屋が急にあなたの目の前から逃走した為に、車で追跡、その最中に大きな事故に見舞われ、現在の記憶障害に陥った」

 早乙女の目を見ないままうんざりしたように淡々と続けた。

「そしてその事故後には、ここでは何の事件も起きなかったし、何者か、からの再接触もなかった。単に幸運で只の偶然なのでしょうけど、このまま何も起きなければ、後一年ほどの我慢でお役ご免になるはず。私達は、引っ越す、という形でここから去り、新たに招集された潜入捜査員達がこの施設と周辺の監視を続ける…」

 二人と視線を合わせず研究施設の森に視線を落としたまま「何も起きなければね」と冴子が心なしか不安げに呟いた。

「外は本当に暑いわね。さぁ、中へはいりましょ」

 彼女は針葉樹に覆われた施設を一瞥し、サッシを開いた。

「さすがにこの暑さじゃ喉も渇くわよね、忘れていたわ、今、冷たい飲み物を出すわね」

 ソファの横を斜めに通り抜けて冴子はキッチンへ真っ直ぐに向った。最後に中へ入った香織が後ろ手でサッシ戸を静かに閉める。香織はそのまま早乙女の前へ歩み、ダイニングテーブル前の洒落たチェアへ腰掛けた。

 外はとても暑かったが、室内は程よく空調が効いていて居心地が良かった。早乙女が振り返ると、バルコニーに面したサッシ戸の上の壁枠中央に大きなエアコンの室内機が取り付けられていた。室内機下側の横に細長い吹き出し口が上下にゆったりとスイングし、適切な冷風を吐き出していた。心地良い冷気を間近で浴びながら、早乙女は放心したみたいにしばらくその吹き出し口の動きに意味なく見入った。

「お待たせ…」

 キッチンから冴子がようやく出て来た。長方形で光沢のある黒い(トレイ)に、茶色い液体が入った透明なグラスを三つ載せていた。ひとつを香織が座っているダイニングテーブルに置き、それからソファへ歩んでガラステーブルへ残りの二つを置いた。

「アイスティーよ、早乙女さん、さぁ、どうぞ」

 突っ立ったままの早乙女をソファへそれとなく誘う。冴子はL字型の右対角側へ腰掛けた。(トレイ)をテーブルへ立て掛け、細い脚を絡ませるように組んだ。細かい汗を表面に浮かばせた冷たそうなグラスを掴んで躊躇なく口元へ運ぶと、冴子の喉がしなやかな軟体動物みたいに妖しく何度もうねった。はっとして、そこから視線を逸らすように目の前に置かれたグラスを見詰めた。意識を無理にグラスへ移す。無数の水滴に包まれた縦長の冷たそうな容器は、砂漠の中でようやく探し当てたオアシスみたいな安堵感を想起させた。

「それじゃ……遠慮なく頂きます」

 早乙女は不思議と無性に喉が渇き始めていた。それはまるで何処かへ故意に誘導されたかのようだった。

 手に取ったアイスティーを一息に喉の奥底へ流し込む。滝底へ落ち続ける水の如く、良く冷えた液体が急速に胃の中を重く満たしていった。

「どう、満足した?」

「えっ?……えぇ」

 一気に飲み干した早乙女は、油断したように頬の筋肉を僅かに緩めてしまった。清涼感が、早乙女の脳内で乾き切った砂場を湿らせていくような感慨を抱かせた。

 満足感からなのか、一瞬だけ放心したみたいな不思議な倦怠がゆっくりと早乙女の全身を包み始めた。目の前に座っている冴子の顔と、背後の真っ白な壁が微妙に歪み、それは徐々に視界の中で振り子が振れるように大きく揺れ出した。

「な、何なんだ、ど、ど、どうしたんだろう!?」

 何度も何度も必死に頭を振って正気を保とうとするが、どうにも逆らえない倦怠感がすでに早乙女の全身を包皮していた。どうにか振り返って香織を窺うと、不気味に揺れた視界の中で、薄く整った唇が蔑みの笑みを仄かに浮かべていた。

「な、何を……入れ…」

「おやすみなさい、早乙女さん」

 立ち上がろうと抗ったが、すでに全身の筋肉に力が全く入らなくなっていた。無残にも風船が萎むみたいにソファへ沈んだ。

「このまま朝まで寝かしておきましょう」

「そうね…その方が、お互いにとっても都合が良いからよ…ね、そうよね、江口…警部?」

 年下の香織が役職的にも上役の冴子に対し、ぞんざいで意味深に呟いた。


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