フェイズ 1
『まさに歴史的な瞬間と言っていいでしょう!この南北分断の軍事境界線の象徴、板門店にて初開催された朝鮮半島におけるXX年振りの南北首脳会談で、北朝鮮労働党委員長と韓国大統領が互いに微笑みながら抱き合い、そして力強く握手しあっています! この光景を、韓国国民、そして北朝鮮の国民は、どんな思いを胸に抱きながら見詰めているのでしょうか!』
スクランブル交差点に接した雑居ビル上部に設置された大型スクリーンでは、見た目に不釣り合いな二人の男同士が手を握りあっていた。横断歩道を忙しなく交錯する溢れる人波のほとんどの目にそれは降れることもなかった。それを伝えるキャスターの興奮した音声が耳障りに割れた大音量で辺りへ響き、フラッシュ光で飽きることなく瞬いた映像が渋谷上空へ垂れ流され続けていた。
ふくよかな輪郭に刈り上げた豊富な黒髪を額の中央から分け、醜く肥えた身体に黒鉄色の人民服を纏った若者を左手に、その対には、白髪混じりの髪を七三に纏め、中肉中背にスリーピースの眼鏡を掛けた初老の男が和やかに立っていた。穏やかに微笑んで立つ二人のその姿勢は、映像回線が固まってしまったのでは、と思わせるほどに長かった。
「ようやく実現した南北首脳会談ですが、今後の朝鮮半島の動向というのは、どうなっていくのでしょうか?」
会談の中継が流されたスタジオで司会進行役のキャスターが、自身と巨大な映像モニターを挟んで八の字形のテーブル席に腰掛けていた有識者と思われるゲスト数人達へ質問を投げ掛けた。
「懸案になっている核開発や、大陸間弾道弾を含む各短中距離ミサイル開発問題が、労働党書記長自身による会談前の発言通り、廃止、もしくは廃棄となるのか、ということが最大の焦点となるのでしょうが……」
よく見れば、まだ幼さが見られる北朝鮮労働党委員長の笑顔が画面一杯に大写しなった前で、ある私立大学の国際政治学朝鮮問題専門の教授、鶴岡秀一が呟いた。
「朝鮮半島の完全なる非核化、という悲願は、我が日本の安全保障と密接に繋がっておりますし、それは米国や中国、ロシアという両国の背後に控える支援国の国際協調の枠組みの中で、半島情勢は国際和平の軍事的プレゼンスにも大きく、そして神経質に影響します。更に、日本にとって北朝鮮外交で核脅威と同じレベルで最重要なのが拉致問題です」
元外務省アジア太洋州局長で、現在は軍事・外交専門アナリストへと転身を遂げた白髪で初老の藪井昭雄が淡々と話した。司会役のキャスターは「えぇ、そうですよね」というように大袈裟に何度も頷くだけだった。
「どうでしょうか、現実的な北朝鮮の核放棄、というレベルの話となれば、朝鮮戦争が現在も休戦状態のままだ、という扱いを含めても、結局のところ米国、そして中国抜きでは両国の重要な核放棄に関する共同宣言はちょっと不可能なのではないでしょうか。そうなると、日本政府が懸念している拉致問題も、両国間会談では棚晒しとなってしまう可能性も高いのではないですかね。そして、この会談の後に現実的に噂される、初の公式な米朝首脳会談において、核と日本人拉致の件がどの程度包括的に議論されるのか、という不安もあります。特に、米国にとっての北朝鮮における核問題というのは、過去に朝鮮半島エネルギー機構での思い出したくもない痛手がありますからね」
例年に反して、太平洋高気圧がゴールデンウィーク前に一足早く張り出した為に、渋谷上空はじりじりと肌を焼く真夏のような陽射しを伴う見事な蒼穹だった。そんな爽やかな背景とは裏腹に、在日コリアンの為の政治・経済雑誌を発行する著名なジャーナリスト、趙容弼の捲し立てる声が大型スクリーンの中から大気を不愉快に揺らしていた。
対角状に敷かれた横断歩道を行き交う人の群れは、誰もが肌を露出させた真夏のような薄着になっていた。それなのに辺りを支配していた大気は、夏特有の湿気を帯びたじっとりとした鬱陶しさからは見事に乖離していた。
「そうでしたね、核開発を止めさせる代わりに、軽水炉二基を付与するというあの事案に関しては、痛手を負ったのは米国のみならず、我が日本も協調した枠組みの中で、無償で重油を北朝鮮へ供給する、という役割を担っていましたからね。結局のところ、北朝鮮は締結を守らずに、影に隠れるように核開発を続けていたわけですから」
司会のキャスターが、過去の忌まわしい記憶を蘇らせるように、縁なし眼鏡を掛けた初老の在日コリアン・ジャーナリストに対して苦々しく相槌を打った。
「その後、顔に泥を塗られた米国は、北朝鮮からの二国間の直接的な協議に関しては、一切合切に無視するかのように公式には取り合うことをやめてしまいましたから。まぁ、それでも、俗に云われている‘ニューヨーク・チャンネル’では、お互いの高官同士での非公式な協議が実際には秘密裏に続けられていたようですわね、これまでのように……」
国立大学院で国際公共政策研究科博士課程を修了後、米国へ渡って米国連邦議会上院予算委員会補佐官を十年間努めていた美貌の中年女性政治学者、岡田君子が魅力的な微笑を携え、絶妙にキャスターのコメントを引き継いだ。
「以後、プルトニウム抽出からの核開発を進捗させた北朝鮮の存在そのものが脅威となり始め、危機感を募らせた事実上の支援国、中国から米国への呼び掛けによって、北朝鮮の核廃絶への道筋をつける為の六カ国協議の場が設けられました。どうしても、東アジアの安全保障の為に、米国を交渉の席へ戻す必要があったのです」
栗色の長く艶のある髪を後ろで束ねた女性学者が語り続けた。その背後で、白髪の初老の男と、不健康に肥えた巨体の若者が、わざとらしいまでの笑顔で和やかに握手する同じ映像が何度も飽きることなく繰り返されていた。
「今回の会談を足掛かりに、今後その噂されている初の米朝首脳会談において、北朝鮮の後ろ盾となる中国、更にロシアなどが、その会談に対してやはり何か影響力を及ぼして来るのか、どうなのか、ということなんですよね」
在日コレアン・ジャーナリストは、掛けた眼鏡の奥から冷ややかで、まるで焦点が定まっていないような視線を放ちながら続けた。
「つまり現在の朝鮮戦争の休戦協定の状態から、絶対的な不可侵を含めた和平協定へと移行させる条件の交渉を、米国と協議し始めるのか、そして米国が果たしてそれに耳を傾けるのか、或いは、米国を筆頭とした国際社会は、和平協定締結以前に、まず北が保有している核とミサイルを、国際原子力機関の介在の元に、検証可能で不可逆的な廃棄を望んでいるのですから、そちらの交渉を優先させ、それ以外の交渉と締結、譲歩には一切応じないのか、ということだと思われます。やはり、休戦協定から和平協定への移行となりますと、当事者国である米国と北朝鮮、そして中国の三ヶ国による協議が必要だからなのですよ」
有識者達の背後で流れる融和ムードの映像は、突き放すようなコメントとは全く裏腹に緊張感の欠片も漂ってなく、それはあえてそう装っているようだった。
「あっ…ちょっと待って下さい……」
司会のキャスターが、左耳に入れていた肌色のイヤホンを不意に左手で押さえながら、スタジオの対面へ視線を泳がせた。南北の首脳二人が微笑む巨大な映像の前で、キャスターだけが立ちすくんだまま凍り付いていた。
「えぇ……たった今ですが、ソウル近郊、京畿道高陽市に設けられたプレスセンターより、最新情報が入った模様です…」
TVカメラや誰に向けるわけでもなく、キャスターが数度軽く頷いた。背後の南北首脳の穏やかな場面から、数限りない間接照明で照らされたサッカー場ほどの大型プレスセンターへ映像が切り替わった。仄かに薄暗い場内で、ダークスーツにマイクを握った黒縁眼鏡の特派員の若い男が、心許なさそうに画面中央で待機していた。
「世界が注目する南北首脳会談の為に、ソウル近郊京畿道高陽市に設けられた国際プレスセンターよりお伝えします。昼食を挟んで、午後の会談に入った南北両首脳ですが、二回目の会談開始から数時間たった先程、朝鮮半島の‘完全な非核化’を目標とすることを盛り込んだ‘板門店宣言’に署名したことを発表しました」
若い特派員は、緊張した面持ちで歴史的な両国の共同宣言を伝え、手にしていたレポート紙を幾らか震わせていた。
「両国首脳は、軍事境界線を跨ぐ板門店の韓国側の施設‘平和の家’でXX年振りに南北首脳会談に臨み、朝鮮半島の‘完全な非核化’を目標とすることを盛り込んだ‘板門店宣言’に署名し、発表しました。今年秋に、韓国大統領が平壌を訪問することでも合意した模様です。両国首脳は会談で、一、朝鮮半島の非核化、二、恒久的な平和の定着、三、南北関係の進展、を主な議題としたようです。非核化について、宣言は『南北は完全な非核化を通じて、核のない朝鮮半島を実現する、という共同の目標を確認した』と明記され、『北側がとっている主導的な措置が、半島の非核化のために大きな意味があり、重大な措置であるという認識で一致し、今後、それぞれが自らの役割を果たすことにした』として、北朝鮮側の取り組みを評価しました。『南北は半島の非核化のため、国際社会の支持と協力の為、それぞれ努力していく』とも、宣言には明記されました」
一気に共同宣言に関する現地レポートを読み伝えた特派員の声は上擦っていた。
「なお、停戦状態にある朝鮮戦争の扱いについては、『休戦協定締結からXX年になる今年に終戦を宣言し、休戦協定を平和協定に転換する』と宣言に盛り込み、恒久的な平和的な構築に向けて、韓国、北朝鮮、米国の三者、または中国を加えた四者による会談の開催を積極的に進めていく、としました。以上、京畿道、高陽市に設けられた国際プレスセンターより、緊急速報として、タナカがお伝えしました」
大型モニターの傍らに立つキャスターと、その前で八の字形に拡がったテーブル席に座る有識者達数人の間に、緊張から何かがだらしなく急速に緩められていくような空気が拡散していった。それは明らかに溜息とは種類の違うものだった。
司会進行役のキャスターが、有識者達へ振り返って言葉を発しようとした時、モニターに音声と映像が再び割り込んだ。
「総理大臣官邸よりお伝えします」
打ち合わせのない性急な進行に、キャスターは僅かに顔を不快に歪めた。
「先程の南北両首脳による‘板門店宣言’を受け、総理は、南北首脳会談について、次のような談話を発表しました。
『本日、韓国大統領と北朝鮮労働党委員長が、北朝鮮の非核化等について真剣に議論したことを、北朝鮮をめぐる諸懸案の包括的な解決に向けた前向きな動きと歓迎します。また今回の会談の実現に至るまでの韓国政府の努力を称賛したいと考えています。今回の会談を受け、そして今後予定されるとする米朝首脳会談を通じ、北朝鮮が具体的な行動を取ることを強く期待しています。そして、北朝鮮の今後の動向を注視してまいります。また、具体的な中身については今後、韓国大統領から直接電話でお話を伺うことになっておりまして、大統領自身の受け止めも含め詳しくお話を伺いたいと思っています。いずれにせよ、拉致、核、ミサイルの包括的な解決に向け、そして史上初の米朝首脳会談に向け、日米韓で緊密に連携していきたいと思います。
こうした問題の解決に向け、さらには中国やロシア、国際社会ともしっかりと連携していきたいと考えています。今回の声明については、過去の声明もあります。韓国前大統領と北朝鮮労働党前委員長との間で発出された声明があります。そうした声明との比較、分析等も行いながら、我々は今後の対応、取組をよく考えていきたいと思います。いずれにせよ、韓国大統領、或いは米国大統領とも緊密に連携を取り合っていきたいと考えています』
と記者団へ語りました。総理官邸からは以上です」
官邸キャップ・守下繁夫、という名を記した字幕と伴に立つ記者が、慌てたように伝えた。
「ありがとうございました…」
思い掛けない展開に、プライドの高そうなキャスターが、少し顔に泥を塗られたように感じていたのは、誰の目にも明らかだった。
「さぁ、みなさん、この‘板門店宣言’を受け、いかがにお考えでしょうか。現地と総理官邸から続けざまに思い掛けない速報が舞い込んで来ましたが……私としても、余りにも急速な交渉成果に少し戸惑ってもいるのですが…」
「さて、どうなんでしょう……今伝えられた実際の共同宣言では『完全な非核化を通して核のない朝鮮半島を実現する』という曖昧な文言にとどまり、むしろただ全般的に‘南北融和’に力点が置かれたように思われます。北朝鮮の核廃棄についても、どの程度に深い議論があったのかも疑わしいほどで、貧弱な内容だけが合意文に盛り込まれたように感じられます」
キャスターの問い掛けに、束ねた栗色のロングヘアが魅力的な岡田が穏やかに即答した。
「この宣言内容には、我が国が北朝鮮との間で抱えている拉致問題に関してはやはり全く触れられていないし、官邸談話の内容からも、この会談による日本の国益性は微塵の欠片もない…」
これまで拉致問題にも関わりを持っていた鶴岡は、憤慨を隠しきれずに言葉を発した。
「労働党委員長が、会談以前に自ら発した大陸間弾道ミサイル開発の中止と、核施設の完全廃棄という約束が、今後どれだけ担保され、現実的に履行されるのか、という国際世論の流れに沿いながら、我が国独自の拉致問題の外交戦略、戦術が真実にどの程度に発揮させられるか、ということに尽きると思われます。今後それはかなり重要になって来るでしょう。まぁ、当事者二国間は、単に冷戦構造が残る朝鮮半島に、新たなページが開かれつつある、ということを印象づけたと考えているかも知れませんがね。というのは、韓国が常日頃恐れているのは、北朝鮮の最新のミサイルや核技術などではなく、通常兵器でも簡単にソウルが火の海にされてしまう、ということなんだと思います。ソウルは、三十八度線からは、そう遠くないですからね。統一は現実的には無理だとしても、南北融和は韓国現政権にとって、最優先事項なのです」
目立った発言を控えていた在日二世の国立帝都大学民俗研究学教授、朴彰剛が心地良いバリトンで、余りにも楽観的なコメントを発言した。
「核とミサイル、そして日本にとっては拉致問題と、米中韓と足並みを揃えながらも、政府は相当に難しい舵取りをしなければならないようですね」
そのキャスターの決まり切ったような既成的で新味のない受け答えは、意味もなく曖昧で和やかな空気をスタジオ内に満たそうとしていた。
「これまでの米国頼みの外交戦術では、問題解決に繋がらないように思われますが、その辺に関して、作家のコウズさんは、どうお考えになりますか」
八の字形テーブル席の左末席に座った岡田君子の対面に、大人しくして存在を隠すみたいにしていた四十代後半の作家にキャスターは発言を求めた。デスクの上に‘神津良吉’と書かれた札の後ろで苦悶したみたいに眉間に皺を寄せ、その男は、私の個人的な想像なのですが、と前置きしながら言葉をゆっくりと吐き出した。
「どちらかといえば、ですね…韓国の現政権が支持率上昇と安全保障の為に上手く融和ム―ドを利用した、というよりは、北朝鮮が対韓国、対国際社会に向けてますます立場を強めつつある、と思えてしまいます。今回のこの南北会談や、今後に噂される米国との会談へ向け、極めて綿密に‘ゲームプラン’を練って来たのは間違いない、と考えられます」
眉間に皺を深く刻んだまま誰とも視線を交さずに発した。岡田が座る反対側テーブルの一部分を、まるで何かの憎しみに満ちたように凝視し続けていた。そんな神津を、キャスターや他の有識者達が険しい面持ちで射抜き続けた。特に意見を簡単に否定された在日二世の民俗学教授は、如何にも不愉快だ、と云わんばかりに顔を歪めていた。
「つまり労働党委員長はこの会談で、残忍な独裁者から、友好的で開かれた指導者へとイメージをまんまと作り替え、国際社会から北朝鮮が‘普通の国’として受け入れられる下地と強みを得た、と思われるからです。これは、中国をはじめ、各国の制裁圧力が弱体化していくことを表し、軍事行動の可能性が下がった北朝鮮への抑止力も低下させていってしまうでしょう。それは国際社会の中での北朝鮮の孤立が解消し始める事を表し、米国、中国、ロシア、韓国、日本など関係国の団結を簡単に揺らがせていってしまうように考えられます」
五年前に、日本に潜入していた北朝鮮諜報部員が、国内に潜む偏った思想の少数イスラム原理主義信仰者を言葉巧みに利用し、原発を狙ったテロを‘聖戦’として日本各地で仕掛けさせる、という近未来サスペンス小説をヒットさせた長髪で小太りな中年作家が、何かを諦めたように呟いた。一度俯いてから気怠そうに顔を上げ、更に続ける。
「史上初の米朝会談は、今後の日程などの予測も何も全く判りませんが、ほぼ間違いなく行なわれるでしょうし、その為の実務者協議は、実際にはもう水面下で始まっているのかも知れません。あくまでも、私の勝手な想像ですけどね。ただ、二〇〇八年から中断している前回の六ヶ国核軍縮交渉会議では、北朝鮮自らが勝手に協議から離脱したのを忘れてはなりませんよ。そして、前回までの交渉と決定的に違うのは、核処理技術とミサイル能力を劇的に向上させた北朝鮮が交渉の席に着く、ということなのです。それは、南北会談において笑顔の若き労働党委員長が、韓国よりも北朝鮮の優位性を築いた、という生易しい話ではなく、まさしく国際社会にとっての最大の脅威になり得るレベルの交渉の場に、笑顔を携えた悪魔が米国と対峙した席に着く、と最悪の想像が出来るからなのですよ。最大限の譲歩を米国から引き出す為に、です…」
「どの程度の範囲まで協議されると考えられますか?」
間髪を入れずにキャスターが神津へ食い付いて問い返したが、その質問自体が再び既成的で何の意味も文脈も持っていなかった。スタジオ内の有識者達をただ白けさせただけだった。
「私に判るわけがないじゃないですか、そんなこと。まだ本当に米朝会談だって行なわれるかどうかだって決定したわけじゃないんだから。ただ……一般的には、体制維持を前提に核とミサイル問題、朝鮮戦争終結における平和協定に国交正常化、そして経済支援などが幅広く議題に上がると考えられますが、核・ミサイルなどの国連安保理決議違反への対応と平和協定は、米朝会談とは異なる問題として区別し、議論されるべきだと個人的には考えます」
専門的な知識に長けているはずの有識者達は、神津の突っ込んだ知見に驚きを隠せず、言葉を発することが出来なくなっていた。
「体制維持を前提に米国との協議が、或いは国連との協議が進んだ場合に、核とミサイルの検証可能で不可逆的な包括的廃棄というのは、現実的に可能だと考えて良いんですよね?」
キャスターは、誰に問い掛けるわけでもなく、視線を泳がせたままに言葉を絞り出した。
「そう考えて差し支えないと思います。今後示されるであろう米朝会談までの行程を想定すれば、それが両国にとって自然な成り行きだと考えられますね」
「オカダさん、本当にそう思われますか?」
岡田に神津が反論の態度を素早く示した。それに対して女性政治学者は、不意打ちを受けたかのような恥を露わにした驚愕の表情をTVカメラに運悪く捕らえられてしまった。
「どういうことでしょうか?」
キャスターのその言葉は、美貌の女性政治学者の辱めの意思を代弁しているかのようだった。
「仮にですよ、ミサイルに装着される核弾頭や、それに使用する為に抽出されるプルトニウム、それと米国本土まで届くという大陸間弾道ミサイルの為のロケット技術など、全てが協議の上で約束通りに廃棄されたとしても、北朝鮮によるネット上からのシステム・ハッキングとか、或いは物理的な爆弾や通常兵器による空中からの電磁波攻撃を全く受けることはない、という保証は何処にもないんですよ」
神津が言葉をそう発した時、その場にいた全ての人々の中に流れている時間があたかも凍り付いたようだった。
「電磁波、による攻撃、ですか?」
核とかミサイルとか、理解出来得る与えられた一般的な情報の中で、それこそ物理的な想像以外の言葉に誰もが戸惑っていた。
「そうです、電磁波、電磁パルスや、高出力マイクロ・ウェーブによる攻撃です」
「あっ!?」
在日ジャーナリストの趙容弼が、何かを思い出したように呼応した。
「もしかして、それってコウズさんが書かれた小説のネタになっていましたよね。北朝鮮の工作員が国内にいる偏ったイスラム原理思想者を言葉巧みに利用してテロリストに仕立て、電磁波攻撃でライフラインの要である電力を無効化して、日本各地の原発の冷却を奪ってメルトダウンさせる、日本を放射能汚染させる、という話の筋の……?」
「えぇ、そうですが」
脱力したみたいな在日ジャーナリストの反応に、神津はきっぱりと即応した。
「今では一般的にインターネット上でも議論されていたり、危惧されている脅威ですよ。特に東日本大震災で、福島の原発の電力供給が津波の影響も含めてですが、バックアップ用も併せて全てを喪失し、瞬く間に炉心溶融してしまった、という事実から、電磁波による原発へのテロの可能性と懸念は間違いなく拡大した、と思われます。つまり、米国での9・11テロ以降に空港でのパスポートのチェックや身体検査、荷物、手荷物検査のセキュリティレベルが神経質なまでに驚異的に上げられたじゃないですか…その予防と同じですよ…脅威として無視する事はすでに出来ない…」
たわいのない世間話でもしているかのように、淡々と続ける。
「現在、米国を始め、西側、東側を問わずに世界各国では、軍需装備品としての様々なサイズの電磁パルス発生器の開発が盛んに行なわれているようです。それは手榴弾のように小型携行出来るものから、グレネード弾と同様な運用で近接及び局地攻撃出来るもの、大型装置として設置されるサイズのものなどで、これまで一般的だったミサイルによる高高度核爆発で、広範囲に電磁波を発生させ、あらゆる電子機器やシステムを無効化する、という戦術よりも、更に実戦的で局地的、運用幅の自由度が広い使い方へと転換していくでしょう。そして、それらの開発は、北朝鮮でも間違いなく行なわれているはずです」
「そんなSF映画か漫画、或いはゲームですか…それらに出て来るような兵器、本当に実現可能なのですか?」
神津の反対側正面に座る岡田が、呆れて噴き出すのを堪えるみたいに口走った。
「それも本当のところは判りません。それこそ私になんか判るわけがない」
「はぁ!? あなた、何を、何をそんな無責任なこと言っているんですか、それも公共の放送の場で!今まで散々判ったような口振りで話していたじゃないですか!」
女性政治学者の美貌の顔が、小馬鹿にしていたような呆けた表情から、怒りを滲ませて醜く歪んだ。
「当然ですよ、だって私は軍事専門家でもないし、ここにいらっしゃる外交専門の学者さんや評論家さんでもなければ、外務省の役人や防衛省の情報分析官でもない。単なる小説家なんです。その私が何でこの場に呼ばれたのかさえ良く判らないし、もしかしたらそれはさっき話に上がった私の小説が、今回の南北会談の結果が将来的な半島情勢に対して明るいものばかりではなく、余り考えたくはありませんが、もしかしたら、会談の結果が悪い方へと針が振れてしまった時、半島の緊張が高まってしまった背後で、何かが蠢くかの如くに最悪の状況や、そうなって欲しくない恐怖心など、そういった想像が私の小説とダイレクトに直結したから、有識者ではない私がこの場へ呼ばれたのかも知れない、と私は思いました。そして、私が今ここでお話したことは、全く大袈裟なことではなくて、現実的な話としてかなりの確率でその可能性が考えられることだと思うのです。誰もが東日本大震災の際に、冷却機能を失って暴走し始めた原子炉の恐さは思い出したくもないでしょう。でも、その発電用の原子炉は、この狭い日本中に‘五十四基’もあるんですよ。言うなれば、日本は身体中に時限爆弾を巻き付けられている、というようなものなのです…」
気持ちが変に昂ぶるわけでもなく、何処か一点を見詰めたままの神津の喋り方は相変わらず淡々としていた。
「それらをあえて破壊する必要もない。ただ電力、電源システムを奪うだけで済むのです。厚みが三十センチメートルもある格納容器さえ溶かし、それで放射能を地上へ簡単に拡散出来るのですから、あえて核弾頭を我が国へ打ち込む必要もない。何度も言うようですが、日本には現在、稼働発電中、発電停止中のもの全てを含め、冷却し続けなければならない‘五十四基’もの原発や、使用されている、或いは使用済みの核燃料棒が限りなくあるわけで、仮にそれらほとんどが冷却電力を失ってしまえば、日本全国がどんなことになってしまうのか、というのは誰にでも簡単に想像することが出来ますよね。過去に、ニューヨークの世界貿易センター・ビルに二機の旅客機が激突した時の、生々しいニュ―ス映像の記憶を頭の中で蘇らせるように…」
神津はそう喋りながらも、それが人間の体内で勝手に増殖していく悪性の癌細胞やHIVウィルスと似ていると突然思えた。その感情は、周りで不快感を抱いていた有識者達や、司会役のキャスターの感情に反して、皮肉にも頬の筋肉を少しだけ緩めてしまった。
「あなたの言っていることは、国民に対して大袈裟に不安を煽るだけで、全く何の信憑性もなさそうな話ばかりじゃないか!」
在日コレアン・ジャーナリストが、TV中継されているのも忘れたみたいに強烈な不快感を示した。
「そうですか、そうおっしゃるなら米国とロシア、それに中国がその‘超’画期的な最新の無効化兵器を、どれ位の確率や頻度で開発しているか、という数字ぐらいなら、ここでお話しても構いませんけど? ちなみに高出力マイクロ・ウェーブ兵器のアクティブ・ディナイアル・システムは、米国空軍研究所と米国最大手の軍需産業レイセオン社により、暴徒鎮圧の用途ですでに使用されていますが、ご存じありませんか?」
怒りを露わにさせてしまった在日ジャーナリスト趙容弼の方へ向き直りもせず、神津は冷ややかに反応した。
「ほう、随分と自信満々なようだけども、これまたそんな極めて高度な情報源と、その出所の信憑性は、如何ほどのものなのかね?そんな、世界を震撼させかねない情報が何故、君みたいな一作家に伝わる、というのだよ」
「私独自の情報ソースによる取材もありますし、私を信頼していてくれる‘その筋’の方々にも、多少なりとも協力して頂いていますし……私の読者ファンもその一部と考えて頂いて構いません。たまたま私のファンの中に、コアな情報源に接触出来る方、がいたというだけですが…私はその方に、間違いなく信頼されているということですよ」
「実際のところ、そんな底知れぬ軍事的脅威を北朝鮮から今後、いや、もしかしたらすでに現在も日本は受けているかも知れない、というのかね?」
在日二世の民俗学教授が落ち着いたバリトンで、何気ない雰囲気で神津へ問い掛けた。
「いやぁ、そんなわけはないと思われますがね、まぁ、仮にそうだったとしても、原発があるのは地方ばかりで、首都圏は全く安全なんじゃないですかね」
その最中、私大半島情勢専門の鶴岡教授がぞんざいに割り込んだ。無責任に地方都市を切り捨てるような物言いに、キャスターが感情的に眉をひそめた。
「いえ、ツルオカさん、ライフラインが全て止まるんですよ」
神津が私大教授をじろりと一瞥しながら囁いた。
「たとえ、放射能汚染がなかったとしても、システムを集中回線管理している水、電気、ガスなどの基本的な都市機能が完全にストップした状態の首都は、全く安全とは言えませんよね。これは首都に住まう方々が、他人事のように片付けてしまう地方だけの問題ではないのです」
軽蔑の眼差しを投げ掛けたまま続ける。
「そして、そういった電磁的脅威や都市機能問題点への取り組みも含め、数年前に米軍から返還された首都圏最終返還地の東京都最西部に位置するN区の地区名‘旭が丘’に、政府主導による次世代エネルギー経済特区として‘ネオ・エネルギー総合研究所’なるものが、半年前に国立帝都大学新研究所と併設させる形でようやく完成、設立されました。かなり大規模で、東京ドーム五個分ほどの敷地面積を持つ巨大な研究施設です」
「N区に次世代エネルギー特区、などという話は……恥ずかしいですが初耳ですな。しかも、そんな大掛かりな施設が中心地ではないとはいえ都内になんて…大々的な報道もなかったように思いますがね…」
鶴岡が少し狼狽えながら「ご存じでしたか?」というように他の有識者達の反応を確認するように見渡した。
「未知の脅威から遠ざける為かも知れません。その為に、大々的な報道発表は控えていたように思われます。帝都大教授のパクさんは、ご存じなんじゃありませんか?」
いや、分野が違うんで、と神津の問い掛けに小さく狼狽して反応した。
「コウズさん、まるでその研究施設の関係者のようにお詳しいようですが、大丈夫なんですか、それをこの公共の放送で言ってしまって?」
「いえいえ、それほどの事では……私が知っているくらいなのですから、インターネット上でも調べれば簡単に検索出来ますし、特に神経質に秘匿されているというわけではないと思います。ただ、そこの所内で何をしているのか、どのような研究をするのか、という具体的な事は私だって知りません」
キャスターの抱いた疑問に、他人事みたいに澄まし顔で神津は答えた。
「しかしですね、その研究施設の名称から察すると、次世代、新世代へ向けての何か新しいエネルギーの創造や開発拠点のようにも思えますが、その辺に関しては、コウズさんはどのようにお考えなのですか?」
続けた質問に、何故か岡田が割り込んで応えてしまった。
「総合研究所、というくらいなのですから、高効率化された太陽光や風力に地熱などの再生可能エネルギー程度の話ではない、と思いますわ。多分、ですけど、次世代の全固体大容量リチウム・バッテリーの開発は当然として、現行の原子力発電に使用されている沸騰型軽水炉に変わる代替炉として期待されている…そう、フランスのカダラッシュにある国際熱核融合実験炉と同じような、熱核反応炉を含んだ核融合炉発電の実験炉、とか、なのではないかしら?」
「い、いったー……ですか!?」
美貌の女性政治学者の見た目からは全く想像出来ないような理系的な知見がいきなり口から飛び出して、神津以外のキャスターと有識者達を少なからず驚かせた。
「すいませんが、本日の主要議題から論点が随分と脱線してしまったようです。議題を今回の本題へと戻しましょう。まぁ、元はと言えば、私が勝手に北朝鮮から受けているかも知れない今現在から今後に掛けての、想像し得る脅威の可能性の話をしてしまったから、こうなってしまったのですが…」
神津は、建前上は申し訳なさそうな口振りで言った。その施設の話をこれ以上続けたくなかったのか、口を挟んで来たキャスターや女性政治学者を不愉快に睨み、質問をぴしゃりと拒絶した。
「ちょっと待ってくれたまえよ、それが事実なら、その研究施設そのものが、テロの恰好の標的になってしまう危険性は、一体どうなのだよ、えっ、標的になる可能性から排除する事は出来ないんじゃないのか!? もしそうなら、使用済み核燃料やプルトニウムなどの危険物質が存在するかも知れない、その施設は、国の機能が集中している首都圏でかなり大規模な脅威となってしまうのではないのかね、えっ、どうなんだね!?」
在日二世の民俗学帝都大教授が意気込んで畳み掛けた。
「だから言っているじゃないですか、私にそんな事が判るわけがないって……ただ……」
「ただ、何だね?」
「ただ…現在のこの日本に、テロの脅威を全く受けなくて済むような安全な場所なんて、実際にあるんでしょうかね?…首相官邸の地下施設以外に…」
神津の虚ろな疑問符の投げ掛けが、収録スタジオ全体をいやらしく、そしてゆっくりと覆っていった。
陽炎が今にもめらめらと立ち上がりそうなスクランブル交差点を忙しく行き交う人々にとって、たとえそれが国家の存亡や、国民の生死に関わる事案だったとしても、その暑さ以外の他を受け入れる余裕はまるでなかった。
白昼の熱波で疲れ果てた群衆の上空で、蒼穹の眩い初夏の陽射しの中に、ビルの大型スクリーンが無理矢理埋め込まれたようだった。その中で、神津の不気味な無表情だけが大写しになっていた。